第十三章 失職 転 -回想-

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第十三章 失職 転 -回想-

 七月三十一日 月曜日。出社すると更衣室から空気が変でした。一階に降りた始業三十分前の七時半、まだ半分も席には人がいない。でも席にいる人が、なんだか遠慮がちに私を見ている。すると自分の席まで行く前に後ろから声を掛けられました。 「高橋さん、ちょっとちょっと」 出社したばかりでまだ制服に着替えていない中川さんでした。そしてそう言って、トイレなどがある通路の方に手招きします。私がそっちに行こうとしたら、中川さんの後ろから係長が入ってきました。そして私を見つけるなり、 「おお、高橋来てたか、ちょっと来てくれ」 と言って、今降りてきた階段の方へ誘導されます。しょうがないので中川さんに、すみませんって頭を下げて係長の方へ。中川さんが心配そうな顔で頷き返してくれてました。係長は階段を上らずエレベーターの方へ行きました。私はついて行く、しかないです。出社してきた何人かが私を見て囁きあっている。なんだか雰囲気がおかしい、嫌な予感しかもうしませんでした。  係長と二人でエレベータに乗りました。5階のボタンが押される。大中小の会議室だけがあるフロアです。 「あの、何かあるんですか?」 恐々と聞きました。 「いや、まあ、後で話すから」 係長はそうとしか言いませんでした。  5階に着くと小会議室の一つの扉前に。扉を開ける前に、係長が扉横の札をスライドさせて、使用中、に変えている。その、使用中、の見慣れた赤い文字に、なぜか恐怖を感じました。係長に促されて部屋の中に入る。すると係長は入ってこず、 「ちょっと待ってろ」 と言い残して、立ち去ってしまいました。  大きなミーティングテーブルの両側に机椅子が四脚ずつあるだけの小部屋。しかもここは窓もない部屋。ここに来るまでに感じた嫌な空気と、この部屋の閉塞感で気分が悪くなってきました。いや違う、原因はもうハッキリ確信の域にまで達している予感のせい。七月五日のメール騒動からずっと怯えていたこと。ずっと、私にだけは降りかからないでと願っていたこと。それがとうとう降りかかったんだと言う予感。また床が揺れ始めたような感覚がしてくる。でも踏ん張って立ち続けていました。そして、何時間も、何日も、何か月でも立ち続けてやる。何も起こらず、これまでの日常が続けられるなら、どんなに床が揺れても、天地がひっくり返っても、立ち続けてやる。そんな思いで何とか涙を出さずに耐えていました。そう、ほんとはもう確信となっている、これから起こるであろうことに泣き出しそうでした。  係長が立ち去ってからは、階段を上り下りする人の足音がかすかに聞こえるだけ。朝の会議室フロアに用がある人は普通いません。なので人の気配が全くありません。本当に何時間も経ったような感覚がしてきて、扉横の壁にある時計を見ました。始業十分前でした。ここにいていいのかな? 席に戻らなくていいのかな? いや、席に戻って仕事しよう。いつも通り仕事を始めれば、いつも通り何も起こらず今日も終わる、はず。そんなことを思ったところで目の前の扉が開きました。 「ひゃっ!」 そんな声と共に思わず一歩下がりました。そのぐらい扉の近くに立ちつくしていました。 「あ、当たった? 申し訳ない、大丈夫? 座っててよかったのに」 私の声に扉を途中で止めて、そんな言葉とともに顔を出したのは渡辺部長でした。本社総務部の役員さんです。そんな偉い方の登場に恐れるように、私は後ろに下がりながら、 「いえ、大丈夫です」 と、言いました。扉からは渡辺部長に続いて知らない男性社員、三十半ばくらいかな? って感じの人と、メンテ事業部の総務課長、そして業務課長まで入ってきました。  座るように言われてイスの一つに着くと、四人が目の前に座りました。 「えっと、もう何か話はしてあるの?」 そして渡辺部長がメンテ事業部の両課長にそう投げかけます。 「いえ、ここに連れて来ただけですから」 うちの課長がそう答えました。 「そうか、えっと、高橋さん、何で呼ばれたか心当たりはある?」 すると渡辺部長が私の方を向いてそう聞いてきました。 「……いえ」 確信していると言っていい予感はありましたがそう答えました。 「そうか、じゃあまずは高橋さんにも見てもらおうか」 渡辺部長がそう言って隣の男性の方を向きます。 「高橋君、いい? すぐ出せる?」 「はい、大丈夫です」 高橋君と呼ばれた男性は、持って来ていたタブレット端末の画面に触れてからそう答えます。 「じゃあ高橋さんに見せて」 そう言われた男性は席を立つとテーブルを回って私の方に来ます。その姿を目で追いながら、 「高橋さん、偶然同じ名前だけど、彼はうちの二課長の高橋君。入社してからずっと本社総務にいるから会ったことないかな?」 渡辺部長が私にそう言います。 「はい」 私はそう答えてから、私の隣に座ろうとしていた高橋課長に頭を下げました。高橋課長も小さく頭を下げてくれながら席に着きました。私は、この若さで本社の課長なんてすごい、って目で高橋課長を見る余裕なんてありませんでした。恐々と、高橋課長の差し出すタブレットの画面を見るのが精一杯。  画面に出ていたのはネット上の掲示板でした。そう、例のやつです。表示されている一番上の書き込みは土曜日の夕方のものでした。 『新事実判明! 業務課の高橋梨沙、こいつも石田のお手付きだった! 今まで素知らぬ顔で過ごして、こいつとんでもない最悪の女!! メールの犯人もこいつで確定!!!』 そ、素知らぬ顔でって、どんな顔してろってのよ! なんて突っ込みは頭の中にも出てきません。それどころか読んだ文字が頭に入らない。いや、入ってる、入ってます、理解もしてる。でも、頭が拒否してました。拒否して回らない頭の中にあったのは、とうとうバレた、とうとう晒された、自分の番が来た、って恐怖だけ。  そんな状態だったのに私は固まっていませんでした。タブレットに手を伸ばし、そこから続く書き込みに目を通していました。直後は、やっぱりとか、そう思ってたとか、そんな反応が続きます。信じられない、そんな反応されるなんて。私って職場でみんなからどんな風に見えていたんだろう、って思ってしまう。そしてそんな反応のあとは、以前堀口さんの所で見たのと同じ、私の恋愛遍歴がズラズラ並ぶ。そしてメール犯だと決めつけて追及してくる内容で盛り上がり始める。どちらも過激な言葉、卑猥な言葉が、堀口さんの所で見た時よりはるかに目立つ。みんなこういう内容の書き込みに慣れたみたい。  周りの状況を忘れて書き込みを追っかけていたら、 「高橋さん、その辺で一旦やめて」 と、渡辺部長の声がしました。ハッとして顔を上げました。そんな私の手から高橋課長がタブレットを取ると、向かいの席に戻って行きます。 「すみませんでした」 渡辺部長の方を向いてそう言いました。 「えっと、今の感じだと、初めて見たのかな?」 「はい」 「そうか、まあ、あれこれ言ってもしょうがないから単刀直入に聞くけど、高橋さんも石田係長と関係があったのは事実かな?」 答えたくない。この期に及んでも自分からは言いたくない。でも、 「……はい」 と、当然そう答えました。高橋課長以外の三人がうんざりしたように小さくため息をつきました。高橋課長はクールな表情のまま。こんな状況じゃなきゃときめいていたかも。 「そうか。辛かっただろう、メールの騒ぎがあってからずっと」 渡辺部長がそう言ってきます。 「……はい」 「そうだろうね。で、その発端となったメールだけど、あれを送ったのは高橋さんで間違いない?」 その渡辺部長の言葉には驚きました。私だとすでに決めつけている。 「違います、私じゃないです」 慌ててそう言いました。 「急に反応が良くなったねぇ、図星だったから?」 「いえ、違います」 「ほんとに?」 「はい」 すると今度は違う質問が来ました。 「あのメールの時、高橋さんは石田係長と交際中だった?」 「いえ、違います」 「そうか、いつからいつまで付き合ってた?」 「えっと、去年の十二月から、あのメールの一か月前くらいまでです」 なんか刑事もののドラマで見る取り調べみたい、って、取り調べされてるのか。渡辺部長の横で高橋課長が、私たちのやり取りをずっとメモってるし。さっきメールの犯人だと決めつけられたときに少し湧いた怒りのおかげで、こういうことが観察できるくらいには冷静になっていました。 「石田係長に他にも交際相手がいると知って、高橋さんの方から別れたの?」 渡辺部長の尋問、もとい、質問が続きます。どっちでもいっか。 「いえ、石田さんから別れようって言われたんです」 「それはなんで? 何か原因がある?」 「分かりません」 私はそう答えてから思いついて、手に持っていたスマホをテーブルの上に出しました。そして四人に見えるところで操作して、石田さんとのやり取りをしたSNSの画面を出しました。それを渡辺部長に差し出します。 「いきなりこう言われたんです」 「見てもいいのかな?」 渡辺部長がそう聞いてくるので頷きました。渡辺部長がスマホを受け取って見ます。課長たちも部長の後ろに来て画面を覗いている。 「この、昔の男って言うのは?」 渡辺部長がまた聞いてきます。 「それは事実じゃありません。別れる口実にそう言ったんだと思います」 「そうか」 そう言ってスマホを私に返そうとするので、 「その後も見てください。見てもらっていいですから」 と、言いました。その後にはメールを石田さんに疑われた時のやり取りがあります。それも見てもらった方が話が早いと思いました。  渡辺部長が画面の上で指をスライドさせています。 「なるほど、メールのことで石田係長とやりあってたんだね」 そしてそう言いました。 「はい」 「このやり取りなんだけど、さっきのも含めてちょっと控えさせてもらっていいかな?」 「はい?」 「いや、高橋君、どうしたらいいかな?」 私の返事を無視して高橋課長にそう聞いてます。 「その画面を写真に撮っときましょうか?」 「出来る?」 「はい」 そんなやり取りのあと渡辺部長がまた私を見ます。 「いいかな? 写真に撮らせてもらっても」 なんだか証拠提出しろって言われてるような、理由不明の不快感はありましたが、私は頷いて承諾しました。それを見た高橋課長がタブレットで、私のスマホの画面を写真に撮っていきました。  撮り終わった写真の画像を見てから渡辺部長がこう言います。 「これだけでは証拠にならないかもしれないけど、これは高橋さんがメールを送った人間じゃないって言うときの材料になるから」 「はあ」 意味が分かりません。でも本当に証拠提出したっぽいです。 「おい、あれ、掲示板の写真の所出して」 渡辺部長は高橋課長にタブレットを返しながらそう言うと、私の方を向きます。 「もう今日から順次始めていくことで、隠す必要もないから話しとく」 そしてそう言いました、部長の後ろに立ったままだった課長たちも椅子に戻ります。 「会社としてメールの犯人捜しを本格的に始めるから。あ、ありがとう」 話の途中で高橋課長の差し出したタブレットを受け取る渡辺部長。そしてその画面を私に見せます。さっきの掲示板でしたが、メールに添付されていた写真が貼り付けられていました。あの写真はこれで社内だけじゃなく、世界中に公開されたんだ。渡辺部長が画面を見せながら話します。 「この掲示板が出て、すぐにこの写真が公開されてた。そしてそのあと、どの人かは言わないけどこの中の一人が、誰がメールでこの写真を流したのか教えて欲しいと会社に言ってきた。でも会社として騒ぎを大きくしない方向に持って行く方針だったから、大々的には調査できない。だから内々でやっていたんだけど、ちょっと本格的に犯人を見つけないといけなくなったんだよ」 課長たちが天井を見上げたり、弱った顔をして俯いたりしています。何があったんだろう? 