第十八章 一年経ちました!

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第十八章 一年経ちました!

第十八章  二月十六日 土曜日、ゆっくり起きて、ゆっくり朝食を食べて、九時過ぎに事務所に着くくらいの時間に家を出ました。先週末、風邪でダウンした青木さん。今週は月曜日から通常運転でした。ちなみに月曜日は建国記念の日でお休み。私は朱美と出掛けたけど、青木さんは仕事していたようです。今日も会社は休みの土曜日だけど、私が出るときには青木さんの車はもうありませんでした。  青木さんとの距離感は今まで通りです。あの日はちょっと家族の空気を感じて胸の中に何かが湧いちゃったけど、それはそれと割り切ってます。私は今のままがいいから。青木さんの食生活を見て、隣なんだからちょっとぐらいお節介しても、なんて気持ちもあるけれど、それも押し殺して知らん振りしてます。  私が今日、休日出勤する理由は杉浦邸。昨夜帰宅前の二十時頃に来社してくださったご主人。内装の仕上げや設置する機器などの未決定だった部分、その全てを決めるために来てくださいました。ほとんどご家族と決めて来てくださっていたので、その部分は決定内容をお聞きするだけでした。でも何か所かは再びサンプルやカタログを見比べて、その場で再検討。途中で何度も奥さんに電話して相談したりして。でもおかげで全て決めて頂けました。めでたし、めでたし。  ご主人がうちの事務所を出たのは二十三時前。お送りしましょうか? と申し出ましたが、タクシーで帰ります、と言ってくれました。と言うわけでお送りしなくて済みましたが、そんな時間から引っ張り出して広げたカタログなどを片付ける気にはならず、私もそのまま帰宅。なのでその片付けと、打ち合わせ内容の整理をする予定です。  事務所に入ると目の前の打ち合わせスペースは昨夜のまま。とりあえず持てるだけのカタログを抱えて隣の設計の部屋に入りました。扉を開けた右側、外の通路と部屋を隔てるガラスの前にプロッターがありました。久保田さん、清水さんの机の間にあったもの。移動させたの? そう思ってプロッターが置いてあった方を見ると、青木さん、清水さんがいました。 「おはようございます。何してるんですか?」 二人が挨拶を返してくれた後、青木さんが答えてくれます。 「笹山の席を作ってるんだよ」 「そっか、月曜日からでしたね」 「うん、清水の仕事を引き継いでもらうから、とりあえず清水の隣ってことでここね」 ま、そうでしょう。でも、清水さんがいなくなったら席が余っちゃうんじゃ? そう思ったけれどそう言っちゃうのはどうかと思っていたら、どこかの業者さんが来ました。事務機屋さん? 机やイスなどの他、パソコンなどを搬入、設置に来たようでした。青木さん達二人が手伝っているので、手伝いましょうか? と声を掛けたら、高橋さんはいいよ、と言われました。なので私は今日出て来た本来の目的をこなしていました。  業者さんがパソコンやスマホの設定まで終えて帰ると、青木さんたちは新しい笹山さん用のパソコンにCADをインストールしていました。同じCADですが最新版なので、清水さんが羨ましがっています。そんな楽し気な二人に背を向けて、私は杉浦邸の議事録を入力中。そしてそれが終わり、決定分の内容を手配してもらうために太田工務店さん向けの資料を作成していたら、隣の部屋から、失礼します、と、男の人の声。声を聞くなり清水さんが、入って来て、と返しました。入って来たのはおじさん、じゃなくて、笹山さん。いかんいかん、なんでだろう、笹山さんを見るとなぜだかまず、おじさん、と認識してしまう。  笹山さんが来ると青木さんは二人から離れて自分の席で仕事をしていました。そしてしばらくすると、 「高橋さん、杉浦の娘さんの部屋、ほんとにこれでいいって?」 と、青木さんが声を掛けてきました。サーバーに入れたばかりの議事録を見ているのでしょう。 「はい、娘さんには勝てないそうです」 話の内容はこうです。娘さんは部屋の壁に貼るクロスを、白い雲が浮かぶ青空柄の、青空がピンクになったものを希望していました。でもご主人は大反対、何年もしないうちに飽きるからやめておけと。息子さんが他の部屋と同じ白いもので良いと言ったことも交渉材料にして説得したようですが、娘さんはとうとう折れてくれなかった様子です。こんなことで勉強の邪魔して、受験に失敗したらお父さんのせい、一生恨むから、なんてことまで言われたと、昨夜話してくれました。まあ、そこまで言われたらお父さんの方が折れるしかないよね。 「そっか、じゃあすぐに手配してもらわないといけないね」 「はい、今、他の所も含めて手配してもらわないといけない内容を太田工務店さん向けに整理してるんで、終わったら見てください。良ければすぐに送っちゃいますから」 「わかった」 と言っても、もうそれも終わるところでした。いくらもしないうちに作成を終えて見直し。そして青木さんのフォルダへ入れました。 「青木さん、今、青木さんのとこに入れました。確認してください」 「わかった、ちょっと待ってて」 その青木さんの返事を聞いて、私は後ろを振り返りました。そして立ち上がり、キャビネット越しに清水さん、笹山さんのやっていることを覗きました。  どうやら清水さんが笹山さんにCADの使い方を教えているようです。笹山さんってCAD使えないの? と、思ったまま口から出てました。 「笹山さんってCAD使ってなかったんですか?」 「すみません、会社の設計システムに専用のCADがあったので、このCADは初めてなんです」 笹山さんが手を止めずに答えてくれました。それを受けて清水さんがこう言います。 「初めてじゃないだろ、学校もこのAーCADだったし、バイトで青木さんの仕事やってた時も使ってたじゃないか」 「そんなのもう覚えてないですよ。JーCADなら現場で使ってる人がいたんでたまに触ってたんですけどね」 私にはよくわからない話でした。同じだと思ったCADにも種類があって、種類が違うと教えてもらわないと使えないほど使い方が違うんだ、と言うのは分かったけれど。 「高橋さん、OK」 青木さんから声が掛かりました。 「ありがとうございます。じゃあ依頼しちゃいますね」 「よろしく」 私は太田工務店の杉浦邸の監督さんに宛ててメールを作成。議事録を含めた資料を添付して、手配を依頼しました。そして数分経ってからその監督さんに電話。工事現場は土曜日は休みではありません。思った通りすぐに出てくれました。メールを送ったことを告げて、手配をお願いしました。  青木さんが声を掛けて、そのあと四人で下の喫茶店へ、ランチです。この四人での食事は早くもこれで二回目。食後、事務所に戻って何かしようか、帰ろうか、と思っていたらスマホが鳴りました、遠藤さんから。 「はい、高橋です」 『梨沙ちゃん今日休み? どっか行っちゃってる?』 いきなりそう聞かれました。 「いえ、事務所にいますけど」 もう嫌な予感しかしませんがそう返していました。 『よかった、四時なんだけど、えっと、天白の原駅、その近くまで来れる?』 「え? ええ、大丈夫ですけど。何があるんですか?」 原駅ならそんなに遠くない、そこに十六時なんて問題ありませんでした。 『宮川さんの息子さんから電話があったのよ、話がしたいって。で、その息子さんの自宅の近くで会うことになったの』 それは問題だ、多分。それに、私が行く必要があるのかな。 「何かあるんですか?」 拒否モードの口調で聞きました、意味ないだろうけど。 『さあ? 実家の建て替えのことで、って言われただけだから』 ほんとかなぁ。 「そうですか。でもお客さんと会うなら私服じゃまずいですよね。今日は休日出勤で事務仕事だけの予定だったんで、私、思いっきり私服なんですよ」 今度は拒否モード全開の内容で答えました。 『そっか、でも四時ならまだだいぶ時間あるから、着替えに帰れるんじゃない?』 やっぱり無駄でした。 「どうしても、私も同席しないといけないってことですか?」 もうストレートにそう聞きました。 『う~ん、どうしても一緒に行けないって理由が何かあるの?』 ズルい、そんな風に言われたら何も言えないじゃん。言えない理由ならいくらでもあるけどね。 「分かりました。四時ですね、詳しい住所か何か教えてください」 結局いつもこう言わされてしまいます。  十六時の数分前、電話の後に送られて来たメールに書かれた喫茶店の前に来ました。遠藤さんからは三十分ほど前に、 『少し遅れるかも、また連絡する』 とメールがあり、少し前に、 『今から向かう、三十分くらい遅れる。よろしく』 と、再びメールが来ました。ここの前に一件打ち合わせがあると言っていたから、そっちが長引いたのでしょう。でも、よろしく、って、勘弁してよ。と、思っていたら、 「ハウスアートさん?」 と、声を掛けられました。四十前後のさっぱりした感じの男性でした。 「あ、あの、宮川さんですか?」 名乗らず聞いてました。 「そうです」 「すみません、ハウスアートの遠藤さんなんですが、ちょっと遅れるみたいなんです。私はハウスアートさんの設計をさせて頂いている青田設計の者です」 そう言いながら名刺入れを取り出し、高橋です、と言いながら名刺を渡しました。 「設計事務所の方ですか。ま、とりあえず入りましょうか、寒いんで」 名刺を受け取った宮川さんがそう言って店に入ろうとします。ついて入るしかありませんでした。  注文を済ませたあと宮川さんが口を開きます。 「午前中、実家に行ってました」 「はい」 「その時に建て替えの話を初めて聞きました」 「はい」 「高橋さんはうちの両親と話をしている方ですか?」 「はい、最初の打ち合わせからお話しさせて頂いてます」 「そうですか、それならいい」 そう言う宮川さん。何がいいんだろう? 「あの、実際の所をお聞きしたいんだけど」 「はい」 「あの家を最初に壊そうと言い出したのは誰ですか?」 「はい?」 意味が分かりませんでした。 「設計事務所として修理や改修工事をするより建て替えた方が早い。そう言う判断で高橋さんが言い出したとか」 何が言いたいんだろう、本当に意味不明です。 「いえ、違います。私は宮川さんのご両親からの依頼だと伺っています」 息子さんにどんな意図があるのか分かりませんが、私は私の知っていることしか答えられません。 「伺ってる、誰からですか?」 「ハウスアートさんからです」 そこで注文したコーヒーが運ばれてきました。息子さんはさっぱりと言うのか、スマートと言うのか、見た目で感じた通りの丁寧な話し方と物腰なんだけど、なんだかもう威圧感を感じていました。  ミルクと砂糖を入れたコーヒーを一口含んでから、宮川さんが尋問を、もとい、話を続けます。 「じゃあ、ハウスアートさんが取り壊すように言ったのかな?」 「いえ、それはないと思いますけど」 「思います、その言い方は、本当の最初のやり取りは知らないと言うことですか?」 「ああ、はい、知りません」 「それはなぜですか? さっき最初の打ち合わせから同席されてたって言いましたよね」 「あ、すみません、正確には、ご両親がハウスアートさんに建て替えのご相談に行かれた翌日からです。今のお宅に実際にお邪魔して、お打ち合わせさせていただいたところからです」 「なるほど。ではうちの両親がハウスアートさんに、建て替えの相談に行ったのか、修理工事の依頼に行ったのか、高橋さんには分からないわけですね」 「ええ、まあ、そうです」 ほんとに何なんだろ。 「と言うことは、ハウスアートさんが取り壊しを提案した可能性があるわけですね」 「はあ、でも、それはないと思います」 「ない、と言い切れる理由はなんですか?」 言い切れる理由、なんて言い方されたら次に口を開くのが怖くなります。でもこう言いました。 「私が同席したお打ち合わせの最初の方で、ハウスアートの遠藤さんがご両親に念押しされてましたから」 「念押し、どういうことですか?」 「この立派なお家を本当に壊すんですかって、そう確認していました」 そこでしばし沈黙。見つめられていました。見つめられてって言うのは変だけど、睨まれてって感じではありませんでした。宮川さんの目は悪意の感じられない純朴ななものでした。でも、何を考えているのかわからない無の黒点でもありました。 「失礼」 そう言うと、宮川さんは視線を外してカップに手を伸ばします。私もそのタイミングでコーヒーに口をつけました。口の中が乾ききっているように感じていました。 「本当に壊すのかと聞かれて、うちの両親は何と言いましたか?」 そしてまた質問されました。 「壊すとおっしゃいました。あ、いえ、裏のお庭だけ残してあとは壊して、そこに小さな家を建てて欲しいとおっしゃいました」 出来るだけ正確に答えておかないとまた何か突っ込まれそう、そう思って言い直しました。 「裏の庭、客間の所の池のある庭か。そこだけ残してあとはすべて壊す」 「はい」 独り言のような宮川さんのセリフにそう言ってました。そしてまた無言の時間。私はまたカップに手を伸ばしました。 「どう思いますか?」 カップを置くといきなりそう聞かれました。 「はい?」 「ああ、あの家を壊すことをどう思いますか?」 どうって聞かれてもねぇ、どうしよう。思ったまま答えるしかないかな。 「家というか、私から見たらお屋敷としか言えないような立派な建物なので、勿体ないとは思います」 「ですよね、勿体ないですよね。あんな家、もう二度と建てれないですよね」 「かも知れないですね」 「ならなんで壊すんですか」 「え?」 「壊すんでしょ?」 「いえ、それは……」 「勿体ないと言いましたよね、なのに壊す、おかしいですよね、矛盾してますよね」 そんなこと言われても仕事なんだもん。もうこの人に何も言いたくない、何か言ったら全部揚げ足を取られそう。 「それは私の意見で、実際に取り壊すのかどうかを決められるのは宮川さんのご両親ですから」 「なるほど、それはそうですね」 そう言うと宮川さんはまたカップに手を伸ばします。良かった、納得してくれた。 「でも、うちの両親が壊すと決めたら壊すんですよね」 うう、納得してないかも。 「それは、まあ、そうです」 「勿体ないと思っているのに壊す。そんな矛盾があなたの中に成立しちゃっていいんですか?」 私の中に? いや、そんなこと言われても、そんとこまで考えて生きてないですよ。私の思いと現実の生活、そんなの矛盾だらけだよ。と言うか、みんなそうなんじゃないの? 思い通りに生きてる人なんかいないよ。 「仕事だからですか?」 返す言葉を探していたらさらにそう言われました。 「そうですね」 「そうですか、仕事なら何してもいいって人ですか」 スマートな雰囲気でさらっとそう言われると辛いです。怒鳴りつけられるよりこたえるかも。なんとか突破口を探さなきゃ。そんな思いでこう聞きました。 「あの、宮川さんはあの家を壊すことに反対なんですか?」 「もちろんです。あなたと一緒で勿体ないと思っています」 「そうですか」 思った通りの答えだったけど、このあとだよね、このあとどういう話にしよう。そう思っていたら宮川さんが続けました。 「あの家、昭和の前からあるんですよ。今まで台風や水害の被害にも会わず、戦争も生き延びた。そんな家を壊せるわけないじゃないですか」 昭和の前、百年くらい前ってこと? そこまで古い家だったんだ。 「そんなに昔からあるんですね」 思ったまま口から出てました。 「そうですよ、うちの家の歴史が全部あの家にあるんです。当然私の思い出も、今ではうちの子供たちの思い出もあそこにあるんですよ」 そう言われるとまた言葉に詰まってしまうところですが、古い、ってことで一つ思い付きました、いえ、思い出しました。 「そうですか。でも宮川さんのお父様からお聞きしたんですが、その、古いおたくなのでいろいろ痛んでくるようで、その修理をしているだけでもかなりお金が掛かっているようですよ。なので維持し続けるのは難しいと言うご判断じゃないですか?」 またドリンクタイムになりました。そして続きます。 「でもそれは親父の義務です。あの家を引き継いだんですから、親父には維持する責任があります」 「そうは言ってもこれからどのくらい掛かるのかわからないですし」 「それはしょうがないことですよ」 「そうですか。でもご両親はそろそろ老後ってお年ですよね、これからの収入などを考えると、きりがない出費は避けたいんじゃないでしょうか。お使いになっていない部分がほとんどですし」 「でもそこは、貯蓄を切り崩してでも維持してもらわないといけないことですよ」 なんでそこまで、って思いと同時に、こんなことも頭に出てきました。 「あの、どうしてもあの家を維持したいと言うことであれば、修理などにかかるお金を宮川さんの方でも負担するよ、とかってご両親にお話しされたらどうですか?」 