役者②

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役者②

「覚えてるかなあ。日與川さん」 「え?誰?」 「だよね。覚えてない。僕にとっては、人生を変えた人なんだけどね。君にとっちゃ」 「ごめんね」 「いやいや。謝ることじゃないよ。しょうがない。そこがね、僕と君の三叉路だよ」 日與川さんか?誰だろ。 「あのね。ええと。その。それ、コーヒーメーカー?飲ませてもらっていいかな」 役者の俺は、流しの横に置いてある先月買ったコーヒーメーカーを指さした。朝起きたら、家内と娘と俺で一杯ずつ、ブラックコーヒーを飲むのがうちの日課だ。 「あ。気がつかなかった。今、入れるね、コーヒー」 「ありがと。ここお邪魔したときね、コーヒーのすごいいい匂いがしててさ」 「ちょっと待ってて」 俺は立ってコーヒーメーカーに向かった。 俺が俺にコーヒーを入れてあげるなんて、なんとも、得難い体験。 「で。誰?日與川さん」 「ああ。あのさ。大学辞める前に一年休学したよね、俺たち」 「ああ。うん」 「その時にさ、旅の資金作るのに、電話工事のバイトしたよね」 「うん」 「同じ車に乗って、電柱に登ってたのが」 「あ。ああ。あの人か?日與川さん。あんまりない名前だなって思ってたんだ。俺よりちょっと年上」 「そうそう。あれが、日與川さん」 「ただの電話工事の人じゃなかったんだ」 「うん。役者。丁度劇団を旗揚げしようとしてたんだね」 「へえ。知らなかった」 「君は、これからの旅のことしか、頭になかった。自転車で日本一周」 「ああ。そっか。うん。たしかに」 「聞き流したんだ」 「うん」 「面白い顔だね。演劇興味ない?って僕は日與川さんに言われて。君だよ、君が誘われてる」 「うん」 「その日、飲みに行ってね、二人で」 「うん」 「朝起きたら、日與川さんのアパート。で、すっかり旗揚げに参加することになってた」 「ははは」 じゃ、旅は? 「僕は、行ってないよ。そういうわけで」 「はあ」 「その日からね、僕は、演劇漬けで。基礎からみんな教えてもらった。それでしばらく日與川さんとこでやってて」 「うん」 「でも、日與川さんはしばらくして演劇から離れちゃった。劇団は解散。でも、僕は別の劇団に移って、この世界で今もやってる」 「ああ」 「演劇は、僕だけの大事な、何か」 「うん」 「演劇に向かわなかった君が、日本を自転車で回る旅で得たものと同じような」 そっか。 「忘れてたでしょ、君。旅のこと」 「あ。うん。そうだ。俺、二十歳んとき、日本を回ったんだ」 「時々、思い出した方がいいよ。初心に帰れ」 「うん」 「悲観的な独白ばかりしたってさ」 「うん」 「ほら。まだ人生沢山残ってるわけだし」 「そうだね。お。コーヒーできた」 俺は、役者の俺に、出来立てのコーヒーを出した。 「うまい。うまいね、君んちのコーヒー」 「ありがと。最近コーヒーメーカー買い替えたらさ、おいしいのができなくなっちゃって。豆の種類、焙煎時間、挽き加減、いろいろあるんだ。それで、新しいコーヒーメーカーに合うように、試し試し。いろいろな豆買ってみて、ようやく、またおいしいのが飲めるようになった。家でできる最大限の努力はしてる」 「人生はいろいろ楽しめる」 「そうだね」 「うまい。コーヒー」 「お代わり、あるから」
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