第十七章 春の前は冬です

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第十七章 春の前は冬です

 一月二十五日 金曜日、お昼一番からハウスアートの新しい物件のお施主様と急な打合せ。伺ったのはハウスアートから車で十分も掛からないところにある、古く大きなお家です。お施主様はそこに住む六十過ぎくらいのご夫婦。もともとご主人の実家で、祖父の頃にはもうここに住んでいたと言う元農家です。なんとお部屋が十六もある、私から見ると御殿のような二階建ての建物。  一緒に行った遠藤さんと、玄関側のお庭に面した広いリビングにお邪魔しました。意外にもリビングは畳ではなくフローリングにカーペット敷きです。そしてテーブルとイス。イスは最近よく見かける高機能の事務用イスのようなものが六脚。なのでそのお部屋を見た瞬間は、どこかの会社の会議室のようなイメージでした。ご主人曰く、座敷に座り込むのが辛くなったのでこうしたそうです。そして、ソファーなんかよりこのイスの方が楽、ってことです。ちなみに、同じく六人くらい座れるソファーセットもありました。  奥さんがコーヒーを出してくれて四人が席につくと、 「昨日、そちらに伺ったときに話した通り、裏庭だけ残して小さい家に建て替えて欲しいんですよ」 と、ご主人が話を始めます。このご主人のおじいさんの時からあったと言うこのお家、いったいいつからあるんだろう。そんなお家を壊すの? と思っていたら、遠藤さんがそれを聞きました。 「この家、全部壊すと言うことですか?」 「そう、全部壊して建て替えて」 「そうですか、立派なお家なのでなんだかもったいないですね」 「もったいないとは思うけど、もう住んでるのは我々二人だけだから。使ってるのはこの周辺の部屋だけ、あとはほったらかし。それももったいない話でしょ」 「そうですね」 遠藤さんがそう相槌を打ちます。するとご主人がこう続けます。 「それに、ほったらかしだから使ってないところはいろいろと痛んできてるんだわ。来た時気付きませんでしたか? 二階の端の部屋」 「えっ? ……すみません、気付きませんでした」 遠藤さんがそう答えます。私も何も気付きませんでした。門から入って玄関の前の広場のようなスペースに車を停めました。玄関は建物の片側の端の方にあります。その玄関から入る前に建物を見上げて眺めましたが、何も違和感はありませんでした。でも玄関と反対側の端だったら、玄関前から眺めて気付くほどと言ったら、壁の一枚が剥がれ落ちてる、くらいのことじゃないと。そのくらい大きな家です。 「そうか。まあ、近くまで行かんとわからんわな」 「何かあったんですか?」 「年末に娘夫婦が孫たち連れて来たんですよ、大掃除させるって。まあ、それは毎年のことなんだけど。それで二階の掃除をするのに窓を開けていったら、そこの窓が窓枠から落っこちた。まあ北側だし、あっち側は隣がマンションだから陽が当たらんから腐ってたんだな」 ご主人のそのセリフに、木のサッシなの? と思って、今いるリビングのお庭側、縁側の向こうの掃き出し窓を見ました。アルミサッシでした、それもそんなに古い感じではないもの。これが腐るの? そう思っていたら、そんな私の頭の中を覗いたように、 「隙間風が入ったり、ガタガタして動きが悪かったりで、使ってる部屋とあと何か所かだけは十何年か前にアルミにしてもらったけど、それ以外の所は木の建具で昔のままだから」 と、ご主人が続けました。  そのあとは、とにかく古い家なので、直しても直しても次から次へと壊れていくところがある。持ち家なのに賃貸で家賃を払っている以上にお金がかかってきている、と言うことを説明されました。そして結論。十六部屋もいらない、夫婦二人だと2LDKで十分。でも、娘さん、息子さんが孫を連れて来た時のためにあと二部屋は欲しい。故に、4LDKの家にしたい。そして、将来足腰が弱ったときのために平屋でいい、と言うことでした。  平屋でいい、と言うことからもう少し具体的なご要望を聞きました。すると、新しい家のリビングは裏庭に面した配置にして欲しいと言うことでした。と言うわけで裏庭を拝見。リビングから入って来た廊下に出て、リビングと反対側の和室へふすまを開けて入ります。その部屋の反対側のふすまは開いていて、奥の部屋は台所の様でした。その台所に入ってすぐの右側の引き戸を開けると廊下。一部屋分ほど廊下を進んでから左側のふすまを開けるとまた和室でした。今まで通ってきたお部屋より一回り小さく感じましたが、それでも八畳ありました。そして入って来たふすまと反対側に並ぶ障子を開けると縁側。そしてその外側の木の建具の向こうにお庭がありました。説明だけされて案内されていなかったら、迷ってたどり着けなかったかも。  裏庭は瓢箪型の小さな池が中心にある庭園のような造りでした。池の向こう側には、人力では持ち上がらないような大きな石が数個並んでいます。なるほど、このお庭は残したいかも、と、十分思えるようなお庭でした。開けてもいいと言われたので、大体のお庭の広さを見るために建具を開けました。引っ掛かったように動いて簡単には動かない建具。力を入れるために足を踏ん張ったら、今度は床が少し沈んだような感覚。床板も傷んでいるかも。開けたところから顔を出して観察しました。池を中心としたお庭エリアの右手は花壇かな? 地面から30センチくらいの高さで積まれた石で囲まれた区画が二か所あります。手入れされていないので雑草と思われる草が生えているだけ。その向こうは家より古そうな建物がありました、納屋かな? 反対の左側は何もない、草原? と思っていたら、 「そっちは芝生だったんだけど、いつの間にか雑草の方が多くなった」 と、ご主人が私の視線を見てそう言います。すると奥さんが、 「芝刈り機買ったのに手入れしないから」 と言い、 「刈っても雑草は雑草で抜かなきゃいけなんだよ。お前の花壇と一緒だ」 と、ご主人が反論。ま、そこのやり取りは置いておいて、リビングに戻りました。  でも、ご要望はそれだけ、後は全てお任せします、老夫婦が不便しない家にしてくれ、と言われただけ。敷地全体も、家の前に車が四、五台停められるスペースがあればそれでOK。あとは家庭菜園にする予定だけど、それは自分たちでやるから更地にしてくれるだけでいいとのことでした。  遠藤さんが基本となる間取りを一つおつくりして、それに基づいたお見積書をつくりますね、と言うと、そうしてくれと返ってきます。それで今日の打ち合わせは終了、それで帰ることにして荷物をまとめ玄関へ向かいます。ご夫婦が見送りに出て来てくれました。  玄関を出たところで奥さんが、 「お父さん、ここはお願いしなくていいの?」 と、玄関の土間のあたりを見てご主人に投げかけます。するとご主人が慌てたようにこう言い出します。 「ああ、そうだった。ちょっとすみません、うちの敷地、いや、家だけでも今より2,30センチ高くできないかな?」 「と、言いますと?」 遠藤さんが尋ねます。 「いや、いつだったかすごい雨が降った時に、表の道もこの庭も池みたいになって、短時間だけど家の床下までは水が来たんだよ。だから家だけでももう少し高く出来ないかな」 「分かりました、それもお見積りさせていただきますね。建物の部分だけでいいですか?」 遠藤さんがそう答えます。敷地全部って言われたら測量しないと見積りも出来ないよね、と、私はそう思いながら聞いていました。 「まあ、畑作るって言っても商売用じゃないからそこまでは。裏の庭もあそこをあのままかさ上げするなんて大変だろうから、家の部分だけでいいよ」 するとご主人の返事はこうでした。 「分かりました」 遠藤さんがそう答えて終了でした。表の道に出て運転しながら建物を見ると、確かに玄関から遠い側の二階の窓が一つなくなっていて、四角い開口が空いていました。そう言う話を聞いてそれを見たからかも知れませんが、建物のそちら側は崩れ始めているように感じました。  ハウスアートの事務所で遠藤さんと簡単に打ち合わせしてから会社に向かいました。少し慌てていました。理由は会社を出るときに、十六時までに戻ってくるように言われたから。ハウスアートを出たのは十五時を少し過ぎていました。ほんとに会社を出るときに言われたので何があるのか聞いていませんが、戻って来いと言われた以上は戻らなくては。  と言うわけで、安全策を取って高速道路の贅沢使いをしました。いつもは名二環一本で行き来するのですが、それはかなり遠回りなのです。なので名古屋高速でまっすぐ高針まで行って、そこから名二環へ。高速料金を二回払う道程。しかも、それでも十分くらいしか変わらないと思うし、ほんとに贅沢使いです。  でも正解だったかも、事務所前に着いたのはちょうど十六時頃でした。もう打ち合わせか何か始まってるかも、と思って、勢いよく事務所の扉を開けて入ったら、目の前の打ち合わせスペースにお客様がいました。いつかのおじさん、もとい、え~っと、名前なんだったっけ? 「あっ、すみません、え~っと、いらっしゃいませ」 咄嗟にそう言ってました。 「いえ、お世話になります」 男性が立ち上がって小さく頭を下げながらそう言います。 「はあ」 お世話になります、って、清水さんの後輩、友達みたいなもんだよね。今日は仕事の話で来たのかな? 確か同業者っぽかったし。とかって思って、次になんて言おうか考えていたら、 「梨沙ちゃん、お帰り。青木君帰ってきたら始めるから、自分の席行ってていいわよ」 と、田子さんが奥の席から声を掛けてきました。 「あ、分かりました」 私はそう言ってから男性に会釈して隣への扉へ。始めるって、この人に関係あることなのかな? そう思いながら自分の席へ。  設計の部屋にはもう久保田さん、清水さんがいました。久保田さんは暇そうにタバコをふかしていて、清水さんは画面を見ながら電話中。そして私が鞄から荷物を出す前に、今入って来た扉が開きました。  青木さんに続いてさっきの男性も入ってきます。久保田さんがタバコを消して、清水さんが電話を終わらせました。青木さんに促されて、青木さんが自分の席の方へ行くのに続いて男性も奥へ行きます。青木さんの接し方がなんだか親し気です。そして田子さんもこっちの部屋に入ってきました。 「ごめんね、ちょっと遅くなったけど、みんな集まってくれる?」 青木さんが奥のミーティングテーブルの所からこちらを向いてそう言いました。男性も青木さんに並んでこちらを向きます。うん、やっぱり清水さんより年下には見えない。浪人、留年を繰り返して後輩になったとしか思えない。そう思っていたら、 「彼は笹山君って言って、清水の二つ下の後輩。あ、大学の時のね」 と、青木さん。そうだ、笹山さんだ、と思いながら、ほんとに二歳も年下なんだと驚いていました。でも次の話はもっと驚き。 「で、今は上野池都市開発に勤めているんだけど……」 上野池都市開発って言うのは設計事務所の名前です。青田設計に入るまで私は名前も知らない会社でしたが、結構大手の設計事務所です。 「……来月の十五日で退社して、十八日からうちに入ってくれることになりました。彼も清水みたいに学生時代に僕の仕事手伝ってくれていたからよく知ってるんだけど、いい男だから仲良くやってください」 「笹山正美です。よろしくお願いします」 紹介された笹山さんがそう言って頭を下げます。久保田さんが拍手するのでつられて拍手しながら、おお、人が増えるんだ。確かに最近みんな手いっぱいだったもんね。と、思っていたら、青木さんからまたまた更に驚きの話が続きました。 「それで清水なんだけど、ご実家の都合で向こうの会社を引き継ぐことになりました。だから残念なんだけど、三月いっぱいでうちを退社することになりました」 え、え、ええ? 清水さん辞めるの? と言う目で清水さんを見ました。清水さんと目が合いました。するとちょっと弱ったような感じで、ま、そう言うこと、って顔を返してきます。 「じゃあ、笹山にうちのメンバー紹介しようか」 そう言う青木さんの声が聞こえてきました。でもちょっとみんな、リアクションなさすぎない? 清水さんいなくなるんだよ。と思って気付きました、久保田さんも田子さんも既に知っている。寝耳に水なのは私だけなんだ。  何だか合点がいきました、去年の秋くらいから清水さんがしょっちゅう実家に帰っていることに。彼女まで連れて帰っていたし、その彼女と入籍するとか言ってたし、全部そこにつながるんだ。そっか、実家の会社継ぐんだ、と言うことは社長になるってこと? 清水さんが。なんかすごい、でも何やってる会社なんだろう。 「で、お施主さんと工務店なんかの間で、調整役やってくれてるのがこの高橋さん」 青木さんが私を紹介していました。私って調整役なんだ、と思いながらご挨拶。 「高橋です、よろしくお願いします」 笹山さんが私に挨拶を返すと、青木さんが続けてこう言いました。 