第一章 失業中

1/1
前へ
/18ページ
次へ

第一章 失業中

 はじめに このお話はフィクションです。架空の世界での架空の出来事です。登場人物を含め、地名、組織名、施設名など、実在するものや実在したものと同じものが出てくるかもしれません。でもそれらすべて、現実のものとは無関係です。  透き通るような冬の夜空にきれいな星は、見えません。頭上は一面、街の明かりを受けた雲が覆っている。今にも雪でも降ってきそう。私は寒風に耐えながら、上り坂をとぼとぼ歩いていました。疲れ果て、本当にとぼとぼと。  仕事帰りです。仕事と言ってもアルバイト。二十五歳でフリーター。ちゃんと会社勤めしていたんだけど、二か月前に退職。実際は退職に追い込まれたようなもんだから、クビってやつと同じ。おかげで明後日は新年って日にまで働いている。て言うか、その新年初日も仕事。こんな時間まで。こんな時間、「お先に失礼しま~す」って職場を出たのが十一時なので、今は十一時十分くらい。と言う事は、家までまだ三十分以上歩かなきゃ。何しろバス停七つ分の距離。行きはほとんど下り坂なので三十分くらい。帰りは逆なので軽く四十分以上かかる。それに、行きはバスにも乗れる。なぜ帰りは乗れないかと言うと、終バスの発車が十時四十五分だから。郊外の路線とは言え、終バス早すぎ! 住んでる人いるんだから。こんな状況だからと先月、電動アシスト付きの自転車を購入。でも数日前、そう、イブって呼ばれている日に盗られました。プレゼントをもらえるはずの日に取り上げられてしまった。買い直すような余裕は……ないです。  メインのバス通りから左に折れると、目の前はさらなる急な登り坂。風が強くなって向かってくる。寒い、疲れた、耳鳴りがする。耳鳴りは風のせいでも寒さのせいでもない。職場のせい。失業してもなかなか次の仕事が見つからない私。選り好みしてるのが悪いんだけど、それはそれ。駅前で見たアルバイト募集の張り紙。そこはこの駅を利用する人なら大抵の人が知っているであろうカフェ。食事も充実していると噂に聞くところ。私は入ったことがなかったけど。それだけでも興味が湧いたのに、提示されている時給がいい。その上、売り上げ次第でプラスアルファーがあると書いてある。再就職するまでの生活費稼ぎにと、すぐに面接を受けました。そして採用していただきました。けど、職場は隣のパチンコ店の中。ドリンク等のワゴンサービスの売り子でした。売り上げ次第でってこういう事か。というわけで、パチンコ屋さんで働いています。  店内で午前十一時から午後十時まで。あのうるさい環境の中でそれだけいると、寝るまで耳鳴りが続く。なんか耳が遠くなった様な気も……。愚痴愚痴とこんなことを考えていますが、今月の給料は期待していたりもする。先々月は何もわからず売り子していたので時間給通り。でも、要領を覚えました。とにかく愛想よくしています。自己嫌悪に陥るくらい。ホールの中を順番に歩き回って注文をもらうんだけど、積極的に声も掛ける。明るい笑顔で。常連さんの顔も覚えてきた。時々でも買ってくれる人が大当たりなんかしてたら集中攻撃。おかげで先月は先々月の三倍以上の売り上げになっています。ふふ、才能あるかも。いかんいかん、やりたくてやってるわけじゃない。  上り坂と寒さに負けまいとそんなことをぶつぶつ思っていると、道が平らになって来ました。少し先の左側にコンビニの明かりが見えます。家から一番近いコンビニ。コンビニが近付くにつれて頭の中に迷いが。何か買って帰ろうか、いや、無駄使いはだめ、お腹が減っても何か作る材料は家にある! って迷い。一応、夕方に簡単な食事は出ています。でも家に帰るといつもお腹が減ってくる。こんな時間から作るのは面倒だしなぁ。またまたそんなことを考えながら通過。そう、通過しました。今日は我慢が勝ちました。そしてここからの十分足らずの道のりは気を引き締めなければ。また上り坂になるってだけではなくて、道が暗いのです。コンビニまでは両側に家やマンションがあってそれなりに明るいのですが、ここから私の住むマンションまでは片側が畑で、反対側は雑木林。正直夜は怖い道です。  気合を入れて歩いているとポケットでスマホがブルブル。こんな時間にと思いながら表示を見ると、大学からの友人、須藤朱美でした。 「何?」 私はいきなりそう言いました。 『あれ? 機嫌悪い?』 と言う朱美の反応。ちょっと声が暗かったかも。 「疲れてんの」 『まだ家じゃないんだ?』 「絶賛山登り中」 『いい加減引っ越したら?』 「引っ越し代援助して」 『ま、いいや。明日も仕事?』 朱美は話題を変える。 「ううん」 『じゃあ六時に栄集合』 「はあ?」 『年越し合コン』 「そんな余裕あると思う?」 『そう言うと思った』 「だったら誘うな」 『あんたの分は私が出す、ならいいでしょ?』 「え?」 『ほら乗った』 いや乗らない。 「何があるの?」 『何もないよ。梨沙と飲みたいだけ』 朱美はケチではないけど奢りにしてまで呼び出すなんて、おかしい。 「人数足らない?」 『正解、だから来て』 「何人足らないの?」 『足らないって言うか、三対三だったのに、向こうが倍になったらしいから』 そう言う事か。 「暇な人が多いんだね、頑張ってね」 『え~、来てよ。何なら帰りのタクシー代も出す』 「いや、実際無理だから」 『なんで?』 「明日は休みだけど、明後日は仕事だから」 『元日から働く気?』 「当ホールは年中無休で~す」 『元日からパチンコする人いるの?』 「結構混むらしいよ、お正月は」 『なんかついてけない世界。え~、でもお昼前からでしょ? 仕事』 「一日ほとんど立ちっぱなしなんだよ、年越しで飲んだ後勤める自信ない」 『……しょうがないなぁ』 ちょっとがっかりしたような朱美の声が返って来ます。 「ごめんね。年が明けたらランチでもしよ」 『わかった』 「じゃ、良いお年を」 『……年が変わる前にまた電話する。おやすみ』  それで電話は切れました。朱美なりに私の今の状況を心配してくれているのでしょう。私はちょっぴり明るい気分になりました。そしてやっと到着。なんでこんなところにマンションがって場所に立つ我が家。古い三階建ての建物。古いのとこんな場所のおかげで、家賃はとってもリーズナブル。1LDKあるのに、駅前のワンルームよりはるかに安い。集合ポストに毎日のように入れられているチラシ、さすがに年末ぎりぎりのここ数日は入っていない。私はひびの入ったコンクリートの壁に挟まれた階段を、三階までまたとぼとぼと上って行きます。