「先週の木曜日、その人に依頼された弁護士がうちに来た。その弁護士が言うには、その人が写真を公開した人を訴える準備をしているとのことだった。写真を公開されたせいで会社にいられなくなった経済的なダメージ。そして社会的信用も失い、羞恥に晒された精神的ダメージ。その両方の損害を請求するってことだった」 部長の話は衝撃でした。弁護士なんて言葉が出ただけで驚いていたのに、訴える、なんて言葉まで、そんなことに関わっているって言うのが本当に怖くなってきました。 「これで分かると思うけど、訴えるためには相手が特定されないといけない。だからその弁護士からも犯人捜しを要望されたんだよ、しかも急いでくれって」 そう言うと渡辺部長はタブレットのカバーを閉じて高橋課長に返しました。そして私に向かってこう言います。 「さっき見せてもらった石田係長と高橋さんのやり取り、まああれで個人的には、僕は高橋さんじゃないと思っているんだけど、もう一度高橋さんの口からハッキリ言ってもらえないかな。あのメールを送ったのは高橋さん?」 「いえ、違います」 はっきり答えました。渡辺部長は頷いてから続けます。 「じゃあもう一つ、メールの送り主が誰か知ってる?」 「え? ……いえ、知りません」 一瞬驚き、返事を躊躇しちゃいました。そして嘘をつきました、嘘を。なぜだか分かりません。堀口さんを庇いたいとか思ったわけじゃありません。自分でも理由が分からない、なぜ知ってることを言わなかったのか。 「うん? 今何か迷ってなかった?」 渡辺部長は私の反応を見逃していませんでした。 「いえ、別に……」 「そう? 何か言いにくいことがある? 安心していいよ、高橋さんから聞いたとは誰にも言わないから」 そう言われてうちの課長、業務課長を一瞬見てしまいました。どこかで、この人に知られたことは松本さんに知られ、そしてみんなに知られてしまうと言う認識があったから。課長がいなくても話す気なんてないのに、そんな行動が出てしまいました。 「いえ、ほんとに知らないです」 渡辺部長はさっきの私の動きにも気付いただろうな、と、不安に思いながらそう言ってました。 「そうか、じゃあ何か心当たりはない? あの人が怪しいかもって感じのことでもいいから」 でも渡辺部長は私の不安を素通りしてそう聞いてきました。 「いえ……、みんなが言ってる程度のことしかわからないです」 「どういうことをみんなは言ってる?」 「その……、営業部長のメールアドレスだったので、部長のいる3階の本部の人か、営業の人じゃないと出来ないんじゃないかって言う程度のことです」 「う~ん、まあそうだよね。そのくらいしか思いつかないよね。ま、こっちもそこまではすぐに思いつくから、そのあたりのスタッフへの確認やら、各自のパソコンや端末の調査はもうしたんだよね。結果は残念ながらってやつだけど」 「そうですか」 上ではパソコンの調査とかやってたんだ。堀口さんが中野君のパソコンから動画データを、コピーじゃなく移動させて持って行ったのを、中野君は感謝すべきかも。でないとその時点で中野君が犯人になってたはず。そんなことを思っていたら渡辺部長がこう言ってきました。 「最後にもう一つ聞きたいんだけど」 うう、まだあるんだ。 「はい」 「うちの会社の人間で、石田係長と関係のあった人を他に知らないかな?」 「え、……知りません」 今度は二村さんのことが浮かんで間が開いてしまいました。 「ん? 何かある?」 また渡辺部長に、間を追及されました。 「いえ、その……、この騒ぎが起きてから噂話で聞いたんですけど」 私はちょっと思いついて話しました。 「噂話、どういう話?」 「えっと、営業の男の人たちの間では有名な話みたいなんですけど、石田さんは飲むと自慢話をするって」 「どんな?」 なんだか渡辺部長は知らなかった話のようで、真剣な顔になりました。 「その、誰と付き合ってるとか、付き合ってたとか。だから営業の人に聞いたら、他にも付き合ってた人がいたらわかるんじゃないかと……」 課長たちが揃って目を瞑ると俯きました。知ってて言ってなかったのかも。言ったらまずかったの? 「なるほど、そんな話があるんだ。営業全体に対してはそう言う相手が他にいないかと一度確認したんだけどね。今度は一人ずつじっくり聞いていった方がよさそうだね」 一方、渡辺部長の反応はこうでした。そして、 「ところで、その話は誰から聞いた?」 そう聞かれました。 「え? 誰からって……、噂で聞こえてきた話なので誰からって言うのは……」 誰から聞いたっけ? そうだ、中野君だ。でも実際、噂でも似たような話が聞こえてきたから嘘じゃない。 「そうか、噂話だもんな。わかった、僕からはこれで終わり。ありがとう」 そう言うと渡辺部長は立ち上がりました。高橋課長も同様に。そして渡辺部長が課長たちに、あとはよろしく、と言うと、二人は出て行きました。  二人が出て行くと、残った課長二人が顔を見合わせて、無言で何か言いあってます。やがてうちの課長が私の方を向いてこう言いました。 「この後どうする? 高橋」 「え? えっと、仕事に戻ればいいですか?」 聞かれたのに聞いちゃいました。 「え? いいのか?」 少し驚き顔になった課長にまた聞かれました。 「え? なんですか? まだ何かあります?」 何だかお互い聞き返してばかりで変な感じです。 「いや、高橋がいいならいい。わかった、戻ってくれていい」 「分かりました」 私はそう言って立ち上がりました。総務課長がうちの課長の方を向いて首を横に振り、また無言で何か言ってます。戻ったらダメなの? そう思いながら戸口の方に向かっていたら、総務課長と目が合いました。課長の動きが止まりました。 「いいですか?」 戸口で二人の方を振り返ってそう聞きました。 「ああ、ご苦労さん」 うちの課長がそう言うのを聞いて、 「失礼します」 そう言ってから会議室を出ました。  階段に向かいました。うちの会社は基本的に、荷物がない時はエレベーター使用禁止です。ま、下っ端社員だけですけどね。  階段を降りる私の足は軽かったです。事情聴取? が終わり、メールのこともとりあえず容疑者から外されている。そんな思いで気が軽かったです。事情聴取に呼ばれた理由、そして最後の課長たちの反応、この辺りにほんの少しでも気がいってれば良かったんだけど。  業務課に足取り軽く入って行き、自分の席までの人に軽く会釈なんかしながら席に着きました。そしてパソコンの電源を入れ、電話応対用のヘッドセットをつけようとして気付きました、かなりの人の目が私に向いているのを。そして、一旦停止ボタンを押したように止まって見える。なんで? まだ思い当たりませんでした。  パソコンが立ち上がったのでマウスを操作して、電話応対用の画面を出しました。その私の動きでみんなが動き出したように感じます。でも動き出した人の多くが、隣の人や近くの人とヒソヒソ話を始める、私の方を窺いながら。  電話の多い月曜日の午前中。パソコンの画面では七本も未応対で着信中でした。しゃべってないで電話に出なよ、って思いながら、着信中の一本をクリックして電話を取りました。 「大変お待たせしました、松本産業です」  受けた電話はすぐにメンテ課に向かってもらった方がいい内容でした。相談するために保留にして、メンテ課に内線を掛けます。出たのは長縄さんでした。聞いた内容を伝えて、私の考えた対応を相談しました。 『わかった、それでいいと思う』 長縄さんから賛同の返事。 「良かった。じゃあ、あとお願いしてもいいですか?」 『いいよ、任せて』 「お願いします」 そう言って内線を切ろうとしたら、ヘッドセットで長縄さんの声が続きます。 『梨沙ちゃん、大丈夫なの?』 「はい?」 『いや、大丈夫そうね、ならいい、良かった』 それで切れました。画面では未応対の着信中がまだ七本のまま。私は次をクリックしました。  十時過ぎに私の机にコーヒーの入ったカップが置かれました。置いてくれたのは中川さん。私は電話中だったので、頭だけ下げてお礼をしました。でも中川さんは立ち去らずに横に立っています。何か話があるのかな? その時の電話の相手は、モンスターリストの中でもキングクラスの強敵。ちょっと、日本語しゃべってよ! って言いたくなるくらい、わけわかんないことを言いまくられてなかなか終わらない。ひょっとしてしゃべりたいだけじゃないの? なんて思っているうちに、中川さんはいなくなっていました。  着信中の表示が全部消える時間が出始めて、一段落した十一時過ぎ。やっとヘッドセットを外しました。そして対応した電話の内容を処理画面に入力して、一つずつ閉じていく。業務課全体が一息ついているタイミングなので、数人が所々に集まって話しています。いつものこと。でもいつもと少し違うことも、その集団がみんな私の方をチラチラ見ている気がする。  入力も終えたので、私はカップを片付けに湯沸し室に向かいました。向かう前に中川さんをおしゃべりに誘おうかと思ったら、彼女は電話中でした。  湯沸し室に近付くと、おしゃべり中の人たちの声が聞こえてきます。 「うん、私も怖い、高橋さん」 いきなり自分の名前が出て来たので足が止まりました。 「怖いなんて言ったら可哀そうだよ」 「いやでも、全然平気な顔して仕事してたよ、今日」 「今日って、今日だけじゃないでしょ。いままでずっと知らん顔してたってことでしょ?」 「そうよ、自分は知られてないと思って。どうりで和田さん取り込むはずだわ」 「そっか、それで和田さん傍に置いたんだ。ひょっとして傍に置いて可哀そうな奴とかって、和田さんのこと笑ってたんじゃないの?」 「高橋さんはそんな子じゃないと思うけど」 二人は私を悪く言って、一人は私を庇おうとしてくれてる? なんて冷静な判断できるわけない。この会話を聞いて思い当たりました、気付きました、思い出しました、私も晒されていたんだってことに。渡辺部長との会話でメール犯候補から外れた。そして犯人探しに協力するような会話をした。それだけで気が軽く、いえ、楽になってしまってました。そして直後に月曜日の電話ラッシュに飛び込んだ。それは完全にいつもと同じ日常の忙しさの中。辛い目に合うのはこれからだと言うことを忘れていました。  すべてを思い出し、把握して固まってました。さっきまでの事務所での私の姿、他人事なら私でも怖いと思ったかも。そのままの反応を今聞いて、別の意味で怖くなりました。そして恥ずかしくなってくる。 「今頃正体現して平気な顔してる子がいる」 後ろから声がしました。振り向かなくても分かる、松本さんだ。 「ほんと、どういう神経してるのか疑うよね」 「でも、よく平気な顔して今まで隠れてられましたよね」 取り巻きたちの言葉に松本さんが応じます。 「ほんと、よく今まで隠れてたわよね、みんな騙して。正体暴いてくれた人に感謝だわ」 何も言い返せない。俯いているしかできませんでした。 「ねえ、昼から例のメールのことで一人ずつ面談とかって言われたんだけど、なんで? もう必要ないよねぇ、高橋さんなんでしょ?」 「違います」 なんとか声を出しました。 「はあ? もう嘘つくのやめなよ、ほんといい加減にして欲しいですよねぇ」 「ほんと、いい加減にして。なんか今回はスマホのSNSの書き込みとかも見たいとかって言ってるの。勘弁してよ」 「ま、強制出来ないから、嫌なら見せなくていいって言われたけど、見せませんって言うの、なんか気が引けるじゃない、悪いことしてるみたいで。なんであんたのせいでこっちがそんな気にならなきゃいけないのよ」 「だから私じゃないです、メールは」 もう一度頑張ってそう言いました。すると松本さんが、 「今までずっと嘘ついてた人の言葉、誰が信じるの? ねえ」 そう言って周りに同意を求めます。そして松本さんの思惑通り、そうよ、とかって同意の声が上がります。湯沸し室にいた三人もいつの間にか通路に出て来ていて、頷いています。松本さんは十年目になる、もう立派なお局級の社員。この状況で逆らえる人はそんなにいません。 