「彼女はなんて言えばいいかな、不思議なって言うか、独特の雰囲気持ってるから。とりあえずどんなお施主さんともうまくやってくれるから助かってるんだよ」 う~ん、微妙な言い方だ、褒められてるんだよね、だって、なんだか照れ臭いって感じているから。 「そうなんですか」 そう言って笹山さんが私を見ます。 「だから手強いお施主さんに困ったら、高橋さんを間に入れたらいいよ」 その青木さんの言葉には心の中で首を振ってました、勘弁してください。 「分かりました」 いやいや、分からないでください。  それで顔合わせは終わりました。笹山さんは当然清水さんの仕事を引き継ぐのでしょう、清水さんの横に折り畳みの椅子を置いて話を始めました。久保田さんはこんな夕方の時間から謎の外出。田子さんは定時までの時間潰しかな? こんな時間から全員にコーヒーを入れてくれました。  そして私は、今日の新しい話の報告で青木さんの傍へ。すると話を聞き終えた青木さんが、 「その見積り用の平面、高橋さんが考えて描いてみて」 と言います。私は一瞬で嬉しい気持ちになりながらもこう返します。 「図面をですか? 私が」 「うん、見積り用の叩き台の図面だから、多少おかしなところがあっても構わないから、やってみて」 「部屋の配置とか私が決めちゃっていいんですか?」 叩き台の図面と言っても、最初のそれをお施主様が気に入ってしまったらそれが決定稿になってしまいます。なんだか責任重大です。なのでそう聞きました。すると青木さんは笑顔でこう返してきます。 「なんで? いつも最初の打ち合わせで高橋さんが手書きで描いてくる平面図と一緒だよ。最近のは住む人の使い勝手なんかを本当に良く考えてあるから、僕はほとんど変更しないでしょ。それと同じように考えて、それをCADで描くだけだよ」 「ほんとにそうですか?」 よく考えてある、って言葉を嬉しく思いながら、そこに反応してそう聞いていました。 「うん、何気に一番悩むところを高橋さんが作り上げてくれてるから助かってるよ。あ、そう言っちゃうと、高橋さんに設計技術料として手当て付けなきゃいけなくなるかな」 そう言ってまた笑顔をくれます。とっても嬉しい言葉でした、役に立ててると実感出来て。  そのあとは、考える上でのヒントだけあげよう、と、二点だけ注意点を教えてくれました。  リビングやキッチンの広さは、今日見てきた今の家の広さを基本にするように。そして老後となる将来を考えての建て替えなのだから、バリアフリーにはしておくように。それ以外は私が考えて、老夫婦が住むにはこれが良い、と思う形にしたら良いと。  自分の席に戻って、まずはいつもの方眼紙に手書きで平面図を描き始めることにしました。そして、用紙の右下に、宮川様邸、と、物件名を書きました。いつもは書きません、でも、初めて私が設計するんだ、って気持ちで書いていました。青木さんの言葉だと、これまでも私が設計していたってことになるんだけど、自分的にはこれが初めてのことだから。  なんとなくしっくりした形が描けず、何度も消しゴムに仕事させていました。すると青木さんから声を掛けられました。 「高橋さん、清水、笹山と飲みに行くけど、一緒に行く?」 そう言われて時計を見たらもう十九時前でした。このまま続けたい、と言う気持ちもありましたが、せっかく誘われたので行くことにしました。 「はい、行きます」 机の上を片付けながらそう返しました。  四人での飲み会で、私はほとんど聞き役でした。場所は青木さん、久保田さん行きつけのお寿司屋さん、の小さな個室のような座敷。ニラ玉カジキ鍋と言うのがとてもおいしくて満足だったけど。なんだそれ、って? 名前のまんまです、カジキマグロの入った鍋が卵とじになっていて、そこにニラも入っているだけ。このお寿司屋さん、何度が連れて来てもらっているけど、お料理がほんとにおいしいです。なのにそんなに高くないし。あ、でもここでまだお寿司食べてないかも。  なんで聞き役だったのかと言うと、三人が城山にあったアパート時代の話で盛り上がっていたから。あ、厳密には二人かも、盛り上がっていたのは。笹山さんは本当におとなしい方で、口数も少なかったです。別にいやいや付き合っていると言う感じではなかったので、もとからそう言う方なのでしょう。その日は当然、青木さんとタクシーで帰りました。  翌日の土曜日、ほとんどいつも通りの時間に事務所に来ていました。そして、宮川様邸の間取りを考えていました。なかなか納得いくものが描けません。なんでだろう、いつもはお施主様とお話ししながら結構すらすら描けてしまうのに。  そこで、お話ししてるつもりで描くことにしました。 「お庭に沿って、今のお家みたいに縁側があった方がいいですよね?」 そう言いながら用紙の中央上部にお庭のスペースを描きます。そしてそれを囲むようにコの字型に縁側を描きます。 「で、正面に大きくリビングとダイニングキッチンがいいですね。今のリビングは十二畳の二間続きですか? では二十畳くらいのリビングにして、ダイニングキッチンはそれに合わせてこれくらいの広さでいいですか? 四人掛けのテーブルを置くとこのくらいの感じです」 なんて言いながら縁側の中央の下に二十畳スケールの四角を描き、その右にダイニングエリアを描きました。ダイニングエリアにはスケールを合わせて大体のテーブルの大きさも描きます。そんな感じでコの字の右翼にご夫婦用の二部屋を並べます。ダイニングと右翼の間の角には納戸を設定。リビングの左側には浴室、脱衣、洗面、トイレの水回りエリア。そして左翼側の角にも納戸を作って、左翼側にお客様用の二部屋を並べました。  うん、なんだかいい感じ。でも、引っ掛かっていることがあります。それは、どこまでの範囲の裏庭を残したいのか、はっきりお聞きしていなかったことです。今描いた平面図では中央の池と、その周辺の大きな石の並びしか考えていません。その横に広がっていた芝生部分や、手入れされていなかった花壇は考えていません。それらも含めると、とんでもなく横に大きなコの字になってしまいます。それを満たすにはお部屋を増やすしかありません、無駄なお部屋を。それではお施主様の意向に反することになってしまう。打ち合わせ不足でした。  この案はこの案として残して置いて、別にもう一案作ることにします。お庭を囲むようにしていた両翼部分をただ横に並べた配置に。それではご夫婦のお部屋側の納戸をなくしてしまいました。納戸を二か所も作ったのは、コの字型の角を埋めるためだけだったから。  そこまでした頃にいきなり扉が開いて清水さんが入ってきました。 「梨沙ちゃん、お疲れ。昨日は付き合ってくれてありがとね」 「いえ、お疲れ様です」 そう返して時計を見たらもう十一時前でした。独り言のようにぶつぶつ言ってる時に来られなくて良かった。 「で、どう? うまくやれそう?」 清水さんが自分の席に座りながらそう聞いてきます。笹山さんと、ってことでしょう。そんなの、 「まだ分かんないですよ、ほとんど話しなかったんで」 と、思ったまま答えました。 「だよな~、あいつ自分からはしゃべんないからなぁ。でも、話し掛けたらちゃんと返ってくる奴だよ。見た目ほど陰気な奴じゃないから。どっちかって言うとアウトドア系だし、俺と真逆のタイプ」 「清水さんインドア系なんですか?」 話がそれちゃうけどそう聞いてました。 「そだよ、知らなかった? 俺、一日中ゲームして籠れるタイプだから」 十分その姿は想像出来るけれど意外でした。 「そうなんですか」 そう返しながら、そう言う時、彼女さんは何してるんだろう、一緒にゲームしてるのかな? なんて思ってました。なんて思いながら、大切なことを思い出してこう言いました。 「清水さん、辞めるってなんで言ってくれなかったんですか。他の人は知ってたんですよね」 「えっ、ええ? 梨沙ちゃんは知らなかったの?」 「知りませんでしたよ」 「いや~、そっか、俺は話しなかったよね。でも、年末くらい、いやもうちょっと前から、辞める方向で話してたんだけどね」 「でも私は聞いてませんよ」 「そうなんだ。でも、梨沙ちゃんがいるときにここで青木さんとその話してたこともあるよ。梨沙ちゃん反応しないな、って思ったことあるから」 「……」 そんなことあったっけ? と考えていたら続けてこう言われました。 「梨沙ちゃんって何かしてると周りの声が耳に入らないでしょ。そう言うことよくあるもんね」 そう言われるとそうかも。真由には中学の頃からそう言われてるし。  なので話を変えることにして別の質問。 「あの、実家を継ぐって急な話ですよね、何かあったんですか?」 「うん? ああ、ちょっと親父がね……」 「……」 清水さんの言葉の続きを待つように、私は黙って清水さんを見ていました。すると観念したように口を開きました。別に、しゃべれ、って責めるような目で睨んでたわけじゃないですよ。 「多分、青木さんたちが俺のことを梨沙ちゃんに話さなかったのはこれが理由だと思うんだけど、うちの親父、認知症の症状が出始めてるんだ」 何だかショックな話でした。それに納得、清水さんの退職の話をしたらその理由であるこのことも話さないといけない。こんなこと、そんなにたくさんの人に話すことじゃない、と思う。なので私には話さなかったんだ。 「そうなんですか」 「うん、俺、全然実家帰ってなかったから知らなかったんだけど、去年の秋にばあちゃんが死んで実家帰っただろ、その時に親父の様子が変だったからおふくろに聞いたんだ、そしたら、何年か前に胃癌をやってたらしいんだ、親父。まあ、胃を取って治療は終わってたんだけど、年だからさ、胃がなくて栄養が摂れないのに仕事してたから、その後も色々体を壊して入院を繰り返してたみたい。で、去年の夏も何日か入院してたらしい、ま、その時は熱中症らしいけど。でもその時タイミング悪くおふくろも風邪ひいて、付き添い出来なかったらしいんだ。だから入院中、親父は一人きりだった。そのほんの数日一人だったことで、認知症が出たみたいなんだ」 何だか大変な話でした。でも私は単純な疑問だけを返していました。 「そんなに急になるものなんですね、認知症って」 「俺もよくわかんないんだけど、うちの親父の場合はそうみたいだね。その日もお昼までは変化なかったみたいだよ、看護師さんとも普通に話してたみたいだから。なのに夕方までに病院から抜け出してたって」 「えっ、どこ行ったんですか?」 「家に帰ったんだよ。いきなり帰って来て、おい、タクシー代出せ、って、おふくろに言ったらしいんだ。おふくろがタクシーの運転手にお金払って家に戻ったら、親父は台所でビール開けてたらしい。で、退院したのかって聞いたら、入院してたことを覚えてなかったらしい、あ、その時はね。と言うのは、二、三日後の朝、起きたら急に、なんで病院じゃないんだ、いつ出て来た? って、おふくろに言ったらしいから」 何だか言葉が出ませんでした。周りに認知症の人がいないのでそんなものなのか、と思いながらも、そんなことあるんだ、って驚いてました。私が無言だったからか、清水さんが続けて話してくれます。 「その後はほぼ普通の状態みたいだったんだ。たまに、いきなり忘れちゃうことが出て来たみたいだけど、それも何日かすると思い出したりして、危なっかしいけどまだ普通だったらしい。ばあちゃんの葬式で俺が会った時がそんな頃。でもそのあと、ひどくって言うか、悪くなったみたいなんだ。ほんとにいろんなことが覚えられなくなったみたいでさ、何度も同じことを聞き返すようになったみたいなんだ。俺の記憶ではばあちゃんと親父って、いっつも口喧嘩してるような仲だったんだ。その相手がいなくなったからかな」 「なんか、大変そうですね」 思ったまま口から出ちゃってました。 「まあね、基本、まだまともなんだよ。仕事のことなんかもちゃんと頭に入っているんだよ。でも新しいことがほとんど覚えられない、と言うか、頭に入らないんだな、理解できないって言うか。例えばこの正月も二日の日の朝、正月だって言って朝から酒飲んでるんだよ、なのに、病院何時だった? って、お袋に聞くんだ。で、正月に病院やってるわけないだろ、って言ったら、そうだな、って納得するんだ。でも一時間もしないうちにまた同じこと聞いてくるんだ。だから何回目かの時に、なんで今日病院なんだ? って聞いてやったら、今日は水曜日だろ、病院の日だ、って。水曜日が病院に行く日で、今日が水曜日だって言うのは頭にあるんだけど、今日が正月だって言うのは頭に入らない。自分で正月だって言って酒飲んでるくせに分かってないんだ。でも、正月だと病院はやってないって言うのは、また理解出来てるんだよ。なかなか厄介だよこれ、大筋は間違ってないからね、一つ、二つのことが頭に残ってくれないだけだから、それを繰り返し言うしかないんだよね。でもそれってこっちにはストレスなんだよな、またか、って。