そうしたらご両親もあの家を維持する気になるかも。ハウスアートはこの仕事がなくなって、うちもなくなるんだけど。 「それは無理ですね、うちは関係ない」 なんだそれ? 関係ないってどういうこと? 関係ないことにこだわってるの? 「それにそう言う話は僕じゃなく、姉がするべき話だ」 「どう言うことですか?」 「言葉通りです。姉がいるんで、親父が出来ないと言うなら姉がするべきだ。僕がすべきことじゃない」 おかしくないですか、言ってることが。 「あの、お姉さんもあの家を残したいとおっしゃってるんですか?」 まずはそこから確認。 「いえ、姉はかなり前から建て替えろって言ってますから。自分のとこの子供があの家で怪我したとかで、危ないからって」 なんか話がほんとにおかしい。この人の方こそ矛盾だらけじゃん。 「あ、すみません、正確じゃなかったです。姉は、建て替えろ、ではなくて、売ってしまって、そのお金で駅の近くとかスーパーの近くの生活しやすいところに、二人で住むだけの家を買えって言ってました」 お姉さんに賛成! 思わずそう言って手を上げてしまいそう。でもそれが現実的だ、そう思います。 「姉は嫁いでいった身ですからね、無責任なもんですよ」 そうなのかな。なら、 「では、あの家を継がれるのは宮川さんですよね。でしたらその家を残すための費用は、宮川さんが考えないといけないんじゃないですか?」 と、聞いてみました。 「なんでですか」 想定外にあっさりした言葉が返ってきました。 「僕には僕の家があるんです。僕は僕の家を守ります。あの家は親父の家です。あの家を守るのは親父の責任です」 頭痛いです。早く遠藤さん来てよ、私じゃ無理。 「なら、お父様があの家を壊すと言ってもしょうがないんじゃありませんか?」 少しだけ感情的になってしまったかも。 「なんでですか」 またこのセリフだ。 「あの家はうちの歴史そのもの。さっきも言いましたけど覚えていないようなのでもう一度言いますね、僕や僕の子供たちの思い出の一部なんです。それをなくしていいなんて、親父に決めれることじゃないんですよ」 なら、息子さんなら決められるの? 「もしですよ、こういう話をしてはいけないのかも知れませんけど、もし、今お父様が亡くなられて、宮川さんがあの家を引き継いだらどうします?」 「引き継ぎませんよ」 「え?」 「あなた、本当に話を聞いていませんね。僕には僕の家があるんです、そう言いましたよね、覚えてませんか? なんでもう一つ家を持たないといけないんですか」 「……、と言うことは、その場合、あの家はどうなるんですか?」 「姉が残すと言わない限り処分するでしょうね、残念ですけど」 もう分らない、この人が何を考えているのか本当にわからない。 「なら、今お父様が壊して建て替えても同じじゃないですか?」 「なんでですか」 もういいってば、そのセリフ。 「あの家は親父の家で、親父に責任があるんです。家を残す、歴史を残す、そして家族の思い出を残す。分からないんですか?」 分かりません。お父様にだけ責任、そして負担を押し付ける息子さんの頭の中が理解できません。 「これ以上話しても意味がないですね。あなたも親父や姉と一緒で、人の心を持っていない人みたいだ」 そう言って宮川さんが席を立ちます。何か言わなきゃ、そう思っているところに、宮川さんがテーブルの伝票に手を伸ばすのが目に入りました。それを見てこう言ってしまう。 「いえ、ここはうちで」 そして先に伝票を手に取りました。 「そうですか、では、ごちそうさまでした。失礼します」 宮川さんはそう言いながら出て行ってしまいました。私は伝票を手に、腰も上げれませんでした。  感情的にもならず、スマートな雰囲気のまま話を続けた宮川さん。ひどいことは言っていたけれど、汚い言葉なんかは使わなかった。だからかな? 支離滅裂で矛盾だらけの話に腹がっ立っているはずなのに、こちらが一方的に悪い気になっている。人の心を持っていない、最後に言われた言葉。余計なお世話! それに、あんたに言われたくない! って思っているのに、そうなのかも、とも思っている。だって、宮川さんの心が分からなかったから。あの家には宮川さんの思い出が詰まっている、だから何としても残したい。でもそれはお父さんのすべきこと。お父さんが生活を犠牲にしてでもすべきこと。そして自分にはその責任はない。自分では残す気がない。その心がわからない。そんな自分勝手な気持ち、わかるわけない。て言うか、分かりたくもない。なのに、それが人の心を持っていないってことなのかな、と、なんだか胸の底に溜まっていました。  鞄からスマホのブルブル音がする、取り出しました。遠藤さんから? なんて思いませんでした。沈んだ頭の中は空っぽでした。電話は広瀬様邸の監督の源さんから。お昼からお施主様が現場に見えて、何か所か追加や変更のご要望があったので、その内容をメールしたとのことでした。急いで帰って目を通さなきゃ。やることが出来て、考えることが出来て喜んでいました。すぐに清算してお店を出ました。そして駐車場の清算もして会社を目指して走り出す。本当に遠藤さんのことが頭から抜けていました。いえ、宮川さんに関わることを締め出していました。  当然のことですが、喫茶店に着いた遠藤さんから電話が掛かってきました。そこで遠藤さんのことを思い出し謝りました。電話で遠藤さんに話しの内容を説明。少し、いえ、かなり感情的に話したかも。でも、息子さんが建て替えに反対なのと、私が傷ついたことは分かってくれたみたい。気にしないで、と、慰められて話は終わりました。慰められて、余計に沈んだ気もするけど。  重たい気分と足で事務所に戻ったのは十七時過ぎ。まだ人がいました、一人が良かったのに。そう思いながら設計の部屋に入ると、笹山さんが一人でした。 「お疲れ様です。笹山さんだけですか?」 「はい」 一瞬私の方に小さく頭を下げてから返事をくれます。少しイライラ、それだけじゃわからないって言うの。いや、笹山さんだけだと言うのは分かったけれど。 「青木さん、清水さんはもう帰ったんですか?」 「はい」 はい、しか言えないのか。と思いながら振り返って笹山さんのしていることを見ると、CADのタスクバーにあるコマンドボタンなんかを一つずつ試しているようでした。隣の画面にはCADのマニュアルだと思われるものが開いています。そしてそれを見ながら、数値や座標を入力、設定したりして、どんな線や図形が描けるのか確認しています。つまり、ここのCADを使いこなそうと真剣に勉強中。話し掛けた私の方が悪いかも。  自分の席について源さんからのメールを確認。文面と添付資料を全部打ち出しました。大した内容でも量でもないのですが、源さんの性格なのでしょう、いつも丁寧過ぎるほど資料が添付されています。今日の内容は、青木さんに見せて了解を取る必要もない物ばかり。変更追加事項ってことでハウスアートの遠藤さんに報告するだけ。それを増減清算の内訳に加えるのは遠藤さんの仕事だから。  と言うわけで、遠藤さんへの報告書を作りました。資料は源さんが添付してくれたものを流用。完成した報告書、まだ送りません。さっき青木さんに了解を取る必要はないと言いましたが、送るのはやっぱり見せてからです。  そのあと、他にも何件か届いていたメールを確認。すぐに調べて返事出来るものは、返事を返していきました。そんなことをしていただけですが時間はあっという間に過ぎて十九時前でした。もう帰ろう、と思って後ろを窺うと、CADの画面は閉じてありました。マニュアルの方はまだ開いてあり、マウスでスクロールさせながら見ている様子。でも、いかにも手持ち無沙汰って感じです。私が終わるの待ってた? 「私、そろそろ帰りますけど」 パソコンの電源を落としながらそう言いました。 「ああ、えーっと、それじゃあ僕ももう終わりにします」 そう返して来る笹山さん。でも、もう何もしてなかったじゃん。笹山さんは慌てた様子で帰り支度を始めますが、なんだかお芝居っぽいです。暗くなった冬の夕方、女の子一人残して帰れなかったのかな? ありがたいことかもしれないけれど、今時そんなのはおじさん思考だよ。  笹山さんが席を立つのを待って部屋の電気を消しました。そして戸口へ。鍵を閉めながらふと気づいて聞きました。 「私が帰って来なかったらどうするつもりでした? もうここの鍵もらいました?」 「いえ、清水さんが、高橋さん帰ってくるって言ったんです」 清水さん、その予測が外れたらどうするつもりだったんだろう。と思ってこう言ってました、階段に向かって並んで歩きながら。 「私が直帰するかもとかって考えなかったんですかね、清水さん。今日は土曜だし」 すると返答はこうでした。 「パソコンの電源が入ったままだから、帰ってくるって言ってましたよ」 私の行動は既に見抜かれていました。さすが清水さん、予測じゃなかったんだ。 「笹山さんは地下鉄ですか?」 建物を出たところで聞きました。 「はい」 「じゃあ、私は駐車場向こうなんでここで」 「はい」 「では、月曜からよろしくお願いします」 そう言いながら小さく頭を下げました。 「ああ、そうですね、こちらこそ、よろしくお願いします」 そう言いながらきっちり頭を下げてくれます。もう、ほんとにこの人おじさんだ。こんな小娘に、いい年した男の人がそんなことしないでよ、周りに人がいるんだからやめてください、恥ずかしい。  二月十八日 月曜日の朝、もう今さらですが、笹山さんの入社の挨拶を聞きました。ま、それだけ、普通の月曜日です。  清水さんと笹山さんはしばらくして出掛けて行きました。青木さんも二人に続くように出掛けました。IKO都市開発さんから呼び出された様子。そして、いつの間にか久保田さんもいませんでした。  と言うわけで事務所には私一人。あ、毎回言ってるかもしれませんが、隣の部屋には田子さんがいますよ。  来月竣工の広瀬様邸と杉浦様邸、直前に慌てなくていいように、この二件の竣工関係の書類の準備を始めました。ま、その都度整理してあるのでそんなに手間ではないけれど。  ちょっとのんびり目に広瀬様邸の整理を終えた頃、隣から話声、そして後ろの扉が開きました。振り返ると入って来たのは遠藤さん。 「梨沙ちゃん、土曜日ごめんね」 そしていきなりそう言います。 「いえ、こちらこそすみませんでした」 「昨日ね、て、なにこれ? ……誰か新しい人、入ったの?」 話しながら入って来た遠藤さんですが、まず右側に置かれたプロッターに気付き、左側の清水さんの机の隣に机が増えているのを見てそう言います。 「ああ、一人、今日からです」 「そうなんだ、図面描く人?」 「そうですよ、清水さんの大学の後輩で、上野池にいた人です」 「へ~、上野池、給料安すぎて食えないって転職してきた?」 「えっ、そうなんですか?」 上野池って割と大きな設計事務所のはずだけど、お給料安いの? 「ま、それよりこっちの話。近くに来る予定があったから直接話そうと思って寄ったけど、あんまり時間ないのよ」 遠藤さんは私の問いかけを無視してそう言います。そして続いた遠藤さんの話は宮川さんのことでした。  遠藤さんは日曜日の昨日、宮川さんの所に行ったそうです。その前日に息子さんから、建て替えに反対だ、と言うような話があったことを告げに。すると昨日は娘さん、土曜日に私がお会いした息子さんのお姉さんもお見えになり、三人からこんな話を聞いたそうです。  宮川家で最初に家の建て替えの話が具体的に出たのは、先日私もお聞きした数年前の床下浸水の後のこと。浸水被害の復旧や修理等で結構な費用が必要になると判明した後の家族会議。ご両親、娘さん、息子さん、この三者で意見が分かれました。  その前から二階の一部で発生していた雨漏りなどの修理も含めると、さらに高額の費用が必要になる。数年前にも別の場所の雨漏りでお金が掛かっている。そういうことを踏まえてご両親は建て替えを希望。すると娘さんは、もっと生活に便利なところに引っ越すように提案。先祖からの家を残す気がないなら、年寄りがこんな不便なところで暮らす必要はないからと。そして息子さんは、建て替えにも引っ越しにも反対。修理し続けることになっても今の家を残すことを主張。  三者相容れない格好でしたが、最初に折れたのは娘さん。それは、ご両親が家を建て替える気にはなったけれど、今の場所を離れる気はないと知ったから。でもそうなると娘さんは家を残して欲しい。弟と同じで自分も生まれ育った思い出いっぱいの家、壊して欲しくない。でも、これから老後となっていく両親が、維持費用のことを心配するのも頷ける話。なので娘さんは提案しました、維持費用は姉弟でも出来るだけ負担すると。そして息子さんもそれに同調。結果その時は、そこまで言われたご両親は家を維持していくことにします。  その時の高額な修理、復旧費用は、ご両親が半分負担、残り半分のさらに半分ずつを姉弟で負担、と言うことになりました。でも、支払いの段になって息子さんが支払えないと言い出した。自分の家のローンがあり、子供たちもこれからどんどんお金が掛かっていく時期、そんなことにお金は払えない、と、奥さんに拒否された、と言うのがその理由。  娘さんの所も家庭の状況は同じ。でも娘さんは旦那さんに頼み込み、預金の一部を使うことを了解してもらっていました。また、家計の足しにと働いているパート代から、内緒で貯めている自分の貯金も使おうと決めていました。なので当然の様に姉弟喧嘩となりました。  この時は、初めからお前たちに負担してもらう気はなかった、と言うご両親からの一言でとりあえず収束。でもその後も家の修理問題が発生する度に、小さな姉弟喧嘩も発生。そしてある時娘さんが弟に、私達が継ぐことになる家を守る気がないのか、と聞いたところ、その継ぐべき両親の資産から修理費を出しているんだから、相続分を先に使っているのと同じ、結果的には自分も払ってることになる、との返答。そしてついでとばかりに、その時いくら貯蓄があるのかとご両親に聞いたそうです。さすがにご両親もそれには閉口。それから息子さんだけ家族の中でちょっと浮いた存在になったようです。  遠藤さんは私の机と並んでいる長机の折り畳みイスに腰かけていました。そして、時間がない、と言う前置きに反して長話でした。 「で、結論なんだけど、息子さんのことは無視してくれていいって」 「無視、ですか……」 無視できるかな。直接会って話をした私にはまた電話でも掛かってきそう、名刺渡しちゃったし。そしたらやっぱり話聞いちゃうよね。言い分は無視できても、話すことまで拒否できないよね。無視する前提の話を聞くなんて気が重い。でも遠藤さんは明るく言います。 「そ、気にしないで進めてってことだから」 ま、図面はもう煮詰めちゃってて着工出来るレベルだし、並行して久保田さんにも事前審査に出す書類の準備をしてもらってるし、進めていいって言ってもらうのはありがたいことです。施工することに決まった菅野工務店さんも、再来週くらいから追加となった準備工事に入るみたいだしね。この追加工事と言うのは、建て替え工事の間の家具などの避難場所作りです。門から敷地に入って右側に、二台ほど車の入るガレージがあるのですが、そこはもともと農耕機置き場。奥には作業場もあります。比較的新しいその建物ですが、長年車庫としか使っていなかったところ、現状では雨風が完全に防げる所ではありません。そこに最低限の修理を施して使うのです。ほんとに最低限、仮設工事より簡単なものです。だって、最終的にはそこも壊すところだから。建て替え工事中、ご夫妻は近くのアパートを借りる予定です。 「分かりました。ありがとうございます」 私がそう返すと、 「じゃあ、そう言うことでお願いね」 と、やっと腰を上げる遠藤さん。でも戸口へ向かいかけて振り返ります。 「昨日ね、私が帰る時に娘さんが見送りに出てくれたの」 そしてまた話し始めました。 「その時ちょっと立ち話したんだけど、あの家、弟さんにとっては自慢の家だったんだって」 「……」 「古い造りの家だから襖だけで部屋が仕切られてるでしょ? リビングの奥なんて三部屋が二列で、六部屋が襖で仕切られてるだけなんだって」 「と言うことは、襖を全部取っちゃえば六部屋分の大きな部屋になるってことですか?」 壁がなくて柱だけってことだから地震に弱そう、なんて思いながら質問してました。こんなことを思うのもこの会社に入ったおかげだけど。 「そう言うこと。ま、その広い空間で遊べるって言うのもあるんだけど、襖が重要だったみたい」 「はあ」 重要って意味が分からずそう返していました。 「分かんない? 忠臣蔵とか観たことない? 時代劇の討ち入りシーンとかであるじゃない、どんどん襖開けて、部屋から部屋へ敵を探して歩くみたいなの」 「はあ」 「そいうことが出来るのはあの家だけだ、って友達に言われて自慢だったんだって。