第三章 最初の一週間

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第三章 最初の一週間

 青田設計に入社してからの数日は、ずっと事務所内での仕事でした。二日目、三日目は久保田さんのお手伝い。と言ってもほんとの三日目は休日(春分の日)だったので、実質の三日目です。山城邸の申請書類の作成などを手伝いました。建物を建てるのにはいろいろと役所などに書類を出さないといけないようです。当然のことながら図面も。図面は青木さんが描いています。青木さんは集中して図面を書くときは家でやるようです。いつもお昼前後で家に帰ってしまいます。昼間家にいた理由が分かりました。実質三日目の今日、久保田さんがやっている申請の準備は三時頃で終わりました。後は図面待ち。ミーティングテーブルで休憩しながら久保田さんと雑談。清水さんは一日事務所にいます。ずっとモニターに向って、図面を描いている様子。辛子色のトレーナーを着てジーパン姿です。足元はクロッグ、寒くないかな? 「うちの仕事はどう?」 久保田さんがそう聞いてきます。 「知らないことばかりなので、まだ仕事してるって実感はあんまり……」 「そんなことないよ、結構要領よくやってくれるから助かってるよ。なあ清水」 清水さんに声を掛けますが反応なし。清水さんはワイヤレスのイヤホンを両耳に付けていたので音楽でも聴いているのでしょう。 「またか、あいつはいつも何か聴きながらやってるから」 「そうみたいですね」 「用があったらスマホに掛けてやって、スマホで聴いてるからそれだとすぐ気付く」 「分かりました」 でもすぐそこにいるので肩でもたたきに行った方が早そう。 「明日は高橋さんもお出掛けだからね」 「そうなんですか?」 ちょっと驚いてしまいます。 「青木さんも清水も一緒だから」 「はあ、現場ですか?」 「現場と言っても竣工直前のとこだから汚れないよ」 私の反応が嫌がってるように見えたのか、そう言う久保田さん。 「何するんですか?」 久保田さんは左側のホワイトボードを振り向いて真ん中の下の方を指さします。 「そこの老人ホームの竣工検査」 ホワイトボードでは『高浜高齢者施設』となっています。マグネットの色は青とオレンジ。と言う事は、客先はニューブレインって会社で、外注設計さんは梶さん。三月三十一日引き渡しと書いてあります。 「竣工検査って何するんですか?」 「設計した立場として、設計図通りに完成しているか確認する検査。まあ、高橋さんは傷探しだね」 「傷探し?」 「そ、傷探し。お施主さんに渡す前から傷付いてたりしたらダメでしょ。それを隅々見て回るの」 「はあ」 「ま、明日は二回目の最後の検査だから、前の時に見つけた傷や不具合が直ってるかのチェックがメイン。でも新しい傷なんかあったらそれはチェックしないといけないから」 「分かりました」 でもさっきから引っかかることが。それを聞いてみます。 「こっちのボードに書かれてる現場は他の設計事務所の下請けでしたよね」 「そうだよ」 「それでもうちで検査するんですか?」 確か青木さんはこう言ってました。設計事務所の下請けは指示通りに図面書くだけ、だから設計と言うよりは作図だと。図面にもうちの会社名は入らないし、依頼元が設計したことになると。あ、検査に行くのを嫌がってるみたいに聞こえたかな。 「細かいことに気付くね」 「すみません」 「いやいいよ。ニューブレインさんはちょっとパターンが違うんだ。ゼネコンさんなんだよ。最近は高齢者施設が多いけど、店舗や住宅もやってる。自分の所でも設計してるんだけど、全部やれるほどキャパがない。それでやれない分はうちみたいなところに設計を任せちゃうんだ。だからお施主さんとの設計打ち合わせ自体もうちでやってるし、設計監理もうちでやる。そうなると右のボードじゃないかって思うよね」 「……はい」 「でもね、あくまで下請けだからうちの名前は表に出ない。ニューブレインさんの名前でやってるだけ。だから左側に書いてるんだよ」 「そう言う事ですか」 「あ、表に名前が出ないと言っても、それは何事もなければってことだから。設計事務所として設計して監理する以上は、何か設計上の問題が出ればうちで責任取らなくちゃならない」 「……」 「ま、その分利益率が高いんだけどね、ここの仕事は」  雑談からの流れのように、今度は久保田さんから図面の見方を教わることに。しばらくすると、掛かって来た電話を切った清水さんがこちらに声を掛けてきます。 「青木さんが山城邸の大体の図面仕上げたからデータ送って来るって。それ打ち出しますんで久保田さんチェックしてください」 「分かった」 久保田さんが答えます。 「青木さんもこっち来るそうです」 清水さんがそう付け加えます。 「明日は出掛けるから、今日のうちに打ち合わせしとこうってことか」 ミーティングテーブルを片付けながら久保田さんはそう言います。 「初めて出す図面ですよね、何をチェックするんですか?」 「お施主さんとは僕が打ち合わせしてるから、最初のお施主さんの要望がちゃんと反映されてるかどうかのチェック」 「なるほど」 「お施主さんが見てわかる程度の図面を最初に作ってお施主さんに見せる。