でも本人はちょっと前に聞いたことも覚えてないわけだからケロッとしてる。それで余計にイライラして、そのうち怒鳴っちゃうんだよ、さっき言っただろ、って。そしたら親父も怒鳴られて機嫌悪くなるし。いや、機嫌悪くなってくれたらまだいいんだけど、怒鳴られてたまに、シュン、としちゃうことがあるんだ。その時の親父は多分、なんで怒鳴られたか分からないんだけど、自分が悪いと思ってわけもわからず落ち込んでるんだよ、その姿見たらほんとにたまらないよ、逃げ出したくなる、悪いことしたなって」 ほんとに切実な話です。なので、 「ほんとに大変そうですね」 と、同じようなことしか言えませんでした。 「まあ、ほんとに大変なのはおふくろだけどね。実際、ばあちゃんが死んで一か月くらいでSOSを送ってきたから」 「それで帰ることにしたんですか?」 「まあね、お袋が電話してきてから毎週様子見に帰ってたんだけど、すぐにお袋一人じゃ無理だって思った」 「そうなんですか。他に兄弟はいないんですか?」 「姉ちゃんが二人いるけど、当然もう嫁いでるし、一人は東京、もう一人は仙台だからね」 「そうですか。あ、それで彼女さんと入籍して連れて帰るんですか?」 「いや、まあ、結果的にはそうなんだけど、そう言うと親父の面倒見させるために結婚するみたいだろ」 「いえ、そう言うつもりでは……」 「まあ、分かってるからいいよ。とりあえず言い訳させて。最初にちゃんと、どうする? って聞いたんだよ。一緒に帰るとさっき言ったみたいな感じになるから、今更で申し訳ないけど、別れるか、とも。そしたら、今更何言ってんだ、って怒られたよ」 「はあ」 気の抜けた相槌でしたが、微笑ましい気持ちで聞いていました。 「あいつに親父の年を聞かれたから七十二だって答えたら、百まで生きてもあと二十八年でしょ? そんなのあっという間よ、だって」 なんか、清水さんの彼女ってたくましいと言うかすごい。二十八年って、私のこれまでの人生より長い。それをあっという間だなんて……。いえ、そんな気になれるわけないです。それは彼女さんの覚悟の気持ち、そして清水さんへの気遣いの気持ちだ、きっと。私はそんな覚悟が出来るかな? そして、そんな覚悟をしてでもついていこうと思える人に出会えるかな。なんだか羨ましいです、そんな話ではないんだけど。 「清水さん、奥さんに、もう一生頭が上がらないですね」 奥さん、と言ってみました。するとそこには触れずにこんな話が返ってきました。 「いやあ、まあそうなんだけど。でもあいつは根っからポジティブな奴でさ、最近、なんて言ってるか知ってる?」 知ってるわけないじゃないですか。 「いえ、なんて言ってるんですか?」 「えっとねぇ、ああ、まず、あいつの仕事って保育士なんだよ。で、もっとわけの分かんない子供たちの相手を毎日してるんだから、体が大きくなっても一人だけならどうってことないって」 いや、そんなことはないと思うけど。それはそう言ってくれてるだけだよ。と思っていたら、清水さんもこう続けます。 「ま、そう言ってくれてるだけだろうけど。でも、そう言ってくれてる以上は頼れるところは頼ろうかなって思ってる」 「そうですね。その分清水さんは、奥さんにたっぷりサービスしないといけないですね」 「だな」 そう言って小さく笑うと、清水さんは画面の方に向き直って仕事を始めました。  時計を見るともう十二時前でした。お昼からCADで作図に掛かることにして先に昼食を、と思いました。なので清水さんに声を掛けて下の喫茶店へ。店の前でまた店内に青木さんを見つけました。車を取りに来たのかな。いつもと同じカウンターの端に座っています。でも一人ではありませんでした。その隣、私がいつも座るところに女性が座っています。知っている女性、それは真紀ちゃん。  土曜日はランチタイムでもガラガラで暇なことの多いお店です。暇なので隣に座って話してるだけかな? 暇だと私の隣にもよく来るし。でもなぜだか、それ以上お店の扉に近付けませんでした。そしてガラス越しに二人を見ていました。そして気付きます、真紀ちゃんがスカートをはいている。仕事の時はいつもジーンズ、なんでだろう。  気付いたらビルの入り口の階段の所まで戻っていました。なんで? 自分でもわからない。何がしたいのか、何を考えているのか、自分で自分のことが分かりませんでした。ただ、あの二人に近付きたくない、見ていたくない、ってことだけわかりました。  どのくらいそうしていたのか分かりませんが、そんなにしないうちにお店の扉が開く音が聞こえてきました。そして、 「だから~、今日は、プライムツリーだよ」 と、真紀ちゃんの声が聞こえてくる。その声を聞きながら私は階段の陰に移動しています。プライムツリーって言うのはショッピングモールのこと。真紀ちゃんとは日曜日に、たまに二人で出掛けたりするようになっていました。そこにも今度行こうと言っていたところ。今からそこに行くのかな? 青木さんと。  二人の気配が完全になくなってから、やっと足が動きました。恐る恐る店の前まで行って扉を開けました。 「いらっしゃいませ」 と、ママさんがキッチンから出て来て迎えてくれます。他には誰もいませんでした。 「こんにちは」 そう返しながらいつもの席へ、ではなくその隣、青木さんが座っていたところへ座りました。 「今日の日替わり、ちゃんぽんだけどそれでいい?」 ママさんがお水とおしぼりを私の前に置きながらそう言います。 「はい、お願いします」 そう返事すると、 「良かった、梨沙ちゃんのおかげでまた一つさばけた」 と、ママさんが言います。 「何がですか?」 「ちゃんぽんよ、今日、ほんと暇なの。土曜日だからお客さん少ないと思ってそんなに用意してないけど、それにしてもひどい、梨沙ちゃんでやっと三つ目よ。ちょっと待っててね」 そしてママさんはキッチンへ行ってしまいました。私で三つ目。先の二つはあの二人なんだ。そして、ママさんがあの二人がいたことを私に言わない。わざわざ言う必要がないと言えばないんだけど、隠すこともないのに。隠す、そう、私、隠し事されてるんだ。どうしようもなくイライラが沸き起こってきました。  私の前にランチが置かれたあと、四人組のお客さんが入って来て、四人とも日替わりランチを注文していました。普段の私なら、また四つ出ましたね、くらい言うと思うんだけど、そんなこと思いもせずに無心でただ食べていました。そして、時間ないんで、なんて言って、食後のコーヒーも断ってお店を出ていました。  事務所に戻ってパソコンに向かいました、でも気が乗らない。後ろの清水さんの方から女性ボーカルの歌が聞こえてきます。高いキーでかわいい声、最近流行っている配信オンリーの歌手の歌でした。私の耳にも残っている好きな曲。その歌声に助けられて図面に手を付けることが出来ました。  午前中に清水さんからも言われましたが、私の長所なのか短所なのか、私は何かやり始めるとそれに集中しちゃうようです。イライラとして気分が悪かったことなど忘れて、すぐに作図に集中していました。  私が一から描き始めると、とんでもないくらいの時間が掛かると思うので、杉浦様邸の平面図を修正する形で手を付けました。メインとなるリビングを二十畳のサイズにして、その横にダイニングキッチンをつなぐ。そうすれば柱や壁のボードなどをいちいち描かなくてもサイズ変更やコピペで済みます。構造上の柱の間隔などが適切かどうかは私では分からないので、そこは青木さんにチェックしてもらわないといけないけれど。そんな感じでコの字型の間取りの方から描き始めました。と言ってもそんなにスムーズに進みませんけどね。一か所描き終わって次の部屋を足そうとしたらどこかに矛盾が出てきたりして、その度に描き終えた部分を修正していく、なんて作業の繰り返しだったから。  そんな悪戦苦闘を続けていたら後ろに気配を感じました。振り返るとすぐ後ろに清水さんが立っていて、私の画面を見ていました。 「それって、修正じゃなくて描いてるわけ?」 私が振り返ったのでそう聞いてきました。 「そうです。見積り用の平面図ですけど」 「そうなんだ、そんなこともするようになったんだ、すごいね」 「でも、これが初めてなんで、だいぶ時間掛かっちゃいそうですけど」 「まあ、最初はしょうがないよ。でもCADは使えば使うほどいろんなコツがわかってくるから、そうなれば早く描けるようになるよ」 「そうですね」 「うん、最初に教えた時に言ったけど、図面の中のいろんな部分をパーツとして捉えて、それを固定ブロックとしちゃってコピーしていくのが一つの手だよ」 「はい」 「で、パーツとして捉えるのは部屋丸ごと一つでもいいわけ、分かる?」 「ああ、なるほど、同じ部屋が並ぶなら、一部屋描いてブロックにしたらコピーして貼ってもいいんですね」 「うん、全く同じでなくても、貼り付けてブロック解いてから修正した方が、描くより早そうならそうしたらいいし」 「なるほど、分かりました」 「がんばって。悪いけど、俺、今日はこれで帰るからお先するね」 「はい、お疲れさまでした。ありがとうございました」 それで清水さんは帰って行きました。今の清水さんとの話、CADの使い方の一つです。どういうことかと言ううと、……説明しきれません、私では、ごめんなさい。  清水さんが帰って行ったときに時計を見たら十六時前でした。私は事務所を出てエレベーターホールの所へ行きました。そこの法律事務所の前の自販機が目的地。ホットココアを買って戻りました。そして作図を続けます、清水さんを倣ってパソコンからFMを流しながら。  コの字型の方が何とか描き終わったかな、と思ったら、ラジオから時報が聞こえました。二十時でした。急にお腹が減ってきました。急いで帰り支度をして戸締り。そしてスーパーのお総菜コーナーに直行。お弁当を物色していたら、なぜだか今日は飲みたくなりました。私にしたら珍しいこと。適当にお惣菜を選んで、ビールを二缶購入して帰りました。  自宅マンションの駐車場に車を乗り入れると、いつもの隅に朱美の赤い車を発見。私のスペースの隣には青木さんの車も既に停まっていました。朱美来てるんだ、と思いながら車を降りると、建物から遠い側の隅にも見慣れない車がありました。そこには最近、黒のミニバンが停まっていることが時々ありますが違う車でした。今は現場に来る職人さんが乗っているような大きなワンボックスの白いバン。こんな時間にどこかの部屋で何かの作業中、ってことはないよね。そう思ってその車をよく見ると、前田組、と書いてあります。真由の会社の名前、私の部屋でまた酒盛りやってるな。  玄関を開けて入ると、朱美の声が迎えてくれました。 「おかえり、遅かったねぇ」 「ただいま」 私はキッチン側に入ってそれだけ返しました。 「お疲れ?」 そう聞いてくる朱美の声を聞きながら、流しの上に買い物してきた袋を置いて缶ビールを冷蔵庫へ。それを見ていた朱美がさらにこう言います。 「珍し、梨沙がビール買ってくるなんて、なんかあった?」 「別に、疲れたからちょっと飲もうかなって」 そう返しながら冷蔵庫内にある、覚えのないタッパーを見ていました。全部で四つ。豚バラと大根の煮物。ラザニア、具沢山のミートソースでミルフィーユになっているけど、上にはホワイトソースが掛かっている。そしてクリーム色のポテトサラダ。かぼちゃとジャガイモで作るからこんな色になる真由の得意料理。最後の一つは何かのカツでした。何のカツだろうと思ってみていたら後ろから朱美の声。 「それ、胸肉のスライスにチーズ挟んで重ねたやつだって。おいしかったよ」 そう、どれもかなり減っています。私の分だけ残っているって感じ。 「で、真由は?」 冷蔵庫を閉めながら聞きました。 「誰かさんのベッドの中」 やっぱりもう寝ちゃってるんだ。私はキッチンから寝室の方へ行きました。別に真由の寝顔を見に来たわけではありません。鞄を置いて上着を脱ぎに来ただけ。でも寝顔を覗きました、見るからに熟睡中。 「ちょっと前まで起きてたんだけどね」 朱美がまた後ろからそう言います。 「起きてたって言っても酔っぱらってでしょ?」 そう言いながら整理ダンスを開けて着替えの用意。 「まあね。あ、先にお風呂入る?」 「うん。ああ、真由は? お風呂入った?」 「大丈夫、飲む前に入らせたから」 その朱美の声は脱衣場で聞きました。 「そ、来るなら連絡くれたらよかったのに」 朱美が通路から返してきます。 「あのねぇ、あんたの電話、この部屋の中で鳴ってたんだけど」 あっ、自分のスマホ、持って出てなかったかも。 「そっか、ごめん。それと、別にいいんだけど、車二台はやっぱり気を遣うから、出来たら一緒に乗って来てよ」 服を脱ぎながらしゃべってました。 「一緒じゃないよ、私はお昼過ぎからいたの。で、真由は夕方。