だからしょっちゅうあの家に友達が集まってたそうよ」 面白そうだけど、男の子の遊びだよね。かくれんぼに使ったら、鬼になった時、大変そう。そんな程度の思考で、 「そうですか」 なんて気のない相槌をまた打ってました。すると、 「ほんとに分かんないみたいね」 と、遠藤さんに言われてしまいました。 「友達があの家に集まるってことは、弟さんはいつも友達の輪の中心にいたってことよ、あの家のおかげで」 そこまで言ってもらってやっと理解しました。 「そっか、だから息子さんはあの家を残したいんだ」 「そ、でもね、お姉さんにもその思いはあるのよね」 「それはそうですよね」 「ただ、弟さんの思いは、お姉さんよりはるかに強いみたいなのよね」 「……」 「弟さんは子供の頃からまじめって言うか、理詰めって言うか、ちょっと融通の利かない性格だったらしいの」 うん、確かにそんな感じでした。 「で、お姉さんから見てってことなんだけど、誰かの家に集まって遊ぶって言う年じゃなくなった頃から、弟さんには親しい友達がいなかったみたいなの」 「……」 「だから、友達が集まってくれたあの家を大事にしたいんじゃないかって」 その気持ちは分かる気もします。全然違うけれど、私も生まれてからずっと母と暮らした部屋を出るとき、記憶には母との思い出しかないけれど、思い出のいっぱい詰まったあの部屋を出るとき、誰にもなんとも説明できない寂しさ、悲しさを感じました。多分そんな誰にも言えない思いを息子さんは感じているんだろうな、と、かつてのその部屋がある上を見上げました。そう、私のその部屋はこの頭の上、この建物の中にあります。  そんな私の視線を追うように天井を見上げた遠藤さん。でも次の言葉は上を見上げた二人からではなく、部屋の奥から聞こえてきました。 「あれ、遠藤さん来てたんだ、なんかあった?」 青木さんが帰って来たようで、奥の扉から入って来ていました。 「いいえ、宮川邸のことで梨沙ちゃんと打合せしてただけです」 何だか遠藤さんの声が不機嫌でした。 「ああ、息子さんが反対してるとかって。ひょっとして、一旦ストップ?」 息子さんとの話は遠藤さんにしたほどではありませんが、簡単に青木さんにも報告してありました。 「いえ、進めてください。気にしなくていいとご両親の方から言われましたから」 「そっか、まあ、図面はもう終わってるから今日中に送るよ」 「じゃあそれで了解もらって契約してきますね」 遠藤さんのそのセリフを、腕時計を見ながら聞いた青木さん。こう返しました。 「うん、お願いします。ちょっと早いけどせっかくだから、久しぶりに一緒に昼行かない?」 「えっ、もうそんな時間?」 慌てて時間を確認する遠藤さん。 「もう、梨沙ちゃん、教えてよ」 そしてそう言うと飛び出していきました。教えてと言われても、時間がない、としか聞いてなかったのに何を教えればよかったんだろう。  遠藤さんが出て行ったあと、青木さんと下の喫茶店に行きました。今日のランチはチキンとジャガイモたっぷりのグラタンに、真紀ちゃんが焼いたと自慢する、もとい、作ったと言うロールパンでした。どっちもとてもおいしかったです。  その食事中の青木さんとの会話。 「高橋さん、今週の木、金、何か予定ある?」 「いえ、約束してるような予定はないですけど」 「木曜の夜も?」 なんで夜? と思いながら返事。 「はい」 「そっか、ちょっと賢島まで現地調査に行くんだけど、一緒にいい?」 賢島は三重県志摩市。伊勢志摩って言われているところで結構遠いです。で、夜も、とかって聞くってことは泊りでなんだ。あ、木、金って言ってたっけ。 「はい、いいですよ。でも二日間って、大規模な改修ですか?」 現地調査と言えば改修工事、もしくは改造か増築。なのでそう聞いてました。 「そ、結構大きな建物だからね。IKOさんから三人行くらしいんだけど、手が足りないかもしれないから手伝ってくれって言われたんだよ」 「そうなんですか。どんな建物なんですか?」 「もとはとある企業の保養施設だったんだよ。だから基本的にはリゾートホテルって感じの建物」 リゾートホテル、なんだか見るのが楽しみです。 「だった、と言うことは、今は違うってことですか?」 「いや、まだそうだよ。ただ最近はほとんど使ってなかったらしくて、荒れ放題ってわけではないんだけど、いろいろ痛んでるみたいでさ、それの補修と、部分的に改修するからそこの調査」 「改修してまた使うってことですね」 「まあそうなんだけど、使うのは教文大。教文大が買い取ったらしくて、セミナーハウスにするらしいんだ」 「へー、いいですね。学生は安く泊まれるんだ」 「だろうね」 と言うわけで、青木さんとお泊りで出掛けることになりました。  二月二十一日 木曜日、朝六時に青木さんと、私の車で出発。運転が私になったので、軽自動車に二人だけど慣れている車で出ました。目的地は正確には賢島ではなく、賢島が対岸となる志摩市の海岸近くでした。ナビでの所要時間は約二時間半弱。待ち合わせは十時なので十分余裕がありました。でも到着したのは十時の十分前。朝ごはんを食べていない、と言う青木さんに付き合って途中のパーキングに寄ったりしたけれど、私の運転が遅いのかなぁ。でもずっと制限速度ギリギリだったんだけど、ナビの計算おかしくない?  目的地の建物は事前の資料で見ていました。中央に円形の大きな平屋の建物があり、そこから左右に二階建ての建物が伸びている格好です。中央の建物にあるエントランスホールはそれほど広くなく、フロントがあるだけ。その奥は食堂と厨房になっています。  エントランスホールから右側に伸びる建物は、一階にツインの客室が十二部屋、二階にはツインの寝室にリビングが付いた客室が六部屋。そしてその建物の先にもう一つ平屋の建物がつながっています。そこは大浴場となっています。  左側の建物は右側より少し大きくて、二階にはツインの客室が十五部屋。一階には大中小の研修室となっている部屋が三部屋。そして地下にレクリエーションルームとなっている部屋が三部屋ありました。企業の保養施設とのことでしたが、研修センターとしての用途もあったような気がします。  駐車場に乗り入れると、エントランスに近い辺りには十台以上の車がすでに停まっていました。大きな脚立や工具を携えた作業員さん風の方も何人かいます。  車を降りると出迎えてくれたIKOの方について食堂へ。図面では食堂となっていたけれど、オーシャンビューのレストランでした。ま、オーシャンビューと言っても、入り組んだ地形の入り江に島が点在するロケーションなので、水平線が見渡せる大展望ってわけじゃないけれど。でも目の前は木々の頭越しに海、そしてその向こうに賢島。リゾート気分には十分な眺めです。ガラスがキレイならね。  食堂に入ってすぐのところに、テーブルをくっつけて並べた打ち合わせエリアが作られていました。すでに十人ほどの人がいて、机上の図面に頭を寄せ合って話をしていました。青木さんと一緒に全員と名刺交換。揃っているメンバーはIKOの方以外は、工事をする市山組の津市にある三重営業所の方々と、市山組さんが呼んだ協力業者の方々。電気屋さん、設備屋さん、内装屋さん、防水屋さん、サッシ屋さん、等々。挨拶が終わってから私達も打ち合わせに加わりました。  そのあとは、暇でした、少なくとも私は。打ち合わせが終わって、各々が各所の調査場所にばらけた時に、IKOの方が青木さんにこう言うのが聞こえました。 「すみません、市山組さんがこんなに下請けさん集めてくれると分かってたら、青木さんに声掛けなくても良かったのに」 今更そう言われても来ちゃってるしどうすんのよ、と、私と同じように青木さんが思ったのかどうかは知りませんが、青木さんは、 「ま、みんなでちゃっちゃとやっちゃいましょう」 と言って、調査に加わります。で、私はそれについて歩いているだけ。  青木さんたちが何をどう見ているかを見て、見たあと交わしている会話を聞いていました。確認した状態や寸法などから何をどう判断しているのか、それを頭に入れていました。これは現場調査に同行した時にいつもしていることです。ただ、いつもは青木さんや清水さんの手伝いをしながらそれをしています。指示されたところにメジャーをあてたり、スケールをかざしたり、尺金をあてて寸法を読み上げたり、時にはケレン棒やステンレスブラシで、コンクリートや鉄骨の表面をこすり取ったりしながら。でも今日はそう言う手伝いをする人が沢山います。それも各分野の専門の人が。青木さんが指示するのと同時ぐらいに、青木さんが求めることをしています。私の出番なんてありませんでした。  市山組さんが鵜方駅近くのビジネスホテルを手配して下さっていたので、帰らずに二日目も参加することになりました。ホテルはIKOさんの三人と、市山組の方二人と一緒でした。ホテル近くの居酒屋さんで全員で夕食。ホテルの部屋に戻ってお風呂に入ったら、すぐに寝ちゃってました。暇だったので疲れていないはずなんだけど。  次の日も午前中は前日と同じようなことをしていました。そして昼食。協力業者の方も一緒に、食堂で市山組さん手配の仕出し弁当を頂きます。そして食事しながらミーティング、昨日と一緒。そして今日はそのまま会議になりました。調査結果に基づいて改修範囲、改修内容や方法を細かに決めていっていました。それに基づいてIKOさんが改修工事の詳細な報告書を作り、市山組さんがその内容での見積書を作る。そしてそれを教文大に提出するようです。会議は夕方まで続きました。  解散となって駐車場に出ると、市山組の方が寄ってきました。そして、 「せっかくこんなところまで来たんですから、松阪寄って行きませんか」 と、青木さんに声を掛けます。青木さんは笑顔で承諾。承諾してから、ひょっとして早く帰りたかった? なんて、私に聞いてきます。この流れで松阪に誘うってことは、松阪牛を御馳走してくれるってことだよね、断るわけない。私も笑顔を返しました。  市山組さんから教えてもらったお店をナビに入れて出発しました。市山組さんの車に続く、IKOさんの車を追っかけるように走りましたが、私の車だけ遅れました。帰りが楽な様にと言う配慮なのか、おすすめのお店なのか知りませんが、松阪インターからそんなに遠くないところにある焼き肉店でした。お店に付く寸前に青木さんが、じゃんけんしよう、と言い出しました。なぜかと聞くと、負けた方が帰りの運転、と言います。勝った方がお酒を飲めると言うことだね。よ~し、なんて思いません、当然、私が運転しますから安心して飲んでください、と、即返しました。  思えば、大人になってからビールなしの焼き肉なんて初めてかも。でも全然有りでした。お茶だろうとお水だろうと焼き肉はおいしい。それも松阪牛、大満足でした。でも、お酒が飲めないことに少しイラついたこともありました。それは、お酒飲んでる人ってなんでこんなに話が長いの? ってこと。そう思いながら、自分も飲んでたら気にならないんだろうな、とも思いました。飲まない人が宴会を嫌う理由が分かったかも。アイスコーヒーのストローを咥えながら、私と同じく飲んでいない二人を見ると、その二人はしっかり酔っ払い達の話しに参加しています。男の人って大変だなぁ。店を出たのは二時間以上経ってからでした。  名古屋に向けて走り始めると、青木さんはタブレット端末でメールチェックを始めました。何件かには返信もしている様子。伊勢自動車道から東名阪道に入ってしばらくすると、青木さんの動きがなくなりました。どうやら寝ちゃったようです。  自宅駐車場に帰り着いたのはちょうど二十三時頃でした。帰り着く少し前に起こした青木さんと車を降りて階段を上がります。でも二階まで上がったあたりで、 「あ、先に上がっちゃって、僕はこれ、自分の車に放り込んでくるよ。お疲れ、ありがとね」 と、青木さんが言い、手に持った大きな紙袋を私に示します。あんなに人員、機材が揃っているとは思っていなかったので、いつもの実測道具を一式持って行っていました。青木さんが示した紙袋にはそれらが入っていました。 「分かりました。お疲れさまでした」 階段を降り始めた青木さんの背にそう返して、私は階段を上がりました。  変な意味ではありませんよ、青木さんと二人っきり、ってわけでもないけど二人で二日間も出掛けた仕事、なんだか満たされた気分でいました。別に何かあったわけでも何でもない、ほんとにただ上司と一緒に出張しただけってことだけど。なんだかいい気持ちでいました。そんな気持ちで玄関の鍵を開けたところでやっと気付きました、反対側の階段の方から共用通路を歩いてくる人影に。  気付いた瞬間、見た瞬間に体が動きました、二人とも。私は玄関の中に飛び込み扉を閉め鍵を掛ける。向こうはこちらに向かって駆け出し、玄関のレバーに手を掛ける。ほんのわずかに私の方が早かったです。目の前のレバーが上下に動いているけれど扉は開かない。 「梨沙、頼む、開けてくれ」 そして声がする、中野君の。  私の満たされた気分はどこかに行ってしまい、恐怖してました。 「梨沙、聞こえてるだろ」 聞こえてる、でも口が動かない、何もしゃべれない。なんでいるの? って思うだけ。 「おい、お前、隣のおっさんと付き合ってんのか」 「ちがう、そんなんじゃない」 声が出ました、咄嗟に言い返していました。 「嘘つけ、泊まりでどっか行ってただろ」 「仕事よ」 「仕事で女連れ歩くか、泊まりで、分かってんだぞ」 分かってないよ、そんなの普通にあることだよ。でもこれは言い返しませんでした。すると外からの声が続きます。 「それにこの前は隣に泊まってたじゃないか、知ってんだぞ」 嘘、青木さんの部屋に泊ったどころか、入ったのもこの前の一晩だけ、それを見てたの? ほんとに私をまた見張ってるの? 「なんであんなおっさんがいいんだよ」 あんたと比べたら誰でもいいよ、なんて突っ込みが出る余裕なんてありません。 「とにかくもうやめて、帰って」 そう言うのがやっとでした。 「とりあえずここ開けてくれ、話そう」 開けるわけない、話すこともない。 「いや」 「なんで、そうだ、お前の金、とりあえず二十万返す、今帰す、だから開けてくれ」 そう聞いて、長縄さんから聞いた話が頭に出てきました。それはきっと会社をクビになるようなことをして手に入れたお金だ。そんなお金、 「いらない」 そう言ってました。そして続けました。 「だから帰って、お願い」 「なんでだよ」 「なんでって、もう近寄らないでって言ったでしょ、近付いたら警察呼ぶって。ほんとに警察呼ぶよ」 「警察って、なんでみんなすぐに警察って言うんだよ、俺がそんなに悪いのかよ」 みんなって誰のことだ? これはほんとにそう思いました。そう思っていたら、 「どうかしました?」 と、青木さんの声がする。そうだ、青木さん、まだ外にいたんだ、まずいかも。でも、出て行く勇気はありませんでした。 「おい、あんたいい年して若い女に手ぇ出してんじゃねえよ」 中野君が青木さんにそう言ってる。お願いやめて、その人は関係ないんだから。 「いや、えっと、高橋さんの友達?」 「関係ないだろ」 「ちょっとやめなさい」 青木さんが、やめなさい、と言ってる。何をやってるんだろう。 「どういうつもりなんだよ、そんな年して恥ずかしくないのかよ」 「ちょ、やめ……」 そして何も聞こえなくなりました。悪い予感しかしない、もう恐怖なんてありませんでした。鍵を開けて扉も開ける。すると、 「おい、起きろよ、どうしたんだよ、大丈夫だろ」 と、階段の方から中野君の声。私はそちらに駆け出しました。そして階段の上から下を見ました。二階への途中の踊り場で青木さんが倒れている。その二、三段上に中野君が立っている。 「うそ、突き落としたの?」 私はそう言いながら中野君の横を抜けて青木さんの傍に膝をつきました。 「ちがう、そいつが勝手に落ちたんだよ」 そんな中野君の言い訳は耳に入らない。 「青木さん、青木さん、大丈夫ですか? 青木さん」 そう呼び掛けるけれど返事がない。呼吸しているのは分かったけれど、返事がない。私はポケットからスマホを取り出しました。 「け、警察呼ぶのかよ」 「救急車よ!」 そう怒鳴り返しながら119に掛けました。 「なんでそんな奴がいいんだよ」 そんなことを言ってくる中野君を無視して、つながった電話に状況を伝えました。すぐに救急車を、と頼みながら。  電話を切ったのと同時くらいに、 「うっ…、ったい!」 と、青木さんが呻き声をあげて左足に手を伸ばします。 「大丈夫ですか、青木さん」 「ああ、いや、ちょっと足首が痛い」 顔が痛みに歪んでいます。こんなの絶対に、ちょっとなんて傷み具合じゃない。 「救急車呼びましたから、もう少し我慢してください」 「いや、大丈夫だよ」 「全然大丈夫そうに見えないですよ」 苦痛に耐えている顔のままの青木さんにそう言いました。 「そうだ、彼は? どうした?」 