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旅人②
「よっこら」
そう言ってめんどくさそうに身をかがめて空間の裂け目を出ると、旅人の俺はにたりと俺に笑った。笑うと余計に怖い。
それにしても、この容姿。
脂っぽい伸ばしっぱなしの髪、ばらばらの乾いた髭。なんだか染みが沢山ある顔。やっぱり脂でべたべたのジャンパーに、皺だらけのジーパン。黒い長靴。
そして。
「あ。ごめん。やっぱ臭い?」
「いや。あの」
「遠慮しないで言って。俺なんだから」
「あ。うん。ちょっとだけ、匂うかも」
ホントはちょっとどころではない。なにやらおしっこのような匂いが全身から立ち上っている。普通、人間からは漂ってこない匂いだ。
「染みついちゃってるんだな。たまにお風呂入っても、着てる服の匂いまでは取れない。洗っても駄目だ。俺は平気なんだけどね」
「ああ」
「気になるよね」
「大丈夫だよ。煙草吸う?」
「吸う」
旅人の俺はしわくちゃな指を出して「どうも」と俺の煙草を一本取った。俺が火を点けてあげると、そこに彼の顔が浮かんだ。暗闇ではよくわからなかった皺が何本もあちこちに刻まれている。俺の顔はこんなに皺はない。
「君さ。旅をしてるんだよね。今も」
「うん。まあね」
「俺、覚えてるよ。二十歳の時、自転車で旅を始めてさ、初夏の北海道、冬の沖縄。季節に合わせて移動して。ずっと一生これでいいと思った」
「そうだね。あの雲が降らせた雨に濡れている」
「山頭火だ。自由律俳句」
「滑って転んで山がひっそり」
「分け入っても分け入っても青い山」
「うん。いいなあ。今も好きだよ、山頭火」
「そう思える君がうらやましい。今も旅人なんて」
「いやいやいやいや」
旅人の俺は身の上話を始めた。
あの日、一生旅をして暮らすのも悪くないと考えていた旅人の俺は、本当にそれを実行したようだった。確かに20代の内は、短期のバイトをして資金を作り、それで旅をするという生活スタイルが、旅人の俺には合っていたようだった。しかし、あの頃は簡単に見つかった短期のバイトが、そのうちすっかりなくなった。仕事は次第にきつい日雇い労働が主になった。そしていよいよ彼は40代になって、頼みの綱である自転車を手放し、川沿いの高架下にビニールで出来たテントを建て、そこに住み始めたのだった。
「気持ちは今も旅人なんだけどね、俺」
「あ。ああ」
「いわゆるホームレスなんだよ、今は」
まあ、大体想像はできてたけど。
そうか、あのまま俺が旅を続けていたらホームレスになってたのか。
「ねえ。お風呂入る?俺んちで。ご飯そろそろできるし、食べてよ」
「ははは」
旅人の俺はおかしそうに笑う。
「俺が今、君の家族に会ったらどんなことが起こるか位想像つくよ。それに、俺はそんなことをするために現れたわけじゃない。気持ちだけいただく。あ、あと、煙草もう一本だけいいかな」
俺は煙草を一本出して火を点けてあげた。旅人の俺はうまそうに煙をたっぷり吸い込み、たっぷり吐き出した。
「君は今、配達の人?」
「そう。トラックに乗って配達」
「定年は?」
「60歳だけど。65まで伸ばせるって」
「今、俺たちは48。あと12年だね。もしくは17年。早いな、人生」
「うん」
「二十歳の頃さ、俺たち、何歳まで生きていたいって思ってた?覚えてる?」
「え?」
「50歳」
「そんなこと言ってたっけ?」
「言ってたんだよ」
「そっか。あと2年」
「うん。俺は初心を貫徹するよ」
「え?」
「俺の寿命は50年」
「そんな無理やり」
「無理やりでもない。肝臓がやばい。酒が好きでね」
そう言うと旅人の俺は、肋骨の下あたりを左の手で撫でた。
「悔いはないよ」
「そう」
「もう自転車に乗ってなくてもね、雨風を感じて毎日生きてる。キャンパーもホームレスも一緒だよ。俺は、自分の一生を旅人として全うする」
「うん」
「どうしようもない私が歩いている」
「山頭火だ」
「野垂れ死ぬんだ。悔いはない」
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