ここで飲もうと思って電話してるけどあんたが出ないって電話してきたから、梨沙、電話持ってないよって言ったらあの子もこっち来るって。私、もう飲んでたからさ、迎えに行けないじゃん」 「そっか。私の電話どこにあった?」 「知らない。ハンガーポールに掛かってる服のどれかから鳴ってた」 多分昨日着てた会社の防寒着のポケットだ。今日は自分のダウン着て行ったから。 「わかった、じゃあ、チャチャっとシャワー浴びちゃうね」 そう言って浴室に入りました。  シャワーから出るとこたつの上に温めた料理が用意してありました。朱美も食べる気満々の様で、取り皿も二人分あります。真由ともう食べたんでしょ? と言いたいけど。と言うわけで二人で飲み会。  真由の料理はどれもおいしい。特にラザニア。たっぷり玉ねぎの入ったミートソースは甘いのに、上に掛かったホワイトソースは塩味がきいている。そのバランスがすごくいい。それにどれも手間が掛かっています。今日はお昼くらいからずっと料理してたのかな。  食べながら朱美が話してくれた真由の話。お父さんの彼女との同居を認めてあげたそうです。すでにずっと同居状態だったのですが、あくまで真由は認めておらず、勝手に同居されてる状態だったとか。それを二人に対して、認めてあげる、と告げたそうです。そして、真由の家での出産、その後の子育ても認めてあげたと言ったそうです。お父さんと彼女が籍を入れるかどうかはまだ未定とのこと。真由はもう異議を唱える気はないようだけど。  でも、真由的にはかなり自分の中で無理をしての決定なのでしょう。だから酔っぱらって潰れてるんだ。  真由の話が終わると朱美がこう聞いてきました。 「で、梨沙は飲みたい何があったの?」 私の話はいいんだって言うの。 「何もないよ」 「ほんとに?」 「ほんと、なんとなくくたびれてたから、寝る前にって思っただけ」 そう言ってから私は黙々と食べてました。朱美は適当につまみながらワインを飲んでます。そしてしばらくすると朱美がまた口を開きます。 「そうだ、あんた前の彼、えっと、名前なんだったっけ……、う~ん、忘れちゃった、あ、童貞君だ、その彼となんかある?」 それは名前じゃないぞ、と突っ込む余裕はありませんでした。なんであいつのことが出てくるの?  「えっ、なんで?」 質問されたのに質問してました。なんで急にそんなこと言い出すのか、とても気になりました。正直に言うと、もう、少し怯えていました。 「私の勘違いかも知れないけど、今、真由が車停めてるところに時々黒い車停まってるでしょ? いつも後ろ向きだから誰か乗ってるとか分かんないけど、今日私が来た時、その車も来たバッカみたいで向きを変えてるところだったの。で、運転してる人と目が合ったんだけど、なんか彼っぽかったから。あ、出て行くところだったのかな? そのあとすぐ行っちゃったから」 うそ、嘘って言って、思いっきり有り得ることだから。もう勘弁して、またなの? 怖い、本当に怖い。  私が黙っていたので朱美が続けます。 「でも私の勘違いって言うか、見間違いだよね。何年も前に何回か会っただけだからはっきり覚えてないし」 「ほんとにそう思う?」 そう願うように聞きました。 「うん、それに彼だったら梨沙んとこに来てるわけでしょ? あの車は何度も見てるけど彼に会ったことないもんね。まさか、また付き合い始めたのに、私に内緒にしたりしてないでしょ?」 しないしない、内緒どころか、彼とまた付き合ったりしない。でも朱美のその推理は外れているかも。彼が来る理由は私に会う以外にもある、私を見張るため。私と付き合いのある人を見張るため。どうしよう、また始まったんだ、いつまで続くんだろう。 「梨沙? 大丈夫?」 朱美が私の顔を覗き込んでいました。 「あ、うん、大丈夫」 私はビールに手を伸ばして一口飲みました。 「それ、朱美の見間違いだよ。だって、会社辞めてから会うどころか電話もメールもないもん」 そしてそう言いました。彼、中野君の異常な行動、狂人ぶりは誰にも話していません。なのでそう言うしかありませんでした。 「そっか。でもどうしたの? なんか急に顔色悪くなったよ」 顔色に出てたんだ。ま、出るよね、胸の内ではほんとに怯えてるもん。 「え? ああ、仕事。一個し忘れてたの思い出して、まずいなあって」 「そっか、思い出して青ざめるほど大事な仕事忘れてたんだ?」 「うん、明日もちょっと事務所行かなきゃ」 そう言ってこの話を終わらせました。  その夜、私は温かいこたつの中で、震えているような気分で寝ました。  翌日の日曜日、早目のお昼を三人で食べて、三人そろって家を出ました。二人は自分の家に帰って行き、私は事務所へ。昨夜朱美にああ言ったからではありません。もともと今日も宮川様邸の作図をするつもりだったから。  お見積り用の図面なので急ぎではあるけれど、土、日を潰してまで急ぐ必要はありません。でもやる気になっていました。中野君の不気味な存在が迫って来ているのを感じて、重くなった気分でも消えないほどやる気になってました。初めて私が全部考えて描く図面だと言うのも、当然やる気になっている理由です。でもそれ以上に、早く仕上げて青木さんに褒めてもらいたい、それが一番の理由。真紀ちゃんと仲良くしている姿を見たのも、やる気にエネルギーを添えてくれたかも。そう、私と同い年の女の子に負けてられない。私は仕事でおとう……、青木さんに認めてもらいたい。  今日は昨日の図面の変更程度の作業だったので、夕方には終わりました。自宅マンションの敷地に車を乗り入れて駐車場内を見回します。そして車を停めるとすぐに三階まで上がりました。玄関の前で共用通路から下の駐車場をもう一度見回します。黒のミニバンは見当たらない。決まった駐車スペース以外に停まっている車も今日は見当たらない。そこまで確認してから玄関を入りました。  週明けの朝、二案とも青木さんから合格点をもらえました。特に建物をコの字型にして、裏庭を中庭にした発想は褒められました。縁側を回して、中庭に直接面しているお部屋を作らなかったのも褒められました。祖父母の家がそんな感じなので、それが頭にあっただけかもしれませんが、それは言いません。  その案は遠藤さんが見積書を持って行った時に、宮川様も気に入ってくれたと聞きました。そしてそれが基本となりました。  二月になった初日、青木さんのお使いで市山組の教文大の現場に来ました。市山組の佐藤所長に、青木さんから預かった書類や図面をお渡しして現場事務所を出ました。用事はそれだけだったんだけど、なんとなく9号館の方へ足が向きました。そこは青田設計に入ったばかりの頃に来たところ。初めて改修工事の現地調査と言うのをやったところ。と言ってもその頃の私は何も出来ず、ただついて歩いただけ。煤だらけ、埃まみれになっただけ。そして、前原さんと初めて出会ったところ。  私は関わっていませんが、去年の十一月から9号館のリニューアル工事は始まっています。なので以前入った扉から先は、関係者以外立ち入り禁止。その周辺もカラーコーン、コーンバーで近寄れないようになっていました。全くの無関係者ではないけれど、用もないのに入るわけにはいきません。  建物沿いを歩きながら、窓ガラス越しに中の様子を見ていました。天井が剝がされ、コンクリートブロックだった壁はなくなっていました。そして壁だったところの柱や梁に大きな鉄骨が取り付けてあります。壁を取り払った分の補強かな? どんなふうに取り付けてあるのか見たいな、なんて思いながら、それ以上見るものもないので元来た方へ戻り始めました。すると、先ほどの立ち入り禁止の扉からヘルメット姿の女性が出てきました。その人がこちらを見ました。 「梨沙ちゃん」 そして名前を呼ばれました。私もすぐに誰だか分っていました。 「長縄さん」 その人の名前を呼んで小走りで駆け寄ります。長縄さんは前の会社で親しくしてくれていた先輩です。十一歳も上なので気軽に先輩なんて言ってはいけないかもしれないけど。 「久しぶり、元気してた? って、元気そうね、良かった」 「ありがとうございます、元気ですよ」 「どうしたの? こんなところで」 「長縄さんこそどうして?」 「私ね、部署が変わったのよ」 「そうなんですか」 「梨沙ちゃんが辞めたあとね、課長職三級の試験受けて合格したのよ」 「えっ、ちょっと待ってください、長縄さん主任でしたよね」 「ああ、推薦もらったりしてなかったから役職は付いてなかったけど、係長一級までは合格してたのよ。役職付かないと役職手当はもらえないけど、試験受けて合格したら社員ランクは上がるでしょ? そしたら基本給は増えるから」 「そうだったんだ」 「で、課長三級に合格したら、会社が勝手に私の推薦集めて課長にされちゃったのよ。だから今は工事課の副課長」 「と言うことは、メンテ事業部から設備事業部に異動したってことですか?」 「そう言うこと」 「あ、じゃあ、ここの設備工事、松本産業なんですか?」 「そ、空調だけだけどね。来週から工事に入るから下見に来たのよ」 「すごい、でも現場に出るって大変そうですね」 「ぜ~んぜん、今は楽よ。だって、夜勤はないし、土曜は休めないときもあるけど、日曜日はまず休みだし」 「あ、そっか、設備事業部ですもんね」 「うん、異動して思ったけど、メンテ事業部のメンテ課や業務課のスタッフはかわいそうだわ」 「そうですか?」 「そうよ、そこ以外の所はほんとに楽だもん、さっき言った夜勤とかがないだけでもほんとに、気分的に全然違うわよ」 「はあ」 「他からメンテ課とかに異動してきた子がすぐに辞めちゃう理由がわかったわ」 「ああ、それは分かる気がします。私も今更夜勤があるところに戻りたいとは思わないですもんね」 「でしょう。って、梨沙ちゃんは今何やってるの?」 「あ、え~っと、ここにいます」 防寒着には会社名が入っていないので、前を開いて中に着ている会社のジャンパーの胸の刺繡を見せました。 「青田設計、設計事務所にいるの? すごいじゃん」 「いえ、ぜんぜんすごくないですよ、私は使いっぱなんで」 立ち話でお互い一気にしゃべってました。  そのあと自販機で飲み物を買ってから、キャンパス内のベンチでさらに思い出話をしていました。その思い出話の流れで、長縄さんがこう言います。 「そうだ、智子、結婚したよ。去年の秋に」 「ええ? 知らなかった。連絡くれたら結婚式行ったのに。と言うか、二村さんの花嫁姿見たかったです」 そう言うと長縄さんが少し笑ってからこう言います。 「もし、今梨沙ちゃんが、知ってます、私、式に出ましたもん、なんて言ったら、智子のこと殴りに行かなきゃいけないとこだった」 「ええ? 何でですか?」 「だって、私には事後報告だったから」 長縄さんはそう言いながらスマホを操作し始めます。そして手を止めると私の方に向けてくれます。そこにはウエディングドレスを着た、二村さんの写真がありました。そして、お先に! 今日結婚しちゃった、ってコメントが。確かに、いきなりこれが送られてきたらいい気はしないかも。 「ああ、いいなぁ、二村さん綺麗」 でも私の口からはそんなセリフが。 「うん、いい笑顔してるからいいんだけどね」 そして長縄さんもそう言います。 「旦那さんは誰なんですか?」 「幼馴染って奴みたいよ、小、中学校の時一緒だった一つ上の人だって」 「そうなんだ。あ、長縄さんは? 彼氏いましたよね、結婚しないんですか?」 「彼氏ねぇ、どっか行っちゃった」 「え?」 「ある日帰ったら、一人でやり直す、とかってメモ紙一つで出て行った」 「で、連絡は取ってないんですか?」 「連絡も何も、あいつ速攻で携帯も解約したみたいだから」 「そうなんですか」 「まあ、私はもう会社に老後まで面倒見てもらうしかないね。課長なんかにもなっちゃったし」 「……」 「これからよ。社内も今年は静かになるだろうし」 その言葉には反応しちゃいました。 「あの後まだ何かあったんですか?」 なのでそう聞いてました。 「何も聞いてない?」 「はい」 「えっとねぇ、梨沙ちゃんが辞めてしばらくしてから、年が明けてからだったかな? 会社に弁護士が調査に来たのよ、裁判所かなんかの許可取って」 「え?」 「例の写真を公開された人が、最初に写真をネットに流した人を訴えるって。で、公に調べに来たわけ。さすがね、えーっと、堀口さんが辞めたの確か四月だったから、三月か四月には犯人を突き止めたわ」 「堀口さん辞めたんですか」 驚きを持ってそう言ってました。 「うん、メールで社内に流したのも、ネットに流したのも彼女だった。ネットに流してたって方が先に判明したみたいだけどね」 「そうですか」 「会社からは解雇されて、訴えられてる方は……、どうなったか知らない」 結局堀口さんは逃げきれなかったんだ。そんな風に聞いていて、疑問も出てきました。中野君の名前が出て来ない。堀口さんは写真を撮ったのが誰か言わなかったのかな。