「さあ、もう認めなさいよ、嘘ついてるの辛くないの?」 取り巻きの一人がそう言ってくる。私は何も返さず、カップを洗うために湯沸し室に入りました。 「ちょっと、なんか言いなさいよ」 声が追っかけてきました。 「ほんととんでもない子ね、この子」 別の声も湯沸し室に入ってきました。私は黙ってカップを洗い終えて所定の場所に置きます。そして、湯沸し室に入って来ていた声の主たちをかき分けるように通路に出て、松本さんの前に立ちました。 「メールは本当に私じゃありません。失礼します」 松本さんが唇の端を上げて何か言おうとしました。でもその横をすり抜けて、私は事務室に戻りました。  残り僅かの午前中は、そのあと特に何もありませんでした。お昼休みになる直前、私は電話を一本取ってしまいました。仕事中は、電話中は、聞きたくない雑音が聞こえないから。電話はややこしい相手からではありませんでしたが、内容はややこしいものでした、なので長引きました。電話中にみんな昼食に席を立って行きます。中川さんと和田さんの心配そうな顔も一旦傍に来てくれましたが、電話が長引きそうなのでいつもの場所を指さした後、そっちに行ってしまいました。  電話を終えてから事務所入り口のカウンターへ。業務課分の配達のお弁当はそこに届くから。でも一つも残っていませんでした。そして気付きました。今日は注文する暇もなく5階に連れていかれたのでお弁当がないってことに。  中川さんたちのいるいつものブースに行きました。 「和田さんから聞いた。大丈夫?」 そう声を掛けてくれる中川さんに頭を下げました。 「すみませんでした」 「やめてよ、別に謝ってもらわなくてもいいから」 「でも……」 「ううん、和田さんから言われたけど、やっぱり自分からは言い出せないよね」 黙って頷きました。 「分かってる。分かってるからいいよ。私にくらいは話して欲しかったな、とは思うけどね」 と言って中川さんが笑顔を向けてくれる。泣きそうになりました。松本さんたちに何を言われても、泣きたくはならなかったのに。  昼食は机の引き出しに溜まっていた、夜勤の時のお菓子の残りで済ませました。午後の業務が始まると、松本さんの取り巻きの一人が言っていたように、一人ずつ呼ばれての面談がありました。面談をするのは、うちの課長や係長だと思っていましたが違いました。今朝お会いした高橋課長と、もう一人知らない男性の二人。年齢は高橋課長より少し上に見えました。多分この人も本社総務の方なのでしょう。  二人は打ち合わせブースに入り、そこに一人ずつ呼び出して面談を始めました。一人目が十数分くらいで面談を終えて出てくると、しばらくしてから面談に来ているのは本社総務の人だと言う話が流れてきました。本社総務と聞いて動揺の波もやってきました。右隣の席の先輩が、人目もはばからずスマホをいじり始めます。メッセージやメールの履歴を削除している様子です。この人も、どこぞに良からぬことを書き込んでいた一人なのかなぁ、と思ってしまいました。  その面談騒ぎのおかげで、午後は私への風当たりはほとんどありませんでした。面談場所への行き来の際に私を睨んでいく人がいた程度。ま、午後も電話が多かったので、気にしている余裕がなかったのも救いですが。  午後の業務が片付いたのは五時半頃。今日は夜勤でもないので帰っても良かったのですが、この時間は更衣室に人がいっぱいいます。そんなところへは行きたくありませんでした。かと言って、何気に聞こえてくるボリュームで私のことを話している、さっさと帰ってよ、って言いたくなる人達の視界の中にはいたくありません。  時間を潰すにも、湯沸し室へは近寄りたくなかったので、裏の倉庫へ行きました。駐車場に面したシャッターの脇の自販機が目的地。紙パックの飲料の自販機です。バナナオーレを買ってその場でストローを咥えていました。  駐車場に会社のワンボックスが入ってきました。メンテ課の車です。止まった車から三人降りてきました。一人は工藤さん。工藤さんはあとの二人に車の荷物の片付けなどを指示すると私の方にやってきます、タバコを取り出して咥えながら。私のいる自販機前は喫煙場所だったからでしょう。 「高橋、またさぼりか」 そう言って工藤さんがタバコに火をつけます。 「はい、さぼってます」 私はストローを吸いました。 「堂々と認めるな」 「でも、また、って言うのは否定しますよ」 工藤さんが苦笑したように笑いながら煙を吐き出します。 「なんだ、元気そうだな。良かった」 そしてそう言いました。 「え?」 「俺の耳には昨日から入ってるよ、お前のこと。うちの若いのが例のサイトで見つけて教えてくれたからな」 そっか、あの板の書き込みは土曜日の夕方だったから、昨日から話題になってたんだ。 「そうですか、すみません、お騒がせして」 私は少し姿勢を正してからそう言って、頭を下げました。すると工藤さんは喫煙所のベンチに座り、タバコを吸いながら私を見ます。 「俺さあ、よくわかんないんだよなぁ。えっと、堀口、それとなんてったっけ、総務の新人、可哀そうに辞めちゃった子、まあいいわ、その子と和田、それにお前、何でみんな卑屈になって謝るわけ? お前ら被害者だろ。そりゃ恥ずかしいかもしれないけどさ、男女のことが大っぴらにされるってのは。でもお前らは掛け持ちされてた方だろ、悪いのは石田だろ。お前らに非があるとしたら、過去に同じようなこと繰り返してる石田のことを見抜けなかったってことだけだ」 そう言われたらそうなんだよなぁ、悪いことしたわけではないんだ。社内恋愛を禁止している会社でもないし、不倫だったわけでもない。悪く言われる筋合いは本来ないはず。あ、石田さんは倫理的に追及されるべきだとは思うけど。  そして恥ずかしいのは恥ずかしい。工藤さんが言うような恥ずかしさもあるけれど、それ以上に、長縄さんのセリフをお借りして、長縄さん風に言うと、やりたいだけの男が手当たり次第に出した手に引っ掛かった馬鹿な女、だと公表されたことが一番恥ずかしい。そして、こっちは真剣に交際していたわけだから腹も立つ。  俯いたまま、そんなことを考えていて無言だった私に工藤さんが、 「おい高橋、気付いてるか?」 と、声を掛けてきました。 「え? あ、あの、何ですか?」 「メールの騒ぎ、メンテ課では初日から一切ないだろ?」 そう言えば……。 「そうですね」 「さっき話したことを課の中で言い聞かせたからな」 「……?」 「石田の被害者をいじめるようなことはするなよって」 「そうだったんですね」 「ああ、だから胸を張れとは言わないけど、卑屈にはなるなよ」 嬉しい言葉だけど難しい。 「ありがとうございます。でも、メールの犯人だとも疑われてますから難しいですよ」 そう言うと工藤さんの表情も少し曇ります。 「まあそれはなぁ、うち(メンテ課)でも話題になってるし、みんな知りたいことだろうから、やめろともそうは言えんからなぁ」 「ですよねぇ」 「ちょっと考えればわかるんだけどな、全員違うって」 その工藤さんの言葉は驚きでした。 「どういうことですか?」 聞いちゃいました。 「うん? まあ、石田に腹を立てて何らかの仕返しをする。ここまでなら、堀口やお前ならやりかねないって思うんだけどな」 「ええ! そうですか? 私も?」 驚いて声が大きくなりました。私ってそういうことしそうに見られてたんだ。 「うん、お前も堀口も単純だからな。すぐカッとなるし、本気でカッとなったら手ぐらい出そうだ」 う~ん、言い返したいけど、当たってるような気もして言い返せない。 「でも、お前たちでも手までだ、あの写真は無理だわ。お前たちどころか、普通の人間には無理だわ」 「どういうことですか?」 「うん? 想像してみろ、一週間でいい、夕方から深夜ぐらいまで車の中にでも潜んで、いつ現れるかわからない相手を、気配を消してひたすら待ち続ける。出来るか?」 想像してみました。夜の車の中で隠れている。隠れているんだから暇つぶしに何かするってわけにはいかない。スマホで動画なんて見たりしたら光でバレる。でも見張ってるわけだから、暇だからと言って寝るわけにもいかない。う~ん、初日の二時間くらいでギブアップかな。でも、これやった人を私は知ってるんだよな。実際想像してみるとすごい。 「……私には無理です」 「俺にも無理だよ」 しばらくしてから私が答えたら、即こう言われました。 「普通のやつには無理だって。こういうことが出来るのは狂人だよ」 「きょうじん?」 「狂った奴ってこと、言葉悪くて悪いな」 「いえ」 狂人か、中野君は。さっきはすごいなんて思っちゃったけど、そうだよね、こういうことするのは狂ってるよね。 「と言うことは、工藤さん的には和田さんや新井さんにも無理ってことですね?」 話を変える意味も込めてそう言ってました。 「そっか、新井さんだ、やっと名前が出て来た。で、当たり前だろ」 「ですよね」 「あのなあ、その二人はそもそも、すぐカッとなるお前や堀口とは違うんだよ」 なんか酷い言われように聞こえてこう言ってました、工藤さんを睨んで。 「それどういう意味ですか?」 すると、そらみろって感じでこう返ってきます。 「そんな顔しないってことだ」  聞こえてくる陰口では、……陰口が聞こえるって言うのは表現としてはおかしいよね、じゃあ、聞こえてくる話では、私はどうやら誰とでも付き合う女、……もとい、聞こえてくる通りに言いますね、誰とでもやる女ってことになった、翌日の八月一日 火曜日。  午前中は耐えていました。どんな話が聞こえて来ても、いえ、わざわざ言ってこられても、耐えていました。  お昼になって、中川さん、和田さんと一緒に打ち合わせブースでいつも通り昼食。お弁当の蓋を開けた時、そう、食べ始めようとしたときに衝立の向こうからあの人達の声が。 「あの二人とまだ一緒なの? 中川さん」 「みたいですよ」 「じゃあやっぱり中川さんもなんだ」 「でしょうねぇ、さっさとカミングアウトすればいいのに」 「じゃあネットでカミングアウトさせちゃいましょうか」 「こらこら、故意に晒すのは……」 そのバカな会話に私は何も考えず立ち上がっていました。そして三人を、いえ、五人いました、なので五人を睨みつけて、 「人の秘密を晒すのはカミングアウトじゃなくて、アウティングって言うんです。でも今の話は捏造だからフェイクニュースって言うべきですかね。言葉の意味くらい知ってから話さないと、誰が聞いてるか分からないんで恥かきますよ、先輩」 一気にそう言ってました。私よりは二つ上だけど、その中では最年少の先輩は、私に睨まれて一歩下がると目を伏せました、ちょろい。でも残りの四人は目が細くなりました、怖い。 「そうだったんだ、アウティング? 覚えとくわ、ありがと」 松本さんがうっすら笑いながらそう言いました。するといつも一緒にいる同年の先輩も口を開く。 「自分から暴露するのはカミングアウトでいいのよね。高橋の次のカミングアウトは何? 男だけじゃなく女にも手を出してましたとか?」 そう言うと自分でクスクス笑い出す。 「いいわねそれ、なんならアウティング、だったっけ? 今夜あたりこっちでしといてあげようか」 「いいですねぇ、いっぱいアウティングしときますよ、私」 目を伏せた先輩がもう立ち直ってきた。 「いっぱいって、捏造はダメよ、フェイクニュースって言われちゃうから」 こう言った先輩も自分で言った後笑い出す。 「でも、フェイクだって言う人がいないと、全部ほんとのことになっちゃうんでしょ? 怖いね、ネットって」 最後に松本さんがそう言うと、五人は通路に消えました。  五人が見えなくなって私は、途中から私の腕を引っ張って座らせようとしていた中川さんに従って座りました。 「放っときなさいって、勝てっこないんだから」 中川さんがそう言います。和田さんも泣きそうな顔で私を見て、中川さんの言葉に頷いています。 「さ、気にせず食べよ」 そして中川さんはそう言うと、自分から食べ始めます。