それでOKもらえたら、ちゃんとした設計図になるように他の図面を書き足していく。うちはそんな感じでやってる」 「最初の図面でOKもらえなかったら?」 「その時はどこを変えたいとか細かく聞いて、それに変更するってことで後を進めさせてもらう」 「なるほど」 「でもね、玄関を逆側にしたいとか、部屋を増やすとか、広げたいとかってことまで言われると、最初の図面をやり直してもう一回確認なんてこともあるよ」 話しているうちにコピー機が図面を吐き出し始めます。久保田さんはそれを見て清水さんに聞きます。 「全部で何枚ある?」 「えーと、十七枚です」 「結構あるな」 私はすでに出力されている四枚を取って久保田さんに渡しました。久保田さんはキャビネットからファイルを一冊抜き取ってテーブルに置きます。背には山城様邸新築工事と書いてあります。久保田さんはファイルを開くと早速チェックを始めます。最初は二枚目の図面、建設場所の住所を確認しているようです。そっか、そんなことも建築図には載ってるんだ。当然の事なのでしょうが初めて知りました。コピー機の音が止まったので残りの図面を取って来ました。立面図と言う外から見た外観の図面二枚はとりあえず飛ばすようです。次の一階平面図。ファイルから取り出した手書きの図面と照らし合わせています。手書きの図面はお施主様と打ち合わせしながら久保田さんが書いたものでしょう。要望事項らしきことが沢山書き込まれています。久保田さんは一枚ずつそうやって図面を見ていっていました。私は眺めているだけ。手伝えることがなさそうです。久保田さんがタバコの火を消した灰皿を見ると結構いっぱいでした。私は灰皿に手を伸ばします。それに気づいた久保田さん。 「あ、煙がそっち行った? ごめんね」 「いえ、灰皿の中、捨ててきますね」 そう言って灰皿を手に取ります。 「いいよ、吸う人が自分でやることになってるから」 「いいですよ、他にやれることなさそうなんで」 私は灰皿を持って席を立ちます。ついでに清水さんの机の灰皿も回収。 「ごめん、ありがと」 そう言う清水さん。キッチンの流しの下に吸殻を入れる蓋付バケツみたいなのがあるのは知っていました。火が付いていてもふたを閉めれば消えるのだろうとは思いますが、一応念入りに煙が出ていないことを確認。吸殻を捨てた後、軽く水洗いして水気を雑巾で拭きます。そして元のお二人の所へ返却。またやることがなくなりました。久保田さんの作業を見学。なんだか渋い顔をし始めます。 「どうかしたんですか?」 話しかけてしまいました。 「ちょっとお施主さんとの打ち合わせと違うところがあって、……でもこの方が使い勝手は良さそうだからわざと変えたのかな」 独り言のような返事が返って来ました。その先は言わないので、私も黙って見ています。  隣の部屋とのドアが開いて田子さんが入って来ました。手には自分のマグカップを持っています。夕方、田子さんがそうやって入って来ると五時です。時計を見るとやはり五時。更衣室に入ったあと、流しで水を使う音。マグカップを洗っているのです。やがて出てくるとこちらに寄って来ます。 「梨沙ちゃんもまだ帰れない?」 私に言っているのか久保田さんに言っているのかよく分かりません。 「ああ、いいよ、高橋さんもあがって」 久保田さんが反応しました。 「いいんですか?」 「うん、また明日。お疲れさん」 「お疲れさまでした」 久保田さんがそう言うと、清水さんもこちらを見ずにそう言います。私は自分の席に椅子を戻し、私物を片付けて鞄を持ちます。 「よし、梨沙ちゃん帰ろ。お先に」 田子さんはそう言って隣へのドアを開けます。私も「お先に失礼します」と声を掛けて続きました。事務所を出て階段に向いかけた時、階段から青木さんが上がって来ました。 「そっか、もう上がりか」 そう声を掛けてきます。 「いいですか?」 私はそう聞きます。田子さんは笑顔で見ているだけ。 「もちろん、お疲れ様。あ、明日の朝はすぐに出かけるから遅れないでね」 「分かりました。失礼します」 「じゃ青木君、お先に」 田子さんも青木さんに挨拶して離れました。田子さんとはビルの前で別れます。  翌日は少し早めに家を出ました。すぐ出かけるから遅れないようにと言われたので六時半です。でも、もう駐車場には青木さんの車はありませんでした。十五分ほどで会社の駐車場に到着。いくらなんでも早すぎ。初日以来行っていない喫茶店に寄ろうかな。あ、行ってないのはモーニングの時間ってことで、ランチは毎回ここでいただいてます。一人で知らないお店に行くのはなんとなく気が引けるので。青木さんか久保田さんと必ず一緒ですが、ご馳走になったのは初日だけ。後は自分で払っています。田子さん、清水さんと一緒になったことはまだありません。田子さんは自分でお弁当を作って来ているので食べに出ることはないようです。清水さんはどこに食べに行っているのか分かりません。そのうち聞いてみようかな。意外といいお店を知っているかも。  喫茶店に入るとやっぱり青木さんがいました。青木さんの方に近付いても新聞を読んでいて気付きません。 「おはようございます」 声を掛けると少し驚いた感じ。私の顔を見ると腕時計に目をやってから言います。 「おはよう」 「アメリカンでいい?」 いつもの女性店員さんが私にそう聞いてきます。