私の部屋は今上がった階段から五部屋目で、奥の階段から二部屋目。鍵を差しながら見上げます。ドアの横の室名札の所に『高橋』の文字。管理会社が付けたもの。私の名前だけど、今時わざわざ表示するってセキュリティー的に問題ないの? と思ってしまう。もう二年以上住んでいるので黄ばんだその札。もう少し汚れたら、黙って剝がそうかと最近思っています。ドアを開けて中へ。やっと帰って来た。いつもですが、この瞬間どっと疲れが出てきます。  お昼前に起きた大晦日。朝昼どっちか分からない食事をしてからザっと部屋掃除。ゴミを捨てに行ったら、すでにゴミ置き場から溢れている。申し訳ないとは思いながらも溢れたところにゴミ袋二つを足してしまった。掃除を終えてから、レコーダーに撮り溜めていたテレビドラマを一気見。夜になり、ドラマ鑑賞を続けながら簡単な夕食を食べました。以前は恒例の歌合戦番組を見ていたけど、何年か前から歌以外の部分がうざったくなって見なくなってしまいました。ドラマの最終話を残したところで九時過ぎ。先にお風呂を済まそうと思い中断。追い焚き出来ないうちのお風呂。湯船の中にシャワーを引き込み、髪や体を洗う。そんなことをしている最中に玄関のチャイムの音。誰? と思っているうちに鍵が開く音が聞こえてくる。ちょっと恐怖を感じました。でも、うちの鍵を持っているのは一人だけ。なので確認。 「朱美?」 浴室から声を張り上げました。返事なし。朱美以外有り得ないとは思うものの恐怖度はアップ。声を聞かせてよ。そして、洗面脱衣場の戸が開く気配。 「お湯抜かないでね、続けて私入るから」 やっと聞こえた朱美の声。でももう遅い。 「お湯汚しちゃったから入れ直して」 朱美はよく泊りで来ます。そういう時は湯船で体を洗ったりしません。 「じゃあシャワーでいいや」 そう言って気配を消す朱美。でも何で朱美が来たのか疑問。年越しで合コンじゃなかったっけ? 浴室を出て体を拭いてからリビングの方へ。一人だと着替えを用意してお風呂に入ったりしない。なので寝室まで行かないと着るものがない。リビングをかすめて寝室へ、バスタオルで体を隠しながら移動。女同士とは言え一応恥じらい、と言うか、エチケット。朱美はリビングではなく、キッチンの丸椅子に腰かけてスマホを見ていました。 「合コンじゃなかったの?」 私は服を着ながら話し掛けます。 「一軒目で帰って来た」 「なんで?」 「う~ん、なんか気が乗らなかった」 私は着替えを終えて洗面所へ戻る。化粧水をパタパタやっていると後ろに朱美が来ました。 「だから最初から飲まないつもりで車乗ってった」 鏡越しに私の顔を見ながらそう言います。 「行く前から乗り気じゃなかったの?」 なら行かなきゃいいのにと思いながらそう返しました。 「直前に気が無くなったの」 私は洗面台を離れてリビングに戻りながらまた質問。 「なんで?」 「三人足らなくなったって言ったでしょ、それで会社の後輩の子に声掛けたの。そしたら6人来るって返事来た」 私は返す言葉なし。大晦日の夜に出歩きたい子がそんなにいるんだ。彼氏とだったら考えるけど、ただ遊びにってことなら私は却下。そんなことを思いながらリビングのこたつの上に目がいきます。実はさっきも気付いていたけど、私の好きな中華店の紙袋が置いてある。朱美が持って来たお土産でしょう。でもおかしい。 「あれ? 合コン、栄って言ってなかったっけ?」 その中華店は栄ではないのでそう聞きます。 「ああ、飲まなかった分、梨沙と飲もうと思って途中で買って来た」 朱美は私が紙袋に注目しているのに気付いてそう言います。 「ありがと。でも、ここって大晦日もやってるんだ」 「結構お客さんいたよ」 朱美はそう言うと寝室に行って押し入れを開けます。うちには朱美の着替えなんかが常備されています。着替えを取りに行ったのでしょう。 「車で来たんだよねぇ」 押し入れの中の鞄を物色中の朱美に声を掛けます。 「そだよ」 「ちょっと貸して、お酒買ってくる」 私は晩酌する習慣がありません。なのでお酒の在庫はなし、買ってこようと思いました。それに対する朱美の返事。 「あ、お酒はもう冷蔵庫に入れちゃった」 さすが朱美、うちの在庫状況は把握している。私は冷蔵庫の中をとりあえず確認。多数の缶ビールにスパークリングのワインが2本入っていました。  冷蔵庫を覗いているうちに朱美は浴室に消えました。私は朱美が持って来た紙袋の中身を確認。お皿に出して温められるようにしようと。そしてちょっと呆れます。何に呆れたか、それは量です。普通に2~3人の一食分は十分ありそう。私は夕食済んでるし、朱美だって飲まなかっただけで食べてきたはず。こんなに買って来てどうするつもりだろ。とりあえずお皿に移して温められるようにします。7品で4皿になってしまった。  朱美が浴室を出たのに気付いて声を掛けました。 「あれ、全部温める? けっこうあるけど」 「任せる」 任せられても……。私の好みで2皿温めることにします。温めた2皿をこたつに並べてしばらくすると、朱美がリビングに入って来ました。 「さあ、朝まで飲むよ」 そう言って朱美は冷蔵庫に向います。缶ビールを4本持って座椅子に着く朱美。そしてビールをグラスに注ぎます。 「私は適当なところで寝るよ」 朱美からグラスを受け取りながらそう言う。こんな感じで二人の忘年会が始まりました。  結構な勢いで食べ始める朱美。 「食べてこなかったの?」 思わずそう聞いてしまいました。 「なんかねぇ、口に合わなかった」 「何料理だったの?」 「何料理って、……洋食? しゃれた感じのビアレストランだったよ」 「でも合わなかったんだ」 「なんかねぇ、ハーブなのかな? どの料理も香りが気になった」 「そうなんだ」 なんとなく頷ける。たまに凝り過ぎておいしく思えないお店がある。 「あ、ビールにも香りが付いてるって真由が言ってたから、飲んでたら気にならなかったかも」 「なるほど、真由も行ったんだ」 「うん、あと晴美も」 この二人も大学からの友人。あ、真由は中学校も一緒でした。一番長く続いてる友達かも。 「と言うことは、女9人いたわけ?」 「そだよ、9対6」 「男の人たち喜んでたんじゃない?」 「うちの会社の子達、若いうえにノリが良かったから大騒ぎだった」 と、ちょっと嫌なことを思い出したように言う朱美。グラスに口を付けて、少し間を空けてから私は聞きました。 「そうなるのが分かってたから、行く前から気が乗らなかった?」 