和田さんがそれに続きました。 「すみませんでした」 私はお箸を手に取ってから二人にそう言いました。そして、自分のせいで二人まで、特に中川さんまで、先輩たちの攻撃対象にしてしまっていることをさらに謝ろうとしました。でも中川さんの話で出来ませんでした。 「はいはい、それはもういいから。それより、和田さん、これ何なの、どう言うこと?」 そう言って中川さんは、持っていた紙をテーブルの真ん中に置いて見せます。『メンテナンス事業部 業務課統合に伴う退職希望者』と書かれたその紙は名簿でした。五名の入社年度、所属、氏名が並んでいます。その一番下に、和田夏南、とありました。 「えっ、そんなのあるの?」 和田さんも少し驚いています。でも、名前があることにではなく、名簿があることにのようです。 「今日公表だから、昼休憩終わった頃に掲示板に貼っといてくれって、さっき係長から渡されたの。で、何なのこれ、希望者ってどういうこと?」 「うん、私は言葉通り希望したの。居辛くなっちゃったし」 「居辛くって、そんなの今だ……」 「違うの、私がもうここにいたくないの」 珍しく和田さんが少し声を大きくして、中川さんの言葉を遮りました。私はその和田さんの気持ちを聞いていたので驚きません。統廃合をご両親を納得させる退職理由にしたんだな、と思っただけ。 「なんで? ほんとに?」 「うん、ごめんね」 中川さんはテーブルの上の紙に目を置いたまま黙ります。和田さんの気持ちを考えているんだと思う。その和田さんは食べ始めました。そして、 「二人は食べないの? 時間なくなっちゃうよ」 そう言います。会社を辞めると決めて強くなったかな。  私と中川さんもそう言われて食べ始めました。そしてしばらくすると中川さんが口を開きます。 「これ、ほんとに全員希望者なの?」 私もそれは聞きたかったです。一番上に気になる人の名前があったから。 「うん、内緒だけど、私とAグループの二人は希望者みたい」 和田さんがそう答えます。と言うことは、私が気になった人は希望したんだ。なぜなら、上から二人がAグループの人だから。 「となると、残りの二人は辞めさせられるってこと?」 中川さんがまた質問します。 「う~ん、私が課長に話に行ったときは、希望者は今のところAグループから二人だけって。だからそのあと希望したのかも知れないけど」 残りの二人も先輩社員です。しかも一人は十年くらい上の人。でも二人とも、こう言っては申し訳ない限りだけど、戦力外と思われてもしょうがない仕事ぶり。なので希望ではなくて肩を叩かれたのかも。でも、公正に戦力外の人を選ぶ投票を、忖度なしに業務課で行えば、おそらくトップは松本さんと同期の取り巻き先輩の一人。そして次席は松本さんだと思う。ついでに三番目は取り巻きの中で最年少の先輩。この三人はぶっちぎりで当選、そして少し離されて続くのがさっきの二人だと思う。となると、この三人を差し置いて二人の名前があるってことは、希望したと考えるべきなのかも、腑に落ちないけど。 「う~ん、昨日の面談で聞かれたでしょ? ここだけの話にするからって。私、悪いとは思ったけど、松本さんたちの名前を出したんだけどな。関係なかったんだ」 中川さんがそう言いだしました。私には何のことか分からない。 「なんですか? それ」 なので聞きました。 「あ、高橋さんは面談なかったんだっけ。あのね、ま、本題は例のメールの犯人に心当たりはないかってやつだったの。それと、ネットの書き込みしてる人を知らないか? ってのと。で、そう言う話が終わってから、統廃合の人員整理のことで参考にしたいから教えて欲しいって言われたの。仕事が出来ないとかじゃなくて、仕事上、明らかにマイナスになってる人はいないかって。だからそう言ったの」 中川さんの説明に和田さんも頷いていました。その和田さん、私と目が合うと、 「あ、私もおんなじ。悪いとは思ったけど」 と言ってから目を伏せて食事を続けました。  お昼の休憩が終わるころ、テーブルの上を片付けていたら課長が戻ってきました、慌てた様子で。業務課内を見回して、すでに戻って来ていた係長を見つけると、その名を呼びながら係長に駆け寄ります。そして何か二人でひそひそと言葉を交わしたかと思うと、係長が立ち上がってこちらにやってきます、やはり慌てた感じで。そして私たちのいる打ち合わせブースまで来ると、 「中川、さっきの紙、もう貼ったか?」 と、中川さんに聞きます。 「いえ、今から貼りに行こうかと」 中川さんはそう言って、手に持っていた紙を係長に見せます。 「おお、そこにあったか、それ、もういい、返してくれ」 そう言って中川さんの手から取り上げます。 「えっ、貼らなくていいんですか?」 「ああいい、ちょっと変わるから。あ、誰にも言うなよ」 よく口を滑らせる係長。変わると言うのは言ってはいけないことだったのかも。私と和田さんも睨まれてそう言われました。  私の耳に入る私に関する話は、松本さんたちからだけではありません。午後になって電話が減ると適当に暇になってきます。そうなると数人のグループで固まってのおしゃべりが始まります。その話題の中に登場しているのが聞こえてきたりします。どうやら話題のソースは例の板の内容のようです。身に覚えのないとんでもないことが書き込まれているみたい。気になるけど見たくない。昨日タブレットで見せられた内容だけで、充分心臓が止まりそうなほどショックでした。今聞こえてくる内容は、さらに酷いことを言われていると想像できるもの。見たら、心臓が止まることはないだろうけど、立ち直れないくらいどこかに沈んでしまいそう。でも幸いなのは、この立ち話グループの話には悪意が感じられないこと。単なるタイムリーな話題で話しているのが聞こえてくるだけってところです。  でも夕方になったころ、悪意だけをわざわざ浴びせに来る立ち話グループが現れました、ご存知の松本一座。私の席の後ろ辺りで三文芝居が始まる。 「ねえねえ、もう見た? 学生時代からすごかったみたいよ」 「ああ、見ました私も。でもあの子ってお嬢様学校でしたよね、ほんとのことなんですかね?」 「お嬢様って言ってもピンキリなのよ。特にあの手の学校は水商売やってる親が、娘が変な目で見られないようにって入れたりするから」 「そうなんですか」 「ねえ、何の話?」 「まだ見てないんですか? なんかあの子大学の時、毎晩クラブで男あさってたらしいですよ」 「しかも、気に入った男がいたらその場でトイレに連れ込んでやってたって」 なんかドラマかなんかで出て来た設定に当てはめて話してるでしょ、って、突っ込んでやりたい。でもクラブってのはどこから出て来たんだろう、毎日のように行ってたのは間違いじゃない、ただし、従業員としてだけど。先輩に誘われて三年の時に、時給がいいから行ってました。でも三か月でクビになりました。男性のお客さんに手を出していたから、ではないですよ。終電に間に合うように十一時過ぎでいつもお店を出てました、それでいいって面接で言われたから。でも二か月ほど経った頃、お店は明け方までやっているので、始発で帰るようにしてくれと言われました。断りました。すると、閉店まで入ってくれる子はほかにいくらでもいるから、私はいらないと。でも、クラブでバイトしてたのは友人の中でも数人しか知らないこと。そして短期間。どこからそんな話が出てくるんだろう。ネットって本当に怖い。 「ああ、何だ、そんなことか」 「ええ! 驚かないんですか?」 「だって、そんなの想像できるじゃん。あの子いつもアレ臭いもん。あの子の周り、イカでも落ちてる? って、思っちゃうもんね」 「ああ確かに、栗の花の季節だっけ? って思うときもある」 ねえねえ、誰も聞いてないんですけど、いつまで続くんですか? と、周りを窺ったら、みんな結構真に受けたように私を見て囁き合ってます。ほんと、汚いものを見るような目の人もいる。男の人の笑みはなんだか嫌な感じだし。噓でしょ、こんなお約束みたいな話を信じないでよ。  すると目の前で声がしました。 「松本さん、そろそろやめなさい」 顔を上げると机の向こうに二村さんがいました。 「や、やめるって、何をですか?」 お局級の松本さんではあるけれど、二村さんはさらに数年先輩です。さすがに丁寧な言葉になりました。 「そう言う話を職場でしないようにって、何度も通達が出てるよね」 「ダメな話してました?」 「別に私はいいんだけど、業務課でこの手の話が続いてるとなると、課長が責任問われることになるんじゃないの?」 「えっ、何言ってるんですか」 「あなたが課長の立場、悪くなるようなことしていいの?」 二村さんすごい、松本さんを脅してる。そしてこの一連の会話、二村さんとは思えない大きな声で続いています。 「だ、だから何言ってるんですか」 「松本さん、石田さんに相手してもらえなかったからって、八つ当たりするのはそろそろやめなさい。課長にも相手にされなくなるわよ」 さすがにこのセリフは、松本さんにやっと届く程度の音量でした。でも私を含めて周辺の人には聞こえていました。みんなが松本さんを見ます、私も。真っ青、いえ、真っ白でした。そして立ちつくしていました。 「おい二村、何騒いでるんだ」 係長の声がして、みんなそっちを見ます。係長の後ろの席の課長は、液晶モニターに隠れて見えませんでした。 「すみません」 二村さんはそう言って係長に頭を下げると自分の席に向かいます。振り返ると、松本一座はもういませんでした。  今日は夜勤でした。憂鬱でした。なぜならあんまり親しくないAグループの男性の先輩とだったから。今の私にはとても気まずい、向こうもだろうけど。  午後六時前、いつものコンビニへ先に夜食の買い出しに出ました。洋風幕の内ガーリックチキンと迷いながら、冷やしとんこつラーメンに決定。レジでフライドチキンを追加で頼もう。そして百円スナックコーナーへ。どうしても手が出ちゃうひねり揚げを取ってから、もう一品迷っていると声を掛けられました。 「じゃあ私はチョコチップクッキーにするから分け分けしよ」 振り向くと、ロコモコ弁当の上にエクレアを載せて持つ二村さんがいました。 「あ、お疲れ様です。分け分けOKです。って、あれ? 二村さんなんで?」 「うん? 夜勤だよ。一緒になるの久しぶりだね」 「え? 今日、二村さんでしたっけ?」 「ああ、誰か代わってとか言ってたから、シフト見たらもう一人が高橋さんだったから代わってあげたの」 「そうですか、嬉しいです」 二村さんが一緒と言うのは本当に嬉しいです。でも、シフトを見て私だったからって言うのは、何か私に話でもあるのかな。私も二村さんに話があったからちょうどいいけど。二村さんのエクレアに刺激されて、ダブルクリームシューを手に取ってからレジに行きました。  今日はみんなの帰って行く足が早かったです。七時ころにはもう数人ほどしか残業の人はいませんでした。その時点で二村さんが仕事道具を一式を持って私の隣の席に来ました。そして隣の席のパソコンで電話を受け始めます。前にも言いましたが、二村さんは好きな先輩ですがそれほど親しいわけではありません。なので隣にやって来て、夜勤とは言え並んで仕事するなんて初めてのことです。嫌なわけはありませんが、少し戸惑っていました。  電話が完全に途切れたのは九時頃でした。湯沸し室の電子レンジで二村さんはロコモコのお弁当を、私はフライドチキンを温めます。私は温めている間に、冷蔵庫に入れてあった冷やしとんこつラーメンの準備も。そして席に戻ってから二人で食べ始めました。  メンテ課の今夜の当番は課長でした。私たちが食べ始めたころ傍に来て、自分も買い出しに行ってくるのでしばらく頼む、と言って出て行きました。 「あの、夕方はありがとうございました」 メンテ課の課長の姿がなくなってから、二村さんにそう話し掛けました。 「うん? ああ、松本さんたちしつこいね、ほんと」 「まあ、しばらく耐えるしかないですから」 二人とも食事しながら話してます。 