そんな青木さんがそう言って階段を見上げます。当然私も振り返って見上げました。姿がありませんでした。何も考えずに立ち上がって、階段を駆け上がりました。共用通路にもいない。背中に汗が流れた気がしました、玄関の鍵を掛けていない。 「そのままそこにいてくださいね」 青木さんにそう声を掛けて自分の部屋に向かいます。怖かったです。なので、110と発信するばっかにしてスマホを手に持って玄関を開けました。すぐに玄関と廊下の電気をつける。目の前のトイレの扉を開ける。誰もいない。恐る恐る自分の部屋の中に入って行き、すべて見て回りました、クローゼットの中も、ベランダも。誰もいませんでした。  安心したあと、戸締りをして青木さんの所に戻りました。青木さんは壁を背にして座っていました。立ち上がるのは無理だったようです。 「ほんとに大丈夫ですか? 気を失ってたみたいですけど、頭とか打ってないですか?」 傍に戻ってそう尋ねました。 「いや、頭もこぶが出来てる。って、え? 気を失ってた?」 自覚してないんだ。私は中野君の姿がなくなって、少し余裕が出来ていました。 「ほんの何分もないくらいですけど、呼び掛けても反応しませんでしたよ」 「そうだったんだ」 青木さんの顔はまだ歪んでいます。その顔を見て、 「すみません、私のせいで」 と、言ってました。 「なんで?」 「さっきの、私の前の彼なんです」 「そうだったんだ」 苦しそうな顔に無理やり笑みを浮かべようとしながらそう言う青木さん。父親にあんな変な彼がいたことを告白しているバカな娘を、労わってくれているように見えました。 「何年も前に別れたのに、まだ時々つきまとってくるの。もうほんとにいい加減にして欲しい」 「そっか」 「ほんとにごめんなさい」 もう一度謝ると、青木さんが何も言いませんでした。そして、ほんのしばらくしてからこう言います。 「彼は、別れても高橋さんのことが心配なんだね」 心配? 「だから僕みたいなおじさんが、高橋さんにつきまとっていると思って、許せなかったんじゃないかな」 許せなかった、も、心配、も、当たってるかも。でもそれは彼の自分本位な思いでだけ。私の周りに男の人がいると心配で、私が彼以外の人と付き合うのは許せないってことなだけ。ただそう想われているだけならありがたいことかも知れないけれど、その思いに任せて行動するところは絶対に受け入れられない。彼はいつもやり過ぎ、迷惑なんてレベルを軽く通り越していく。そう考えていて思い至りました。 「でも、やり過ぎです。彼に突き落とされたんですよね?」 なのでそう聞いていました。 「いやいや、ちがうよ。彼に詰め寄られて後ろに下がったら階段で、僕が踏み外したんだよ」 でも青木さんの答えはこうでした。ほんとかなぁ。 「ほんとにすみませんでした」 私はまた謝るしかありませんでした。  そんな話をしているうちに救急車が来てくれました。当然一緒に乗りました。運ばれたのは八事にある名古屋東日赤病院。救急外来で処置を受けた青木さん、左の足首を骨折していました。頭にも二か所の打撲。頭部CT検査の結果では心配はなさそうとのことですが、直後に気を失っていたので今夜はICUで観察すると言われました。  ICUではそうそう付き添っているわけにもいかないので、一旦帰ることにしました。病院を出てから久保田さんにショートメール、青木さんが足を骨折して入院したとだけ送りました。やっぱり早目に報告すべきだと思ったから。すると久保田さんから、もうとっくに日付が変わっている時間だったのに電話が掛かってきました。でも電話でも詳しい話はせずに、階段から落ちて骨折したとだけ話しました。それでおしまい、また明日電話する、そう言って切れました。  自宅マンションの前でタクシーを降りてから、またスマホを準備して警戒しながら部屋に戻りました。一息ついてからお風呂に入ったけど、スッキリはしませんでした。なんとなく横になる気になれず、座椅子に座ってこたつでうたた寝。ほんの数時間寝ただけの五時頃には起きました。朝食を食べても落ち着きません。なので部屋を出ました、青木さんの入院した病院に向かって。  車を運転しながら助手席ドアのカップホルダーに目がいきました。降ろし忘れた青木さんの吸い殻入れがありました。そう、まだ何時間か前までは何事もなかったのに。平和な気分でいたのに。そう思うと……。  ICUの前で、中から出て来た看護師さんをつかまえて、青木さんの様子を聞きました。ちょうど少し前に青木さんの目が覚めて、今は先生が診察しているとのことでした。そのあとは時間外用の待合室のソファーへ。そこで何をすると言うわけでもないのだけれど、帰る気にはならないので座っていました。  しばらくもしないうちに、さっきの看護師さんが私を探して来てくれました。そして、問題なさそうなのでもう少ししたら、青木さんを整形外科の病棟に移します、と言われました。なんだか一安心です。移すときに声を掛けてくれると言うのでこのまま待つことにします。  一時間ほどしたころ、看護師さんではなく警察官が二人やってきました。そしていきなりこう聞かれました。 「青木克己さんの付き添いの方ですか?」 「はい」 「高橋さんですか?」 「はい」 何で私の名前を知っているんだろう、と思いながら話を始めました。その始めた話は驚きでした。中野君が、人を突き落とした、と、警察に出頭していたのでした。  警察の方は彼が、人を突き落とした、と言った場所から搬送された青木さんを探し出して来ていたのでした。そして、彼が私を訪ねてその場所に行った、とも言っていたので私の名前も知っているのでした。  警察の方から、彼が青木さんを突き落とした時の状況を聞かれたけれど、見ていなかったのでそうとしか言えません。警察の方は先に青木さんから話を聞いたようで、青木さんは私に言ったのと同じ、自分が足を踏み外した、と言ったようです。でも中野君は、胸倉を掴んで後ろに押した、と話したそうです。本人が出頭したぐらいなんだから、中野君が言っていることが本当のような気がしますが、私は何もコメントしませんでした。  警察の方からは他にも中野君のことをいろいろ聞かれました。でも、昨年の秋に一度待ち伏せされて話した以外は、ずっと接触がなかったのでそのこと以外は何も答えられませんでした。その話をするうえで、数年前に短期間交際していたことは話さざるを得ないので話しました。それでも中野君に関して知っていることはないかとしつこく聞かれました。なのであとは、先日、長縄さんから聞いた話を、聞いた話だと告げてから話しました。  話し終えてから今度は質問しました、なぜそんなに中野君のことを聞くのかと。すると彼は、三週間ほど前から手配されていたとのことでした。手配理由は傷害と窃盗。驚きでした、本当に。  彼には去年の十一月頃から交際相手がいたそうです。相手は飲食店勤務の女性。警察の方はハッキリ言いませんでしたが、スナックかキャバクラに勤める女性のようです。  年末に会社をクビになった彼は、その年末に払う家賃もなかったようで、夜逃げのように部屋を出て、その女性の所にいたそうです。でも仕事を探す様子もなかった彼に、その女性が生活費を要求。しょうがなく彼は車を売却してお金を作ったようです。ひょっとしてうちの駐車場で見かけた黒いミニバンかな、警察の方にそれは聞かなかったけど。そして彼はそのお金を女性に渡します。すると女性はお金だけ受け取って、出て行けと言ったそうです。それで口論となり、そのうち彼は、散々貢がせておいて、と、女性に手を出した。女性は鼻の骨を折り、しばらく左目の視力に影響するくらい目も損傷したそうです。そのあと彼は女性の所から出て行きますが、渡したお金を取り返した上に、女性の財布からも現金数万円を持ち去ったとのこと。それが二月頭の話。女性が被害を訴えたため、その後手配されていたそうです。  ほんとに犯罪者になっちゃったんだ、中野君。と言う思いにしかなりませんでした。なので警察の方の話を聞き終えてから話すこともありませんでした。警察の方からもそれ以上は話はなし。最後に、一応連絡先を教えて欲しいと言われたので、会社の名刺の裏に自宅住所と個人のスマホ番号を書いて渡しました。  警察の方が帰ってからしばらくすると、さっきとは違う看護師さんが近づいてきました。そして、青木さんの付き添いの方ですか? と、また聞かれました。はい、と答えると、少し前に病棟に移ったと言われました。そして、病棟への行き方は教えてくれましたが、病室は病棟で聞いて欲しいと言われます。  病棟へ行くと、まず面会カードへの記入を求められました。驚いたことに患者さんのフルネームと住所を書く欄があります。青木さんは隣なので当然住所も書けますが、違う人の面会に来ていたら書けないかも。そのことを目の前の看護師さんに言うと、患者さんの安全のために、病室が分からない面会者の方には書いていただくことになっています、と言われました。入院している病室も教えてもらえない人は怪しいってことかな。  青木さんは数日観察するとのことで、ナースステーション近くの個室にいました。でも眠っていました。個室と言ってもベッドと床頭台、折り畳みのイスしかない部屋でした。その折り畳みイスの一つに青木さんが着ていた洋服が畳んでおいてあります。その横には救急車に持ち込んだ、青木さんの出張鞄。きれいな下着くらいまだ入ってるかな? 取りに行かないとダメかな? なんて思いながら、もう一つの空いていたイスに座りました。青木さんの寝顔は穏やかでした。救急車の中でも見せていた苦し気な表情がなくなっていてホッとします。  しばらくするとスマホが震え出しました。久保田さんから着信。時間は八時半でした。青木さんの様子を伝え、病室も教えました。久保田さんは会社にいるようでした。土曜日に久保田さんを会社で見たことがないので珍しいことです。そして午前中は約束があるので昼から様子を見に来るとのこと。それだけ言って切られちゃいました。  久保田さんが来るまでいないといけないかな、と思いながらディルームの自動販売機までコーヒーを買いに行きました。病室に戻ってもすることはなく、紙コップを片手に座っているだけ、起きてくれないかな、と思いながら。でも、青木さんが目覚めたらどうするの? とも考えていました。とにかく、青木さんの怪我には私に責任がある。それをもう一度謝ろう。そして、出来る限りお世話しよう。いえ、お世話したい、そう思いました。  スマホから流していたラジオが九時を告げました。そしてしばらくすると誰かが病室に入ってきました。振り返って誰か確かめる前に声を掛けられました。 「梨沙、いたんだ。おはよ」 真紀ちゃんでした。 「おはよ、どうして?」 そう聞くしかありませんでした。 「えへへ、久保田さんに乗せてもらってきた」 そう言いながら真紀ちゃんはベッド横に。 「お仕事あるから久保田さんはあとでまた来るって」 そして青木さんの顔を覗き込みながらそう言います。その姿を見ながら私は驚いていました。真紀ちゃん、大胆過ぎる。 「真紀ちゃん、お店は?」 思わずそう聞いてました。 「抜けてきちゃった」 そう返ってきました。ほんとにすごい、ここまで照れもせず堂々と会いに来るなんて。娘の私の方がまだ遠慮してるのに。 「ねえ、骨折っただけって久保田さんから聞いたけど、ほんとにそれだけ?」 私にそう聞きながら、真紀ちゃんは乱れた青木さんの髪の毛を手櫛で直しています。私にはそんなこと出来ない。 「う、うん、わ、私もそう聞いてる。頭も打ってるからしばらく様子見るみたいだけど」 何だか堂々とし過ぎている真紀ちゃんに圧倒されていました。 「そっか……」 そう言った真紀ちゃんの顔は心配気でした。  ほんとに真紀ちゃんは青木さんのこと……、と思い、もう一度ストレートに聞こう、そう思ったところに青木さんの声がしました。 「真紀、どうした?」 起きたんだ、で、いきなり、真紀、って呼び捨てなの? と、驚く暇はありませんでした、もっと驚く言葉が続いたから。 「どうしたじゃないよ、大丈夫なの? パパ」 と、真紀ちゃんのセリフ。パパ? パパって、あのパパ? お父さんってこと? 「ああ、何ともないよ」 「何ともないのに入院しないでしょう?」 「足折っただけだから心配するほどのことじゃないってことだよ」 「頭は? 頭も打ったって聞いたよ」 「頭? ああ、別に、何ともないよ」 「ほんとに?」 混乱している私をよそに会話が弾んでいく二人。 ーねえねえ、これって真紀ちゃんが青木さんの娘ってこと? ーそうじゃないの? ーそしたら私は? ーはあ? ー私は違うの? ー違うんじゃないの? ーなんで? ー知らないよ。 一人で自問自答してました。今まで壮大な勘違いをしていたのかも。良かった、今まで自重して。何度か、お父さん、と呼んでみようかと思ったことがあった。今回なんて自然とそう呼びそうに何度もなってた。今まで誰かを、お父さん、と呼んだことがなかったから口から出なかっただけ、あぶないあぶない。 「高橋さん、まだついててくれたんだ、ありがとう」 青木さんから急に名前を呼ばれて、自分の頭の中から戻ってきました。そして口から出た言葉は青木さんからの言葉とは関係なく、 「ふ、二人って、その……」 こうでした。二人は顔を見合わせます。そして青木さんが真紀ちゃんにこう言います。 「話してなかった?」 「うん」 真紀ちゃんが返事すると、二人の視線が私に戻ってくる。 「いや、その、親子なんだ。真紀は僕の娘」 そして青木さんがそう言います。真紀ちゃんは笑顔で頷いている。そうだったんですか~!? って、大声で反応しそうなところでしたが、私はなんだか脱力してました、ストレートに告げられた事実に。 「は、はあ、そうなんですね」 一呼吸間が開いてからそう返していました。 「ごめんね、黙ってて、敢えて隠してるわけじゃないんだけど、なんとなく。わざわざ言って回る話でもないし」 「はあ、いえ、そうですね」  青木さんの所に先生の回診が来たので、真紀ちゃんと病室を出ました。ディールームのテーブルで二杯目のコーヒーを手に、真紀ちゃんと向かい合って座りました。 「驚いた?」 真紀ちゃんが座るなりそう言います、なんだか憎ったらしい笑顔で。 「うん、無茶苦茶驚いた」 なので上目遣いで睨み返しながらそう返して、コーヒーを口にしました。 「うそ、そんなに驚いてなかったじゃん」 「驚き過ぎて反応出来なかったの」 同じ姿勢でそう返しました。 「そっか、ごめんね、黙ってて。梨沙にはもっと早く教えても良かったんだけど」 ほんとだよ、早く教えとけって言うの。危うく自分が娘だと名乗ってるとこだったよ。そうなってたらどうしてくれんのよ、って、大恥かくだけで終わりだろうけど。 「で? 真紀ちゃん一人で住んでるよね、お母さんはどこにいるの?」 上目遣いはもうやめて、顔を上げてそう聞きました。真紀ちゃんは私の部屋に来たことないけど、私は真紀ちゃんの部屋に何度か行ったことがある。二人で出掛けるとき、私が車で送り迎えだから。その部屋は広目だけどワンルームです。あそこにお母さんと住んでいるとは思えません。すると返事はこうでした。 「埼玉だよ」 「埼玉?」 「うん」 そう言った後真紀ちゃんはお汁粉を口にします。私はまた質問。 「青木さん……。お父さんとお母さんは離婚してるの? それとも別居ってこと?」 「私の名前、野沢だよ。これはママの名前」 ニコニコ顔でそう返して来る真紀ちゃん。つまり、離婚してるってことね。こういう子だとは分かっているんだけどなんだかイライラ。特にこの子の独特の口調はこう言う時には特に。  その後も色々聞きましたが、単語ベースで、文章で答えない真紀ちゃんとのやり取りを並べ立てると、何ページいるか、もとい、とっても時間が掛かりそうなので要約します。  真紀ちゃんが小学校五年生の時に青木さんは会社を辞めて独立。独立後収入が激減。お母さんは自分の母親に生活費を融通してもらう。真紀ちゃん曰く、お嬢様育ちのお母さんに切り詰めた生活が出来なかっただけ、切り詰めれば生活出来たはず。そう、お母さんの実家はお金持ちだそうです。でも、お母さんも父親に知られると厄介なことになると、母親にだけ泣きついていたそうです。  でもやがてバレました、そして厄介なことに。生活できないような男と別れて帰って来いと言われたそうです。父親はもともと、土建屋なんか、と、青木さんのことが気に入ってなかった。なので娘を取り戻すチャンスとばかりに強硬だったようです。結果、離婚してお母さんと真紀ちゃんは、埼玉のお母さんの実家に行ったそうです。それは真紀ちゃんが小学校を卒業した時でした。 「と言うことは、小学校まで名古屋にいたの?」 「そだよ」 「ふ~ん、で、何で名古屋に戻ってきたの? 大学がこっちだったとか?」 そう言うと、小さく噴き出すように笑う真紀ちゃん。 