朱美もグラスに口を付けてから答えます。 「来るって言ってきた中の二人はね、ちょっと飲み方が不安な子だったんだ」 「……」 「いつもはしゃぎながらばぁーと飲んで、潰れちゃうタイプ」 「いるねぇ、そういう子」 「でね、今回は私が声かけた格好でしょ?」 「……」 「責任感じちゃうじゃん」 「何に?」 朱美はグラスにビールを足すと口を付けてから答えます。 「酔い潰れたままお持ち帰りされちゃったらって」 なるほど、朱美の気遣いに感心。でも、その子達だって大人なんだからとも思ってしまう。 「それで気が乗らないけど、行かないわけにもいかなくなっちゃったんだ」 「そ、二人が潰れたら送って帰るつもりだったの」 だから飲まずに車だったんだ、朱美らしい。 「相変わらず世話好きだねぇ」 「そんなこと……。私も参加者の一人だったらこんなこと考えないよ」 そう言って朱美は料理に手を出します。2皿の料理はあらかたなくなってきました。私はもう一皿温めにキッチンへ。電子レンジの所から話し掛けます。 「でも、誰か送って来たにしては早いよねぇ」 「ああ、二人とも好みの人がいたみたいで、お持ち帰りされようとしてたから」 ……なんだかなぁと思ってしまう。 「じゃあ、朱美以外は二軒目行ったの?」 「ううん、真由とうちの会社の子も二人は帰ったよ。男の人も一人は帰ったと思う」 「と言うことは、晴美は行ったんだ」 朱美もキッチンにやって来ます。 「晴美も好みの人がいたかも」 意味深な笑顔でそう言うと、冷蔵庫からスパークリングワインの瓶を1本出します。そしてリビングのこたつに戻りながら続けます。 「真由は私が乗せて帰って来た」 電子レンジから電子音が鳴ったので、私はお皿を取り出して戻ります。 「真由もここで年越しするって言ったんだけど、家に電話したら泊りはダメだって言われたみたい」 「私のとこでも?」 真由も何度となくうちに泊まりに来ているので意外でした。 「もともと飲みに行くって出たみたいだから、勘繰られたんじゃないの?」 十分あり得る。ま、親としては当然の対応かも。私は別の質問。 「朱美は気になる人いなかったの?」 すると、ちょっとうんざりした感じで口を開く朱美。 「今日はありえなーいって感じ」 「……」 「なんか変なノリで盛り上がっちゃって、途中からどっちも下心丸見えって感じだった」 「あ、なんかやだな、その雰囲気」 「梨沙が来てたら1時間くらいで帰ってたかも」 「いやいや、帰んないよ。とりあえず一軒目終わるまでは付き合うよ」 私もそのくらいの社交性はあるつもり。話し掛けられると、全力で嫌な顔してるかもしれないけど。朱美はグラスを口につけたまま止まっている。 「ま、合コンってそんなもんじゃないの?」 私はよく知らないけど。人数合わせで何回かしか参加したことないから。そして参加した時はもれなく嫌な気分で帰ってきた。なんで合コンに来る男の人ってあんなに馴れ馴れしいの? 始まって一時間もすると大抵は旧知の友達みたいに接してくる。挙句に下の名前で呼び始める。ま、そこまでは許す。でも手を握ってきたり、肩を抱いてきたりなんかしたら氷の仮面で睨みつける。一度だけ例外で、表情筋を総動員して笑顔を作ったことがあるけど、その人にはそのあと相手にされなかった……。それより朱美がまだ黙っている。と思ったら、ゆっくりグラスから口を放して私を見ました。 「梨沙って、今、彼氏欲しい?」 そしてこう聞いてきました。 「なに? いきなり」 「私は欲しいと思ってるけど、ずっといたからいないのが寂しいだけかもって気もする」 私と朱美は数か月前の同じころに、二人そろって彼と別れていました。私は半年ほどの付き合いの彼だったけど、朱美は高校からの彼との別れでした。彼氏がいない寂しさは、いたりいなかったりを繰り返している私とは違うでしょう。 「それはあるだろね」 「だよね」 「ま、私は彼氏より、生活安定させるのが今は優先だから」 まだ思案顔の朱美。でも、 「よし、しばらく彼氏作らないことにしよう」 こう言って表情を崩しました。 「なにそれ」 私は笑ってしまう。別れたショックから立ち直ったと思ったら、やたら合コンに参加してたくせに。 「いいでしょ、まだ焦る年でもないし」 「そだね」 とりあえず同意しておく。すると朱美はまた食べ始めました。そしてこう言います。 「梨沙、全然食べてないじゃん」 「だって、晩ご飯食べたし、あとでお蕎麦食べなきゃだし」 「そっか、梨沙んとこは除夜の鐘聞きながら食べるんだったね」 「朱美のとこは大晦日の昼食だったっけ?」 「昼食って決まってるわけじゃないよ。大晦日の一食をお蕎麦にするだけ」 私はまた小さく笑ってしまう。 「なに?」 朱美が笑顔で聞いてきます。 「何年か前の大晦日も同じ話したなって」 「そっか、前にもここで年越ししたね」  そんな話をしながらゆっくり新年を迎えた私達。年越しそばで使った食器なんかも洗い終えた私はスマホを手に取ります。そして母にショートメールを送る。 『あけましておめでとう 元気ですか?』 ある時失踪した私の母。失踪後は一度母の実家に無事だと連絡があったきり、所在不明です。スマホも電源が切られている。なので普段は連絡しません。  私がメールしている姿を朱美が見ていました。そして自分のスマホに目をやっています。そう言えば以前ここで朱美が新年を迎えた時、年が変わった瞬間に彼から朱美にメールが届いたのでした。私はそれを見て母にメールしたのです。私の姿を見て思い出しちゃったかな。私は明るい声で言いました。 「さ、明日仕事だし、そろそろ寝るよ」 「そっか、仕事か。明後日は?」 朱美が腰をあげながらそう聞いてきます。 「仕事だよ」 「いつが休み?」 「次は9日」 「え? ずっと仕事なの? 私、8日まで休みなんだけど」 さすが大企業、そんなに休みがあるんだ。 「学生バイトの出勤率が悪くて、8日連続出勤なの」 「新年からキツイね」 普段は週3日か4日の仕事なので、私自身もきつそうと思っています。 「そ、だから寝かせてね」 「わかった。でも残念、この休みは遊べないってことじゃん」 朱美は押し入れから自分用のマットレスや毛布を出しながらそう言います。 「ごめんね」 私はそう言いながら洗面所に向う。すると朱美が声と一緒に追いついてきます。 「初詣いつ行くの?」 でもその問いには答えられません。私の口にはもう歯ブラシが入っていました。  元日から成人の日までの八日間連続の出勤。三が日は本当にお客さんが多くて忙しかった。