「そうだけど、高橋さん強いね」 「そんなことないですよ。結構みんなと目を合わせるのが怖くなってますから」 「そっか、そうだよね」 「はい」 「私もそうだったな、周りの目が怖かった」 「え?」 「聞いたんでしょ? 私もだって、なーちゃんから」 「あ、……はい」 私の手は遅くなりました。 「なんでか知らないけど、女の方がやらしいってことになっちゃうのよね、いつも」 「……」 「おんなじ女の先輩や同僚からもそう見られて、そう言うことを言われるの」 「……」 「私ねぇ、最初の騒ぎのあと、三人から声掛けられたの、やらせろって」 「ええ?」 平然と二村さんは食べ続けていますが、私の手は完全に止まっちゃいました。 「あっ、当然そんなダイレクトには言われてないわよ。帰りに待ち伏せされて、食事行こうとかって声掛けられるだけ」 「はあ」 そう言って私もまた食事の手を動かしました。 「でもその時会社ではね、私は食事OKしたらホテルまでOKだって言われてたの。そのタイミングでってことはそう言うことでしょ?」 「はあ……」 そうですね、と、言いそうになりました。 「信じられないのはねぇ、その三人の誘いを断ったってことまで社内で広まったの。で、石田さんって背が高くてカッコ良かったから、私はそう言う人じゃないと相手しないんだって、今度はそう言われ始めたの」 「……」 「そしたらね、なんてタカピーな女なんだって、おんなじ女性から言われるようになったの」 「え?」 「あ、タカピーが分からなかった?」 「いえ、分かります」 妙なところを気にする二村さん。 「そ、でね、私、その時本当に腹が立ったの」 「……」 「誰かが何か言うと、みんなすぐそっちに話がいっちゃう。普段はそんなことないのに、何かみんなで同じ方向いて言いやすいことがあったら、そう、いじめる相手がいたりしたら、そうなる」 私は夕方のみんなの視線、みんなの表情、態度を思い出しました。思い出して気分が悪くなるのを感じました。 「それで私は決めたの、この人達と同じにならない、この人達に混ざらないって。だからそれからみんなを拒否してきたの」 「……」 「ま、なーちゃんは別だけどね」 しゃべりながら二村さんは食べ終えてました。なので、私が食べ終わるのを待つって感じで話し続けてくれます。 「でもね、今の私の地味なキャラ、なーちゃんがそう言うんだけどね、これは楽だったからいいんだけど、楽しくはなかったの、会社で。特に、なーちゃん以外に親しい人はいないってスタイルが定着しちゃったから、人数がいない夜勤なんかで親しく接して来られたりしたとき困ったの。だから夜勤を避けるようになったんだけどね」 二村さんから感じていた壁みたいなものはこれだったんだ。 「でね、なんでこんな話をしてるのかって言うと、似てると思うのよ、高橋さんと地味キャラになる前の私。自分で言うのも変だけど、私も元々は高橋さんみたいに、明るくハキハキテキパキってタイプだったの」 ハキハキテキパキ……、新しい言葉だ。 「だからね、今回のことで高橋さんが以前の私みたいに、変な達観しちゃって、地味キャラとかになったらいけないなと思ったの」 「それで夕方、助けてくれたんですか?」 私も食べ終えていました。そしてそう聞いてました。 「う~ん、あれはまあ、なんて言うか、松本さんに腹が立ったから。私もこれまで松本さんにいじめられてたのよ。だから高橋さん庇うふりして逆襲したの」 「そうだったんですか。なんだか二村さんっぽくない雰囲気だったからびっくりしました」 「そう? 私って元々はああいうこと言っちゃう人だったのよ。高橋さんに似てない?」 そう言って微笑む二村さん。私ってああいうこと言うかなぁ、……うん、頭に来たら言うかも。 「そうですかねぇ」 でもそう返しました。 「あ~、良い子になろうとしてる」 「違いますよ」 二村さんは食べ終えた容器などを、ビニール袋に片付けながら続けます。 「私ね、今回の高橋さんや和田さん、それにあなたたち二人と同じところに立って、みんなと向き合ってる中川さんを見てね、私もあなたたちの側に立ちたいなって思ったの。でもそれは地味キャラの私じゃダメ。だから以前の私を思い出そうとしてるの」 私も二村さんに倣って食事の後を片付けながらそれを聞いて、聞いてみたかったことを聞きました。 「でも、会社辞めるんですよね、二村さん」 二村さんが少しだけ驚いた顔で私を見ます。 「え、知ってるの?」 「はい、今日掲示予定だった統廃合での退職希望者って紙を見ました」 その紙に書かれた五名の、一番上にあったのが二村さんの名前でした。 「そんなのわざわざ掲示するんだ」 「みたいですね」 そう言うと二村さんが体ごと右を向いて私を見ました。 「ちょっとね、もううんざりなの。何年経ってもおんなじことばっかりだから、この会社。だから希望退職に手を上げたの」 「どういうことですか?」 私も二村さんの方を見ました。 「話題になってるネットの掲示板、見てない?」 「見てないです」 「そっか、私も見なければよかったかな」 「え、なんか二村さんも書かれてるんですか?」 「うん、私の話なんてもう十年も前のことなのに、いまだに掘り返されてる。それも、二村の男好きはまだ治ってないとかって、最近のことまで書かれてる」 二村さんはそう言いながら体を机の方に戻します。 「最近?」 「うん、何もないのよ。でもね、一人でライブハウスみたいなところに飲みに行ってるのを、男をあさりに行ってるんだって、さも実際にあったみたいなことを並べ立ててあるの」 「実際にあったみたいって、実際のことじゃないってことですよね、ひどい」 「ま、私のことが書かれ出してすぐに和田さんの騒ぎになったから、今回は少しだけどね」 「……」 「書き込んでるのは多分この人だって分かってるから、私もそこで反撃しようかと思ったけど、わざわざそんなことのためにアカウント作ってってバカみたいだからやめた。それにその子は純粋で弱い子なのよ、だからいつまでたっても許せないからそんなことするのよね」 「それって、……松本さんのことですか?」 「……、さあ、誰でしょ?」 そう言って、また微笑んで私を見ました。 「でも、それで二村さんが会社辞めて出て行くって、なんか負けたみたいで悔しくないですか?」 「勝ち負けじゃないよ。ここにいると、いつまでもバカな人たちのバカな世界に付き合わされそうだから、出て行くってだけ。十年以上付き合ったんだからもう十分でしょ?」 「そうですか」 「それに今日、直接仕返ししちゃったし」 「え?」 「あの子弱いから、今日のことで会社辞めなきゃいいけど」 それって、やっぱり松本さんのことだよね。あの人があれくらいで会社辞める? 弱い? そんなこと、って思いましたが、二村さんに言われた後の蒼白な顔を思い出すと、ほんとにそうなのかもと思いました。ほんとに明日から会社に来ないような風にも感じました。  二村さんがゴミを持って席を立ったので、私も自分のゴミを持って湯沸し室に追いかけました。  一般社員には決して明かされることのない、この日の会社の舞台裏。  午前中、業務課長から希望退職者の一覧を、社内連絡の書式で書面にするように指示を受けた業務課Bグループの係長は、指示通りにその書面を作りました。二部印刷して業務課長に見せます。業務課長はサッと目を通してOKを出すと、お昼以降に一部を掲示して、もう一部はメンテ事業部の総務課に出しておくようにと指示をしました。  係長はお昼前に自分の席の近くにいた部下を呼び寄せ(中川良美)、お昼休みが終わったらこれを業務課通路の掲示板に貼っておくようにと、掲示用の一部を渡します。そして自分は3階のメンテ部総務課にもう一部を提出に行きました。  メンテ部総務課は業務課長権限の人事事案なので関わらないこととし、そのまますぐに6階の本社総務部に回します。それを受け取った本社総務部の係長は、総務部長が指揮を執って行った業務課スタッフの面談、勤務査定から作成した、整理対象者の候補の名前がその書面にないことに気付き、すぐに総務部長に確認しました。報告を受けた本社総務の渡辺部長はすぐにメンテ部業務課長を呼び出します。でも昼食に出てしまっていた業務課長はすぐにつかまらない。  十二時過ぎ、再三掛かってくる電話を無視し続けることが出来なくなった業務課長が電話に出ると、渡辺部長から至急会議室に来るようにと言われ、注文済みの昼食を諦めて会社に戻りました。  指定された会議室に入ると、渡辺部長のほか本社総務の人間数人と、メンテ部本部長、メンテ部総務課長までが揃っていました。そして業務課長が作成した退職者名簿の五名のうち、二名は希望者ではなく、業務課長が選出して本人たちを説得したものだと聞いたが、それで間違いないかと、二人の部長から追及される。業務課長は総務課長がバラしたんだと彼を睨むがもう言い訳は出来そうにない、認めました。  すると渡辺部長がパソコン上で確認できる業務課スタッフ各々の業務内容、仕事量の数値的なデータと、先の面談で聴取した内容との総合判断で、退職を促すのはその二人ではなくこの三人だと、本社総務作成のリストを見せる。そしてさらに、その三人は職場内で問題がありすぎる上にほとんど仕事をしていない。今回のような人員整理の動きがなくとも勤務内容を注意指導して、改善がないのであればすでに整理されている人材だと指摘。それをしていなかった業務課長の責任も重いと言い渡す。  渡辺部長の結論は、退社を促された二人とは本社総務部で面談して、残留の意思があるなら残ってもらう。そして、その二人の残留、退社の結果に関わらず、先のリストの三人は業務課長の責任で退社を促し、納得させたうえで退社させるように、とのことでした。  業務課長はそれでは最大で八人の人員減になるので、今後のシフトに問題が出ると抵抗。それに対して渡辺部長はそれでもかまわない、人員は早急になんとかすると返答。それまでは業務課長自信が率先して空きの出る休日夜間のシフトに入って対処するようにと、業務課長がこの二年ほどそのシフトにほとんど就いていないことを指摘したうえでそう指示をしました。  そしてまた、退職希望者の三人は本来辞めてもらっては困る優秀なスタッフ、この三人には待遇面で何か融通をつけてでも残ってもらえないかと、本社総務で一度説得してみると言いました。業務課長はもう従うしかありませんでした。彼は慌てて一階の業務課に戻り、Bグループ係長に掲示の中止を指示しました。  八月二日 水曜日。二村さんと初めてたっぷりおしゃべりした夜勤明け、帰宅後はお昼過ぎまで寝てました。遅い昼食を食べながら、ノートパソコンで例の板を開きました。二村さんがどんなことを書かれていたのか見ようと思って。でも、出来ませんでした。膨大な書き込みに埋もれて探せません。故に、最近の書き込みに目を通してしまいました、が、読まなければよかった。  単なる中傷ではなく、具体的な事例を挙げているものが結構あります。それも挙げられた事例の一部は事実だったりすることがあるので、読んでる私自身が身に覚えがあるような気になってしまう。でも、事実とは大きく違う面白話に仕上げられた酷い内容ばかり。  読み進めながら考えました、これを当事者ではなく会社の同僚のことだと、傍観者の立場で読んだらどうだろうかと。半分とは言わなくとも、三分の一くらいは本当のことかも、と、思うかも知れない。そのぐらい具体的な状況の説明があるものが多い、本当に手が込んでいます。そして思わず読み入って、想像してしまうくらい詳細に書かれた情事の内容など……。私の部屋の中が何気に描写されているものがありました、これの書き手は私の部屋に来たことがある人? 恐ろしい。  どっちにしろ、三分の一信じただけで、私は一晩男がいないと発狂してしまうくらいの淫乱女。そして情事に臨めばすぐにAV界でトップ女優にでもなれそうなくらいの艶姿、こんな文脈で使うなら醜態とすべきかな。  最近の書き込みが本当に酷かったです。