「大学って、私、高校も卒業してないよ」 「そうなの?」 「うん、高二の冬に家出して、こっちに来たから」 家出、身近にこの言葉を聞くとは思わなかった。ほんとに家出ってあるんだ。 「家出? なんで?」 なので聞いちゃってました。すると今回は、長文の返事が返ってきました。 「私ね、こんな話し方でしょ? それに中学に入ったころは名古屋の言葉だったから、友達からいつもいじられてたの。でもね、高校に入ったらいじめになった。二年のクラスはほんとにひどかったの。毎日のように口にガムテープ貼られた、お前うざいからしゃべるな、って」 「ひどい」 思わずそう言ってました。 「うん、ひどいでしょ? ガムテープって髪の毛から剥がすのほんとに大変なんだから。痛いし、沢山抜けちゃうし」 「えっ、どういうこと? 口に貼られるんじゃないの?」 「ああ、最初は口だけだったんだけど、そのうちみんな面白がって、口から頭の後ろまで、一周ぐるっと巻かれるようになったの」 「ひっどい」 また同じことを言ってました。 「うん、だから二学期の最初の日、ママにもおじいちゃんたちにも内緒で学校さぼったの。夏休みの間、誰にも会わなかったからすごく平和だったの。だからもう行きたくなかったの」 分かる。私は頷いていました。 「でもね、学校から連絡が行くでしょ? ママの所に。学校行った振りして帰ったらすんごく怒られた。その日はまだいじめられてること言いたくなかったから、ただ謝ってたの。で、次の日は学校行ったの。そしたら、長いことお前のしゃべりを聞いてなかったから寂しかったぞ、って男子が言うの。だから何かしゃべれって、で、何を? って聞いたら、頭の後ろでビリビリって音がして、あっという間にガムテープ巻かれちゃったの。そしてクラス中が私を見て笑ってるの」 「……」 もう、ひどい、って言葉も出ませんでした。 「それでもなんとか学校行ってた。高校くらい卒業しなきゃって。その時は大学にも行く気だったし。だから耐えてた」 真紀ちゃんがまた紙コップに口をつけます。私は黙って聞いていました。 「開き直って耐えるようになって気付いたの、私が嫌がったり泣いたりするから面白がってるんだって。だから反応しないようにしたの。どうせ休み時間になった直後の一瞬だけだから。じゃないと次の授業までにガムテープ外せないからね。でもね、それが良くなかったの」 またお汁粉に口をつけます。 「抵抗しなくなったらエスカレートしたの。最初は、泣けよ、とかって頭小突かれたりだったんだけど、ある日、顔中ガムテープ巻かれるようになったの。そして、目が塞がるといたずらされた。胸触られたり、太ももとか……」 これまで涼しい顔で話していた真紀ちゃんが、さすがに少し表情を変えました。よっぽど嫌な思い、怖い思いを味わったのでしょう。私は何も言えませんでした。 「そしてとうとう限界が来たの。限界が来た日、目だけ見えるようにガムテープ破って職員室に走った。担任に学校辞めますって言ってそのあと帰ったの。帰ってママにも学校辞めるって言った。もう誰が何言っても絶対辞めるって。で、ほんとに辞めちゃった」 「すぐに辞めれたの? 騒ぎにならなかった?」 「なったよ~、大騒ぎ」 またいつもの調子に戻って返してくれる真紀ちゃん。 「家に何回も、何人も、先生が来たよ」 そりゃそうでしょ、顔中ガムテープ巻かれた女生徒が職員室に駆け込んだんだから。 「ママやおじいちゃんもね、最初は私に、勝手なこと言うな、って学校行かそうとしてたんだけど、先生たちが通ってくるようになって何も言わなくなったよ」 「……」 「で、一か月後くらいに正式に退学したことになった。するとね、当然だけど、どっかの高校に編入しろってうるさくなったの。私もその気はあったんだけど、その時はとりあえず、しばらく何もしたくなくて無視してた。特におじいちゃんがうるさかったから、徹底的におじいちゃんを無視してた。でもね、二週間くらい経った頃かな、ご飯食べてる時にママとおじいちゃんからいっぱいいろいろ言われたの。でも無視してた、無視してご飯食べてた。そしたらおじいちゃんが私のお箸取り上げて、食うな、って言うの。お前に食わす飯なんかない、出て行け、って。まあ、いつまでもうじうじダラダラしてたんだから、そう言われてもしょうがないよね。大体、パパの子だってことで、私のこと気に入らなかったみたいだし。でね、そう気付いたらパパのこと思い出して、パパのとこ行こうって」 「で、名古屋に来たの?」 割り込んじゃいました。 「そ、次の日、おじいちゃんやママが出掛けてからすぐに」 「黙って?」 「うん」 凄い、と思っていたら、真紀ちゃんが少し私の方に身を乗り出してきます、笑顔で。 「あ~、聞いて聞いて、その時すごかったんだよ」 「なにが?」 聞いてと言うんだから聞くしかありません。 「もう帰って来ないつもりでママのスーツケースとかに洋服詰め込んで家を出たんだけど、東京駅に行けるくらいしかお金なかったの」 「うん」 「でね、東京駅からパパに電話したの、入場券で新幹線乗るから名古屋駅まで迎えに来て、お金払ってって」 うん、すごい。 「いきなりだったから最初はダメだって言われた。でも、もう帰るお金もないからダメって言っても新幹線乗るからって、何時の新幹線に乗るって言って電話切ったの」 青木さん、困っただろうなあ。 「そしたらちゃんと来てくれた」 そりゃ来るでしょ、ほっとけないもん。キャンセルした仕事があったかも知れないけど。 「ほんとにすごいね、私には出来ないわ」 「そう?」 「うん、で、それからしばらくは青木さんと暮らしたの? 今のとこに住むまでとか」 「そ、しばらくって二週間くらいだったけど。その時のパパの家って一部屋しかないアパートだったから。それもふ~るいの。お風呂なかったんだよ、生まれて初めて銭湯行ったよ」 うん、その部屋の話は清水さんから聞いたな。 「でも、久しぶりにお父さんと一緒に暮らせて嬉しかったんじゃないの?」 「う~ん、あんまり一緒じゃなかったけど。パパ、気を遣って、私が住むところ見つけるまで、あ、今も住んでるところね、それまで会社で寝泊まりしてたから」 「会社って、今のところ?」 「そうだよ」 そうなんだ。と言うことは、その時はもう青田設計になってたんだ。 「そっか。あ、真紀ちゃんが青木さんの娘だってみんな知らないの? 清水さんは青木さんに子供がいることも知らなかったから、絶対に知らないと思うし」 すると少し首を傾げる真紀ちゃん。 「え~、清水さん知らないかなあ? まあ、そうかも。峰で働くようになった時、パパの会社の下だし、あんまり人に言わないようにしてたから」 「そうなんだ。久保田さんは? 峰のママとか」 「ママは当然知ってるよ、パパが、娘を働かせてやってくれ、って頼んだんだから。でも、あの人おしゃべりだけど余計なことは言わない人だから、誰にも話してないと思う」 うん、確かに余計なことは言わないかも。いつだったか、この二人の後に私がお店に行った時も何も言わなかったし。 「で、久保田さんも知ってるよ。知ってるから今朝お店に来て、パパが入院したこと教えてくれたんだもん」 それで久保田さん、土曜日なのに会社にいたんだ。 「そっか。うん? すぐに峰で働き始めたの? 学校行けとかって、青木さんは言わなかった?」 「言われたよ、でもね、その時はまだ学校ってところに抵抗があったから、そのまま正直に言ったの。そしたら、学歴がすべてじゃないから好きにしろって。行きたくなったらいつでも行かせてやるから、大人になってから定時制でもいいぞって」 「そうなんだ」 なんだか青木さんが言いそうなセリフ。 「でもね、学校行かなくてもいいって言われても、ずっと家にいるわけにいかないでしょ? だからバイトかなんかするって言ったの。そしたら、会社の下の喫茶店がバイトの募集してたから頼んでやろうか、って。それで峰でバイト始めたの。今はもう社員ってことになってるけどね」 「そっか、自分の近くにいて欲しかったんだね、青木さん」 「う~ん、見張っときたかったんじゃない? いきなり埼玉から名古屋に来ちゃうような奴だから」 奴って、自分のことだろ。 「かもね。え~っと、同い年だから今年二十七でしょ? じゃあ、もう十年になるんだ」 「そっか~、もう十年だ。十年になるんだ」 「だね。お母さんは? 時々会ってるの?」 「ううん、前は年に何回か顔見に来てたんだけど、この何年かは会ってない」 「真紀ちゃんは? 時々埼玉帰ったりしないの?」 「うん、一度も行ってないよ。と言うか、ママはもう、おじいちゃんの家にいないし」 「なんで?」 「さっき、何年か前から来なくなったって言ったでしょ? その頃にママ、彼氏が出来たの」 えっ? と、とりあえず驚き。 「再婚したってこと?」 「ううん、してないけど、一緒に住んでるみたい」 「そうなんだ。真紀ちゃん的にはどうなの? お母さんに彼氏がいるって」 「ええ? 別に。そこで私も一緒に住めとか言われたら嫌だけど、そうじゃなければママのことだから」 う~ん、ドライだ、お母さんと仲悪いのかな。私が今、母が誰かと暮らしてるとかって聞いたら多分怒る、あんた連絡もよこさずに何やってんのよ、って。でも、私とはまた事情が違うか。それに、最終的には母の人生なんだから、怒るのは最初だけで認めるしかないんだろうけど。そう考えたら、真紀ちゃんも最初は何か思ったのかも知れないし。そして青木さんにも気がいきました。青木さんは知ってるのかな? 前の奥さんに今は彼氏がいて、一緒に暮らしてるって。知ってるとしたらどう思ってるんだろう。そう思っていたら、お汁粉を飲み干した真紀ちゃんが続けます。 「パパも、今度はいい人だったらいいね、って言ってたし」 青木さん、今度はって、その前はあなたのことですよ。いい人じゃなかったの? ま、母娘関係は分からないけれど、父娘関係はいいみたいだからいっか。どっちにも今は関係がない私には羨ましいことだ。ほんの数か月だけで、しかも勘違いだったけれど、父、の存在を味わった私には、少し寂しい感覚だけ残りました。  回診はとっくに終わっていて、飲み物もなくなったので病室に戻りました。そして、改めて青木さんに頭を下げました。その過程で真紀ちゃんにも青木さんの怪我の経緯をちゃんと説明しました。私の昔の彼が原因だと、私の所為だと。二人とも笑顔で、気にするな、と言ってくれるけれど、私の加害者意識は消えませんでした。  真紀ちゃんが十一時にはお店に戻ると言いました。土曜日とはいえ、ランチタイムは忙しくなるかもしれないからと。なので私は真紀ちゃんを乗せて帰ることにして、それまで三人でしゃべっていました。そしてそろそろ出ようか、と言うタイミングで、青木さんに面会の人が来ました。  看護師さんに連れられて病室に入って来たのは、青木さんと同年代くらいの男女でした。そして、男性の自己紹介を聞いて、私は驚いていました。その二人は中野君のご両親でした。  二人は男性が名乗った後、ただただ最敬礼。いえ、それ以上、拝のレベルで腰を折り、息子が起こしたことへの謝罪の言葉を青木さんに捧げていました。治療費の負担は当然、出来る限りの償いはしますとも。  と言ってもこれはあとで青木さんから聞いた話。私は名乗らずに挨拶だけして、すぐに真紀ちゃんと病室を出ちゃったから。中野君のご両親は、普通の方でした。疲れ果てた感じだけが印象に残った、普通の方でした。  真紀ちゃんを送りついでに、峰でランチを食べました。そのまま事務所で少し仕事をしてから帰宅。玄関扉の郵便受けに切手の貼られていない封筒が入っていました。見るからにダイレクトメールの類ではなく普通の封筒。『高橋りさ様』と、手書きボールペンの宛名。少し訝りながら中身を確認しました。出て来たのは折り畳まれた二枚重ねの便箋。中野君のお父さんからの短い手紙でした。  中野君が私にも迷惑を掛けた想定での謝罪の言葉がありました。そして、何か被害があったのなら遠慮なく連絡してほしい、被害を弁償して償います。と言ったことが、丁寧ではあるけれど走り書きされていました。おそらく青木さんの病室を訪ねたあと、ここにも来てくれたのでしょう。そしてうちの玄関前でこれを書いたのでしょう。風の吹き抜ける共用通路で、しばらく私の帰りを待っていたのかな。それで手がかじかんで文字が乱れたのかな。そんな風に思いました。  病室で受けた疲れたような雰囲気。三週間前って聞いたかな? 中野君が女性に怪我させたのは。その時に警察からご両親に連絡がいき、それから今日、中野君が、息子さんが警察に出頭したと聞くまで、ずっと心の休まる暇なんてなかったのかも。ご両親にまでそんな仕打ちをするなんて、中野君、ほんとに反省しなよ。  今回、精神的なものを除けば、私は中野君から被害を受けていません。精神的なものでも被害は被害だけど、私はそこまで言わなくてもいっか、と思いました。数年遡れば、中野君に持ち去られた現金と言う被害があるんだけど、それは私の中でもう時効だし、頭が固いとか言われるかもしれないけれど、あれは返してもらうなら中野君から、ご両親からではない。なので何も返信しないつもりでいました。でも、連絡がないことでご両親が気に病んだままだと申し訳ないと思い直し、翌日、手紙を書いて出しました。お気遣いなく、って内容の、簡単なものを。  夕食を作っていた十八時頃、スマホが鳴りました、真紀ちゃんから。 『梨沙ってさあ、ほんとにパパの隣?』 いきなりそう聞かれました。 「そうだよ」 『今いる?』 「いるよ」 そう答えると玄関扉から、コンコンコンと、ノックの音。玄関前にいるの? と聞く前に玄関に行って開けてました。目の前にいました。 「いてくれて良かった」 と言う真紀ちゃん。 「どうしたの?」 「パパから下着とかパソコンとかいろいろ持って来てって言われて取りに来たんだけど、なんかいっぱいあるから、車乗せてってくれないかなって」 そう言うことか。 「もちろんいいよ。あ、今、晩御飯作ってるんだけど一緒に食べない? そのあと行こうよ」 「あ、うれしい、ありがとう。じゃあもう少し持って行くもの用意してるね」 「わかった、ここ開けとくから、準備終わったら勝手に入って来て」  そんな感じで真紀ちゃんとまた合流。二人で食事して、また病院に行きました。面会時間終了の二十時に滑り込みセーフでした。でも滑り込んだので三十分くらいしか病室にいられません。だからなのか真紀ちゃんは、 「洗濯物持って帰るからパンツ脱いじゃって」 と、いきなりそう言って、着替えのパンツを出して広げます。さすがに青木さんの方が恥ずかしがってる。でも、左足の先にギプスが付いてるので一人じゃ履き替えられない。手伝ってもらうしかないよね、頑張って、青木さん。と、私は当然病室の外に出ました。やっぱり親子なんだな、私じゃ青木さんのパンツの履き替えの手伝いなんて出来ないよ、と思いながら。  週が明けた二月二十五日 月曜日の朝、みんな揃ったところで青木さんのことを報告しました。三週間くらい退院できない様子だけど、歩けないだけで元気なので、病室で仕事すると言ってるってことも。  話が終わって解散となった頃、入り口側の扉が開きました。 「遅くなってすみません」 そして大声でそう聞こえてきました。あ、笹山さんを忘れてた。この人、朝が弱いのかな? 入社した先週でさえ、二日目の火曜日に遅刻してました(あとから聞いた話、金曜日も遅刻してたらしいです)。  席についてメールを確認すると、青木さんから何件も来てました。みんな同じ内容。病室に持ち込んだノートパソコンに入っているCADは古いバージョンなので、今のCADファイルが開けない。バージョンを落として送り返してくれ、と言うもの。でも、バージョンを落とすとか私には分からない。なので清水さんに聞きました。やり方としては簡単なものでした。でも、とてつもなく手間が掛かりそう。だって、ファイルを一つずつ開いて、旧バージョンで保存していくって作業だから。青木さんがメールで送ってきたのは六件、添付ファイルは多分全部で二百個はある。午前中はこれだけで終わるかも。  そんな感じで始まった、青木さんのいない初日でした。  三月一日 金曜日の夕方。午前中に遠藤さんとハウスアートの新しい物件の打ち合わせ。その内容の見積り用平面図を事務所で描いていました。後ろから清水さんと笹山さんの話声が聞こえてくる。 「協建さんからゴルフコンペの案内、そっちにも届いてる?」 清水さんが笹山さんにそう聞いてます。 「え~っと、あ、来てます。三月二十三日のやつですね」 「うん、それ、不参加ね」 「え? 行きたいです」 「はあ?」 「いや、先輩はゴルフやらないですけど、僕は好きなんですよ」 笹山さんは、清水さんには、先輩、と言います。 「いやそうじゃなくて、って、俺だってゴルフくらいやるよ」 「えっ、始めたんですか?」 「久保田さんが好きで付き合わされてるうちにハマったんだよ」 「そうだったんですか。