なんだか中野君だけが運よく立ち回れているのが気に入らない、全ての発端は彼なのに。特に、今は彼の陰にまた怯えている最中なので、特にそう感じました。 「社内ではその後もだいぶその話で盛り上がってたけど、私は興味なかったから」 長縄さんの話は続いていました。 「でも、それで落着したんですよね」 胸の中の思いとは別にそう言ってました。すると、 「その件はね」 と、長縄さん。なので尋ねました。 「何かまだあるんですか?」 「別のことが去年の年末、いや、秋って言うか夏の終わりくらいからかな、私が原因になった騒動が起こったのよ」 長縄さんが原因? 「なんなんですか? それ」 「う~んとねぇ、その頃から私も工事課で担当工事の予算管理するようになったのよ。で、一件、下請けの工事金額がちょっと高すぎるなって言うのに気付いたの。だからその会社に金額の交渉をしたのね、そしたら、その金額で決めてもらったことだし、もう注文書ももらってるのに無理言うな、みたいな返事だったの」 「はい」 「私ね、その時の言われ方になんか腹立っちゃったの、外野は口出すな、みたいな感じだったから。で、受注済みだけど下請けさんに注文書をまだ発行していない工事の書類を、業務課に言って全部出させたの、工事課で工事金額の見直しするからって。そしたらね、他にも何件かあったのよ、金額のおかしな物件。ひどいのは普通に弾いた倍以上のもあった」 「倍?」 思わずそう言ってました。高いにもほどがあります。 「そ、おかしいでしょ。だから、何でこんな金額で決めたのかって業務課に聞きに行ったわよ。そしたらね、予算書作ってるのは営業で、金額決めてるのも営業だって。業務課は発注管理してるだけ」 「そうなんですね」 ちょっと驚いていました。私のいたメンテ事業部では、修理部品や機器、消耗品などの仕入金額を決めるのは業務課。修理工事の工事費を決めるのはメンテ課でした。同じ会社でシステムが違ったなんて。そして、続けて質問していました。 「でも、倍まで違ったら業務課でも気付くんじゃないですか?」 「それがね、業務課、そして総務で見てるのは物件の粗利率だけ。中身まで見てないのよ。粗利率がクリアされてたら、原価がおかしいとかそんなことチェックしてないのよ」 「……」 「で、私、営業の人、あんまり得意じゃないから、金額のおかしい二社の担当の方を呼び出したの、他の会社からあいみつ(相見積り)取ってね。そしてそのあいみつ見せて、金額の違いを説明しろって言ったの。一人はしどろもどろにわけわかんないこと言ったわ。もう一人の方は、もっと安くできるけど、その金額で通ったんだからこっちから安くする必要ないだろ、って、まあ、当然の主張かも知れないけど。どっちにしろ、どちらにもあいみつの金額に合わすように言ったわ。で、どちらもその金額でやると言った」 「まあ、当然ですよね」 「そうよね。それが九月くらいの話。で、十一月くらいにまたべらぼうな金額の入ったやつが出て来たの。それも二件、そしてさっきの二社。同じようにまた呼び出したわ、そしたら今度はどちらも拒否するの、金額下げることに。だったら他の会社に注文するだけのことだからそれでもいいわって言った。すると、注文書は来てないけどもう準備工事始まる物件だから今さらそんなこと言われても困る、段取り始めちゃってるって言うの。それに、それはその金額で約束してくれたから、信用して始めてるのに裏切るようなこと後から言うなって、なんか私が悪いみたいに責めてくるの。確かに着手間近で発注が遅すぎるくらいの工事だった。でもね、私は彼らが金額を変えられないようにそう仕組んだと思ったの。だからこっちも粘ったわよ、絶対にうんと言わない姿勢で。そしたらね、最初に開き直ったようなことを言った担当者から食事に誘われたの、じっくり話したいって。私を丸め込むつもりだなって感じたけど、逆に彼の思惑を聞き出してやろうと思って行ったわ。そしたらね、意外にも真相をすぐに話してくれた」 「……」 真相? って顔をして無言で返しました。 「私の想像は外れてた。彼はうちの営業からその金額を指示されたんだって。それどころか、前回のもそうだし、以前からだって。で、余分に払った分からその営業にバックしてたんだって。そう明かしてからこう言うの、私にもバックするからもう何も言わないでくれって」 「バック? どういうことですか?」 理解出来ずにそう聞いてました。 「例えば、工事代、普通なら百万で済むところを二百万払うから、余分に払う百万の半分、五十万を自分にバックしてくれ、要は内緒で五十万くれってことよ」 「ええ? そんなこと出来るんですか?」 「まあ、時々聞く話だけど、うちの会社の仕事にしては金額が大きいのよね」 「え? で、誰なんですか? その、バックくれって言った営業は」 「その時名前は言わなかった、何度聞いても。でも次の日調べたらね、明らかに金額のおかしい予算書の営業担当の社員番号はみんな同じだった、中野って子」 「中野君?」 驚きでした。声が大きくなってたかも、周りに何人かいた学生さんの視線がこっちに向いたから。 「え? 知ってる子? 親しかったの?」 長縄さんも私の反応に驚いたようにそう聞いてきます。 「あ、いえ、同期なんで」 「そっか、梨沙ちゃんの同期だったんだ」 納得した様子の長縄さんにまた質問しました。 「で、どうしたんですか?」 「う~ん、同期の子のことだとショックかもしれないけど、まあ聞いてね。私はもう一社の方の担当者ともそのあと話したの、今度はストレートにそう言うことかって聞いたの。そしたらしぶしぶだけど認めたわ。だから報告書作ってすぐに会社に報告した。で、会社は会社で再度調べて、私の報告の裏付けを取ってから中野君をクビにした。素直に応じるなら警察沙汰にはしないって言って」 「警察……」 「まあ、会社も大っぴらにはしたくない不祥事だからね、そうしないで済むように脅したのよ」 「そうですか」 「ごめんね、辞めた会社のことでショックな話聞かせて。同期だって知らなかったから、許してね」 「いえ、いいですよ」 途中から俯いて聞いていた私に長縄さんがそう言ってくれました。でも俯いてしまったのは別の理由です。中野君が解雇されているのであれば今何やってるんだろう。また私につきまとい始めた感じがあるのに無職なの? ひょっとして、無職になったから私の所に現れたの? 私につきまとうの? なんだか今も中野君が見ているような気がして怖くなってきました。でも、恐怖を感じながらもう一つ質問しました。 「その、中野君が解雇されたのはいつですか?」 「年末よ。あんまり社内で騒ぎにならないようにってことで、年内最後の出勤日で解雇されたから」 「そうですか」 「ま、無駄だったけどね、すぐに大騒ぎになったから。使い込みやってた、とか、横領で捕まるらしいよ、とか。最近やっと静かになり始めたとこよ」 「彼は、中野君は会社辞めてどうしてるんですかね、実家に帰ったのかな?」 ちょっとでも彼の情報が欲しくてそんなことを言ってました。 「実家? さあ? ごめんね、私は興味ないから噂もろくに耳に入れてないから分かんないな」 長縄さんからはそれ以上何も聞けそうにありませんでした。だからと言うわけではありませんが、それで別れることにしました。すると駐車場に向かいかけた私に長縄さんがまた声を掛けてきます。 「そうだ梨沙ちゃん、あなた携帯の番号変えたでしょ。気持ちは分かるけど、私にくらい新しい番号、連絡くれても良かったんじゃない?」 「ああ、ごめんなさい。そうです、そのつもりだったんですけど、前の電話のアドレス帳、ショップで新しい電話に移してもらったはずなのに入ってなくて、で、連絡できなかったんです。中川さんとかにも連絡したかったんですけど」 そう言いながら名刺を取り出し、その裏に個人の携帯番号を書きました。そしてそれを長縄さんに渡しながら、 「表に書いてある番号は会社のスマホの番号なんで、私個人の番号はこれです」 と、説明しました。すると長縄さんはそれを受け取らずに番号を見ながらスマホを触ります。 「あれ? 鳴ってない?」 そしてそう言います。 「すみません、個人のスマホ、車の中です」 「そっか、じゃあ今ので着信出てるはずだから、私の番号、登録しといてね」 そう言いながら名刺を受け取ってくれました。 「はい」 「それと、この番号、智子と中川さんには教えてもいい?」 「はい、もちろん、お願いします」 「わかった。中川さん、私の後釜で頑張ってるわよ」 「え?」 「主任になって、メンテ課で私がやってた仕事やってるの」  長縄さんと別れたその日の夕方、二村さんから電話がありました。まだ事務所にいた時間だったのですが長話しちゃいました。だって、おめでただなんて聞かされたから。そして夜、夜勤中の中川さんから電話がありました。こっちも長話でした、中川さんの方に仕事の電話が入るまで。  長縄さんと話してから、より一層、中野君の陰に怯え、警戒しながら過ぎた一週間後の二月八日 金曜日。遠藤さんとまたお昼一番で宮川さんのお宅にお邪魔していました。ご了解頂いた見積内容で作図した、平面図、立面図、リビングやダイニングなどのイメージ図、などをお見せして、もう少し細かいご要望をお聞きするために。残念ながらそれらは当然、青木さんが描いたものです。そこで私の平面図から青木さんなりのアレンジが入りました。玄関周りが少し変わったのです。私が撮っていた写真を見て、外から見たイメージと、中に入った時の空間のイメージを、今のお家に近いものに変えてあったのです。  立面図を見て宮川さんご夫婦はすぐにそれに気づきました。 「玄関の雰囲気を残してくれたんだね、ありがとう」 そしてそう言われました。さすが青木さん。  そのあと、本設計の図面に反映させるため、出来るだけ具体的に細かなご要望をお聞きしていきました。でもこの段階では細かな要望はいつもそんなに出てきません。お任せします、と言われる部分がほとんどです。やっぱり具体的にお家が見えてこないとイメージし辛いのかな? それとも、私の聞き出す能力がまだまだ未熟なのか。まあ、大勢に影響することではないですけどね。  打ち合わせを終えて、遠藤さんをハウスアートで降ろしてから帰社しました。帰社後はその内容を青木さんに渡すために整理していました。そんなところへ田子さんがやってきました。 「梨沙ちゃん、ちょっといい?」 「はい」 「今日、仕事遅くまで掛かりそう?」 何かあるのかな? そう思いながら、 「いえ、そんなに忙しくないですから」 と、答えていました。 「そう、まあ遅くなってもいいけど。梨沙ちゃんって青木君の隣に住んでるのよね」 「ああ、はい、そうですよ」 すると田子さんが、昔のゲームキャラクターのマスコット人形を差し出しました、じゃなくて、その人形のキーホルダーが付いた一本の鍵を差し出しました。 「これ、青木君の部屋の鍵。ちょっと様子見て来てくれない?」 そしてそう言いました。  青木さんは熱が出たと言って、昨日は朝から会社に来ませんでした。でもいつも通り家では仕事しているようでした。そして今朝も田子さんの所に、出社しない、と連絡があり、来ていません。なので私は昨日と同じで、家で養生しながら仕事していると思っていました。 「何かあったんですか?」 と言いながら、とりあえず差し出された鍵を受け取りました。 「うん、お昼前に電話したら出なかったのよ。まあ、熱があるって言ってるんだから寝てるのかなって思って気にしてなかったんだけど。でもね、着信出てるはずなのに全然掛かって来ないから、三時くらいから何度か掛けてるんだけどダメなのよ。ひょっとしたら動けないくらいひどいのかも。だから様子見て来てくれないかなって」 「そうなんですか」 そんなひどい状態だったとして、私が行って何したらいいんだろう。そんな気分でそう返しました。 「今朝の電話は昨日よりひどい声だったし」 と、田子さんが付け足します。ますますどうしたらいいんだろう、って思います。すると田子さんがこう言いました。 「ほんとにダメそうなら、救急車呼んじゃってもいいから、その方が早いから」 そっか、救急車までは置いておいても、病院に連れて行けばいいんだ。でも、青木さんの部屋に入るの? って、別のことで躊躇いが出てきました。それが顔に出ていたのでしょう、田子さんがこう言ってきます。 「あ、青木君なら元気な時に行っても間違いは起こらないから大丈夫よ、安心して。じゃあお願いね」 そして笑顔で背を向けて去っていきました。何を想像しているんだろう、田子さん。  そのあとはなんだか落ち着かず、田子さんが帰って行くのを追いかけるように会社を出ました。そして自宅直前でコンビニへ。自分が風邪をひいた時の特効薬、小瓶に入った滋養強壮剤を買うために。確か一番高いので千五百円くらい。高いけど、私の場合はこれと風邪薬を飲んで寝ればたいてい一晩で治ります。でも売り場では一番高いのが千円。