これが私だと特定されたら、もう一歩も外に出れないです。私でもここに書かれた人物がこの人だと分かれば、この人があんなすごいことするんだ、と、見てしまうと思う。真実なんて関係ない、絶対にそう見てしまう。そう考えると本当に恥ずかしい。  そんなことを思いながら、書かれ始めはどんな感じだったのかと、日付を遡りました。……やるんじゃなかった、自分の笑顔を見つけてしまいました。写真が貼られています。でもその写真は一年以上前からネット上に公開されている写真。会社のホームページの会社案内の中で使われているもの。そう、業務課を紹介する部分の写真の一枚は私が写っているものでした。それが転用されていました、これが高橋梨沙だ! ってコメント付きで。……最悪。  しばらく呆然としていました。どうしよう、などと考えていましたが、どうしようと思うだけで、何をどうしようとかとは考えていませんでした。だって、何も考えられない、ただどうしようって思うだけ。すると、画面が勝手に更新され、最新の書き込みが表示されました。思わず読んでしまいます、が、単なる中傷の書き込み。こんなのどうでもいい。と思っていたら数個前の書き込みに目が留まりました。  九時過ぎの書き込み。私がメンテ課の課長と一緒に帰ったことが書かれています。これは事実、同じ方向の電車に乗るんだからこう言うこともあります。でもそこから私たちは関係があると言う内容になります。今から私の部屋で夜勤の最後の業務をベッドの上でこなすのだと。そしてその根拠は、休日出勤の時はいつも一緒に出退勤している。課長の車の助手席に座る私を何度も目撃していると。  一部事実です。メンテ課の課長は休日日勤の時、マイカーで出勤してきます。課長の自宅は日進市。私の家に寄ると少し寄り道にはなりますが通り道ではあります。なので、帰りに送ってもらったことは何度もあります。だから休日出勤の時いつもって言うのと、出勤の時って言うのは嘘ですが、退勤の時助手席にいたと言うのは本当のこと。でも、同じ方向の他の人が一緒に乗っていた時もあるのに。  ただ、事実の部分があると言うことは見ていた人ってこと。この書き込みも会社の人ってことだよね、今朝のことも書いてあるし。書き込みは九時過ぎになっている、仕事が始まってから書き込んだってことだ。  八月三日 木曜日。ほぼ毎朝バス停で一緒になる男性が私をチラチラ見ている気がする。いつもはそんなことなかったと思うのに。ひょっとしたらこの人、あの板を見た? それで私のことを……。  いつも半分も座席が埋まっていないバスに乗ります。今日も同じ。でも私が乗り込んでいくと何人かが私の方を見ます。今までそんなことなかったと思う、ひょっとして……。そして小さくなって座っていましたが、停留所で人が乗ってくるたびに視線が気になる。ひそひそおしゃべりしている人の話が無性に気になる。ひょっとして……。  駅に着いて人目が一気に増えるともう……、帰りたくなりました。でもなんとか電車に乗って会社まで来ました。出勤だけで一日分以上の体力を使った気がします。でも、更衣室に入るとさらに消耗しました。なんで? みんなの視線が、態度が、雰囲気が違う。  更衣室の奥で二村さんの姿を見つけてなんだかほっとしました。着替えを終えた二村さんがこっちに来ました。 「おはようございます」 「おはよ」 「あの、二村さん」 挨拶を返してくれた二村さんに話し掛けようとしたらこう言われました。 「ごめんなさい、着替えたら6階の総務に来るように言われてて、ごめんね」 そして更衣室から出て行ってしまいました。6階の総務、本社総務ってこと? 何があるんだろう。  更衣室には中川さん、和田さんの姿はなし。寂しいなと思っていたら思い出しました。中川さんは確か今日は代休で休み。和田さんは昨夜、夜勤だったはず。1階にはまだいるだろうけど、入れ違いで帰ってしまう、今日は一人で昼食か。そう思ったら社内で食べるのが嫌になりました、外食にしよう。1階に降りても入り口横のお弁当の注文書は無視して事務所に入りました。  今日は事務所に入るなり攻撃されました。してきたのは一座の最年少の先輩。 「今日、中川さんは代休で休みみたいね」 「おはようございます。そうみたいですね」 先輩は挨拶抜きだったけど、私は挨拶してから答えました。 「高橋さんはなんで代休取らないの? 全部休日出勤の手当てでもらってるでしょ」 「それは……」 代休取らせてもらえないからです、と、言おうとしたけど言えませんでした。 「そこまでしてホストクラブ行きたいの?」 先にこう言われたから。ホストクラブ? また新しい話が出て来た。例の板にそう言う書き込みでもされたのかな?   私はもう返事しませんでした。そのあとは無視して自分の席へ。先輩の方もそれ以上は追っかけてきませんでした。  自分の席で和田さんの姿を探していたら、目の前に課長が来て視界が遮られました。 「高橋、ちょっと来い」 課長はそう言うと自分の席の方へ行きます。 「はい、おはようございます」 私はそう言って向かいました。課長は自分の席でファイルを一冊手にすると、そのまま席の後ろの小会議室に入ります。私も続いて入りました。その場にいたみんなが私の方を見ていました。  入るなり座るように言われたので、課長の向かいに座りました。課長はテーブルの上にファイルを置くと開きます。開くとA4サイズの紙数枚をホッチキスでとめた物が数十部以上ありました。その束を私の方に差し出して、 「これ、この三か月でお前が処理した電話案件の中で、最初の電話受付がお前じゃないものだ」 と言います。一番上の物を見ると、業務課でクレーム、故障などを受付した時に入力していくパソコンの画面をプリントしたものでした。そこには処理した経緯順に内容が入力されています。確かに一番最初に記載されている電話受付日時の欄にある受付者の所には、私ではない人の社員記号が入っています。それは電話を取った人が私に処理を頼んできたので、その頼んできた人の記号を私が入力したものです。ちなみに今見ている書類のその記号は、松本さんと同期の例の先輩の記号でした。そしてその後の応対欄や対処欄、処理欄には私の社員記号が入っています。私が最後まで処理したので当然そう入力しています。  二件目、三件目と、順番に表紙だけ見て行きました。三か月前からの古い順に積んであるようです。そしてどれも最初に見た一件目と同じで受付者は他の人の記号で、それ以外は私の記号でした。五件目くらいまで表紙をみて、これが何なのかと思っていたら課長が口を開きます。 「それ、全部お前が処理したみたいになってるけど、実際は電話取ったやつがお前のパソコンで入力したからお前になってるだけだろ」 何言ってるんでしょう、この人は。そんなことあるわけない。各自自分の席にパソコンがあるのに、なんでわざわざ人の席で入力するのでしょう。それに、私の席のパソコンで入力しても、自動的に私の社員記号が入るわけではありません、自分で入力するのです。わざわざ人の記号を入力したって言うのかしら。課長、ここのシステム分かってます?  同様のことを他の人が頼まれたら、電話受付欄にも自分の記号を入力する人がほとんどだと思う。なぜなら、他人の社員記号なんて覚えていない、なのでそれを入力しようと思ったら調べないといけないので面倒だから。 「いえ、そんなことないですよ」 当然私は否定しました。 「ほんとにそう言い切れるか?」 「はい」 「絶対だな、絶対に間違いないって言いきるんだな?」 何なんだろ、これ。なんか私が不正でもしてるって言いたいのかな。でも本当のことなんだからこう言うしかありません。 「はい、今見た分は私が対応したもので間違いありません」 そう言うと、私の目の前にある書類の束をしばらく見てから課長はこう言います。 「と言うことは、違うものもあるかもしれないってことだな」 「えっと、見れば対応したものは大体覚えてますから、これ全部確認しましょうか」 私はそう言って次の書類を見ようとしました。すると課長が、 「いやいい、……そうだな、その三分の二くらいは違うってことにしないか?」 と言います。意味が分からない。ほんとに何を言ってるんだろう。 「違うって、見たらすぐにわかるんでちょっとだけ待ってください」 私は急いで表紙だけまた目を通していきました。でも課長に止められます。 「待て待て、やめろって言っただろ」 さらに十数件分見て手を止めました。それまでのものと同様でした。そして、電話受付欄の社員記号は三人の物でした。松本一座の三人。なんか嫌な思惑が漂っているのを感じました。  私が手を止めてから課長はしばらく無言でした、が、やがてこう言います。 「高橋、悪いようにはしないから、これらの案件は処理担当の社員記号を間違って入力してしまいました、って、ちょっと一筆書いてくれ」 「はい?」 「いいからそうしろ」 「間違ってって、誰と間違ったことにするんですか?」 「だから、電話受付した奴が処理もしたってことにするんだよ」 あの三人、なんかあるの? 人事評価がやばいとか? 実際、あの三人の処理実績なんてパソコンで集計したら月に数件もない。そんなの業務課の人間ならみんな知っていること。逆らえないから何も言わないだけで、みんな仕事上では迷惑がっている。なんでクビにならないの? って、みんな思っている。その三人の実績を作りたいってことなの?  なんかとてつもなく頭に来ました。この課長、浮気相手をここまでして手放したくないのかって。でも、頭にきて拒否しなくても、そんなことは無理だと課長を納得させることのできる説明が出来ました。 「あの、課長、ここにある処理案件、ほとんどメンテ課で当日なり後日対応しているものなので、こっちの記録だけ間違ってましたって言ってもバレますよ」 「な、なんで、どういうこと?」 課長が慌てました。 「この対応シート、最初に何か入力した時点で案件番号が自動的に付くんです。で、その番号はメンテ課の入力画面にも連動してるんで、メンテ課がその案件に対して何かしたことは向こうの画面で入力します。例えば私が何か相談なり、問い合わせをしたらその時点で、誰からの問い合わせかが入力されてます、つまり私の記号が。で、何か対応の指示、故障部品の取り換えとかを指示したら、その指示が誰からだったかも当然入力されてますし、その部品を発注したのが誰かも記録で残ってます。だから、訂正するならそれらすべてやらないと辻褄が合わないんで、バレると言うか、おかしいことになりますよ」 課長の手がゆっくり伸びて来て、書類を上から何部か取りました。そして中身をじっくり見ていきます。 「この、メンテ課に確認とか、指示とか、依頼とか、こういうのが全部メンテ課側でも入力されてるのか?」 そしてそう聞いてきます。この人、ここの責任者なんだけど、知らなかったの? 「そうですよ」 「なんでそんな重複して入力するようになってるんだ」 「それは、なにかトラブルが起こったときに、どの時点で誰がミスしたのかわかるようにじゃないですか?」 「それにしても、各部署で同じものを作ってるって、無駄なことだよな」 「ミスを隠そうとする人がいても、簡単に出来ないようにじゃないですか?」 睨まれました、そしてしばらく無言の時間となりました。課長は順番に書類に目を通していってます。そして十数件分目を通した後、書類をまとめると私を見ます。 「高橋はどうしても協力出来ないって言うんだな?」 何に協力しろって言うんだろう。それに、 「いえ、その、さっき課長が言った一筆って言うのを私が書いたら、書類の辻褄が合わなくなるので、別のことで怒られません? それでもやるんですか?」 そう思ったのでそう言いました。また課長と無言のにらめっこになりました。でもほんのしばらくで課長が不機嫌そうにこう言います。 「分かった、もういい。戻っていいぞ」 私は会議室を出て席に戻りました。  席について仕事を始めてしばらくすると、A、B両グループの係長が小会議室に入って行きました。