もう覚えられたようです。 「はい、お願いします」 「はーい」 軽やかな返事を残して彼女はキッチンに消えました。私は席に座ってから気付きます。またモーニングいらないと言うのを忘れました。青木さんは新聞を読んでいます。食事はもう終わっていて、いつものアイスコーヒーもほとんど残っていません。私より十分以上は早く来ていたのでしょう。私は店内のテレビに目をやります。朝のニュース番組が映っていますが、音声はかすかにしか聞こえません。この前の朝も見たもう一人の女性店員がお水とおしぼりを持って来てくれます。その方が離れていったと思ったらすぐ戻って来ました。今度はモーニングセットを持っています。私がモーニングを食べ始めると青木さんが席を立ちました。 「先に上行ってる。慌てて食べなくていいからね、八時までに上がって来てくれたらいいから」 「わかりました」 私はトーストを口の中に入れたまま返事します。食べるのはすぐ終えて、コーヒーを飲みながらスマホをいじっていました。すると目の前にいつもの女性店員さんがやって来て私に話しかけてきます。 「もう慣れた?」 「はい、なんとなくですが慣れてきました」 「続きそう?」 「はい」 「そう、良かったね」 「はい、ありがとうございます」 何か心配されてる? 心配されるような感じに見えてたのかな。初めてここに来た時に、この人からはじろじろ観察された。その時から私、なんか変だったのかな。 「そんなにかしこまらなくていいよ」 「あ、はい」 「だからいいってば。だって私とそんなに年変わらないでしょ? ひょっとしたら高橋さんの方が上かも」 おお、名前まで憶えられてる。彼女の話方は本当に不思議なイントネーションです。そして、早口でもゆっくりでもない独特のテンポ。自然と親しみを感じてしまいます。 「ですかねぇ」 「いくつ?」 「あ、二十五です」 「じゃあ一緒じゃん。九十二年生まれでしょ?」 「はい。そっか同い年なんですね」 「だからやめてよその言い方。タメなんだからタメでいこう。私は野沢真紀、高橋さん下の名前は?」 「梨沙です」 「じゃあこれからは梨沙って呼ぶから。そっちは真紀って呼んでくれていいよ」 「はあ」 さすが接客業って感じ、一気に距離を詰められてしまった。正直言って、最初にじろじろ見られた印象が強くて、彼女のことはあまりよく思っていなかった。でもこんなに親し気にされて、同い年だと知ってしまうと変わってしまう。単純な私は彼女と友達になれそうと思ってしまう。でも何か言おうとしたら彼女はさっと離れていきます。行った方を見ると新しいお客さんが入ってきていました。私はスマホを鞄に入れて席を立ち、もう一人の店員さんに「ごちそうさま」と言って店を出ます。店を出るときカウンターの方を見ると、真紀ちゃんがバイバイと手を振ってくれていました。  事務所に入ったのは七時半でした。昨日と同じ時間。隣の部屋に入ると田子さん以外全員います。朝の挨拶をしてから席に鞄を置くと、清水さんが紙袋を持って私の所に来ます。 「これちょっと重いけど持ってってくれる?」 「分かりました」 床に紙袋が二つ置かれました。一つにはスリッパが三組くらいと、軍手や雑巾らしきものが入っています。もう一つはパンパンにA3のファイルが入っています。試しに持ってみる、重いです。持ち手がちぎれてしまいそう。 「高橋さん、今日は昼からもう一現場行くから」 「はい」 青木さんの言葉に返事します。 「今から行くところはもう工事終わってるようなところだからいらないけど、昼からの所はヘルメットいるから用意してね」 「分かりました」 私は更衣室へ。ロッカーに入れたままのヘルメットと安全靴。安全靴なんてまだ箱の中です。箱から出して持って出ます。スリッパとかが入っていた紙袋に入れようかと思いましたが、靴と頭にかぶるヘルメットを同じ袋に入れるのははばかられました。少し思案ののち、ヘルメットだけ入れて安全靴は履いて行くことに。履いてきたスニーカーは机の下に置きました。お留守番です。  青木さんと久保田さんはミーティングテーブルで打ち合わせ中。清水さんは席でパソコンをいじっています。 「山城さんとは多分明日じゃないと話が出来ないから、今日はそっち優先でいいよ」 久保田さんのセリフ。 「了解。山城さん、明日結論出るかな? 出来たら日曜からでも手を付けたいんだけど」 青木さんが答えます。 「まあ、結論伸びた分だけ工期も伸びるって話はしてあるから、伸びたら伸びたで何とかするよ」 「すみません、頼みます」 それで打ち合わせは終わったようです。青木さんが私と清水さんの方を見ます。 「清水、出れる?」 「はい、大丈夫」 私は席に座って待っているポーズだったので聞いてきません。 「じゃあちょっと早いけど出れるなら出ちゃおうか。高浜方面は朝混むから」 青木さんのその言葉で立ち上がります。自分の鞄を肩に掛け、紙袋を持ちます。  歩き始めて気付きます。行き先を知らない。 「青木さん、現場の住所とか分かります?」 「ああ、何度か行ってるから大丈夫」 「いえ、私知らないので」 「ん? ああ、高橋さんは僕の車で一緒に行くから。いいでしょ?」 「そう言う事ですか。分かりました」 袋が重い。持ち手が手に食い込んできて痛い。それに、やっぱり安全靴だ。