思わず店員さんに、もっと高いのあったよねと聞いてました。すると今はこれが一番高いものだと言われる。ドラッグストアとかに行けば二千円くらいのもあるよと。ドラッグストアに寄ってくればよかった。しょうがないので千円のを購入。千円も二千円も一緒だ、と自分に言い聞かせて。  いったん自分の部屋に。いつ買ったか分からない常備薬の風邪薬を探しました。見つけた薬の箱には、咳の症状に最適、って書いてあるけど、まいっか、風邪薬に違いはないし。そして冷凍庫の奥に入れっぱなしの、凍らせても硬くならない枕を取り出す。夏の安眠グッズだけど問題なし、多分。それにタオルを巻いて準備。さらに冷蔵庫のドアポケットから、おでこに貼る熱取りシートを取り出しました。残り三枚、足りるかな? 足らなければ買いに行けばいいだけ、とりあえずのものがあればよし。  準備万端整えて部屋を出ました。そして、田子さんから預かった青木さんの部屋の鍵を手に、青木さんの部屋の玄関扉の前でしばし立ちすくんでいました。本当に入るの? 入っていいの? そう自問して。そして鍵穴に鍵を、そして回す、前に大事なことに気付きました。インターホンも鳴らさずにいきなり開けて入るの? って。なので鍵を抜いて、インターホンのボタンを押しました。部屋の中からうちと同じチャイム音が聞こえる。そして反応なし。少し待ってもう一度押しました。やはり反応なし。と思っていたら扉の向こうに気配がしました。そして鍵が開く音。でも扉は開きませんでした。  玄関扉のレバーを握って、ゆっくり扉を開きました。 「高橋です、失礼します」 と言いながら。すると目の前に青木さんがいました。玄関横の物入れの扉にもたれかかるように立って、玄関に向かって右手を差し出した格好で。 「ああ、高橋さん、どうした?」 そしてそう言います、かすれた声で。ほとんど開いていない腫れぼったい目。本人は微笑んでいるつもりだと思う引きつった顔。私は青木さんの体を押しやるように玄関の奥にやり、靴を脱ぎ、用意してきたものを入れたトートバックを玄関の床に落とすと、青木さんの体を抱えるように寄り添って部屋の奥へ入りました。 「もう、何で起きてくるんですか。寝てなきゃダメじゃないですか」 なんて言いながら。そして、 「いや、僕は大丈夫だから」 などと、聞き取れないような声で言う青木さんの言葉を無視して、私の部屋側にあったベッドに青木さんを押し倒すように寝かせ、布団をかぶせました。  青木さんに寄り添った時、青木さんの体が熱かったです。防寒着は着ていないけれど、まだ会社のジャンパーを着ています。この姿で感じるほど熱かったです。体温を計らなきゃ、でも体温計持って来てない。と思って周りを見回すと、反対側の壁際のパソコンデスクの上にありました。それを手に取り、ボタンを押して検温モードになったのを確認してから青木さんに声を掛けました。 「ちょっとお布団めくりますよ、体温計りますから」 すると青木さんの手が伸びてきました。 「それ、口だから」 そしてそう言うと体温計を手に取って口にくわえました。  青木さんが体温を計っている間に玄関に戻りトートバックを拾ってきました。そしてまず、検温中の青木さんに頭を上げてもらい、タオルに包んださっきの枕を頭の下に入れました。それからキッチンへ。コップを探しに来たのですが、流し横のカゴに洗ったと思われるものがありました。一応それを水ですすぎました。キッチンのテーブルの上には空になったコンビニのお弁当容器が二つと、まだ手を付けていないものが一つありました。それを見ながら青木さんの傍へ戻ります。  まだ検温中の青木さんに、コンビニで買ってきたお水とスポーツドリンクのペットボトル(各2リットル容器)を見せて、どちらがいいか聞きました。スポーツドリンクの方で頷いたのでそれをコップに。その最中に体温計から電子音が鳴りました。青木さんが先に表示を見ています。体を起こした青木さんにコップを渡すのと引き換えに体温計を受け取る時、 「ちょっと下がってる」 と、青木さんが言いました。でも受け取った体温計の表示は38.5度。一体どのくらいまで熱が出ていたんだろう。  半分くらいまで一気に飲んだ後、青木さんが口を開きます。 「高橋さん、どうして」 辛そうな話し方です。 「田子さんから様子見てくるように言われたんです、ここの鍵渡されて」 なぜだか事務的な口調で答えてました。青木さんは残りを飲んでからまた口を開きます。 「そうか、悪かったね、でも、大丈夫だから」 全然そうは見えないし聞こえない。私は青木さんが差し出す空になったコップを受け取りながら、言葉を無視してこう聞きました。 「もう少し飲みますか?」 「いや、いい」 そう言いながら小さく首を振る青木さん。私はそれを見ながら立ち上がって、 「じゃあ横になって寝てください」 と言ってコップを流しに置きに行きました。そしてまた青木さんの傍へ。熱取りシートを用意して、横になった青木さんのおでこにそれを貼ります。その最中、 「ほんとに大丈夫だから」 と言う青木さんのセリフはまた無視しました。無視してこう言います。 「病院行きましょう、私、付き添いますから」 「いや、寝てれば大丈夫」 「でも」 「いや、ほんとに」 なぜだか本当に病院には行きたくないみたい。なのでそれ以上言うのはやめました。その代わりこう聞きます。 「お昼は食べました?」 手を付けていないお弁当を見ていたからでした。 「いや、まだ」 まだって、もう十八時だよ。 「朝は食べたんですか?」 流れでそう聞いてました。 「いや、朝も」 その返事を聞いてちょっとイライラしてきました。 「なんで食べないんですか。食欲ないですか?」 「いや、なんて言うか、面倒で」 面倒じゃなくて、しんどくて、じゃないの? 「分かりました。あんなお弁当じゃなくて、もっと食べやすそうなの作りますから、もう少し我慢してくださいね」 私はそう言いながらキッチンのテーブルの椅子をベッド横に運んでいました。そしてその上に再びスポーツドリンクを注いだコップを置きました。 「いや、いいよ、大丈夫だから」 そんなことをしている私に、青木さんがまたそんなことを言ってきます。 「何が大丈夫なんですか、病院行くの嫌がって、何も食べてないなんて、大丈夫なわけないじゃないですか」 ちょっと口調が強くなってしまいました。 「いや、でも、大丈夫だから」 まだそう返して来る青木さんのセリフは、無視せずに否定しました。 「ダメです。ちょっと自分の部屋に戻って用意してきますから、そのまま寝ててください。のどが乾いたらそこにドリンク置きましたから、それ飲んでください」 そして青木さんの反応を見ずに、私は青木さんの部屋を出ました。  風邪ひいた時の食事と言ったらお粥。冷蔵庫の中でペットボトルに作り置きしている昆布だしを鍋に注いで火にかけます。使い掛けをちょうど使い切るいい量だったので、ペットボトルに残った昆布も刻んで入れることに。お米をざるに入れて水を吸わせておきながら具の用意。鶏肉とニンジン、あとは、あとは、甘くなるから避けたいけど玉ねぎ。お粥作るところまで想定してなかったし、今日は食材を買い込んで帰る予定だった金曜日だから、材料がないんだもん。青木さんの所に持って行ったペットボトルを、青木さんの所の冷蔵庫に入れるときに中を見たけど、あっちの冷蔵庫にも使えそうな材料がなかった。と言うか、ビールと調味料くらいしか入っていなかった。いつも外食かコンビニのお弁当なのかな。  鶏肉とニンジンは小さめに切りました。お米と一緒に最初から炊いちゃうから十分柔らかくなるんだけど、さらに食べやすいようにとそうしました。食感的には物足りなくなるんだけど、食べやすくて栄養になる方を重視です。思い付きでブロッコリーも入れることに。解凍して、これも小さめに切りました。  ガラス蓋つきのお鍋に水を切ったお米を入れます。その上に用意した具も入れます。そして塩と少しのお醤油で味付けした出汁を注ぐ。チューブのやつだけど、そこにおろししょうがも加えます。最初に入れちゃうと香りが飛んじゃうんだけど、体を温めるのが目的だからOK。そしてそのお鍋を持って青木さんの部屋に戻りました。火にかけるのは青木さんの所でやります。持って行った鍋を中火にかけて、青木さんの様子を見たら寝ているようでした。起こさないようにキッチンのテーブルをそっと部屋の中央に移動。そんなに大きなテーブルではなかったので良かったです。  そして再び自分の部屋へ。今度はカセットコンロと一番大きなフライパンを持って戻りました。カセットコンロを移動させたテーブルの上に置いて、水を入れたフライパンを火にかけました。まだ何か作るのかって? 違います、加湿器代わりです。熱があって寒いからでしょうが、エアコンのヒーターがガンガンに効いています。なのでかなりの乾燥状態。私はさっきの短時間の滞在で喉が渇いたほど。石油ストーブがあればその上に水を入れたものを置いておけばいいんだけど、青木さんの部屋には見当たりません。当然私の部屋にもありません。なのでこれで代用。そしてもう一度自分の部屋に戻りました。  使いそうな調理用具や食器を見繕って持ち出しました。その時はこのあとしばらく自分の部屋に戻らないと思って、鍵を掛けることにしました。その鍵を掛けているとき、視線を感じたような気が。ビクッとして下の駐車場を見ました。でも怪しい車も人影もありません。最近ずっと恐れを抱いているので自意識過剰になっているのかも。火に掛けたままの物が二つもあるのでそんなに長いこと気にしていられません。もう一度だけ駐車場とその周辺を見回してから、青木さんの部屋に戻りました。  お粥の鍋がちょうどグツグツし始めていました。小さな火にします。このまま二十分くらい炊いておけば完成。フライパンの方はグツグツしていてOK,水が減ったら足すつもりだし。そして、とりあえずやることがなくなりました。  青木さんの様子を見に行くと熟睡しちゃったようです。お粥が出来上がるころには起きて欲しいな。そんな気持ちで見ていた寝顔は苦しそうでした。そりゃあんなに熱があったら苦しいよね。そんな状態で朝から食べていないのに、よく大丈夫なんて言えるもんだ。私なら絶好調の状態でも、朝からこの時間まで食べていなかったらもうフラフラで倒れてるよ。そんなことを思いながらベッドから離れて、空いているパソコンデスクのイスに座りました。  今日も昼間に座った宮川さんの所にあるのと同じような高機能型のイスでした。宮川さんの所でも思いましたが、このイスとても座り心地がいいです。そんなイスに座って青木さんの部屋を観察。ほとんど私の部屋と同じでした。ま、同じ大家さんが改修工事をするんだから同じになるよね。違うのはどうやら室内の扉や稼動間仕切りのデザインだけのようです。あ、大きく違うところがあります。青木さんの部屋は角部屋なので、リビングに腰窓があります、羨ましい。ちょうどこのパソコンデスクのあるところです。大きなモニターが三つも並んでいるので、だいぶ窓を塞いじゃってるけど。そしてその机のキッチン側に並んで置いてあるのは大きな書庫。建築とインテリアの月刊誌がズラっと並んでいるのが目立ちます。どちらも定期購読しているようで、数年分はあるみたい。そのほかも建築関係の本や雑誌ばかりです。こういうものが揃っているから家で仕事したがるのかな。そしてベランダ側の掃き出し窓の前に置いてある机には、図面など仕事の書類ばかり。リビングは完全に仕事エリアです。  キッチンエリアはさっき私が動かした小さなテーブルとイスが一つずつ。電子レンジが上に載った小さな冷蔵庫が一つ。そして、私の胸くらいの高さの整理ダンスの上に液晶テレビが載っています。それで全部、食器棚はありません。食器は最低限にも満たないんじゃないの? ってくらいのものが流しの下にありました。ガスレンジの下では新品のような片手鍋とフライパンを発見。  そして寝室、ベッドと、ハンガースタンドしかない。なので私の所と同じ広さの部屋のはずですが、こっちの方が広いように感じます。  パソコンデスクの上に目を戻すと、スマホが2台並んで置いてありました。一台は青木さんの手にあるのをいつも見ている会社のスマホ。もう一台はシャンパンゴールド色の見慣れないスマホ。こっちが青木さんのプライベートスマホだ。電話番号の下四桁が私の誕生日になっているスマホだ。そんな風に眺めていると、どちらのスマホも時々小さく青や緑の光で点滅しています。どちらのスマホにも着信があるようです。ひょっとしたらシャンパンゴールドのスマホには、真紀ちゃんから着信があるかな? 掛けても掛かって来ないからヤキモキしてるかも。ううん、心配してるかも。電話してあげようかな、青木さん熱出して寝込んでるよって。そしたら飛んでくるかな? 真紀ちゃんはこの部屋に入ったことあるのかな? そんなことを思いながら青木さんの方に目が戻っていました。