じゃあ行きましょうよ」 「いや、その手の誘いのやつは、うちなんかはタダなんだよ」 「ああ、前の会社でもそうでしたね」 「だろ?」 「でも協建さんにしたら接待ってことなんじゃないですか? まずいんですか?」 「いや、そういうのはさあ、協力業者の方は参加人数のノルマみたいなのがあってさあ、強制参加みたいな感じなんだよ」 「はあ」 「で、その参加費がプレー代やパーティー代込みで、一人五万とか七万とかなんだ。行くコースによっては十万以上の時もあるみたいだし」 「ええっ、そんなに高いんですか?」 「だから、協力業者から二人分取ってるんだよ。それで自分とこの職員とか、俺たちみたいな接待の人間の費用出してんだよ。賞品とかも」 「そうだったんだ」 「で、そう言うのには参加するなって言うのが青木さんの方針。参加費ちゃんと請求されるやつには行ってもいいし、行ったら経費で精算していいけどな」 「なるほど、分かりました」 う~ん、業界のあるある裏話だ、なんて思いながら聞いていましたが、同時にイラついていました。笹山さん、しゃべってないで宮川様邸の図面やってよ、って。  一昨日、遠藤さんが急に宮川夫妻に呼ばれて打ち合わせに行きました。その打ち合わせ内容を昨日の朝メールしてきました。結構、変更修正箇所があります。一番大きいのは納戸がかなり広くなったこと。今の家を壊す前に、残すもの、処分するものを選別していたら、想定以上に残したいものが出て来た、と言うのが理由です、分かる話ですが。でもそれは構造にも関わる変更です。つまり申請にも関わることなので、その図面変更は急いでいます。構造に関わるような内容のことは私では出来ない。するとそれを、青木さんが笹山さんに頼みました。  病室で仕事すると言ってノートパソコンを持ち込みましたが、青木さんは三日目には音を上げました。ノートパソコンでははかどらない、と。普段は大きなディスプレーを使っているので、ノートパソコンの小さな画面ではやり辛いのかも。なので、青木さんの仕事量が減っています。  青木さんのいない週の最終日、私のストレスが少し溜まり始めていました。  三月八日 金曜日のお昼過ぎ、青木さんの病室を訪ねました。先週の土曜日に、もう観察の必要なし、と診断されて、その日のうちに青木さんは四人部屋に移っていました。青木さんのベッドは入ってすぐの左側。閉まっていたカーテンを開けて覗くと寝ていました。お引渡し間近の広瀬様邸に、ここに来る前に行ってきました。鈴木木材の源さんが完璧に現場をこなしてくれて、何一つ問題のない仕上がりでした。それを報告したかったのになんだか残念です。  最近は昼間に面会に来るようにしています。夕方は十六時に仕事が終わってから、真紀ちゃんが毎日来ているから。避けているわけじゃありませんよ、親子の時間を邪魔したくないだけ。ううん、本音を言えば避けてます。二人の父娘ぶりを見ていると、羨ましくて嫉妬しちゃうから。変ですよね、でもしょうがないです、そうなんだから。  青木さんは昼間に来ると半分くらいの確率で寝ています。普段から家に帰って寝てるの? なんて思っちゃいます。でもそんなことはないかな、青木さんが図面を上げてくるペースは速いので、寝てたら無理だもんね。ノートパソコンではやりにくい、ってことで気が乗らないのでしょう。ま、入院中くらいゆっくりしてもらおう。  そんな風に思っていたところに看護師さんが来ました。青木さんの横に立つ私を見ると寄ってきます。なので挨拶しようと思ったら、先にこう言われました。 「ちょっといいですか?」 そして外の廊下に出るように手で促されます。 「はい」 返事して病室を出ました。 「お忙しいのかも知れませんが、ちょっとお仕事控えるようにお話ししてもらえませんか?」 廊下に出るなりそう言われました。 「え?」 「周りの患者さんから苦情が出ているんです」 「えっと、どういう苦情ですか?」 「キーボード叩く音がうるさい、と」 なるほど、カチャカチャずっと鳴ってると気になるよね。 「すみません、注意するように言っときます」 「ええ、お願いします。昼間はまだいいんですよ、気を遣ってあまり音が出ないようにしてくれてますから。でも夜はそれでも気になりますからね。夕食が終わったらすぐに寝たい方も見えるのに、眠れないとおっしゃるから」 「夜の話ですか」 「そうですよ、毎晩のように消灯時間無視してされてますよ。気付いて声を掛けたらすぐにやめてくれますけど、これ以上続くならパソコンの持ち込みを禁止させていただくかもしれませんよ」 「分かりました、申し訳ありません。よく言っておきますので」  看護師さんが立ち去ってから青木さんのベッド横に戻りました。そして寝顔を見降ろして思います、夜型だったんだ。  全く起きそうになかったのでメモを残しました。せめて消灯時間だけでも守らないと、パソコン使用禁止になりますよって。でも、昼寝せずに昼間にやってください、って書いたほうが良かったかな。  事務所に戻って、珍しく事務所にいた久保田さんと、広瀬様邸、杉浦様邸の竣工書類の打ち合わせをしました。どちらも問題なさそうで安心。  自分の席で仕事を始めてしばらくすると、左側のコピー機が動き始めました。A3の紙を吐き出しています。誰かが図面を打ち出しているんだと思って室内をなんとなく見ると、いつの間にか久保田さんがいません。そして清水さんも出掛けようとしています。目が合ったので聞いちゃいました。 「出掛けるんですか?」 「ああ、うん、梶さんのとこ行ってくる」 そう言いながら私の方に来て、横のコピー機から打ち出した図面を取り出します。梶さんって言うのは外注の建築士さん。確か自宅兼仕事場は清須市だったかな? 「今日はそのまま帰っちゃう予定だけど、なんかある?」 「いえ、別に」 「そっか、ま、明日も午前中は出てくる予定だから、なんかあったらその時にでも」 「ああ、はい、行ってらっしゃい」 そして清水さんもいなくなり、笹山さんだけが残っています。その笹山さんからクリックの音がしたと思ったら、またコピー機が動き始めました。  笹山さんがコピー機から図面を回収してしばらくしたころ、声を掛けられました。 「高橋さん、これいいですか?」 振り返るとさっき打ち出した図面かな、笹山さんが三十枚くらいの図面をこちらに向けて立っていました。片田様邸新築工事、となっているけど、そんな件名覚えがありません。 「はい、えっと、これ何ですか?」 ほんとに何なのか分からないので聞きました。 「鈴木木材さんのこれから始まる現場です」 続きを待ちましたが笹山さんは何も言いません。何も言わないけど図面を差し出してきます。なので受け取りました。受け取ってもう一度質問。 「え~っと、それで?」 「あれ? 久保田さんから聞いてませんか?」 「ええ、ごめんなさい、何も聞いてませんけど」 「作図を頼まれたんですけど、上がったら一度、高橋さんに見てもらうように、とのことでしたから」 私が見る? 打ち合わせもしていない物件の図面を? 意味が分からない。久保田さん、それならさっき話した時に言ってよ、何したらいいのか。 「そうですか。分かりました、じゃあ預かりますね。いつまでに目を通したらいいですか?」 「いや、すみません。図面の提出がいつなのか、久保田さんからお聞きしていません」 それはお聞きしてない、ではなくて、頼まれた時に確認してないってことだよね。と思っていたらこう続きました。 「急がなくていいと言われただけです」 あっそ。 「分かりました」 そう言って机に向き直りました。そして、さっそく図面をめくって見ていきました。おかしなところがないか、くらいのチェックしかできないので、さっさと終わらせて返そうと思っていました。  頭の概要、仕様部分はパッと飛ばします。建築詳細を知らないんだから見てもしょうがないです。敷地周辺図もパス。そして立面図、いきなり目を引きました。青木さんの設計では見ないようなおしゃれな外観デザインでした。建物正面の二階に最近流行っている縦長の窓が、壁と交互に並んでいたりします。でもクエッション。  続いて平面図を見ます。やっぱりさっきの窓が居室にありました。私の考え方は青木テイストになってしまうので、久保田さんの物件にそれを求めてはいけないかな。と思いましたが、久保田さんが私に見せろと言ったのであれば、私が思ったことを言わないといけないんだよね。ってことで、図面を後ろのキャビネットの上に置いて、その先の笹山さんの背中に声を掛けました。 「すみません、ちょっといいですか?」 笹山さんが返事しながら立ち上がって、図面を挟んで私の前に来ました。 「この二階のお部屋のここの窓なんですが、これはこういうデザインがお施主様からのご要望ですか?」 さっきの縦長の窓が並んでいる部分を、立面図と平面図とを並べて見せてそう聞きました。 「いえ」 「と言うことは、笹山さんの提案と言うことですか?」 「提案……、ええ、まあ」 「こういうデザインがお好きなんですか?」 立面図を指して聞きました。 「いえ、今まで家の図面を描いたことがないので、いろんな家のデザインを見て回ったんです、住宅展示場とか。それで、なかなかいいなと思って採用してみました」 そっか、ビルの現場しかやってなかったから、住宅の勉強もしたんだ。でも、私が思ったことを言わなきゃ。 「そうですか、でも、ここって寝室ですよね。廊下とかならこういう窓が並んでいてもいいかもしれませんけど、お部屋だと良くないと思いますよ」 「そうですか? 展示場で見た家も、寝室にこういう窓が付いていましたよ」 展示場で家の中まで入って回ったんだ。それはそれですごいかも。本気で家の設計をしようと研究してるんだ。そして、この人の方が私より絶対プロだよねぇ。そんな人に私がこれ以上言ってもいいのかな。  なんて思いながら手元の図面を見ていました。気になっている窓は横幅300ミリほどで、腰高までが嵌め殺し窓、その上が開き窓、さらに欄間に嵌め殺し窓。ほとんど床から天井までの縦長の段窓です。それが500ミリくらいの幅の壁を挟んで並んでいます。  ハッキリ言います、最近よく見るデザインです。サッシメーカーもこういう意匠に対応した商品を次から次に出しています。なので人気はあるのでしょう。私だって意匠、見た目で判断したらいいなと思います。特に外観は家屋然とした雰囲気から離れてかっこいいと思います。でもこのデザインの部屋を実際に使うとしたら、不便だろうと思います。  モデルルームに作られた寝室に、ドラマに出てくるようなおしゃれな生活の住人が住むなら問題ないでしょう。でも現実の家って、物が多いのです。この手のデザインだと大きな開口の窓ではない分、光を沢山入れるために沢山窓が並びます。言い換えると、窓ばかりで使える壁面がなくなるのです。それは家具の配置に困ると言うこと。別に窓の前に家具を置いてもいいじゃないか、と言われそうですが、この手のデザインは外観を意識していることが多いので、外から一番見える部分になっていることが多いです。その窓に家具の背中が外から見える。多分、住んでいる人は避けたいでしょう。なら家具の所はカーテンを閉めっぱなしにする? それもどうでしょう。  でもこんなことは今、笹山さんに言えません。なぜなら私はこの家の打ち合わせに参加していないから。お施主様がどいう方で、この部屋にどういう家具を置きたいのか、そう言うことの聞き取りをしていないから。久保田さんがやっているので、そういうことをお聞きしているかもしれません。でも私にはそれが分かりません。なのでこんな、部屋の使い勝手についての講釈を笹山さんにするべきじゃない。  じゃあどうしようか。図面にまだ材料がありました。 「あの、この窓、外開きですよね?」 「いえ、辷り(すべり)開き窓です。外側の掃除も出来るようにそうしました」 開くと吊元側もスライドして、吊元に隙間が出来る窓のことです。そして笹山さんが言う通り、隙間が出来ることで外開き窓では室内から拭くことの出来ない外側のガラスも拭ける窓です。 「そうですか、でも、網戸は部屋側になりますよね」 「まあ、そうですね。ロール(網戸)かアコーディオン(網戸)ってところですよね」 「えっと、うちでは、いえ、青木さんとか私が担当する物件では、基本的に網戸をつける窓は引き違い窓ってことにしています。どうしても引き違いでは、ってところは内倒し窓です」 「なぜですか?」 「それは、その二種類の窓だと網戸が外側に付くからです」 笹山さんが首を傾げます。私は続けました。 「網戸が内側だと、窓を閉めるときに一度、網戸を開けないといけませんよね。すると、部屋の明かりに誘われて網戸に付いていた虫が、部屋の中に入っちゃいます。なので、基本的に網戸は外側ってことにしています」 青田設計に入ってすぐの頃に青木さんの横で聞いた、青木さんがお施主様にしていた説明でした。私にはすんなり受け入れられる理屈だったので、とても重要なことのようにすぐ覚えた一つです。そして、似たようなセリフは遠藤さんもお施主様に言います。 「……」 「もちろん、お施主様が希望されたら辷り開き窓なども採用しますよ。でも必ずこの網戸のことはお伝えして、ご了解を頂いてからにしています」 「……それは、後々のクレームを回避するために、ってことですか?」 「そんな、……まあ、そう言うことにもなりますけど、あくまでお施主様のためです。後々不快な思いをされるかもしれないことが分かっているなら、分かっている限りはお伝えしないといけないと思ってます」 笹山さんは図面に目を落として反応しませんでした。でもやがて顔を上げます。難しい顔をしてました。 「網戸でそこまで考えるんですか」 そしてそう言いました。 「そうですね。私なんかまだまだですけど、青木さんなんかはもっといろんなことに気を遣ってますよ」 「そうですか」 なんだか暗くなってきたので、話題を変えるつもりでこう言いました。 「あの、この物件の打ち合わせの資料ってないですか? 議事録とか久保田さんからもらってますよね」 「ちょっと待ってください」 笹山さんはそう言うと私に背を向けて自分の席に。そして、A3,A4が混ざった紙の束を取ってきました。 「これです」 「これお借りしてもいいですか? これ見ながらもう一度チェックしていきますから」 「分かりました。よろしくお願いします」 そう言って頭を下げられました。もう、ほんとに私みたいな小娘におじさんがいちいち頭下げないでよ、おじさんじゃないけど。  自分の仕事を終わらせてから、片田様邸の図面チェックを始めることにしました。事務所はもう私一人。笹山さんは十九時前に帰って行きました。先日の夜、笹山さんと私二人が残っていた時、どう見ても時間潰しをしている笹山さんに言いました。夜、私一人になるのは珍しいことじゃないんで、先に帰ってくださっていいですよ、と。そう言うと帰って行きました。そして今日は最後が二人になるのはそれ以来初めてですが、仕事を終えるとすっと帰って行きました。うん、待っててもらう必要はないので、この方が気が楽です。  チェックを始めるにあたって、先に打ち合わせの記録に目を通すことにしました。さすがと言うかなんというか、久保田さんも細かく打合せされていました。私が最初の方の打ち合わせでは記録に残さない、聞いたけど無回答だったようなことまでしっかり書いてあります。  そんな感動を持って読み進めると、例の寝室の打ち合わせ内容が出てきました。そこに書かれたお施主様のご要望事項。セミダブルサイズのベッドを二つ。ウォークインクローゼット欲しい。その中に整理ダンスを置いて、部屋の中に箪笥を置かない。ここまでなら笹山さん案でOK。でもまだあります。三面鏡のドレッサー置く。テレビ、40~50型程度を予定。ベッドから見れるように背の高いキャビネット、もしくは壁面取付。これはベッドの位置とテレビの位置まで考えないといけないと言うこと。こう言うと、設計するうえで鬱陶しい内容の様に思えますが逆です。先にこういう具体的なご要望が分かっていると、家具の配置などを考えた設計が出来ます。もちろん、出入り口からの動線や、ウォークインクローゼットへの動線まで含めて。そしてそれらを邪魔しない窓の位置も決められます。設計が進んでからそう言うことが分かって修正するとなると、修正可能な範囲、もっと言うと、修正しやすい範囲での配置にしてしまいがちになります。つまり、設計した部屋に合わせて生活してもらうことになると言うこと。それでは注文住宅の意味がないわけです。余談ですが、ハウスアートの遠藤さんはこの、注文住宅、ってことを真剣に考えている人です。なのであの人の仕事は、お施主様とべったりって感じの進め方になるのです。嫌ではないんですけどね。  そこまで見ただけでかなりチェックが必要そうに感じました。