お正月にパチンコする人がこんなに多いとは。きつかったです、本当に。足と耳が悲鳴を上げていました。そして四連休。新年最初の休日はお昼まで寝ていました。なのにまだ耳鳴りがしているような気がする。一日ゴロゴロしているだけで終わりました。そして翌日も何もしないうちに終わってしまった。  休日三日目。せっかくの休日、二日潰してしまったので今日はどこかに行こう。初詣は元日の出勤前に、本郷駅近くの神社で済ませていました。なので栄にでも遊びに出ようかな。名駅で映画を観るのもいいかも。ショッピングして歩くほどお財布に余裕はないけれど、映画見るくらいは大丈夫。とにかくどこかに出掛けたい。そんな気分で遅い朝食後にパソコンの前に座っていました。  お正月映画をパソコンでチェックしていたらスマホが鳴りだす。 『ランチ奢るから出ておいで』 朱美からでした。と言うわけで、朱美の勤め先の近くに来ています。地下鉄伏見駅の近く。お昼になると混むから十一時三十分と指定されて、まさにその時間となりました。目の前が広い道路のせいなのか、風がすごい。むっちゃくちゃ寒い。震えていると朱美が来ました。 「寒いねー、早く行こ」 会社のジャンパー姿の朱美が背中を丸めて両腕を摩りながらそう言うと、向きを変えて近くのビルの方へ行きます。挨拶も何もなし。黙ってついて行くとビルの地下に降りていく朱美。地下はお店が並んでいました。焼き鳥屋、スナック、ビアバー、等々。昼なので開いているのは数軒だけ。その開いているお店の一軒、居酒屋に入っていく朱美。居酒屋でランチ? そう思っていると店の入り口横の立て看板にこうあります。 『数量限定! ワンコイン弁当やってます』 ワンコイン、五百円ってこと? 私も店に入りました。すでに半分以上の席が埋まっています。カウンターの端の方に朱美を発見、横に座りました。 「お昼は日替わりのお弁当だけだからもう頼んだよ」 朱美はスマホをいじりながらそう言います。私は店内を見回す。普通の居酒屋。 「言った通り奢るから」 「五百円ね」 「でも千円の価値があるよ」 朱美が言い終わる前にお弁当が目の前に置かれました。赤出汁付き。蓋を開けると松花堂弁当でした。そして確かに千円の価値はありそう。メインは魚の唐揚げのあんかけ。そのほかにも煮物や何やら数種類。居酒屋の大皿料理が少しずつ詰め込まれている感じ。 「夜の残り物らしいけど、いいでしょ」 お弁当の料理を見ていた私に朱美が言います。朱美はもう箸をつけている。 「うん、こんなまともな食事久しぶり」 蓋をお弁当箱の下に敷きながら答えます。ほんとにこの一週間ほどは適当なものしか食べていなかった。 「どんな生活してんのよ」 「内緒」 「賄い付いてるって言ってなかったっけ?」 前もって詰めて置いてあるのでしょう。ご飯と赤出汁以外は冷めてます。少し温かみが残っているかなって感じ。でもおいしいです。私は食事しながら答えます。 「賄いって言っても、適当なものしか出ないから」 「適当?」 「サンドイッチ、のようなものとか。ドリア、の出来損ないとか」 「なにそれ?」 「失敗作ってこと。カフェで出せないやつね」 「そうなんだ」 「カフェが休みの日なんてひどいよ、前日の売れ残りのバケットとかのパン類だけ」 大晦日から三が日の間、カフェは休みでした。その間の賄いは最低。用意してあったのは『お歳暮』ののしが付いたままの数個の箱でした。オーナーの所に届いたものが置いてあったのでしょう。中身はクッキーやらおせんべいやらの詰め合わせ。フルーツケーキやカステラなんかが入っていたと思われる箱はすでに空。大晦日に食べられちゃったのでしょう。そしてそれらは二日の日で無くなってしまい、三日の日はコンビニのお弁当でした。  朝食が遅かったのでそんなにお腹が減っていたわけではないはず。なのにあっという間に食べちゃいました。朱美もほとんど食べちゃってます。 「ここは長居できないから移動しよっか」 伝票を持つと私の返事も聞かずにレジへ行く朱美。店を出て地上へ向かう途中で私は、 「ご馳走様」 と、朱美の背中に声を掛けました。すると、 「コーヒーでいいよね、それも奢るから付き合って」 そう返してくる朱美。地上に出てちょっと歩くとパン屋に入って行きます。 「シナモンロール二個とホットコーヒー二つ、イートインで」 イートイン? 椅子やテーブルの見当たらない狭い店内を見回していると、千円以上払っている朱美。さっきより高い。 「こっち」 支払いを終えた朱美がトレーを持って奥に行きます。ついて行くと奥に狭い階段があります。二階へ上がると喫茶スペースでした。空いた席に座ると同時くらいに、朱美が口を開きます。 「あんたパソコン苦手じゃないよねぇ」 「得意ってわけでもないけど」 訳も分からずそう答えます。 「こういうブルゾンとか作ってる工場なんだけど」 朱美はそう言って自分の着ている会社のジャンパーを摘まみます。 「プリント柄のデザイン作ってる人が辞めちゃうらしいの」 「え? それを私に?」 「どうかな? って」 「無理だよ。そんなのやったことないし」 「そっかなぁ。あんた器用だからいいんじゃない? 使うのはお絵かきソフトみたいなもんだって言ってたよ」 「いや~、そうは言っても」 「大丈夫、私もよく知ってるところだから。いきなりそんな無茶なことは要求されないよ」 「朱美の所の製品作ってるとこ?」 朱美が勤めているのは大手のスポーツ用品メーカー。日本どころか世界的にも有名な会社。とある競技の用具がとくに有名。そのウェアも主力製品のひとつ。そんなところの製品作ってる会社って、それだけでも敷居が高い。 「直接じゃないけどね。イベントの時のスタッフグッズとか販促用品を頼んでるところ。これもそうだよ」 と言って背中のプリントを見せます。さっきから後ろをついて歩いていた時に見ていたプリントでした。新製品と思われるものの商品名が、特徴的なフォントでプリントされています。 「そんなデザインを作るってこと?」 「あ、まさか、うちの会社が関係するものは、うちにこういうデザイン作る部署があるから。そこで作ったデザインのデータを渡してプリントしてもらうだけ」 「だったら何やるの?」 「そこもうちの会社の仕事だけやってるわけじゃないから。自社営業で他の会社のユニホームとか、学校の部活のウェアとか作ってるの」 「ああ、そう言うもののデザイン作るんだ」 それならハードル低いかもって、そう言ってはいけませんが。朱美はシナモンロールを平らげてコーヒーをすすっている。 