普通の靴より違和感がある。長時間歩いたらかなり疲れそう。と思っているうちに青木さんの車まで来てしまう。後ろの席に紙袋を積み込みます。 「高橋さん運転して」 青木さんがそう言います。 「どんな運転するか見てみたい」 そう言われると緊張しちゃうじゃない。運転席に回って乗り込みます。青木さんは当然助手席。エンジンをかけてから聞きます。 「どっちに行けばいいですか?」 「とりあえず名二環に乗って欲しいんだけど、分かる?」 名二環と言うのは高速道路の名前です。 「はい、では出ますね」 「よろしく」  高速に乗るまでに青木さんはナビをセットしてくれました。後はナビ通りに行けばいいだけです。朝の高速は渋滞気味。高速を降りるとさらに渋滞度が増します。現場に着いたのは十時少し前。検査は十時からと聞いていたのでギリギリでした。  真新しいアスファルトの駐車場に車を停めて降ります。 「結構かかったなぁ」 「混んでましたね」 ひょっとして、私の運転が遅いって言いたかったのかな。 「青木さんのところいつも早すぎだよ」 新築の建物のエントランスから出て来た人がそう声を掛けてきます。ジャンパーの胸にニューブレインと入っています。青木さんと同じくらいか少し若いくらいに見えます。 「あ、近藤さん、お世話になってます」 青木さんが挨拶します。私も頭を下げました。 「清水さん、もう中、回ってるよ」 そう言えば清水さんの車も停まっています。 「そうですか。先にちょっとご挨拶いいですか? うちの新人」 そう言って私を指します。 「最近入った高橋です。これから近藤さんの現場にも顔出すと思うんでよろしくお願いします」 「高橋です。よろしくお願いします」 私は頭を下げました。近藤さんは胸ポケットから名刺入れを出して、一枚私に差し出しながら言います。 「ニューブレインの近藤です。よろしく」 私は名刺を受け取りながら、しまったと思いました。あわててポケットから名刺入れを出して一枚渡します。 「すみません。青田設計の高橋です」 前の会社の新人研修で、名刺交換の練習はありました。でも練習しただけ。実際に名刺交換したことなんてありません。だって、業務課の女子社員に名刺なんてなかったから。青田設計に入って名刺を作ってもらった時、名刺入れが必要だと思って購入。そしてずっと会社のジャンパーのポケットに入れていました。でも、名刺交換を実際にするところまで考えていませんでした。青木さんに恥をかかせたかも。近藤さんは私の名刺を受け取ってもう一度「よろしく」と言ってくれます。「頑張ってね」とも。  青木さんと近藤さんは建物のエントランスの方へ向かいます。私がついて行こうとすると、 「持って来た紙袋持って来て」 と言われます。私は車に戻って袋を持っていきました。中に入ると玄関から先は土足禁止です。沢山の靴が脱いで置いてあります。紙袋からスリッパを出して履き替え。きっちりひもを締めた靴が脱ぎにくい。青木さん達は玄関横の、この施設の事務室になるであろう場所にいました。玄関から上がったところの扉を開けてそちらへ入ります。紙袋が重い。床に置こうかと思いましたが、少し埃っぽいとはいえ新品のフローリングの床。こんな重たいのを置いても大丈夫かなと思ってしまいます。周りを見ると工事業者さんの物だと思われる荷物は、床にシートを敷いてその上に置いてありました。そのシートの隅を少し借りて紙袋を降ろします。青木さんは近藤さんと会話中。スリッパはと思い足元を見ると履いていました。 「高橋さん、ファイルの入った袋持って来て」 青木さんがこっちを向いてそう言います。私はその通りに持って近付きます。新品のミーティングテーブルの上に段ボールみたいなプラスチックの板を敷いて使っていました。青木さんが手でテーブルに載せるように促すので、抱え上げてそっと置きます。青木さんはファイルの背表紙の標記を見てから一冊抜き取ると、開いて近藤さんと話を続けます。A3サイズなのでそうだとは思いましたが、ファイルの中はやっぱり図面でした。事務室の外の廊下から清水さんの声がしてきました。話している相手は女性の様です。やがて二人は部屋に入って来ました。清水さんと一緒に入ってきた女性は、近藤さんと同じジャンパーを着ています。三十前後くらいかな? 「前回の指摘部分は全て直ってます」 清水さんが青木さんに報告。 「ありがと」 青木さんんは清水さんを振り返ります。そこで女性に気付きました。 「滝川さん、お世話になってます」 「いえこちらこそ、いつもお世話になります」 滝川と呼ばれた女性も青木さんに挨拶します。 「手直し全部終わらせてくれたみたいで、ありがとうございます」 「いえ、それが仕事ですから」 そして青木さんは私の横に来て言います。 「滝川さん、最近うちに入った高橋です。これからも顔合わすと思いますからよろしくお願いしますね」 私は今度は最初から名刺入れを取り出し、一枚差し出しながら挨拶します。 「青田設計の高橋です。よろしくお願いします」 私が早く出し過ぎたのか、滝川さんは私の名刺を「どうも」と受け取ってから自分の名刺を出して挨拶してくれます。 「滝川です。よろしくお願いします」と。 私と滝川さんの名刺交換が終わると、青木さんが清水さんに言います。 