そしてあのベッドで……、なんて、胸が苦しくなるようなことを考えていたらスマホが鳴りました。驚きながら振り返ってパソコンデスクの2台を見ます。でも音が遠い、キッチンの方から聞こえます。  私のスマホは会社のジャンパーのポケットの中。そのジャンパーは部屋の中が暑いので脱いでいました。脱いで置いたのはキッチン。この部屋にいろいろ持ち込むのに使って床に置いたトートバックの上。私はキッチンに行き、ジャンパーのポケットを探りました。手に取った会社のスマホには知らない携帯番号が出ていました。知らない番号だけど出ました。 『梨沙ちゃん?』 聞こえたのは田子さんの声でした。 「はい、お疲れ様です」 『どう? もう青木君のとこ行った?』 「はい、今、青木さんの部屋です」 『そう。で、青木君どうなの? 大丈夫そう?』 「今寝てますけど、完全にダウンしてます。熱が八度五分でした」 「八度五分? もう救急車呼んで病院連れてって』 「それが、病院はいいって」 『なんで、で、今、梨沙ちゃんは何してるの?』 「お粥作って青木さんが起きるの待ってます」 『お粥作ったんだ』 「ええ、朝も食べてないって言うから」 『朝から? もう、何やってんのよ』 「とりあえず起きたら食べさせて、薬飲ませますから」 『薬あるの?』 「市販のやつですけど」 『まあ、ないよりましね。でもひどくなるようなら救急車呼びなさいよ』 「分かりました」 『それと、何か困ったらこの番号に電話頂戴、何時でもいいから』 「はい」 『梨沙ちゃんも無理したらダメよ』 「はい」 そのあと、それまではちょっと緊張感のある口調だった田子さんが、いつもの口調でこう言います。 『それにしても、朝から食べてないって、それでよく寝れるわね』 「え?」 『私だったらお腹すき過ぎてて絶対に寝れないわ』 少し吹き出しちゃいました。 「そうですね、私も寝れないかもです」  田子さんと話しながら覗いたお粥のお鍋、もういい感じだったので電話中に早めに火を止めました。そして加湿器代わりのフライパンのお水も二回目がなくなりかけ、こちらも火を止めました。もう部屋の真ん中で湯気を出していなくても十分だと思ったから。なのでキッチンのガスレンジで青木さんのお鍋に水を入れて火に掛けました。あとはここから湿気の補充です。  もう使いそうにないものとカセットコンロ、フライパンを持って一度部屋に戻りました。そしてフローリング用のお掃除モップと替えのシート、それにハンディーモップを持って青木さんの部屋へ戻りました。田子さんとの電話中に気付いたのですが、青木さん、しばらく掃除をさぼってるのかな? 結構お部屋の中に埃が積もっていました。なので軽く掃除するつもりでした。青木さんの部屋にも掃除道具くらいあるだろうけれど、勝手に部屋の中を物色するわけにはいかないし。  と言うわけで、コソコソと青木さんの部屋の床掃除を始めました。すると、掃除機を持って来て先に掛けたいくらいの埃でした。モップの替えシートを使い切ってしまいそう。  ざっとだけど床掃除を終えたところで、持ってきたモップ類を持って一旦自分の部屋へ。そして雑巾一枚持って戻りました。ハンディーモップでは埃が舞っちゃうだけのような気がしたから。あとは雑巾を何度もすすぎながら、パソコンデスクや書庫、箪笥の埃取り。ま、物がなさ過ぎて、拭くところもそんなにないのですぐに終わっちゃっいました。人の家なので元から隅々まで掃除する気はなかったし。  最初に移動させたテーブルを元に戻しました、ベッド横に置いたイスはテーブル替わりなのでそのまま。今は自分の所から持ってきたお盆が上に置いてあります。そしてやることがまたなくなりました。掃除の間、換気も兼ねてリビングの掃き出しと腰窓を開けていたので、部屋の中は私的には快適な温度になっていました。でも青木さんには寒いかも、と思って寝顔を窺いに行くと、相変わらず少し苦しそうな顔で、口で息をしています。そして起きそうにありません。  いろいろやったような気がしますが、時間はまだ十九時過ぎ。やることがないので退屈でした。自分の部屋から持ってきたコーヒーのペットボトルからマグカップにコーヒーを注いで、青木さんの所の電子レンジで温めました。そしてパソコンデスクのイスをダイニングテーブルの所まで移動、それに座ってテレビをつけました。音量を絞って、見ようかなって番組を探す。特にこれってものはなかったけれど、世界中から集めた衝撃映像、って番組が面白そうでそれを見ていました。  クスクス笑ったり、小さく悲鳴を上げて手を握りしめたり、状況を忘れて番組を楽しんでいました。そしてドライブレコーダーの事故映像を集めたコーナーになると、ダメダメ、止まって! とかって、声まで出して見てました。  海外の高速道路走行中の車の映像、遥か前方で二台の車が接触して一台がスピンして止まりました。まだ遠いのに破片が飛び散ったりしているのも見える派手な事故。でも十分様子見ながら減速しても余裕で止まれそうなほどの距離がありました。なのに映像の車はそのままの速度で事故車両に近付いていきます。 「ちょっと、何でブレーキ踏まないの?」 見る見る事故車両が近づいてくる。 「ぶつかるってば」 そう言う映像を集めた番組なのでぶつかるのが分かっててもそう言ってしまう。そして、 「あ、人がいるじゃん、キャッ」 ぶつかった瞬間そう言ってました。そして映像に映っていた人が無事だったのナレーションに安堵して、ナビに出た渋滞情報を確認していて前を見ていなかったからぶつかった、のセリフを聞いて、 「ばっかじゃないの?」 なんて、自分の部屋にいるかのように普通の声量で言ってました。すると廊下からキッチンに入る引き戸が開き、 「なに? テレビ?」 と言いながら、青木さんが現れました。  むっちゃくちゃ恥ずかしかったです。恥ずかしさを隠すようにこう言ってました。 「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」 「いや、ちょっとトイレ行こと思ったら、悲鳴が聞こえたから」 うう、聞かれてたんだ。 「すみません、テレビです、何でもないです」 「そっか」 青木さんはそう言うとトイレへ。見えないところにベッドがあるとは言え、青木さんが起き上がったのに全く気づきませんでした。時計を見ると二十時半に近い時間。一時間以上テレビに集中してました。  でもすぐに動きました。お粥のお鍋をまた火に掛けて温め直し。そしてベッド横からイスを回収してきました。 「高橋さん、ずっといたの?」 再びキッチンに姿を見せた青木さんがそう言います。 「ええ、お水飲みます?」 「ああ、うん、あ、さっきのスポーツドリンクの方がいいな」 そう言う青木さんを回収してきたイスに促して座らせました。そして冷蔵庫からペットボトルを出して、コップに注いで青木さんの前に。 「今、お粥温め直してますから少し待ってくださいね」 そしてそう言いました。 「ありがとう、作ってくれたの?」 「はい」 「ごめんね、手間かけさせて」 「いえ、そんなに手間じゃないですよ」 私はそう言いながら、最後にとじる予定の卵を割って粗溶きにしていました。そんな私を青木さんが見ています。なんだか照れる、私じゃなくてテレビ見ててよ。  ガラスのフタ越しに鍋の中のお粥が温まるのを見ていました。見ながら青木さんの様子を窺うと、まだ私を見ています。なんだか娘を見ている目に見えました。じろじろ見ないでよ、恥ずかしいでしょ、お父さん、なんて言ったら、驚くだろうな。私が青木さんの娘だともう知ってるって、青木さんが知ったらどうなるだろ。当然今のままではいられないよね、悪くなることはないだろうけど。でも私は今がいい、今の環境を変えたくない。だから私からは絶対に言わない。  そんなことを思っていたら鍋の中がグツグツしてました。慌てて卵を流し込み、フタをして火を止める。そしてしばらく待ってからお椀によそって青木さんの前に出しました、スプーンと一緒に。 「口に合うかどうかわかりませんけど」 「いや、おいしそう」 青木さんはスプーンにすくった一口目をだいぶ長いこと冷ましてから口に入れました。猫舌だったっけ? 「うん、おいしい。ありがとう」 「良かったです」 そう言って座ろうとした私に、二口目を冷ましていた青木さんが、 「高橋さんは食べないの?」 と、聞いてきました。どうしようかな、考えてなかった。大体こんな長時間この部屋にいる予定じゃなかったし。お粥食べさせて寝かせたら帰るつもりでした。一緒にお粥食べてもいいんだけど、そんなに沢山作ってないしなぁ。で、思いつきました。 「え~っと、ここに置いてあったお弁当、明日じゃもう食べれないだろうから、あれもらってもいいですか?」 「え、いいけど、あれ、昨日買ってきたやつだから、大丈夫かなぁ」 青木さんがそう言います。昨日か、そしてこの暑いくらいの温かい部屋で冷蔵庫にも入っていなかった。 「ちょっと見てみますね」 冷蔵庫に入れておいたお弁当を取り出して、フタを少し開けて匂いを嗅いでみました。大丈夫そう、それに食べて変だったらやめたらいいし。 「大丈夫そうなんで頂きますね」 なのでそう言って電子レンジに入れました。念のため、表示より三十秒長くして温めました。  お弁当が温まって、私が一口、二口食べた頃、青木さんがお椀を持って立ち上がろうとしました。 「どうしました?」 「いや、これ、まだあるかな?」 良かった、食欲あるんだ。 「ありますよ、座っててください」 青木さんの手からお椀を取りながら私は立ちました。そして鍋の前から、 「普通にもう一度、一杯食べれます? それとも半分くらいにします?」 と、聞きました。 「あるならさっきと同じくらい、もらえるかな」 「分かりました」 そしてよそっていると、 「なんかすごくおいしいよ、いくらでも食べれそう」 と言ってくれます。とても嬉しい言葉。でも、かなりベチャベチャじゃないですか? 寝ているからと思って少し早めに火を止めたけど、それでも二時間もお出汁の中に浸かってたんだから。そう言うのが好みなのかな。大丈夫、こんなので良ければもう一回くらいならお代わりできますよ。  青木さんに二杯目を出してからは、二人してテレビを見ながら食べていました。衝撃の映像に息をのんだり、微笑ましい映像に微笑んだり、それも二人一緒。食べ終わった青木さんに薬を飲ませて、私は洗い物。残ったお粥はお椀に入れてラップをしてから冷蔵庫に。そんなことをしていても青木さんは席を立たずテレビを見ていました。 「寝なくていいですか?」 なのでそう聞いてました。 「うん、ずっと寝てたからさ、なんだか寝れそうにないよ」 それはそうかも。 「じゃあ、何か飲みます? スポーツドリンクでいいですか?」 お茶があればいいんだけど、私に飲む習慣がないので自分の部屋に行ってもお茶っ葉はありませんでした。 「う~ん、さっき冷蔵庫にコーヒー入ってなかった?」 「ああ、ありますよ、温めますね」 冷蔵庫を開けながらそう言うと、 「ううん、そのままでいいよ」 と、青木さん。熱があるから冷たいものが欲しいのか、どんな時でもコーヒーはアイスって主義なのか。そう言われたのでコップに注いだだけで青木さんの前に出しました。私も青木さんに付き合ってアイスのままで。  そして再び二人でテレビ鑑賞。見始めて思いました。私はテレビの正面で座り心地最高の椅子に座っています。青木さんにこっちに座ってもらった方が良かったかも。でも、動物たちの愉快な映像を見ながら笑ってるし、いっか。そして二人ともすぐにテレビの世界に入っていました。 「バカだな、こいつ」 「なんで? そうなるの分かってるじゃん」 と、ドジな映像を見て、二人してそう言いながら笑う。 「おお、ダメダメ、ダメだぞ、アチャ~」 「いや、やめて、やめてやめて、ヤッ!」 なんて、イタイ映像を見て、また声をそろえていました。  私は母と一緒にテレビを見ていたころを思い出しました。その時と全く同じ感覚を味わっていました。やっぱり、お父さんなんだ、そう感じていました。同じところで笑って、同じところでハラハラしてる。この番組を見ている人のほとんどが、同じようなリアクションを取っているだろう、なんてことは考えませんでした。親子だから同じ反応なんだ、そう思っていました。  途中からテレビの映像に突っ込んでいる声が、私だけなのに気付きました。青木さんを見ると起きてはいるけれど、またしんどそうな表情をしています。 「大丈夫ですか? そろそろ寝ます?」 そう声を掛けました。 「いや、まだいいよ」 少し戻っていた元気が、声からなくなっていました。 「そうですか? またなんかしんどそうですよ」 「そう? 大丈夫だよ」 「じゃあ、もう一度、熱、計ってください」 そう言って体温計を渡しました。食事前、お粥を温め直しているときに計ってもらった時は、七度七分まで下がっていました。  