「どう? やれそうじゃない?」 そしてそう聞いてきます。私は興味を惹かれていました。 「お給料もそんなに悪くないと思うよ」 おお、それは大事なことだ。でもちょっと先に確認したいことが。 「辞めちゃうって人、何で辞めるの?」 気になります。結構面白そうな仕事に思えるのに辞めるとは。会社に何か原因があるとか。 「旦那さんが転勤になっちゃったんだって」 「そう言う事か」 私はなんだか安心。俄然乗り気になってきます。面白そうな仕事だし、あのうるさい環境から解放される。 「どうする?」 「やってみようかな?」 「よし、先方に話するね。面接はあるだろうから日にち決まったら連絡する。バイトだからいきなりでも休めるよね?」 「うん大丈夫」 辞める前提なら当日朝でも休んでやる。 「履歴書用意しといてね」 そう言われて、その日は別れました。  一月最後の日。平日水曜日の昼間だと言うのにホールにはお客さんが沢山。よく知りませんが、以前は月末にイベントをやっていたそうです。沢山出しますよってやつ。そう言うイベントは今は出来ないそうですが、暗黙でやっているとか。お客さんもそれを知っていて、月末とか7の付く日は平日でも大勢来ます。みなさんどんな職業なのかと思ってしまう。こうやって昼間から押しかけて来るのはほとんど常連さん。 「コーヒーの姉ちゃん、こっち」 な~んて、傍に行かなくても呼んでくれたりして。おかげで平日なのに売り上げは上々、などと喜んでいる場合ではないのです。  ランチした翌日、早速電話をくれた朱美。 『昨日の話なんだけど、来週火曜日のお昼前くらいに来れないかなって? 社長さんが会ってくださるって』 「わかった、行く」 『良かった。じゃあ、場所はメールするね。住所だけで行けるよねぇ?』 「うん、大丈夫。朱美、ありがと」 『頑張って』  そして待つこと数分。届いたショートメールを見て私は固まりました。表示された住所は半田市。半田市はずっと南の知多半島の方。私が住んでいるのは名古屋市でも北東方向にある名東区。どうやって行くのかも思いつかない。パソコンの地図ソフトでルート検索しました。バス・電車を数回乗り換えたのち、最後は徒歩で千六百メートル。所要時間は約二時間。通勤出来るの? 八時に出社するとして六時前には家を出ないといけない。家を出て最初に乗るバスの始発って何時だったかな? 念のため確認。出発時間を朝五時にして再検索。一番上に表示されたのは、最寄りの本郷駅まで徒歩。それでも到着は七時半。バスだと六時七分が最初で到着が八時十二分。物理的に無理っぽい。朱美に電話します。 『どした? やっぱり地図もいる?』 「ううん、地図はいいんだけど、遠いよ、通えない」 私はハッキリそう言いました。 『ちょっと遠いけど、通勤手当はちゃんと出るよ』 「いやいや、バス、電車乗り継いで二時間以上かかるんだけど」 『あ~、近くに駅なかったかも』 気楽な声が返ってきた。 「ちなみに、ここって朝何時から?」 『確か八時からラジオ体操やってる』 「始発のバス乗って八時過ぎにしか行けないんだけど」 『車買いなよ、とりあえず中古で安いやつ。車通勤OKだし、車だとインターからすぐだよ』 なんかすごく簡単に言ってくれる。でもとりあえず車ルートで検索。所要時間は小一時間ってところ。これならって思うけど、私はこう言いました。 「車って、買ってもすぐには来ないでしょ?」 『う~ん、そだね。……納車されるまで私の車貸したげる』 「いやいや、それは……。それに、インターって言ったけど、通勤で高速使っていいの?」 そう返しながら一般道ルートも検索。所要時間は一時間半くらい。朝は渋滞するだろうから、やっぱり二時間は見ないといけないだろうな。 『そっか、高速代は出ないかも』 「……ごめん、無理。無理だわ」 『え~、せっかく話したのに。向こうも乗り気だよ』 ちょ~っとだけ不機嫌な声になる朱美。最初に場所も確認せずにその気になった私も悪いけれど、朱美も少し気にかけて欲しかった、私の所から通える場所かどうか。 「ごめん」 取り敢えず謝るしかありません。ありがたい話だったのですが。 『……わかった、断っちゃっていいのね?』 「うん、ほんとにごめん」 『いいよ。こっちもごめんね、通うには不便だったね』 朱美はそう言ってくれました。  と、こんな感じでせっかく朱美が作ってくれた再就職の話を、私の方から断ってしまったのでした。  学生アルバイトの休みが目立つ今日この頃。ああ、後期試験の頃か。おかげでまた連日出勤しています。出勤が続いたおかげで、これもまた連休となった二月の半ば。今回は五日間も。稼ぎ時の土日がその五日間に含まれているのは痛い。でも休んで稼ぎが減った子達も取り戻したいだろうからしょうがない。その初日、チョコを渡す相手は皆無なのでノープラン。お昼過ぎまで寝ていました。起きたものの何もやる気がしない。お腹は減っているけど作る気はしないし、冷蔵庫の食材も乏しい。コンビニに行くことに。スーパーは駅まで行かなくてはならないので。そのうちスーパーの宅配を頼もうかな。私は部屋着のスウェットの上からジーパンを履き、セーターを着こんでダウンのジャンパーを。あ、髪がくしゃくしゃ。玄関の鏡でそれに気付いたけど、誰に会うわけでもないしいいかと、手櫛で済ます。化粧もしてないけど……。玄関を出ると階段の方から人が上がって来ました。私が使うのとは反対側にある階段。私の部屋の隣、一番端の部屋の向こう側です。敷地内の駐車場からだと、こっちの階段のほうが便利。上がって来たのは私の隣の方。一番端の部屋の人。私の半年あとくらいに入居された方です。何をしているのか分からない五十歳くらいの男性。失業して昼間家にいることが多くなって気付いたこと。この人は昼間によく出入りしている。家で仕事してるのかな? 顔を合わすと挨拶してくれる方なので悪い感じはしない。このマンションには他に挨拶する人なんかいない。目も合わせない人ばかり。 「こんにちは、寒いですね」 と、やっぱり挨拶してくれる。 「ええ、寒いですね」 私もそう返すだけ。その方もそれだけで部屋に消えていきます。それだけですが、人と話すってなんだかホッとします。部屋番号の札には『青木』の文字。それしかわからないお隣さんです。  次の日、また昼過ぎまで寝てしまってからコンビニへ。二食分のお弁当と翌朝用のパンを買って帰って来ました。玄関前まで来た時に隣の玄関が開きました。二日続けて会ってしまった。 「こんにちは」 私に気付いてそう言う青木さん。 