なので、明日は休むつもりでしたが出社することにして、残りの資料にざっと目を通していきました。その中に、建築地に隣接する周りの家の写真もありました。もう現地の下見も終わってます。ほんとに久保田さんもさすがです、こんな風に言っては生意気ですが。そして、写真で気になることがまた出てきました。ふぅ、明日は長くなりそう。  三月十一日 月曜日、七時半前に出社、いつも通りです。そして、いつも通り清水さんは画面に向かって座っています。久保田さんはタバコを片手に何かの書類に目を通しています。その久保田さんに、 「片田様邸の図面なんですけど、ちょっと打ち合わせいいですか?」 と、チェックした図面などを抱えて近付きました。 「ああ、ごめんね、高橋さんに頼んじゃって」 「いえ、いいですよ」 ミーティングテーブルに図面や資料を置きながらそう返しました。 「どうだった?」 久保田さんが目の前に置かれたそれらを見ながら聞いてきます。 「まあ、結構いろいろ指摘したいことがありますけど」 「いいよ、気付いたことはどんどん指摘して」 「はあ、でも、それ、私でいいんですか?」 「うん? どう言うこと?」 「いえ、私なんかがって言うか、青木さんがいたら青木さんがすべきことだろうし」 そう言うと久保田さんがイスの背もたれに体を預けて、一口煙を吐き出してからこう言います。 「その青木さんが、高橋さんにって言ったんだよ」 「えっ、青木さんが?」 「そうだよ、今の青田クオリティーは高橋さんが基準だからって」 そんな、そんなこと言われたら、なんて返せばいいかわからない。青田設計のクオリティーが私基準? 青木さんがそう言った? いやいや、それはないでしょう、青木さん、おだて過ぎですよ。すると清水さんが後ろから混ざってきました。 「俺も梨沙ちゃんの考え方、だいぶ参考にさせてもらってるよ」 「えっ?」 「俺の場合はマンションの部屋だけどさ、例えばクローゼット。普通は何も考えずにデッドスペースに重ねて作るんだよね。でも、出来るだけ家具の配置のバリエーションが広げられそうなところに作って、向きや扉の位置も考えたりするようになったよ」 清水さんまでそんなこと言うなんて、ほんとに照れちゃいそう。 「そんな、私の所為でですか?」 「せいって、おかげ、でだよ」 正直に言います、とっても嬉しかったです。土曜日一日かけてやった図面チェック。打ち合わせ内容等と照らし合わせて見ていくと、何でこうなの? ってところが盛りだくさん。ストレスタンク満タンってところまで溜まってました。それが空っぽになった気分です。  久保田さんから片田様邸の打ち合わせは、笹山さんが来てから三人で、と言われました。なので自席に戻って自分の仕事をしていました。 「すみません、遅くなりました」 と、隣から聞こえたと思ったらこちらへの扉が開き、同じ言葉が繰り返されました。もうお分かりだと思いますが、笹山さんです。 「お前、何時だと思ってんだよ」 さすがに清水さんの口調が怖いです。そして、そのセリフに時計を見ると、八時四十分を過ぎていました。 「すみません。起きたら八時でした」 「あのなあ、起きれないなら早く寝ろよ」 「すみません」 「昨日は何時に寝たんだよ」 「昨日は十一時くらいには寝たんですけど……」 「はあ? 何時間寝てんだよ」 「すみません」 まあ二人のやり取りはこれくらいにして、と。その後席についた笹山さんが清水さんにこう言います。 「稲沢、十時でしたよね、もう出ますか?」 「いや、それ、俺一人で行ってくるから」 清水さんはそう言いながらホワイトボードに向かい、行き先を書いています。 「え、じゃあ僕は何してたらいいですか?」 清水さんは席に戻ると鞄などを持ちながら、 「お前は午前中、高橋さんから講義受けといて」 そう言うと出て行っちゃいました。  本当にいつもいつも不思議ですが、久保田さんはいつの間にか出掛けちゃってました。しかも帰社時間はNR(ノーリターン、直帰)となっている。と言うわけで、マンツーマンでの講義、もとい、打ち合わせとなりました。  ミーティングテーブルに片田様邸の図面などを広げて始めました、話が始めやすいので、金曜日の夜に話した寝室から。  いきなり議事録のその部分の記載を示しました。 「このお部屋、議事録にこう記載されていますけど見ました?」 そしてそう尋ねました。 「ええ、見ましたよ」 あっさりそう返ってきました。 「ではこのお部屋にセミダブルサイズのベッド二つと、ドレッサー、50型のテレビ、テレビ用のキャビネット、どう置くか書き込んでください」 そう言ってシャーペンを図面の上に置きました。ちなみにそのシャーペンは最近お気に入りの0.9ミリ芯のもの。 「……どういうことですか?」 しばらく首を傾げてからそう言う笹山さん。 「お施主様から具体的なご要望が出ているので、それをどうかなえた設計になっているのか示すだけですよ」 「いや、それは考えていないと言うか……。そう言うのは施主さんが考えることですよね」 「いえ、ご要望をお聞きしている以上それを反映させないと、何のためにお聞きしているのかってことになりますよね」 「いや、それは……」 「まあ、とりあえず書き込んでみてくださいよ」 「……そうですか」 そう言って笹山さんはシャーペンを手に取りますが、議事録を見て考えています。そしてしばらくして出た言葉。 「ドレッサーって言うのはどんなものですか?」 はあ、長くなりそう。 「いろいろありますけど、とりあえず、巾1メートル、奥行き500(ミリ)、高さ1500(ミリ)くらいの大きさのキャビネットくらいを想定してください」 分からなかったのならネットででも調べてよ、と思いながらそう言いました。 「結構大きなものなんですね」 笹山さんはそう言うと自分の席から定規を取って来て、図面のスケールに合わせたベッドなどを書き込み始めました。何も言わずに見ていましたがうまく収まりません。それでも無理矢理っぽく書き込んでこう言います。 「こんな感じですかねえ」 こんな感じ? ま、想定内なのでストレスは溜まらないけど。 「ドレッサーやテレビ、ベッドまで窓を塞いでますよ」 図面を見降ろしてそう言いました。 「まあ、しょうがないですよね」 「この窓の並び、建物の正面ですよね?」 「それはそうです、表の道から見せる意匠ですから」 「と言うことは、家具やベッドを表から見えるようにしちゃうわけですね?」 「まあ、施主さんが実際こういう風に置くならそうなりますね」 「いいんですか? それで」 「いや……」 そう言って黙った笹山さんに続けて言いました。 「それにベッドですが、くっついてますよね。くっつけてOKが頂けるんなら、初めから二つにしないでダブルサイズでっておっしゃるんじゃないですか?」 「……」 何も言わない笹山さんにさらに続けました。 「それと、ウォークインクローゼットへの動線ですが、ベッド横を通る格好ですよね。これだと狭くないですか? 300(ミリ)くらいしかないですけど」 「でも、他に置きようがないですよね」 「……」 敢えて何も言いませんでした。 「……、この部屋じゃダメってことですか?」 「そう思います」 「えーっと、ひょっとして、家具に合わせて設計しろってことですか?」 「お施主様から具体的なご要望が出ている以上はそうすべきだと思います。もちろん、敷地の広さから逆算された建物の大きさにしかできないわけですから、全てご要望通りにするのは無理な場合もありますよ。予算的なこともありますし。でもこの物件に関しては問題ないと思います」 「あの、簡単に言いますけど、部屋の形や広さを変えるとなると、この図面はもう、パァですよ。全部描き直せってことですか?」 ああ、もう核心になっちゃった。じゃあ言っちゃうか。 「順番に他のお部屋も話してからと思いましたけど、結論から言うとそうです、申し訳ないですけど描き直してください」 久保田さんから先に、この物件のスケジュールを聞いてありました。全く急いでいないものでした。久保田さん自身もまだ申請に向けた準備すらしていないもの。なんでそんなにのんびりした物件なのかは知りませんが、そう聞いてあったので自信を持って、描き直してください、と言いました。 「そこまで施主さん主体で考えて、設計事務所としての色付けは放棄するんですか? そんな仕事でいいんですか?」 大手の設計事務所だとそう言う考えになってしまうんでしょうか? ここ(青田設計)にいると、お施主様のご要望を叶えるためにしたことこそがここの色ってことになるんだけど、多分。 「いいと思います。うちでさせて頂いているのは注文住宅です。法令違反になるようなご要望でない限り、出来るだけお施主様の注文通りに造るのが仕事だと思ってます。笹山さんとしての色を付けたいのであれば、それはお施主様のご要望をすべて盛り込んだ上で、より良いものを、と言う風に考えた方がいいと思います」 またしばらく黙った笹山さん。年上相手に少し生意気だったかな、と反省しかけたら、笹山さんがテーブル上の資料をまとめながらこう言います。 「分かりました。描き直します」 「えっと、他のお部屋も細かく見ていかなくていいですか?」 「大丈夫です、すみませんでした。次は議事録の内容をすべて把握したうえで作図しますから」 なんだか機嫌を悪くさせたみたいでした。 「そうですか。こちらこそ細かいことをすみませんでした」 そう言って少し身を引きます。笹山さんから返事はなし。  こんな衝突したくないのに、やだなぁ、と思いながら、笹山さんが資料をまとめるのを見ていました。その手元でA4にプリントされた写真が見えました。大事なことを思い出し、慌てて言いました。 「あっ、すみません、ちょっと、もう一つだけいいですか?」 「何ですか?」 笹山さんが手を止めてそう言います。その止まった手元から写真を取り、二階の平面図を上に出しました。 「部屋の北側の窓、私が全部×を付けたんですけど、やめた方がいいと思います」 図面を睨む笹山さん。 「なんでですか?」 そしてそう言いました。私は写真を一枚笹山さんに差し出してこう言います。 「これは恐らく久保田さんが事前に現地を見て撮ったものだと思いますが、この北側って書かれた写真に写っている隣のお宅、当然こちらが南側になるからでしょうが、窓が並んでいますよね」 「それが?」 「お部屋の窓と窓が向き合うと気まずくないですか?」 「……そんなことまで、ですか」 なんだかとっても疲れた表情になっている笹山さん。これ以上言うのは申し訳ないんだけど、もう一言だけ言わせてくださいね。 「そのためにまず現地に行って下見するわけですから、それを生かさないと下見に行く意味がないですよね」 偉そうに言ってるけど、私もこれは遠藤さんに言われたこと。 「……分かりました」 笹山さんはそれだけ言って資料をまとめると、自分の席に戻ってしまいました。講義は午前中も掛かりませんでした。これでよかったのかな?  午前中、笹山さんは議事録や打ち合わせの資料とずっとにらめっこでした。私は下でランチを食べてから出掛けました。ニューブレインさんで、新しい物件が出る、と呼ばれたので、その資料を頂きに。  ニューブレインさんでの打ち合わせを終えてから青木さんの病院に行きました。病室を覗くと青木さんがいません。ギプスはまだ取れていませんが先週から松葉づえで歩いています。売店にでも行ってるのかな? なんて思いながらベッド横のイスに座って待っていました。すると看護師さんが病室にやってきました。青木さんのベッド横にいる私を見ると寄ってきます。この前の看護師さんでした。軽く会釈するとこう言います。 「あの、ちょっと控えるようにまた言ってもらえないですか?」 また消灯後に仕事してるのかな? と思いながら、 「はい。何かありました?」 と言いました。 「タバコです」 「はい?」 まさか、病室で吸ってるってわけないよねぇ。 「うちは建物の中はもちろん、敷地内全面禁煙ですから外に出て吸ってると思うんですが、勝手に出られては困るんです。それに、すごい匂いさせて帰って来られるので、同室の患者さんにも良くないですし」 「そうですか、すみません、よく言っておきます」 なんかこの看護師さんにはいつも謝ってる気がする。 「ほんとに、お願いしますよ。ドクターの許可なしで外に出るのは禁止なんですから」 「分かりました。本当にすみません」  それから三十分くらい病室にいましたが、青木さんは戻ってきません。まったく、どこまで吸いに行ってるんだろう。今日は面会を諦めて帰ることにしました。  久保田さんは会社の車ではなくマイカーです。それは一番よく見かけるハイブリッドのセダンです。病室を出て車に向かって私が歩く病院の駐車場にも、同じ車が何台も停まっています。そのくらいよく見かける車です。なので気にもせず歩いていましたが、気にしてそれらの車を見ていたら気付いたかも。久保田さんと並んで助手席に座った青木さんがタバコを吸っているのを。だって、二人は私に気付いて隠れたらしいから。ま、だいぶ後から聞いた話ですけどね。  事務所に戻ると清水さんは普段通り、FMを流しながら画面に向かって図面を描いています。笹山さんは午前中に使ったミーティングテーブルに図面なんかを広げて何かやっています。まあ、片田様邸のことだろうけど。私は自分の席で自分の仕事を。  清水さんが、 「俺、そろそろ帰るけど」 と、声を掛けてきました。時計を見ると十九時過ぎ。お疲れ様です、と返しながら、私も帰ろうと思いました。でも、笹山さんは事務所の鍵を持っていません。田子さん曰く、もう合鍵がない。作ってもいいけど、清水君がいなくなるんだから、その時に清水君のを渡せばいいよね、とのことでした。笹山さんに声を掛けます。 「あの、私もそろそろ帰ろうと思うんですけど、まだやりますか?」 「あ、いえ、終わります。終わりますけど、高橋さん、ちょっといいですか?」 「はい」 そう言われたのでミーティングテーブルの方に行きました。すると、一束の議事録を示してこう聞かれました。 「これ、おそらく全部、最初の打ち合わせの時の物なんですけど、最初の打ち合わせでここまで施主さんと話してるんですか?」 笹山さんの指す議事録を見ました。広瀬様邸の物でした。 「そうですけど、広瀬様邸で何かありました?」 「いえ、参考にさせて頂こうと思って見させてもらいました。勝手にすみません」 「いえ、いいですよ。なにか参考になりそうですか?」 「最初の打ち合わせ内容が、最初の図面にどのくらい反映されているのかを見させてもらおうと思ったんですけど、すみません、僕が甘く考えてました」 「え?」 「あの後、片田邸の打ち合わせ内容を見て、細かいなと思ったんです。こんなに細かいことを先に決められたら設計の自由度がなくなる、と思いました。それで、高橋さんがされてる物件はどうだろうかと見させてもらったんです。比べるまでもなく、さらに細かく打合せされてますね。参りました」 「はあ」 午前中の機嫌の悪くなった姿が笹山さんから消えていました。 「それで、これは高橋さんが描かれた図面ですか?」 そう言って笹山さんが出したのはA3の方眼紙に私が描いた平面図でした。 「あ、そうです」 図面だなんて言われて少し照れてました。 「打ち合わせに基づいて作図指示用にですか?」 「基づいてと言うか、お打ち合わせしながらです。私いつもそうしていますから」 「施主さんの前で、話しながら描いてるんですか?」 「そうですよ」 「……」 笹山さんが私の手書き図面を睨むように見ています。ちょっとそんなにじっくり見ないで、消しゴムが沢山仕事したのまで見えちゃうから。そう思ったらこう言ってました。 「お施主様のご要望をお聞きしながら描いていくので、何度も書いては消しての繰り返しになっちゃうんです。でもそれでお施主様にも、この要望を通せばこうなって、そこにこの要望を追加したらこっちがこうなる、とか、そう言うのがすぐに分かって理解して頂きやすいんですよね。特にそのお宅は、そんなに広い敷地ではないのに要望されることが盛り沢山でしたから」 「確かに、この敷地によくもここまで盛り込めたなって感じです。でもそれを打ち合わせしながら描いたなんて、ほんとに驚きです。事務所で落ち着いて考えても、なかなかこういう間取りは思いつかないですよ」 うん? ひょっとして、褒めてくれてる? 「それ、ハウスアートの遠藤さんって方の仕事なんですけど、打ち合わせが終わってから遠藤さんにその平面を見せたら、思い切った間取りにしちゃったね、って、半分呆れられてました」 「でも、その後の青木さんが描かれた最初の図面で、平面はほぼこの通りですよね。と言うことは青木さんが考えても、高橋さん以上の間取りは思いつかなかったってことですよね」 そんな言い方、こそばゆいですよ。笑顔になっちゃいそう、もうなってるかもしれないけど。でもこう言いました、また笹山さんの機嫌が悪くなるかもしれないけど。 