体温を計り終えた青木さんが、 「食後だからかな」 なんて言いながら差し出す体温計を見ると、38.6度。来た時より高い。確かに食後は体温が上がるとかって聞いたことあるけど、でもダメだ。 「上がってますね。やっぱり寝ましょ、寝なくてもいいですから、横になりましょ」 私はそう言ってから、食事の前に回収して冷凍室に入れた枕を取り出しました。 「分かった」 青木さんはそう言いながら立とうとしますが、腰を上げたところでふらついたようにテーブルに手をついて動きを止めました。そして中途半端な体勢のまま止まっています。ふらつきが止まらないのでしょう。私はタオルを巻いた枕をテーブルに置いて、青木さんに手を貸しました。また寄り添うように歩いてベッドまで。ジャンパーを脱いでポロシャツ姿の今の格好だと、触れ合った部分の青木さんの体は本当に熱かったです。  青木さんをベッドに腰かけさせてから、 「ちょっとそのままでいてください」 と言って、枕と例の小瓶のドリンクを取ってきました。ドリンクの小瓶を箱から出し、キャップを取ってから、 「これ飲んでください」 と、青木さんに渡します。そして枕をセット。ドリンクを飲み終えた青木さんを寝かせました。青木さんはもう言われるがままにしてくれました。何か言うのもしんどい様子でした。  キッチンに戻って空いたコップ類を洗ってから青木さんの様子を覗きました。もう寝てました。寝ているおでこに熱取りシートを。そしてまたダイニングのテーブルへ。テレビは次の番組になっていました。時計を見ると二十二時過ぎ。一時間以上青木さんとテレビ見てたんだ。二時間近く、熱がある青木さんを座らせてたんだ。そんな風に思いました。  再びさっきまでのイスに座ってテレビのチャンネルを変えてました。そしてニュース番組を見つけて見てました、なんとなくこのまま自分の部屋に戻る気になれずに。  コーヒーを温めようと思って、もう全部飲んじゃったことを思い出しました。自分の部屋には在庫がもう何本かあります。ドラッグストアで安い時に箱買いしているので。それを取りに行くことにします。ついでに使い終わった鍋やら食器、調理用具を持ち帰りました。自分の部屋に戻ってから、朝ごはんは何にしよう、と、キッチンで思案。思案しながら癖のように冷凍庫から食パンを出していました。いつも寝る前に翌朝分を冷蔵庫に移しています。そして、フレンチトーストにしよう、と、決めました。フレンチトーストにするなら完全に解凍されている方がいい。冷蔵庫に一晩入れただけでは中はいつも凍ったままです。かと言って冬場の夜の部屋の中では冷蔵庫と変わらないかも。なので暖房を入れっぱなしの青木さんの部屋に持って行くことに。すでに朝食も青木さんの所でと決めていました。  そんなことをしながら、ついでにお風呂に入っちゃおうかと考えました。でもお風呂に入ったら、楽な部屋着を着たい。でもでも、さすがにそんな格好で青木さんの前に出たくない。なのでお風呂はまた後で戻って来てから、と言うことにしました。  温めたコーヒーを飲みながら、青木さんの部屋のダイニングでニュースを見ていました。二十三時前になって見ていた番組が終了。ガスレンジの鍋の中のお湯がなくなりかけていました。でも、湿気はもう十分でしょう。結露で玄関の扉なんかびっしょり濡れていたし。なので火を止めて残ったお湯を捨てました。そして青木さんの様子を見に。  電気を消した寝室の暗い中でもわかるほど、苦しげな寝顔でした。相変わらず口を開けて、ハア、ハア、と聞こえてくるような呼吸をしています。やっぱりもう少し様子を見よう、そう思いました。  別のチャンネルで再びニュース番組を。ボリュームは何とか聞こえるってところまで落としました。そして、さすがにやって来た眠気と戦うために、コーヒーをもう一杯。でも、無駄な抵抗でした。  ハッと、立ち上がるように起きました。足元に何か落ちたのを感じます。でも真っ暗でよく見えません。頭の中は青木さんの部屋にいることを認識していました。でも、ダイニングの電気を消した記憶はありません。足元に落ちたものは、膝から下にはまだ絡みついているようにありました。すぐに毛布だとも分かりました。青木さんが掛けてくれた? そして電気やテレビを消してくれた? それしかありませんでした。トイレにでも起きた時に私が寝ているのを見てそうしてくれたのでしょう。全然気づかず寝てたなんて、恥ずかしい。  青木さんの様子を見に行きました。普通の表情で寝ていました。自分で剥がしたのでしょう、シートのなくなったおでこに触れてみます。熱くはありませんでした、でも、まだ多少熱はあるみたい。最後の熱取りシートを貼りました。  キッチンに戻って時間を確認すると、四時半を過ぎたところ。もう朝だ、と思いながら、お風呂どころか、歯も磨かないで寝ちゃった、と気づきました。と言うわけで自分の部屋に戻って歯磨き。そして顔を洗おうと思ったところで考えました。朝ごはんにはまだ早いし、青木さんもよく寝てた、今のうちにシャワー浴びちゃおう。  冷え切った浴室を温めるため、シャワーを出しっぱなしにしてしばらく放置。その間に着替えを用意しました。下着、インナー、ジーンズにトレーナー。まだ青木さんの所に戻るので部屋着はやめました。  シャワーを終えて一息ついてから朝食の用意。少しだけ残っていた、ちょっとしなびたサニーレタスとプチトマト、洗って水切り。直方体で売っているハムが少し残っていたので、それを5ミリ角くらいにカット。それとチーズを混ぜてオムレツを焼こう。あとはフレンチトーストの準備。牛乳OK、卵もある、バターはないけどマーガリンでOK。マヨネーズにお塩、お砂糖、青木さんの所の冷蔵庫の中にあったけど持って行こう。あそこにあったものは何年前から触ってないの? って感じだったから少し怖い。  それらをボールの中に詰め込んで、お皿とフライパンも。オムレツ用とフレンチトースト用でフライパンは二つ必要だけど、青木さんの所にも一つあったから一つ持って行けばOK。あ、コーヒーも念のためもう一本持って行こう。  六時前くらいに青木さんの部屋に戻りました。青木さんは変わらず寝ていました。キッチンで静かに下準備をしていたんだけど、気配で青木さんが起きてきました。 「おはよ」 私はそう声を掛けられるまで気付きませんでした。 「あっ、おはようございます」 慌てて挨拶を返します。 「ごめんね、でももういいよ、ありがとう」 「いえ、それより体調はどうですか?」 「あ~、もう治ったかも、快調だよ。強いて言えば、寝すぎて体がだるい感じ」 そう言っておでこのシートを剥がす青木さん。うん、表情はもう元気そう。 「そうですか、良かったです」 「ほんとにありがとう、高橋さんのおかげだね」 「いえ、そんなことないですよ」 「そんなことあるよ。と、ちょっとお水飲みたいんだけどいいかな」 青木さんがそう言って傍に来ました。 「あ、いいですよ、ちょっと待ってください」 私は冷蔵庫からお水のペットボトルを出しました。 「水道の水でいいのに」 そう言う青木さんを無視してコップにお水を注いで差し出しました。 「せっかく用意してあるんでこれ飲んでください」 そう言いながら。ありがとう、って言いながら受け取った青木さんは、ほとんど一息で飲んでしまいます。よっぽど喉が渇いてたんだ。 「まだ飲みます?」 「いや、それより何やってるの? ほんとにもう大丈夫だからいいよ」 「ああ、でも、もう作り始めてますから、じゃあ、朝ごはんまでってことで」 ちょっと思案顔をした後青木さんがこう言います。 「わかった、じゃあそこまで甘えようかな」 「はい」 私はそう返事して流しの方に向き直りました。その背に、 「悪いけど、用意してもらってる間にシャワー浴びたいんだけどいいかな?」 でもそれはどうなんだろう。また青木さんの方を向いて言いました。 「大丈夫ですか? 一度熱計ってください」 「うん? ああ、大丈夫、もう下がってるよ」 でも青木さんは自分でおでこに手を当ててそう返してきます。そしてダイニングの整理ダンスの引き出しを開けて下着を取り出します。私が見てる前で堂々とパンツ出さないでよ。娘の前だとしてもエチケットだよ。なんて思いながらまた流しに向き直って、 「知りませんよ、また熱が出ても」 そう言いました。青木さんは別の引き出しから着替えを取り出している様子。 「大丈夫だって、じゃあちょっと失礼するね」 そして浴室の方に行きました。  青木さんの入浴時間は一瞬って感じでした。でも準備は完了、あとは焼くだけ。青木さんが浴室を出た様子を感じて焼き始めました。焼いてる途中でダイニングに現れた青木さん。イスに座ってテレビをつけます。そんな青木さんに、 「コーヒー飲みます?」 と、声を掛けました。その時見た顔、不精髭のままでした。シャワー浴びたのなら剃って欲しかったな。男性がどう思っているか知らないけど、男性の不精髭のことを女性は快く思っていませんよ。間違っても、カッコイイ、なんて思いません、って、これは私の個人的な意見だけど。 「いや、自分でやるよ」 青木さんはそう言うと、冷蔵庫を開けてコーヒーのペットボトルを取り出します。そしてさっきお水を飲んだコップに注ぎました。そしてペットボトルを眺めています。某コーヒーメーカーの商品。変なものじゃありませんよ、と思っていたら、 「これどこで売ってるの? コンビニ?」 と、聞いてきました。 「それは会社の近くのドラッグストアで買ってます」 「そっか、これうまいよね、俺も買って来よう」 青木さんの、俺、ってセリフ、珍しいなと思いながらこう返しました。 「安売りの時に箱で買うと十二本で千円なんで、一本百円しないんですよ」 「ええ? これ1リットルでしょ、百円しないの? なんか得だねぇ」 「普通の時で百円くらいですよ」 「そうなんだ」 とか話してるうちに全部焼きあがりました。席につく前に私はマグカップにコーヒーを入れて電子レンジへ。冬の朝からアイスコーヒーには付き合いたくないです。そして食べ始めました。  うまい、とか言いながらフレンチトーストを食べてくれる青木さんの姿に嬉しくなりながらの食事でした。多いかな? と思いながら食パン四枚分焼きましたが、青木さんは二枚分を一気に食べてしまいました。ま、私は一枚分で十分だけど、と思いながら、もうなくなってしまいそうなオムレツに手を伸ばしていました。ちなみにオムレツも多いかなと思いながら卵三個使ってます。  青木さんがフレンチトーストをもう一切れ、自分のお皿に取りながらこう言います。 「高橋さんって普段からあんまり化粧してない?」 「え、何でですか?」 と返しながらもう気付いていたけど。 「だって、今、化粧してないでしょ? でも全然違和感ないから」 そう、思いっきりすっぴんでした。シャワーの後の化粧水だけ、リップも塗ってない。そう思ってたらじろじろ見られてました。 「私、そんなに上手じゃないんで、やればやるほど変になっちゃうんですよ」 そう言って、顔を隠すようにマグカップを両手で抱えてコーヒーを飲みました。 「そうなんだ、でも化粧っけ少なくても大丈夫だよ、眉毛もちゃんとあるし」 そこまで見ないでよ。それに眉毛って、青木さん、以外に変なこと知ってるんだなぁ。 「もう、そんなに見ないでくださいよ」 そしてそう言いました。 「ああ、ごめんごめん」 青木さんはそう言ってフレンチトーストを食べます。そしてその一口目を飲み込んだころ、今度はこう言いました。 「そうだ、高橋さんこそ大丈夫? 風邪ひいてない?」 「はい?」 「いや、夜中に起きたら高橋さんそこで寝てたんだけど、寒そうにイスの上で小さくなってたから」 「あ、忘れてました、毛布、青木さんですよね、ありがとうございました」 「いやいや、それはいいんだけど、寒かったんでしょ、大丈夫?」 「いえ、寝てたんで、寒かったのかどうかわかりませんから」 「そっか、ならいいけど」 そして青木さんは二口目を口に。私はプチトマト。と、寝顔を見られていた話は終わったと油断したら、 「ま、かわいい顔して熟睡してるみたいだったから、大丈夫だとは思ったけど」 と、青木さんが口の中に物を入れたまま言いました。どんな顔してたかは言わなくてもいいよ。 「もう、女の子の寝顔、勝手に見ないでください」 「ああ、ごめん、そうだね。でも、勝手に見る以外ってあるの?」 「知りません」 「寝る前に許可取るとか?」 「もう、知りませんってば」  こんな今までしたことのない、会社では絶対しないような会話をしながら朝食を終えました。久しぶりに家庭を味わったような気分の私は、なんだか満たされていました。そして、荷物を抱えて自分の部屋に戻ってから、寂しさを感じていました。
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