「こんにちは。お仕事ですか? 行ってらっしゃい」 大抵はフォーマルだけどカジュアルな格好のお隣さん。でも今はスーツ姿でした。なのでそう言ってしまいます。 「ええ、ちょっと。行ってきます」 そう言って階段を下りていく青木さん。見送って部屋に入ります。  そしてまた次の日。まだ朝食と言っても許されるであろう時間に、パンを食べながら決心。コンビニばかりではお財布が辛い。今日はスーパーまで行こう。行きは歩いて帰りはバス。そう思い、少しマシな格好をしてお昼前に部屋を出ます。すると隣の扉も。三日続いてしまった。 「こんにちは」 今日は私から声を掛けます。 「こんにちは、よく会いますね」 そう言う青木さん。 「ですね、では」 それでそれぞれの階段に分かれます。私はマンションを出て、バス道の歩道を歩き始めました。すると横に車が来ました。そこらじゅうで見かけるよくあるコンパクトカー。助手席の窓が開いて私に話しかけてきます。 「どこまで行くのか知らないけど、途中まででも良かったら乗って行きますか?」 青木さんでした。ちょっと思案、大丈夫かな。 「駅前のスーパーまで行きますけど」 大丈夫かなと思いながらそう答えている私。 「なら一緒だ、僕も駅まで行くから」 そう言ってくれます。ほんとに大丈夫かな、乗るべきじゃないよね、怪しいよね。でも、歩いて行くつもりだったとは言え、楽が出来る話を断ってもいいのか? 駅まで車なら十分か十五分ほど。そのくらいなら大丈夫かな。危なそうなら車が停まった時に逃げればいい。幸い信号の多い道、車が停まる回数は多いはず。これは乗るしかないかな、いや乗るべきだよね。 「いいんですか? ほんとうに」 一応聞いてみる。 「どうぞどうぞ、でも助手席に荷物置いてるから後ろに乗って」 その方が安心。後ろなら逃げだすときに腕を掴まれたりもしないだろう。って、どんだけ警戒してるんだ私。 「失礼します」 そう言って後ろの席にお邪魔します。車内は少しタバコの臭いがしている。後ろの席も運転席側は、何かのカタログや図面が積んであります。足元には汚れて痛んだ革靴も。車が動き出して、私から話しかけました。 「駅に車置いて地下鉄ですか?」 「え? ああ、事務所が駅の近くにあるんです」 そう答える青木さん。 「あ、会社されてるんですか」 「会社って言うのも恥ずかしい個人事務所ですけどね」 車がすぐに停まりました。コンビニを少し過ぎたところ。なんでだろ、渋滞してるみたい。昼間は割と車が通る道ではあるけれど、渋滞するほどではありません。 「工事やってるみたいだねぇ、急いでる?」 「いえ、買い物だけなので全然」 そう答えてからやや間があってこう聞かれます。 「家で仕事されてるんですか?」 「は?」 「いや、時々昼間に顔を見るんで」 私はどう答えようかと……。私が思っていたのと同じように思われていた。車のエンジンが暖まったのでしょう、ヒーターから温風が出始めました。外を歩くつもりで着こんでいる私には暑いかも。 「いえ、そう言うわけではないです」 「そうですか」 私は何も言えず。 「結構自由に出来るお仕事なのかな?」 青木さんのそんな問いかけにも返事が出来ない。 「ああ、ごめんなさい。詮索するつもりじゃないです」 無言でいた私に、バックミラー越しにそう謝る青木さん。私は悪いと思って話し始めました。車は動き出します。 「私、去年の秋に失業してしまって、今はアルバイトしてるんです。それも毎日は仕事がないので」 「そうでしたか、余計なこと聞いてすみません」 「いえ」 しばらくお互いに無言でした。やがて青木さんがまた口を開きます。 「えーと、僕は青木と言いますけど、お名前聞いても?」 「あ、高橋です」 「高橋さん。高橋さんは車の運転できる?」 何でそんなこと聞く? と思いながら答えます。 「はい」 「パソコンは使える?」 続けて質問してくる青木さん。わけが分かりません。 「どの程度を使えるって言うのか次第ですけど」 少し警戒モードを上げて返答。ちょっと言い方が生意気だったかな? 青木さんが黙りました。でもしばらくするとまた話しかけてきます。 「ごめん、失礼を承知で聞くけど、働く気はあるよね?」 あるに決まっている。今だってパチンコ屋で働いてる。私が好きでアルバイトしてるとでも思った? さっきの質問は何なの? 私が返事しないので青木さんが続けます。 「もし働く気があるなら、うち来ない?」 「は?」 「夏ころまで一人いたんだけど辞めちゃって。いなくてもいいかってやってたけど、色々と不便で」 「……」 「どうだろ?」 私はいきなりの話に混乱。でも言葉が口から出ます。 「何やるんですか?」 「う~ん、どう説明したらいいか……」 そう言い掛けた青木さんを遮って、私はさらに質問。 「いえ、その前に、何で私にそんなこと言うんですか?」 青木さんはミラー越しに私を見て言います。 「ちゃんとした普通の人そうだから」 「は?」 「いや、あそこの住人って挨拶しても返事返って来ないんだよね。それは僕からしたらもう異常なこと。挨拶されたら挨拶を返す、これって普通だよね。そして高橋さんはちゃんと挨拶してくれる」 そんなことで人を認めていたら誰でもいいような。あ、普通なら誰でもいいってことか。でも、良い方に評価されていたのは少しうれしい。私はちょっと話を聞いてみようかと言う気になっていました。でも、もう駅近くの交差点まで来てしまっていました。赤信号で車は停まります。 「お昼まだだよね」 そう言い出す青木さん。 「はい」 反射的に答えてしまう私。 「お昼食べながらもう少し話さない? ご馳走するから」 「は?」 私がそれ以上返事する前に青木さんがこう言います。 「行きつけの喫茶店だけど、ランチや定食もあるから。そこでいい?」 もう行くことになってる? とりあえず危ない人ではなさそう、ということにしちゃって、話だけでも聞こうかと思います。 「はい」 私はそう答えていました。  駅前のロータリーからほど近い建物の裏に車を停める青木さん。私はそこに来てびっくりしました。その建物は今のところに引っ越すまで、母と暮らしていたマンションでした。そう言えば一階には店舗があって、喫茶店もあったはず。私は行ったことがありませんが。やはり青木さんは、私をその喫茶店に案内します。喫茶店に入るとカウンターの隅の席に一直線に向かいます。定位置なのでしょうか。私はついて行って隣に座る。若い女性の店員さんがお水とおしぼりを持って前に来ました。