「清水、近藤さんから最終的に変更したところ全部聞いて、その図面に書き込んどいて。それで最終図面作るから。僕は高橋さんと最後の確認回って来る」 「了解」 清水さんは返事して近藤さんの方に行きます。近藤さんは滝川さんにこう言います。 「滝川、青木さん達についてってチェックの内容控えていって」 「はい」 滝川さんは少し離れたシートの上にある荷物の所から、A3サイズのクリップボードを取って戻って来ます。青木さんは部屋を出てエントランスに。 「高橋さん、今日はもう仕上げの再確認だけ。機器類の作動状態だとか、ドアや窓の動きとかのチェックは前回やっちゃてて、問題があったとこの確認は清水がもう済ましたみたいだから」 「はい。でも仕上げの確認って何を見ればいいんですか?」 「傷とか汚れがないか。クリーニングはもう終わってるから、汚れがあったらそれは落とし忘れか、クリーニング後の汚れだからチェックしないといけない」 「はい」 「あとはね、これ歪んでるんじゃないかとか、曲がってる、へこんでるとか、変に感じるとこがあったら何でも言ってみて。遠慮いらないから」 「分かりました」 「じゃあ、ここから始めるよ。隅々まで見てね」 「はい」 そしてエントランスから始めましたが、エントランスは汚れだらけ。まだたくさんの業者の方が出入りしているのでしょうがありません。最終クリーニングの時に注意しておきますと滝川さんが言ったので、それに任せることに。傷のチェックだけしていきます。それから先程の事務所とは反対側に回っていくことになりました。ここは高齢者が住む施設。何部屋もあります。滝川さんに聞くと、一階に十七部屋、二階に三十四部屋とのことでした。左右の逆はありますがどれも同じ間取りでした。トイレと洗面所はあるけどお風呂がないワンルームマンションの部屋と言った感じです。何部屋か終わっても私は何も見つけられず。いえ、これ歪んでないですか等と何度か言ったのですか、全部許容範囲内とか、誤差範囲内とか言われてチェックされませんでした。ま、青木さんがチェックしたのも最近ついたような傷と言うか、ペンキの剥がれ一か所だけですが。一階の残りは事務室だけとなりましたが後回し。二階へ上がります。上がっていく階段も確認します。二階に移って何部屋目かで私はガラスに注目。網の入った透明なガラスに何か気になることが。何か線のようなものが入っているように見えます。でも、ちょっとしたことで見失ってしまうので、見間違いのような気もします。私の様子に気付いて滝川さんがすぐ後ろにやって来ました。私が凝視しているあたりを色々角度を変えて見ています。 「傷かもしれないですね、一度磨いて取れないようならガラス交換します。チェックしておきますね」 そう言って手元のボード上の紙に何か書き込んでいます。覗くと、A3の左半分が平面図の一部になっていて、ちょうど今いる部屋の部分の図面です。右側はノートのようになっています。図面の今の窓の部分に赤で点を書いてそこから引き出した線の先に1と数字を書きます。そして右側の一番上に、『1、ガラス傷?』と書きました。そしてポケットから黄色のマスキングテープを出すと、傷らしきものがあった辺りに貼り付けました。それでチェックしたことになるようです。そのあとは何も見つけられませんでした。  事務室も確認した後、建物を外から一回り。特に何もなし。青木さんの指摘もありませんでした。一回りしてエントランスに戻って来ると清水さんと近藤さんが出て来ていました。打ち合わせが終わったようです。清水さんの足元には私が持って入った紙袋がありました。持って出てくれたようです。 「高橋さんが使ってたスリッパも回収してあるから」 そう言われます。さすがに社外だと高橋さんと呼ぶようです。 「どうでした?」 近藤さんが青木さんに尋ねます。 「ほんの数か所だけです」 「そうですか、良かった。遅くなりましたけど、お昼行きませんか?」 近藤さんがそう言います。私は腕時計を見ました。もう少しで一時。そんなに時間が経ってるとは思いませんでした。 「いや、すみません、急いで移動しないといけないので。また今度ご一緒しましょう」 青木さんがそう応え、そこで解散となりました。清水さんはまっすぐ事務所に帰ると言うのでここでお別れです。  現場を出ました。運転はまだ私です。現場を出ると、とりあえず国道23号線の方に向ってと言われたのでそちらへ向かいます。青木さんはナビの目的地セット中。次は中川区のようです。 「何が食べたい?」 青木さんが私に聞きます。 「なんでもいいです」 「じゃあ適当に入るか」 「はい」 しばらく行くと左手に大きなホームセンターがありました。ホームセンターだけじゃなく、スーパーや家電量販店も並んでいます。 「あ、ここ入って」 「え? ホームセンターですか?」 「そ、入って」 私は言われた通りにします。 「高橋さん、尺金とかスケール持ってないでしょ?」 さしがね? すけーる? それ何? 「……? はい」 「ちょっと買っていこう」 ホームセンターの入り口近くに車を停めました。 「でも先に昼食べよう。あそこでいい?」 車を降りると青木さんがそう言います。あそこと言うところを見ると、同じ敷地内にあるチェーンのハンバーグレストランでした。  昼食を御馳走になってからホームセンターに。