「でも、片田様邸も久保田さん手書きの図面がありましたよね。あれも多分、お打ち合わせしながら久保田さんが描いたものですよ。なので、こう言ったらなんですが、お施主様のご要望がほとんど反映されていたように見えましたけど」 さすがに笹山さんが俯いてまた黙りました。そしてしばらくして口を開くと、 「そうですね、確かにそうでした。すみません」 こう言いました。 「……」 私は何と返そうか考え中。すると笹山さんが続けます。 「正直に言います。個人邸、ある程度基本的な要望に沿ってれば、設計側に施主の方が合わすだろう、くらいの考えがありました。でも、高橋さんや久保田さんの細かな打ち合わせ内容を見ると、そうじゃないと気付きました。こっちに合わさせる気ならあんな細かな打ち合わせする必要ないですもんね」 「そうですね。あくまでお施主様が一番上ですから」 「はい。今朝高橋さんが言われた、うちは注文住宅を造っている、って言葉。これから肝に銘じますね、注文主の意向が一番大事なんだって」 「えっ、ああ、言いましたねそんなこと。すみませんでした、偉そうに」 「いえ、ほんとのことですから。これからもっといろいろ教えてください。お願いします」 ああ、なんだか持ち上げられすぎて飛んでいっちゃいそう。明日あたりすんごい失敗やらかしそうで怖い。 「いえ、こちらこそ。それに、私も笹山さんの片田様邸の図面見て思ったんですよ、いいデザインだなって。だから、ああいうのがうまく組み込めたらなって思いましたよ。私にはああいうセンスはないんで」 「ありがとうございます。でも、僕のは今回、絵に描いた餅でしたから、次は食べられる餅にしたいですね」 「ですね、おいしく食べて頂きたいですね」 とりあえず、お互い笑顔で終われました。  三月十四日 木曜日の朝、七時少し前に会社へ。仕事の都合で早く行ったわけではありません。食パンを切らしていたので、峰でモーニングを食べるためです。食べ始めたところへ真紀ちゃんが寄ってきました。 「りさ~、土曜日のお昼頃って暇?」 そしてそう聞いてきました。 「何かある?」 「青木さんね、土曜のお昼で退院になったの」 真紀ちゃんはお店では、パパ、とは言いません。徹底してます。 「そうなんだ、良かった」 「うん、でね、車出せない?」 「いいよ、もちろん手伝う」 「よかった~、ありがと」 と、笑顔の真紀ちゃん。青木さんが戻ってくるんだ。私も嬉しくなりました。  七時半前に事務所に入ると、なんと三人いました。久保田さん、清水さん、そして、そして、笹山さん。笹山さんより遅く出社したのは初めてかも。思わず時計を見ちゃいました。  その笹山さんが私の席の並びの長机に、図面などを持ってやってきました。そして折り畳みイスに座りながらこう言います。 「高橋さん、朝から申し訳ないんですけどいいですか?」 「はい」 私は自分のイスに座ったまま長机の方に移動。机の上にあったのは片田様邸の図面でした。少し驚き。なぜなら、協建コーポレーション、大川設計などの仕事の引継ぎで忙しそうだったから。昨日、一昨日は清水さんと出掛けていて、ほとんど会社にいなかったし。いつやったんだろう? 「えっ、もう(図面が)上がったんですか?」 なので図面を見るなりこう言っちゃってました。 「ええ、なんかこれは早くやっちゃいたくなって」 「そうですか。でも、いつやってたんですか? 忙しそうでしたよね」 「家でもやれるようにAーCAD買いました」 と言うことは家でやったんだ、それもCADを買ってまで、すごい。でも、火曜日から遅刻してないよね。ちゃんと寝てるのかな。そう言えば疲れた顔してるかも。なんて思ってたら清水さんが加わりました。 「家でやり出すと仕事がエンドレスになるからやめた方がいいぞ」 だよね、私もCAD買おうかと一瞬思ったけど、やめとこう。  その後笹山さんの図面を見ました。久保田さんにも声を掛けたけど、任せる、と言われてしまいました。まあ、私のやっている二件を含めて四件も今月竣工があるので、その竣工書類作りで忙しいのでしょう。昨日は田子さんもずっと一緒にやってたし。  笹山さんの書き直した図面は、久保田さんの手書き図面とほとんど同じでした。そしておそらく、広瀬様邸の青木さんの図面を参考にしたのでしょう、お施主様ご要望の家具などが平面図に描かれていました。展開図にはドレッサーの姿もあります。ちゃんと調べて、笹山さんなりに良さそうな物の姿を落とし込んだのでしょう。そしてそれらの家具を邪魔しない位置に窓があります、引き違い窓が。私も網戸の問題がなければ辷り開き窓とか使ってみたいですけど、まあ、無難な方がいいですよね。  ほんとにずっと徹夜だったんじゃないの? って疑いたくなるくらい、全ての図面が揃っていました。今の段階でここまで必要だったのかな、と思っちゃいます。特に問題はないように思いました。でも、私だったらここはお施主様に再確認するな、とか、了解を取っておくな、とかいう箇所を伝えました、その理由も添えて。するとそれをちゃんとメモに取っていく笹山さん。なんだか本当に私が教えているようで恐縮です。笹山さんはやっぱり設計者として私の大先輩なのだから。と言うか、厳密には私は設計者じゃないし。青木さんになんて言われたっけ? そうだ、私は調整役だ。  笹山さんは私との打ち合わせを終えたら、図面を久保田さんの所に持って行きました。そして、次回のお施主様との打ち合わせに、同席させて欲しいと頼んでいます。久保田さんは快く承諾していました。  なんだかんだと細かな仕事を片付けているうちにお昼前になっていました。事務所内はいつの間にか私一人。なので一人で混む前にランチに行きました。戻ってから思い立って、テレビ鑑賞しながら食事中の田子さんに話し掛けました。 「田子さん、会社の車の合鍵ってあります?」 「うん、私が持ってるわよ。まさか、失くしたの?」 「いえ、そうじゃなくて。あの、青木さんの車の鍵、お借り出来ますか?」 「いいけど、どうして?」 「青木さん、今週土曜日に退院するんですけど、車停めっぱなしだったんで埃まみれなんですよ。だから、今日私が乗って出て洗車しておこうかと思って」 そう、青木さんの車はマンションの駐車場に三週間ほど放置されてます。うちのマンションの駐車場は舗装されておらず砂利敷きです。それも土の目立つ砂利敷きです。故に、三週間放置した車には土埃が積もっています。 「あ、そっか、退院してくるんだったわね」 その田子さんの言葉を聞いて気付きました。田子さん、青木さんの退院を知ってた? 私はさっき田子さんに話しながら、今朝真紀ちゃんから聞いた、青木さんの退院のことをみんなに言ってなかったな、って思ってたのに。なのでこう聞いてました。 「あの、私話すの忘れてたんですけど、田子さん知ってたんですか? 青木さんの退院のこと」 「うん、昨日久保田さんがお昼過ぎに会いに行って聞いてきたって」 久保田さん、面会に行ったんだ。その田子さんはそう言いながら席を立って自分の席の方へ行きます。そして席の後ろのキャビネットを探ったあと戻ってきました。 「はい、これ」 車の鍵を差し出されました。私が受け取ると、お礼を言う前に座りながらこう言います。 「でも足でしょ? 退院したからって運転出来るの?」 そう言われたらそうかも。でも運転に使わない左足だし、出来るんじゃないかな? してもいいのかどうかは分からないけど。 「それは、まあ、とりあえず使えるようにしておくってことで」 「まあそうね、任せるわ」 「はい、じゃあお借りします。戻ったら返しますから」 「はいはい」 田子さんの返事が素っ気なくなりました、テレビで連続ドラマが始まったから。私は邪魔しないように離れて、そのまま出掛けました。  一旦自宅駐車場に戻って車の乗り換え。汚れてきたなぁ、と思いながら毎日見ていましたが、実際乗ると思って見ると、触るのに気が引けるほど汚れてました。完成間近の杉浦様邸の様子を見て、帰りに洗車と給油ってつもりでしたが、先にガソリンスタンドに行こう。これじゃ前もろくに見えない。  十一時に、と真紀ちゃんに言われて、その時間に青木さんの病室に行った三月十六日 土曜日。もう準備万端整って、二人は私を待っている状態でした。なので真紀ちゃんと分け合って荷物を抱えて駐車場へ。ギプスの外れた青木さんは、申し訳程度に松葉杖を使いながらついてきます。まだまだこれからリハビリなんでしょうが、思ったよりいいようです。そして帰宅。  真紀ちゃんがいるので私の出番はなし、と思ったら、真紀ちゃんがすぐに私の部屋に来ました。 「お昼作ろうと思ったら、パパのところ何もないの忘れてた。お昼恵んで」 そして真紀ちゃんはそう言いました。と言うわけで、二人で昼食作り。作り終わってから私も一緒に青木さんの所で食べよう、と真紀ちゃんが言うので同意しかけましたが却下。だって、あの部屋にはイスが二つしかないもん。なので二人分の食事を持って真紀ちゃんだけ青木さんの所に戻りました。  食後しばらくすると真紀ちゃんが空いた食器を持ってやってきました。そして、 「梨沙、買い物付き合って」 と、食器を洗いながら言います。と言うわけで、買い物に出掛けました。真紀ちゃんは、今夜は青木さんの所に泊まり込むことにしたようです。なので食材などを買い込んだ後、自分の部屋に寄って欲しいと頼まれました、着替えなどを持って出るために。真紀ちゃんの部屋経由で帰りました。そして、私の出番はこれでおしまい。青木さんのお世話は真紀ちゃん任せです。  三月十八日 月曜日、部屋を出て下の駐車場を覗くと、青木さんの車がありませんでした。停まっていたら声を掛けて乗せていこうかと思ったのに、自分で運転して行ったんだ。いいのかな?  事務所に入ると、戸口の横に清水さんが座っている。戸口の横が清水さんの席なので当たり前のことだけど。そして、挨拶した私に一瞬だけ目を向けて、よぉ、って顔をしたら画面に戻ってしまう。  奥を見ると、ミーティングテーブルにマグカップを置いてタバコをふかしている久保田さん。その傍の自分の席で、青木さんが電話を片手にパソコンを操作している。机上には一筋煙を上げているタバコが置かれた灰皿。なんだか嬉しい景色でした。三週間ほど見ることの出来なかった絵です。  あっ、中野君の騒ぎのこと、全然触れてませんでしたね。でも、触れようがありません。青木さんが被害を訴えなかったので、その後のことが何もわからないから。中野君が傷付けた女性は被害を取り下げたりしていないだろうから、まだ警察だか検察だかにいるんだろうけど。どっちにしても、深~く反省して、そして、もう私のことは忘れてください、と願うだけです。  そんなことを思っていたら、 「おはようございます」 と、後ろから笹山さんが入ってきました。笹山さんに挨拶を返したタイミングで、電話を終えた青木さんがみんなに声を掛けました。 「全員揃ったのでちょっといいかな」 田子さんまだだけど、まあいっか。 「そのままでいいから聞いてください。本当に迷惑掛けました。すみませんでした。今日から今まで通り仕事します、改めて、よろしくお願いします」 なんだかみんな無反応でした。私も返す言葉が見つかりません。すると久保田さんが口を開きました。 「まあ、しばらくゆっくりしたら? いなくてもそんなに困らなかったし」 みんな、なんとなく笑顔になります。清水さんなんて小さ目の声で、そうそう、なんて言ってるし。 「ひどいなあ、それなりにみんなやることが増えて、大変だったんじゃないの?」 青木さんがそう言います。 「いやあ、別に」 「ですねえ、何にもなさ過ぎて、青木さんて普段何やってるんだろうって思いましたよ」 久保田さんに続いて清水さんがそう返します。 「うそうそうそ、そんなことないでしょ」 なんだか慌てたようにそう言う青木さん。そう、嘘ですよ、みんなそれなりに作業が増えてましたよ。でも、そう言わないってのを分かってあげてよ、分かってるんだろうけど。 「まあ、強いて言えば、梨沙ちゃんが一人でバタバタしてたってくらいかな?」 清水さんがそう言います。それに久保田さんが続きます。 「そうだな、高橋さんは忙しそうだったなぁ」 いやいや、私のことはいいんだって。と思っていたら清水さんがさらにこう言います。 「でも、いつもバタバタしてるから、青木さんが抜けたからってことじゃないかもしれないですけどね」 「ひどい」 思わず口からそう出てました。そんなにいつもバタバタしてるかな。でも青木さんがこう言ってくれました。 「そっか、高橋さんは頑張ってくれてたんだ」 「いえ、まあ……」 青木さんが続けます。 「でも高橋さんが忙しかったってことは、清水はそのフォローで忙しかっただろ」 「いえ、もうほっといても梨沙ちゃんは勝手にやってくれるんで、なんにも」 清水さんがそう言うと、久保田さんもこう言います。 「うん、確かに。僕らが下手に何か言うより任せといたほうが良さそうだしね、高橋さんは」 う~ん、褒められてるのか、勝手なことやる奴って小言を言われてるのか、よく分かんない感じです。 「ですね、高橋さんには助けられるようになりましたね」 すると青木さんがそう言ってくれます。ほんとですか? そう思っていたら清水さんまでこう言ってくれます。 「今日で梨沙ちゃんちょうど一年でしょ? 大したもんだ、もう何年もやってるみたいだもんね」 「そうか、そうだな、ちょうど一年だ。なんか長い一年だったなぁ、もっと前からいてくれてる気がするよ」 え、え、え、どう反応したらいいんだろう? 「えっ、高橋さんまだ一年なんですか?」 笹山さんが話に加わりました。 「そうだよ」と、清水さん。 「えー? ここの前もどこかの設計事務所とかハウスメーカーとかにいたんですか?」 「いや、確か土建屋は初めてだったよね?」 笹山さんの問いかけに清水さんが私にそう聞いてきます。 「そうですよ」 「すごい、一年でこうなるんだ」 笹山さんがそう言って私を見ます。こうなるって、見てわかるようなものは何もないですよ。 「まあ、最初はほんとに建築図とか分かってなかったもんね」 「そうなんですか」 清水さんの言葉に笹山さんがまた私を見ます。見なくていいって言うの。 「あっ、でも、最初から勝手にいろいろやっちゃう癖はあったな」 清水さんのそのセリフには私が反応。 「え~、そんなことないですよ」 「いーや、分かんないのに聞きもしないで、勝手に図面を読み解こうってしてたでしょ」 「いや、それは……」 そう言えばそんなこともあったかも。でも、間違ってなかったんだからいいじゃん。 「まあ、これから二年目もよろしくね、高橋さん」 青木さんが締めてくれました。そうか、一年経ったんだ。二年目になるんだ。そんな気持ちで、 「はい」 と、いい返事したのに、清水さんがまた一言。 「いや、今日まではまだ一年目ですよ」 「そうか、じゃあ、明日から二年目よろしく、って、こう言うのはなんか変じゃないか?」 青木さんがそう言って、みんな優しく笑いました。  その少しあと。扉が開いて田子さんが入ってきました。でも、 「おはよ」 と言って、そのまま更衣室の扉を開けて入ろうとします。その田子さんに、 「田子さん、おはようございます。いろいろ迷惑かけてすみませんでした」 と、青木さんが声を掛けました。更衣室に入り掛けた田子さんが、二歩ほど戻って青木さんの方を見ます。 「そっか、青木君今日からだったっけ。おはよ、迷惑なんて掛かってないから気にしなくていいわよ。青木君っていてもいなくても一緒だから」 そう言って田子さんは小さく舌を出します。 「ちょっと、田子さんまでそんなこと言わないでくださいよ」 みんな、笑顔でした。 b61bcf6b-bc70-469d-a314-e15a0eee27d4 完  え~、青田設計で無事一年終えたここで、一旦お話は終わりにさせて頂きます。皆さん長い間、私の日常にお付き合い頂き、ありがとうございました。ほんとに、別段特筆するほど波乱万丈でもない私のお話を聞いて下さり感謝です。  ん? 回収してない伏線がある? 何のことですか? いえいえ、分かってますよ、母のこととか、祖父のこと、そして私の父のことですよね。  えっ、違う? 真由のこと? ああ、真由が同い年の継母とどうなるとか、自分の子供くらい年の差のある弟か妹とどうするかってことの方? そっか、真由はかわいいからなぁ、私のことなんかよりそっちがいいんだ、ふんっ。  まあ、そのうちお話しする機会もあるかも。とりあえず今はここまで、令和にどうなるかは……。て言うか、今の私には次の年号が令和だってこともわかっていないわけだし。  ではでは、そう言うことで。私もまたお話し出来たら嬉しいです。さようなら、ありがとうございました。
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