それらをカウンターに置きながら、私の顔をさりげなくを装ってじろじろ見てきます。なんだか緊張、やな感じ。 「日替わり何?」 青木さんが彼女に尋ねます。 「ホワイトソースのオムライス」 なんとなく独特のアクセントでそう返す彼女。 「じゃそれ。高橋さんは好きなの頼んで」 メニューを取ろとする青木さん。 「あ、私も同じでいいです」 慌ててそう言いました。それから食事をしながら青木さんが色々説明してくれます。  青木さんは設計事務所をされているとのことです。そして私の仕事は資料の作成や整理と言ったもの。現場にも行って確認作業や打ち合わせを頼むこともあると。建築の知識なんてない私。出来そうにないと言うと、うちでやってるのは小さな建物がほとんど。しかも何パターンかしかないので数か月やれば覚えられると言います。  食事が終わったころ、ママさんらしき人が前に来ました。 「あおちゃんはアイスコーヒー?」 青木さんにそう聞きます。あおちゃんか、本当に行きつけ、常連なんだ。 「うん」 「お嬢さんは?」 私に向ってそう聞いてきます。 「あ、同じで、いえ、アメリカン下さい」 いくらお店の中が暖かいと言っても真冬です。アイスコーヒーって感じじゃない。私は訂正しました。ママさんはカウンターの中のもう一人の女性店員にそれを伝えてから青木さんに話しかけます。 「取引先の方?」 私の事でしょう。 「ううん、うちにスカウトしようかと思ってる人」 「あらそうなんだ。なら邪魔したらだめね」 そう言って離れていきます。さして広くない店内ですがランチタイムで一杯。忙しくもあるのでしょう。飲み物が来ると、今度は私が質問されました。ま、当然ですが色々聞かれました。なので答えます。年は二十五歳、今年六になります。○○女子大卒業。某企業に勤めていたけど昨年十月に退職。ま、それぐらいしか言う事はないんだけど。退職理由は言いませんでした。言いたくなかったから。そこまで答えてからまた聞かれます。 「一人暮らしだよね、実家はどこ?」 困った、どう答えよう……。 「実家と言うか、母は浜松にいます。浜松の母の実家に」 嘘です。まるっきりの嘘ではありませんが。浜松に母の実家があるのは本当。祖父母とも健在でそこにいます。でも母はいません。どこにいるのか知りたいのは私の方。 「お母さんは浜松。お父さんも一緒?」 やっぱり聞かれるよな。こっちは正直に答えます。 「父はいません。私が三歳の時に母が離婚したので」 「そっか、変なこと聞いてごめん」 「いえ、私自身は全然覚えてませんから気になりません」 これはちょっと嘘。あることがあって、本当は気になっています。でも言いません。 「わかった。一応履歴書書いて出してね。で、いつから来れる?」 「え?」 ちょっと話が早すぎ。どうしようか、まだ本気で考えていない。それより青木さんはいいの? このくらいの会話で採用しちゃっていいの? そんなことを思っていると青木さんが慌てて言い出します。 「そっか、給料のこと話さないかんね。僕からは即答出来ないんだけど、前の給料くらいは保障しようと思ってる。前の給料明細とかってある?」 「はい」 私は即答。 「じゃあ、それも持って来て、経理任せてる人と相談するから。ま、夏に辞めたのがいるって言ったでしょ。彼は二十八歳だったかな? 確か三十万くらい払ってたと思う。だからそのくらいまでは問題ないはず」 そう聞いて、私はかなりその気になってしまいます。三十万に釣られてしまいそう。でも質問。 「その方は何で辞めたんですか?」 「ああ、結構おしゃれに気を遣う奴だったんだ。それで、ヘルメット被る仕事は嫌だって」 私一応女なんだけど、おしゃれに気を遣わなそうって見られてる? そう言えば昨日も一昨日も、髪の毛ぼさぼさのすっぴん顔を見られてる。おまけに部屋着の上から着込んだブクブクの姿も。 「ヘルメット……」 私の口から出た言葉に青木さんが反応。 「工事現場入るときは必須だから」 そっか、現場にも行くってさっき言ってたね。私は青木さんの方を見て言いました。 「分かりました。少しだけ考えさせて下さい。出来るだけ早くお返事させてもらいますから」 青木さんはしばらく私の顔を見てから、何故か満足そうに小さく頷きます。 「うん、早めの連絡待ってる」 そう言って名刺をくれました。『青田設計 青木克己』と書かれています。なぜ青田? 青木じゃないの? 「そこに携帯の番号載ってるから」 そう言って携帯番号が書かれた辺りを指さします。 「分かりました。必ずお電話します」 私はそう言いました。そしてお礼を言ってから店を出ました。少し建物から離れて振り返ります。名刺だとここの二階が事務所。二階まではマンションではなく店舗のようになっています。その二階に四軒くらい入っているようですが、ここからでは大きく看板が出ている法律事務所しかわかりませんでした。私は上を見上げます。この十二階建てのマンションの九階に住んでいました。住んでいた部屋の窓にカーテンが見えます。当然ですが、もう他の人が住んでいます。またこのマンションに縁が出来るとは。そんなことを思う私は、もう青木さんの所でお世話になる気になっているようでした。  当初の目的の買い物を済ませた後、部屋に戻るなり朱美に電話しました。帰る途中、バスの中で掛けたかったくらい。でも出ません、仕事中なのでしょう。しょうがないのでショートメールを送信することに。朱美はSNSをやっていません。未読だ既読だといちいち言われるのが面倒と言ってやめちゃいました。私も今はやってません。私はちょとした騒ぎがあって鬱陶しいことになったから。その騒ぎが失業の理由でもあるんだけど。 『再就職決まりそう! でも相談したいから連絡頂戴』 夜になっても返事は来ず。  私はお風呂も夕食も済ませてテレビを見ていました。メールの返事が来ていないこと等すっかり忘れている。半分寝かかっていました。すると玄関のチャイムが鳴ります。驚き。時間は十時前でした。まさか青木さん? だとしたらちょっと引いてしまう。青木さんの所への再就職はなしだ。インターホンで出ると声は朱美でした。朱美はここの鍵を持っているので勝手に入って来いよと思いながら、玄関に行って扉を開けます。 「ちょっとこれお願い」 そう言って朱美が大きなビニール袋を私に差し出します。受け取ると重い。沢山の缶ビールにワインの瓶まで入っている。朱美は朱美で大きめのバックを抱えています。 「なにこれ」 「なにって、再就職祝いでしょ!」 そう言いながら靴を脱いで上がって来ます。