尺金の正体が分かりました。と言うか見たら知っていました。尺金と言う呼び名を認識していなかっただけ。スケールは今まで私が、巻き尺と呼んでいたものでした。青木さんが選んでくれたのは、長い方が15センチの小さな尺金と、5.5メートルのスケールでした。それで買い物は終了。 「尺金は大きいのが事務所にあるから、帰ったらそれも渡すね」 走り出してから青木さんがそう言います。そして右胸のポケットから何か出そうとして、やめます。来るときも何度かあった仕草。青木さんは右胸のポケットにタバコを入れています。私が一緒なので我慢しているのでしょう。 「タバコ吸ってもいいですよ。気にしませんから」 我慢してくれるのは嬉しいので、そう言わずにいました。でもなんだか申し訳なくなってきてそう言いました。 「ほんと?」 なんだかうれしそうな声でそう聞いてきます。青木さんは基本的に反応が素直です。なんだかおかしくなります。 「いいですよ。窓開けて吸ってくれたら嬉しいです」 私はそう言いながら、運転席側のカップホルダーにあった吸い殻入れを青木さんに渡します。 「ありがと」 受け取ってすぐに窓を開けます。そして煙草に火をつけて吸い始めます。横目で窺うと、なんだかうれしそうな顔です。  次の現場は根岸邸でした。事務所の右側のボードの三番目に書いてあった現場名です。現場には車を停めるスペースがありませんでした。青木さんの指示で現場から少し離れたところのコインパーキングに停めます。ヘルメットを持ち、さっき買ってもらった尺金とスケールをジャンパーのポケットに入れました。青木さんはA3のファイルを入れたトートバックとヘルメットを持っています。現場に向かって歩き出すと青木さんが、 「高橋さん、血液型なに型?」 と聞いてきながら、左胸のポケットからマジックを取り出します。 「O型です」 と答える私。 「ヘルメットの後ろの名前の所に書いといて」 そう言いながら私にマジックを差し出します。ヘルメットを見ると、側面に『青田設計』と書かれており、正面に平仮名で『たかはし』と書かれたシールが貼ってあります。後ろは名前と血液型を書く欄があり、名前欄には『高橋梨沙』と書かれたシールが貼られていますが、血液型欄は空白でした。私はマジックを受け取って空白に書き込みます。 「すみません、気付きませんでした」 そう言ってマジックを返します。 「今日初めてだもんね、ヘルメット使うのは」 青木さんはマジックを受け取りポケットに戻します。さりげなく青木さんのぶら下げているヘルメットを見ます。青木さんもO型でした。別に知りたかったわけじゃないけど、自分が聞かれたので見ただけです。現場が近付くと青木さんがヘルメットをかぶるので、私もかぶります。現場の前まで来ると、体格のいい男の人が私たちを見て、出てきました。青木さんよりはかなり年上に見えます。 「今更スロープにするって? どっちに持ってく?」 いきなり話し始めます。 「その前に社長、先に挨拶させて。ちょっと前にうちに入った高橋。これからお世話になるからよろしく頼んます」 「青田設計の高橋です。よろしくお願いします」 そう言いながらちゃんと名刺を出します。青木さんに社長と呼ばれた男の人は作業着の胸ポケットから名刺を出します。 「菅野工務店の菅野です」 それだけでした。 「で、どうする? 取りあえず玄関周りはストップか?」 すぐに青木さんに話しかけます。ここに来る途中で状況は青木さんから聞いていました。元々玄関前は階段になっていたそうですが、それをお施主さんがスロープにしたいと言い出したそうです。将来家族の誰かが車椅子を使うことになってもいいように。でも実際は玄関だけの問題ではなく、少なくとも一階は内部も車椅子対応にしなければならないと。そのために現場がどこまで施工済みか正確に確認するのと、その打ち合わせに来たのでした。現場はまだ柱とかの骨組みだけのようです。 「玄関周りもだけど、他もあるからちょっと見させて」 青木さんは中に入ります。菅野社長と私もついて入ります。 「どこまでいじるんや」 「いろいろあるけど、トイレが一番問題なんだよな」 青木さんはファイルの図面を開いて柱で囲まれた一画で立ち止まります。 「高橋さん、ちょっとこれ開いたまま持ってて」 私はファイルを開いたまま受け取ります。青木さんは左の柱にスケールを当てて右の柱までの寸法を見た後、そのままスケールを右に伸ばしていきます。 「社長、この間柱、この辺までずらせるよね」 菅野社長は右側の柱の傍に来て、柱の上下をじっくり見ます。 「そやな、問題ない」 「じゃ、開口はそこぐらいまで広げて、こっち側に引き戸付けるから」 「はあ、中も車椅子用にするってことか。そりゃ大変や」 「だから昨日の今日で飛んで来たんですよ」 「昨日なんか、話出たんは」 「遠藤さんから電話掛かって来たのは昨日の夕方」 「あの子は何でも客の言いなりやからなぁ」 遠藤さん? あの子? 私の知らない人物です。 「ま、そう言わんと、我々に仕事くれてる人やから」 仕事くれてる? 図面台になっている私には分からない話です。その図面台の図面を見ている青木さん。 「社長、ここのスペースどこまでいじめれる?」 菅野社長も図面を覗き込みます。男の人二人が私に向って頭を下げている格好。 