課長に呼ばれたのでしょう。ほんとに何をする気なんだろ。いや、何をする気なのかは想像がつくんだけど、無理だって。  お昼を食べに行ったお店が会社の裏側の方だったので、裏の駐車場から戻りました。するとシャッター脇の喫煙所の所の自販機に、二村さんと長縄さんがいました。もう午後の始業時間間際だったのでほとんど話せませんでしたが、今朝二村さんが本社総務に呼ばれた理由は聞けました。二村さんは退職を思い止まってくれないかと、引き留められたとのことでした。でも二村さんはその話を断って、九月末での退職が決まったようです。また、和田さんともう一人の退職希望者も同様の話が昨日あったようですが、どちらも断って退職することが決まったようです。  昼からの業務が始まると、松本一座の三人が席にいません。周りの話に耳を傾けていたら、どうやら昼休み中に課長に呼ばれて、今朝私が入った会議室にいるようでした。  三人抜けているのは分かるんだけど、それ以外にも席にいない人が目立つ午後でした。何を言いたいかと言うと、電話を取る人数が少なくて忙しかったと言うことです。一時間以上我慢していたトイレに行って戻ってきたのは四時過ぎでした。湯沸し室では席にいないと思った何人かがずっとおしゃべり中。 「なんか、高橋さんが仕組んだみたいよ」 とかって一瞬聞こえた。ズキンと胸が痛んだけど、もう何でも好きに言って。でも仕事はしてくださいよ。  ムカムカしながら席についてから取った電話の処理をしていたら、会議室から三人と、課長、係長たちが出てきました。ずっといたんだ、と思いながら見ていたら、松本さんたち三人が私の方へ向かってきます。私の机の並びと、後ろのキャビネットとの間の通路を、右側からこちらに向かってきます。でも、事務所の出入り口も、トイレや湯沸し室への通路入り口も、こっち側にあるので気にしていませんでした。私は画面に目を戻し、入力作業を続けます。松本さんがこちらに向かって歩きながら、闇の中を行くような目で私を睨んでいたことに気付かずに。  何が起こったのか分かりませんでした、衝撃で体が右前方に。手で支えなかったら机にキスしてた。そして首が痛い、頭の左側も痛い、なんだかフラつく、涙も出てる。左側を振り返ると、後ろを通り過ぎたはずの松本さんがいました。電材メーカーの分厚い業務カタログを手に持っています。えっ、まさかあれで殴られたの? そう思っていたら、 「あんたってほんとに卑怯な女ね。そんなに自分がかわいいの?」 そう言われました、何のことか分からないけど。 「あんたの小細工のせいで私達クビよ。満足? 私達を追い出せて満足?」 クビ? 小細工? 今朝の課長の話のこと? でもあんなこと出来るわけないし、やっても無駄。それに小細工でも何でもない、あの書類は事実よ。 「許さない、このクソ女」 松本さんが一歩踏み出してカタログを振り下ろして来る。私は両手をかざして防ぎます。でも重たいカタログの勢いは止めきれない。腕にも頭にも衝撃が来ます。 「あんたこそ会社の害なのよ、あんたが辞めなさいよ」 松本さんがそんなことを言いながら何度もカタログで殴ってくる。 「やめてください」 私は椅子に座ったまま机に半分伏せるような格好で、腕を頭と松本さんの間に出しているだけ。  左肩に激痛が来ました。カタログの角が当たったみたい。一瞬呼吸が止まりました。 「たっ(痛)!」 私の思考能力がなくなりました。目の前の19型液晶モニターを両手で掴んでいました。それを松本さんに投げつけていました。  投げつけたけれど松本さんには届かない。コードが邪魔して液晶モニターは私の手を離れた瞬間に失速、床に落ちました。コードに引っ張られたパソコンも机の前端まで来て、落ちる寸前でひっくり返っている、それだけ。  でもそれは、予想外の大事故となりました。モニターを投げつけるなんてこと自体考えもせずにやったことなんだから、何が起こっても予想外なんだけど。  松本さんは私の左側にいました。私がモニターを掴んで投げつけてくると思った瞬間後ろに下がります。そこには左隣の席の後輩、この前まで一緒にお昼を食べていた子がいました。その子とぶつかり、松本さんは後ろのキャビネットの方に転がるように倒れました。  松本さんにぶつかってこられた子は、左側に突き飛ばされた状態になりました。その時、机の左側の引き出しが開いていました。その子の体は引き出しの上に乗ってからキャビネット側に転がる格好になります。引き出しにその子の体重が乗った机は、引き出し側に倒れるかと思うくらい傾きました。倒れはしませんでしたが、机の上の物はほとんど床に落ちました、パソコン等も。  床に落ちた隣の席のパソコンが転がって松本さんの顔に当たる、前に電源コードの長さで止まる。そのあと床に座った姿勢になった松本さん、驚いた顔をしているけど何ともなさそう。そしてその先の倒れた後輩を見ると、彼女も上半身を起こそうとしています。私は近寄って助け起こそうとしました。彼女は本当に巻き込まれただけ、申し訳ない思いだけです。  上半身を起こして床に座った彼女の傍にしゃがむと、彼女が右の掌を上に向けて腕を見ています。彼女の右腕の内側、肘から手首までの間に十数センチの赤い線がありました。スチール製の机の引き出しのどこかに引っ掛けたのでしょう。  彼女の腕の赤い線から血が滲んできました。私は慌てて自分の机の上のティッシュの箱から数枚抜き取ってその傷にあてます。でも間に合わず、彼女の制服に一滴落ちました。辛子色のスカートに鮮やかな赤い模様が描かれました。  でも血が出ているのに彼女が左手でその傷を押さえようとしません。押さえているのは私。彼女は右腕より左手を気にしているようです。そして痛みがあるようで顔をゆがめています。見ると、見てわかるほどに左の手首のあたりが腫れていました、特に小指側が。  係長が病院に行こうと言い、メンテ課の車を借りて彼女をすぐ近くの医療センターに連れて行きました。肩や足を痛そうにしていた松本さんも、課長から一緒に行ってこいと言われて同乗して行きました。  左肩と首に痛みがある私は周りを片付けた後、会議室にまた入れられました。私が一人で暴れたことになっている。課長だけでなく、周りの目もそう言っている。なんだかわけのわからないものに押しつぶされてしまいそうでした。  じっとしていろ、と言われた私はただ座っていました。ただ座っていると罪悪感が襲ってきました。後輩の子に怪我をさせたのは私かも、いや、私だ、私が原因だ。苦しくなってきました。  五時を過ぎてもう六時くらいになったのか、スマホすら持っていない私には時間が分かりませんでした。でも、事務室で人の動きが多くなったのが感じられたのでそう思いました。仕事を終えた人が帰り始めたのでしょう。  事務室が静かになってだいぶ経った気がしますが、私は取り残されたままでした。そして、まさか忘れられてる? なんて思った頃、扉が開きました。そして課長が入ってきました。 「今処置が終わったって連絡があった。松本は背中と足の打撲だけで済んだけど、深田は(後輩の子)左手の小指が折れてたそうだ。右腕の怪我も、怪我自体は大したことないようだけど、あとが残るかも知れないってことだ。もうちょっとしたら戻ってくるからちゃんと謝れよ」 「はい、すみませんでした」 折れてた、の言葉に胸が痛くなりながら、私は椅子から立ち上がって頭を下げました。 「それと、6階の総務の判断で労災扱いになったから、この事故の当事者は全員報告書提出だぞ」 「はい」 「お前は始末書も書けよ。あ、それと、お前はパソコン二台壊した報告書と始末書もいるぞ」 「はい、すみませんでした」 「パソコンは業務上の過失で壊したんじゃなくて、お前が故意に破壊したんだから弁償だぞ」 「……」 何も言い返せなかったです。いっぱい言いたいことはありました。私の言い分も聞いてほしかった。でも言えない。首が痛くて眩暈がしている。吐き気もある。これも労災じゃないの? そしてこれの加害者は松本さんじゃないの? そうも言いたいけど、言えませんでした。松本さんを庇おうとしているこの人に言っても、さらに私が悪者になるだけのような気がして、諦めていました。クビになるかも。そんな予感がしました。  課長が出て行ってまた一人で座っていました。骨折って言ってたけど、酷いのかな? ちゃんと治るのかな? 傷はあとが残るかもって、どうしよう、そんなことになったら。深田さんのことばかり考えていました。  するとまた課長が入ってきました。そして一枚の紙を差し出します。会社の書式ではありませんでしたが、事故報告書となっていました。課長は何も言いませんでしたが手に取って読みました。私が書いたものになっている。書かれていた内容を簡単に言います。  人員整理での退職を告げられた松本さんに、私が心無い一言を言った。退職が決まって不安定だった松本さんが過剰に反応して私に怒鳴り返した。私はそれに激怒して松本さんにパソコンを投げつけた。松本さんはそれをかわすときに深田さんとぶつかり、二人ともそれで転倒した。その際に二人は負傷。私が感情的にならなければ起こらなかった事故。すべて私の責任です。  読み終えて震えていました。ワープロ打ちしたその原稿の一番下にある、自筆署名欄に私の署名はないけれど、私の認印がもう押してある。それを見て課長を見上げ、睨んでしまいました。課長はボールペンを差し出しながらこう言います。 「報告書はそれで出すから署名しろ。それと、パソコンが壊れた報告書も、始末書も、その内容に沿って書け」 頷けるわけがない。 「出来ません。こんなの事実じゃありません」 私は紙をテーブルの上に置いて言いました。 「何が事実じゃないだ。お前のせいで二人が怪我してパソコン二台壊れたのは事実だろ」 「それは松本さんが先に私を叩いてきたからです」 「はあ? お前は叩かれただけでここまで暴れるのか」 「叩かれたって、分厚いカタログで殴られたんです、何度も何度も。私も首が痛くて、眩暈や吐き気もあるんですよ」 「あのなあ、嘘ばっかり言うな。そんな状態のやつがそんだけギャアギャア騒げるか」 「嘘じゃありません」 「ほんとにお前は言うこと聞かんなあ」 はあ、もうおかしくなりそう。この人に何言っても無駄だ。全部私の責任にすることしか考えていないんだ。松本さんは退職することに決まったんでしょ? なのにまだ庇うの? ひょっとして、このことで残留に持って行く気? 信じられない、在り得ると思えるだけで腹が立つ。お前がまず辞めろ! って言いたい。 「報告書は自分で事実を書きます」 でも冷静にそう言いました、テーブルの上の紙を睨みながら。 「事実だぞ、嘘を書くなよ。嘘を書いても俺は受け付けんからな」 「いいです、直接本社総務に提出しますから」 私がそう言うと課長がまた何か言い返そうとしました。でもその時扉が開いて係長が入ってきました。続いて松本さんと深田さんも入ってきます。 「遅くなりました、今戻りました」 係長が課長にそう言っている間に、私は深田さんに駆け寄りました。 「深田さん、ごめんなさい、本当にごめんなさい」 そして謝りました。 「いえ、高橋さんのせいじゃないですから」 両腕に包帯を巻いた姿の深田さんは、そう言ってくれました。すると課長が少し大きな声でこう言います。 「深田、違うだろ、高橋が暴れたからお前が怪我したんだろ」 「えっ、でも高橋さんは……」 「深田、もういい、何も言うな、後はこっちでやるから」 「でも……」 課長はそれ以上深田さんに何も言わせませんでした。  そのあと係長から二人の怪我の具合の説明がありました。松本さんは打ち身だけ、湿布を貼って終わりだったようです。深田さんは左手がギプスで固定されていて、二週間くらいは動かせない。でも、酷い骨折ではないので元通りに戻るだろうとのことでした。少し安心しました。右腕の切り傷も大したことはなく、ひょっとしたらという感じで、うっすらあとが残るかもと言われたようです。