私は逆に閉まりかけたドアを止めて外へ。そして共用通路から下の駐車場を見ました。このマンションは家賃に込みで全戸に駐車場があります。なので私の部屋用の駐車場もあります。朱美の赤いコンパクトカーが、ちゃんと私の場所に停まっていました。隣は青木さんのスペース。そこにも昼間乗せて頂いた白い車が停まっています。帰宅されているようです。部屋に戻ると朱美は冷蔵庫を物色中。 「お祝いって言ってもまだ決めてないよ」 私が声を掛けると振り返らずにこう言います。 「梨沙にしては一杯入ってるね」 「今日買い出し行ったところだから」 「ソーセージとチーズは買って来たんだけど、何作れる?」 私に作らせるつもりか。ま、朱美は料理ダメなのでそうなるだろうけど。 「晩ご飯食べてないの?」 「だって仕事長引いたから、家帰って着替えただけで出て来たもん。ろくに会話もせずに飛び出したから、うちの両親変に思ってるかも」 冷蔵庫から離れた朱美と入れ代わって台所に立つ私。 「いいの? 電話しときなよ」 「大丈夫、梨沙の所に泊まるって言ってはあるから」 「泊まるって、明日仕事は?」 「明日土曜だよ」 私はそんな朱美の言葉を聞きながらメニューを決定。大きな徳用パックの粗挽きソーセージと、食パンに載せて焼くスライスチーズが朱美の持参品。自分の好きなものを買って来ただけのようです。ソーセージをタテに切ってスパゲッティーとピーマン、ニンニクと一緒に炒めて一品。冷凍のミックスベジタブルとチーズを入れてオムレツ。これにも刻んだソーセージを入れる。これで二品。あとはただ焼いただけのソーセージも作ろう。サニーレタスとプチトマトを添えれば完璧。私が料理を始めるころ、「お風呂貸してね」と風呂場に消えた朱美。果たして、計ったようなタイミングで出てきました。うちの小さなこたつに料理を並べて宴会の始まり。もう十時半過ぎてるけど。 「おいしそう」 と言う朱美。 「パスタは唐辛子あれば良かったんだけど」 「いいよ、十分おいしそう」 缶ビールを開けて私に差し出す朱美。 「では、梨沙の再就職を祝って……」 そう言う朱美を私は遮ります。 「だから、まだ決めてないって。迷ってるの」 「でも、もう決めてるでしょ?」 「……」 「あんたは迷ってるうちは絶対に相談したいなんて言わないもん」 「そんなこと」 「ううん、会社辞める時だってそうだったじゃん」 「……」 「で、どこ入るの?」 そう言いながらも朱美はとっくに食べ始めています。私は大体のことを説明しました。 「個人の設計事務所か」 聞き終わってそう言います。 「うん」 「面白いかもね」 「面白い?」 「うん、そう言う小さなところなら、何でもかんでもやらしてもらえるかも」 「なんでもって」 「うちなんかダメ。色んな部署があるから、何か提案しろって言われて提案したのが採用されても、実施に向けた検討やら、具体的な企画作りやら、面白いところは全部取り上げられちゃう」 「……」 「で、出来上がった企画書通りに動かされるだけ」 「なんかあった?」 「うん……、って、私の事はいいの」 「はあ」 「頑張って活躍しなよ」 「まだどんなことするかもわかってないのに」 「ま、そだね。で、どこからそんな話が来たの?」 う~ん、言わなきゃだめだよねぇ。 「隣の人がそこの社長さんなの」 私は隣の部屋を指さして答えます。一瞬間がありました。そして、 「はあ?」 朱美の声が大きくなりました。 「隣って、隣に住んでるの?」 頷く私。朱美はしばらく私が指さした壁を睨んでから言います。 「微妙かも」 「微妙?」 「……いや、なしだな」 「なんで?」 「だって、上司が隣に住んでるって……」 そう言われるとそう思う。朱美は冷蔵庫へビールを取りに行きます。これで三本目だ。戻って来て私の前にも一本置く。私はまだ一本目が残ってるんだけど。 「梨沙は平気なの?」 「う~ん、やっぱ微妙かなぁ」 「そうだよ。プライベートも筒抜けだよ」 そのセリフは少し胸に刺さったかも。 「でもここって古いけど鉄筋コンクリートだから、隣の物音とか聞こえたことないし」 「そう言う問題じゃないでしょ」 ソーセージをサニーレタスで巻いて食べながらそう言う朱美。 「どういう問題?」 「彼氏が泊まりに来たりした時、玄関先で出くわしたりしたらどうするの」 少し考えます。するとそのセリフはぐっさり胸に刺さりました。すでに出くわしたことがある。前の彼と一緒に出勤するのに玄関出たところでじゃれ合ってるところとか。思い出すと恥ずかしくなってくる。 「もう見られてる……」 「え? 前の彼と一緒のところ?」 「うん、何度かあったと思う」 朱美は少し思案顔。 「前の彼って、あの人だよね」 「……そうだよ」 「ふ~ん」 意味深な顔つきをする朱美。 「なに?」 「いや、おじん趣味って思われたのかも。その人、梨沙に気があるんじゃない?」 「おじんって、そんな年じゃないよ」 「でも一回り上だったでしょ?」 そう、私の前の彼氏は十二歳も年上でした。あ、独身ですよ。不倫してたわけではありません。 「そうだけど、隣の人はもっと上だから。五十過ぎてると思う。全然別物だから」 私はなんだかわけのわからないことを言ってる。 「でも向こうは梨沙の事、年上趣味だって思ってその気になってたら?」 「そんなことないよ。……多分」 さっきからワインに切り替わっている朱美。料理がなくなったのでスライスチーズをそのまま食べています。私は会話が途切れたので空いた食器を持って台所へ。洗い物をしていると朱美が声を掛けてきました。 「やりたいって気になってるの?」 「……うん」 「何やるかも分からないのに?」 私は洗い物を終えてこたつの所へ戻ります。 「なんか、建物が建つところに関わるって面白そうだなって」 「ふ~ん」 「そんな気がするだけだけど」 朱美は台所からグラスを持って来て私に渡します。そしてそこにワインを注ぎます。ちょっぴり色のついた白ワイン。朱美は自分のグラスにもワインを足すと、そのグラスを持ってこう言います。 「良かったね。再就職おめでとう」 そう言われても私は何も言葉が出ませんでした。すると朱美は自分のグラスを私の持つグラスに軽く当てます。グラスと言っても単なるコップなので、そんなにいい音はしません。朱美はゆっくりこう言いました。 「かんぱい」 私はやっと口を開きます。 「ありがとう」 これで私の再就職が決まりました。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加