「二階に行ってる配管のとこか」 そう言って先程の開口の奥に行きます。上下左右を見てからこっちを向きます。 「お嬢さん、ちょっとこっち来て図面見せて」 私は手で指示された通り、開口の隣のスペースから菅野社長に近付きます。自走式図面台です。菅野社長は柱と柱の間から図面を覗いて確認していきます。そして青木さんの傍に戻ります。私は手招きで呼ばれる。 「これに書いていいか?」 青木さんに聞いています。 「どうぞ」 青木さんがそう言うと菅野社長は赤鉛筆を持って、図面のトイレの奥の柱何本かを丸で囲みます。 「これはみんな間柱やし強度もいらんとこやからこんな大きな材料使わんでもいい。あそこにもう建っとるけどな」 奥の柱を赤鉛筆で指します。 「それにスペースもこんなにいらん。150(ミリ)の200(ミリ)くらいあったら十分や」 青木さんは聞きながら図面を睨んでいます。 「そうすると、その150(ミリ),200(ミリ)のスペース、こっちに寄せてもいいかな? この上は問題ない?」 青木さんは図面をめくって二階の平面図を見ます。 「この区画内なら問題ない。二階もここがトイレなんやから」 「分かってるけど確認」 青木さんはまた一階の図面をじっくり見ます。そして区画の奥に行きます。 「この向こうは部屋だから、この壁はあんまり簡単すぎてもいかんなぁ。45(ミリ)持って来て両面二枚張りで行くか」 何のことかさっぱりです。 「そんでなんか詰めとけば音も大丈夫やろ」 菅野社長には通じてるようです。 「でも向こうの部屋の方はボード一枚分いじめられるわけやから、そっちは大丈夫かな」 その独り言のような青木さんの言葉に、二人してまた私の前に来て頭を下げます。 「何も影響ないな」 図面を見ながら青木さんがそう言います。 「じゃ、ここはそうしよか」 私の手からファイルを取ると、隣の部屋に積んであった角材の上に置いて何やら書き込んでいます。 「その部屋の扉も引き戸に替えるんか?」 「いえ、そっちの部屋に車椅子で行けるようにしようと思ったら、そっちへの廊下も広げないかんからやめときます」 青木さんはステンレスの定規を使って、図面に青のボールペンで線を引き直して数字を書き込んでいました。 「どこまで車椅子対応にするんや?」 「玄関横の部屋とリビング、トイレ、脱衣くらいかな」 菅野社長はそう聞いて現場内を見ながら何かを考えている様子。 「脱衣はそのままでも問題ないな、元から大きい引き戸やから」 「大きな洗濯機入れれるようにしたから。玄関からまっすぐこれるし問題ないです」 そう答えながら青木さんは、手を加えた図面を眺めています。 「ちょっと窮屈やけど、何とか車椅子ごと入れそうやな」 また独り言のようにそう言います。そしてファイルを持って少し移動。 「リビングもここの間柱動かして、廊下側に扉で引き戸にすれば問題ないでしょう」 「そやな」 そして振り向くような格好で玄関側を見ます。 「ここもこれは間柱だから開口は広げれるけど、廊下側に引き代がないから扉を部屋側に持っていくしかないかな」 「別に部屋側でもいいやろ」 「いいんだけど、戸袋部分は家具が置けなくなるから使い勝手が悪くなるんだよね」 「ほんまにあんたは色々考えるなぁ」 「ま、それが仕事だから」 青木さんはそう言ってからもしばらく考えていました。 「ま、しょうがないか。ここまで作ってからの変更やから了解してもらうしかない」 そう言って、玄関の方を見ます。 「さて、ここが難題」 「玄関も引き戸にするんか?」 菅野社長は少しうんざりした口調。 「出来ればハンガーにしたいです」 「ハンガー?」 私は分からな過ぎて思わずそう言ってしまいました。 「ハンガー引き戸って言って、レールが上にあって扉がそこから吊り下がってるタイプのドアの事」 青木さんが振り返って私に説明してくれます。 「すみません余計なこと聞いて」 「全然問題ないよ。もっといろいろ聞いてくれていいから」 「はい」 と言うものの無理です。聞いていたらきりがないです。多分青木さん達は仕事にならないと思います。 「色々聞いてもらって早く覚えてくれると、こっちも早くこういう打ち合わせ任せられるようになるから」 なんてこと言うんでしょう。こんな打ち合わせは当分無理です。この前何かで二年くらいは無理とかって言われたけど、二年でも無理っぽい。 「分かりました」 取りあえずこう返事しときます。菅野社長はハンガーと言われてから、玄関が付くあたりの内外を見ています。 「中には絶対無理やな。でも、外もちょっと難しいぞ。リビングの掃き出し狭めるか?」 「やっぱりそうなりますかねぇ」 青木さんも玄関の外に出ます。そして私を呼びます。 「そこの柱にこれ当てて」 そう言ってスケールの先端を私に持たせます。私は言われたところにそれを当てました。青木さんはスケールを引っ張っていきます。そして止めると菅野社長に言います。 「メーカーのカタログ見て来たんですけど、大体ここら辺まで来ちゃいますね」 菅野社長は青木さんが示したあたりに鉛筆で印をつけます。そしてそこから少し左側に元からあった印を指して言います。 「ここがリビングの掃き出し用の間柱の芯や。