安心はしましたが、あとが残ると言うのには心が痛みました。  深田さんは骨折したのが利き腕ではないので字を書いたりは問題なし。片腕なのでパソコンの入力は不自由にはなるけれど、出来ないことはないので仕事には出て来れると言います。でも、今はちょっと左手を動かすだけで痛みが出ると言うことなので、明日の金曜日から日曜日までは休みで、月曜日から出れるようなら出社することに。松本さんは、こう言っては何ですが、打ち身だけなのに今週は休ませてくださいと言い出し、彼女も日曜日までは休みとなりました。私の首と肩の痛みは無視されました。  右のような話が終わったところで、課長が今日は全員もう帰るように言いました。なので私も帰ります。ただし私は明日、朝から仕事はせずに報告書と始末書を先に作成するように言われました。  八月四日 金曜日。右隣の先輩が休みだったので、そこのパソコンで言われた通り書類を作りました。ただし、課長の望むものではありません。  私が作成した報告書の内容はこんな感じ。事の始まりは松本さんが暴言を吐きながら、カタログを手にして殴ってきたから。何度も殴られた私は耐えきれず、カタログを防ぐために液晶モニターを持ち上げた。でも、コードが引っ掛かって途中で手が離れたので、投げつけたような格好になった。少しいいように作文しました。課長の作文のように全くの虚偽ではないので、このぐらいは許されるでしょう、誰にもわからないことだし。  九時過ぎに課長が席に戻ってきたので持って行きました。昨日は本社総務に直接持って行くとか言いましたが、とりあえずは課長に提出します。読み終えた課長は、 「お前は本当に自分が悪いとは思ってないんだな。全部松本の責任にするつもりなのか。ほんとにお前、ろくな奴じゃねえな、辞表出せよ、お前と一緒に仕事してるここのメンバーが不憫だよ」 と、本当は顔を見るのも嫌な人間と、職務上しょうがないので話しているって感じでそう言いました。なんだか本当に自分が悪いように思えて来てクラクラしました。でも言い返します。 「でも、私がそこまでしなければ松本さんも深田さんも倒れたりしなかったし、怪我することはなかったので、その点は私に責任があるってちゃんと書きましたよ」 課長が無表情の上目遣いで私を見ています。そして私の出した報告書に目を落とすとこう言います。 「ま、この嘘八百の報告書を出した方が、会社もお前がどういうやつかよくわかるだろ。お前に反省する気が全くないってこともな。だからこれでいい、あとは仕事してくれ、給料もらってる間は働いてくれ」  課長の声が聞こえていた範囲の人の目が私に向いていました、非難する目で、名前を言うのもおぞましいあのコソコソカサカサ動く黒い虫を見る目で。  みんな昨日のことを見てたよね、松本さんのセリフを聞いてたよね、それでもそんな目で私を見るの? 本当に私が悪いの? 私がおかしいの?  自席の隣の今日の席で仕事を始めました。ま、仕事はいつも通りです、課長にああいう風に言われなくても。  しばらくするとパソコンの業者が来て、私の席と深田さんの席のパソコンをチェックし始めました。私のパソコンはOSの立ち上げ画面で止まったまま進みません。深田さんのパソコンはそれ以前の段階で異音がし始めたので、電源が切られました。結局どちらもダメな様子。液晶モニターも二台とも割れています。弁償しろとか言ってたけど、いくら掛かるんだろう。 「聞いたよ、やっちゃったね」 いつもの打ち合わせブースに入るなり、中川さんがそう言ってきました。三人ともお弁当を開くどころか座る前に。私は返答に困りました。聞いたと言うのがどういう話で聞いたのか分からなかったから。すでに、私が一方的にキレて松本さんを襲った、と言う話が広まっているみたいだから。やっちゃったね、って言い方は、そっちの話を聞いたのかも知れない。でも次の中川さんの言葉を聞いて安心しました。 「そうだ、高橋さんは大丈夫なの? だいぶ叩かれたんでしょ? それも梅下電工のゴツイ方のカタログで」 ちゃんと伝えてくれた人がいたんだ。そういう人がいたと言うだけでなんだか嬉しかったです。 「昨日は首とか痛かったんですけど、今日はもう」 本当は、なんだか眩暈が残っているようで本調子ではないんだけど。そう答えると、中川さんが次を言う前に和田さんが割り込んできました。 「叩かれたって、高橋さんが? え? 高橋さんが松本さん突き飛ばしてパソコン投げつけたって……、違うの?」 う~ん、和田さんに話しをした人はフェイク話を広めてる側の人だったみたい。って、和田さん、そんな話を信じないでよ。 「それねぇ、私も最初はそっちが耳に入った。パソコンぶつけられて松本さんが骨折したとかって話でしょ?」 中川さんが和田さんにそう言います。ちなみに、松本さんは打ち身だけだよ、って言いたい。 「そうそう、それで深田さんにもパソコンが当たったとかって」 「それねぇ、嘘だよ。誰かが高橋さんが悪くなるように、そっちの話を広めて回ってるみたい」 「ええ? なんで、ひどい」 「ほんとはねぇ、松本さんが後ろからいきなり高橋さんを叩いたんだって、あの重たいカタログで、しかも頭を」 「うそ、あんなので叩いたの? 後ろから? 信じられない。でもなんで?」 何だか和田さんの口数が増えたような気がする。 「その辺はちょっとよくわかんないんだけど、昨日ね、急に松本さん、って言うか松本さん達三人が、今回の統廃合の整理対象になったんだって。つまり、九月で退職させられることになったんだって。でね、それが高橋さんの仕業だとか言って襲いかかったみたいなの」 「そうなの?」 中川さんの話のあと和田さんがそう言って、二人が私を見ています。 「えっ、ええ、そんな感じでした」 「でも高橋さんの仕業って、なんで?」 中川さんがさらに質問してきます。業務記録の改ざんに協力しろとか言われた話は出来ないよね。多分あれは私だけだろうから。私はあの三人からもともと集中的に仕事を振られていたから。理由は多分、私に振っておけば電話受付欄だけでも自分たちの名前が残るから、自分たちが仕事してる記録が残るから。電話取って、お待ちください、って言ってるだけなんだけどね、それでも私に振っておけばそれが残るから。 「分からないですよ、いきなりだったんですから」 そう答えました。 「そっか。まあ、松本さんが何考えてるかなんて私達には分かんないよね」 中川さんのその言葉が一旦締めとなって、私たちは食事を始めました。  でも食べ始めるとまた和田さんが聞いてきます。 「じゃあパソコン壊したりしたのも松本さんなの?」 「ううん、それは高橋さんみたい」 私より先に中川さんが答えました。 「えっ、なんで?」 「松本さんが後ろから叩いてくるの、高橋さんずっと耐えてたみたい。でも耐えきれなくなってモニターで防ごうとしたんだって、でもモニター落としちゃって、それでパソコンもモニターに引っ張られてガチャンって。でね、高橋さんが落としたモニターを避けようとした松本さんが逃げたところに深田さんがいたんだって。で、深田さんは松本さんに突き飛ばされて怪我したみたい。さっき骨折ったの松本さんって話があったけど、本当は突き飛ばされて転んだ時に深田さんが手の骨折ったんだって」 モニターで防ごうとした、だなんて、嬉しいことを言ってくれた人がいる。うん、私がどう思ったかなんて誰にも分らない、私にもなんであんなことしたのか分かんないんだから、だから見てる分にはそう見えるのが普通かも。 「そうだったんだ、えっ? 深田さん大丈夫なの?」 「それは分からない」 中川さんがそう言うので私が答えました。 「左手の小指を骨折したみたいなんですけど、二週間ぐらいでギプスもとれるし、ひどい骨折じゃないみたいなので元通りに治るって言われたみたいです」 「そっか、良かった」 「でもしばらくは左手使えないのね、かわいそう」 和田さんに続いて中川さんがそう言いました。ひどくないとか元通り治るとかって言葉で気がいってませんでした。そうなんだ、しばらく深田さんは不便な思いをしないといけないんだ。改めて申し訳ないという思いになりました。私を庇ってくれるようなとらえ方をしてくれる人がいるとしても、私が怒りを抑えてあんなことをしなければ深田さんは怪我をしなかったはず。私のせいで深田さんは、痛い思いや不自由な思い、いくつも代償を負ってしまった。  私の知らない今回の社内のこと。  課長は昨日のうちに業務課としての事故報告書を作っていました。内容は、退職させられることになった松本に、高橋が彼女をバカにするようなことを言った。退職が決まったばかりで精神的に参っていた松本は、それに腹を立ててしまい高橋を叩いた。叩かれた高橋は逆上して松本を突き飛ばし、転んだ松本に机の上のパソコンを投げつけようとした。でもそれが松本に当たらなかったので、隣の席の深田のパソコンを今度は投げようとした。深田はそれを止めようとして、高橋に突き飛ばされて負傷した。と言うものでした  その報告書の下の方には、松本と深田の認印が押されており、高橋は押印を拒否しました、と、課長が手書きで書き加えていました。そして昨夜のうちにメンテ部総務課を通り越して、本社総務部に持っていきました。  夕方に怪我人が出た事故があったと言うことで、まだ事務所にいた本社総務部の渡辺部長がそれを受け取り、業務課長と直接話をしました。渡辺部長は、高橋さんがほんとにこんなことをしたのか、と質しました。何しろ今読んだ報告書が正しいとすれば、もうこれは事故ではなく傷害事件だったから。社内でそんなことがあったなんて公にするつもりはないけれど、それならそれで対応の仕方が変わってしまうから。それに対して業務課長は、松本、高橋はもともと仲が良くなかった、特に高橋の方が先輩の松本に、事あるごとに突っかかっていた、と、そういう話をしました。それに、夕方の事務所内での出来事、沢山の人間が見ていますから間違いないと付け足します。故に、渡辺部長も全て高橋に責任がある(かも)と認識しました。  明けて翌日の午前の早い時間から、昨夜出された業務課作成の報告書通りの噂が社内で広まっていきました。その噂の広まり方の速さに困惑していたところに、業務課作成の報告書への押印を拒んだ、高橋からの報告書が本社総務に回ってきます。多少は自分の非を認めているものの、根本の原因、責任は、全て松本にあると言う内容。  先般の石田係長の件で高橋という社員の勤務実績や勤務態度を調べ、また直接会って話をした印象から、好感を持っていた渡辺部長。高橋の報告書を見て、落胆しました。そして、石田係長の件で会ったときに話していた、メールの犯人疑惑を否定する高橋の発言や、わざわざ見せたSNSのやり取り、それらすべて用意してあったものではないのかと、完全には信じられなくなりました。  そしてもう一つ社内で。  私の狂人ぶりは信じられないほどみんなの興味を引き、話が次から次へと生まれ、拡がっている。それも、私バッシングの内容ばかりが。  松本さんは業務課で一緒に仕事をする人の中ではそれなりの嫌われ者ではあったけれど、基本的には明るく新し物好きな社交的な人。十年目の彼女は三年目の私より、社内での知名度も、人気も、親しくしている人数も、はるかに上でした。なのでそんな彼女を傷付けた、そして夕方頃には退職にまで追い込んだことになっている私の味方は、少数派中の少数派。私を少しでも庇おうとする話は、イタリア全土の地図の中でバチカンを探すくらい注意しないと聞こえてこない。  そしてその状況は、社内でたった一人きりと言っていいくらいになってしまった、別の少数派の人にとっても腹立たしいことでした。その人は、高橋バッシングの声しか聞こえてこないことに、はらわたが煮えかえるくらい、いえ、もうすでに煮えかった挙句、焦げ付いたくらいの目で、会社を出る私を見ていました。
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