これやと何とかなるかな」 「いや、シャッター付くから無理かな」 「そっか、ここはシャッターあったな」 「それにこんなちょっとの巾で外壁仕上げれます?」 「……出来んことないやろうけど、やりたないなぁ」 二人して腕組みポーズ。考え中です。 「正確な寸法落とし込んで無理そうなら、ここの掃き出しはちょっと考えます」 「わかった。あとは土間の高さか」 「それも難題」 「どうする?」 「今の玄関外の高さでも外部側のスロープの傾斜は結構きついんですよ。それがさらに200(ミリ)くらい上がるんでどうしたらいいかまだ分かりません」 また二人して考えています。二人の話していることがほとんど理解できていない私。こんな打ち合わせが出来るようになる日が来るんでしょうか。  結局結論は出ず。現状の寸法を細かく測って持って帰ることになりました。レーザーと呼ぶ、光の線を出す機械を菅野社長から借りたりして、青木さんと二人で実測しました。実測を終えてから菅野社長の所に行きます。 「屋根はいつからですか?」 青木さんが菅野社長に聞きます。 「明日や」 「そっか、じゃあサッシもすぐですね。さっきのリビングの掃き出しは後にしてください」 「わかった。そこは内外の仕上げも残しとく」 「すみますん。でも、掃き出しもシャッターも、ずらしてでも使えるように考えるんでキャンセルしないでくださいね」 「キャンセルなんてもうできんわ。多分、硝子ももう入ってるぞ。使えんかったら捨てるしかない」 「分かりました。あと、脱衣周辺も待っててください。ユニットバスも変えるかも知れないんで」 「そうか風呂もか。わかった」 「ユニットバスは規格寸法のままにしたはずだから、変更してもキャンセルできますよね」 菅野社長はそこで少し呆れ顔。 「キャンセルも何も、色決まってなかったやろ。まだ発注もしてへん」 「……そうでした。すみません」 「ま、一階の玄関面以外は外装進めて、中は二階から攻めてく」 「ですね、二階は変更しませんから先にやっちゃって下さい」  そんなやり取りで打ち合わせは終わりました。  二人で車に戻ります。この後は事務所に戻ると聞いていたので、青木さんがパーキングの清算をしている間にナビをセット。名二環(高速道路)で帰るルートでした。青木さんが乗り込んで出発。走り出すと電話を掛ける青木さん。誰かと今の根岸邸の話をしています。ふと気付きます。今日、何度となく青木さんは車の中で電話を使っていますが、ハンズフリーになっていないようです。これは青木さんの車なので不思議です。私が一緒なので朝乗った時に接続を解除したのかな。青木さんは事務所にも電話してる様子です。戻ったらすぐに出るから待っててとか言ってます。まだどこかに行くのでしょうか。 「今のところは現場って感じしたでしょ?」 しばらくすると青木さんが話しかけてきました。 「はい、工事中のところ初めて入りました」 「どう? 埃っぽいし汚れるし、嫌じゃなかった?」 確かに汚れました。膝をついて実測したりしていたので、ズボンには泥が付いたりしています。 「いえ、面白かったです」 これは本音です。面白かったし楽しかった。 「ほんとに?」 「はい、家が出来るところなんて見たことなかったですから」 「良かった。いきなり拒否の反応だったらどうしようかと思った」 ほんとに安心したような顔をする青木さん。去年辞めたって人はいきなり拒否モードになっちゃったのかな。 「何かさっきの現場で聞きたいことある?」 そう聞いてきます。 「う~ん、正直、青木さんと菅野社長が話してることがほとんど分からなかったので何とも。でも、あんな状態で、もう屋根を付けて壁も作っちゃうんだなと思いました」 ほんとにそう思ったので言ってみます。 「先にある程度外を仕上げて雨を防がないと、中が何も始められないからね」 「なるほど。確かにそうですね」 「確か昨日あたりで屋根まで組みあがってるから、本当は今日か明日ぐらいで上棟式ってのをやるんだけどね、あそこの現場はやらないことになってる」 「やらなくてもいいんですか?」 上棟式が何なのか知りませんがそう尋ねました。 「上棟式をやるかやらないかの判断はお施主さんだから。最近はやらない場合も多いよ」 「そうなんですか」 そのあとはあの状態でうちが通常やることを教えてくれました。柱や間柱の間隔や梁の高さの確認など。材料のサイズも図面通りか確認が必要と。施工業者さんが手抜きしていないか確かめるわけではなく、図面通りになっていることを確かめるためだと。それにもし違っていても、現場の判断で変更しているときがほとんど、理由を聞いてそれでいいか判断しないといけない。それで現場に合わせて図面も修正すると。そんなことを聞いているうちに事務所まで帰り着きました。もう六時前でした。  荷物を持って事務所に戻るとまだ田子さんがいました。昨日までは五時ぴったりに帰って行く姿しか見ていません。今日は忙しいのかな? 設計の部屋に入ると久保田さん、清水さんもいます。清水さんはいつも遅くまでいるようですが、何気に派手なシャツに着替えてジーパン姿です。金曜の夜です、どこかに遊びに行くのかな。私と青木さんが入っていくと二人がお帰りなさいと言ってくれます。田子さんもこちらの部屋に顔を出します。そこで気付きます。田子さんもいつもの会社のジャンパーではなく、薄いピンクのジャンパーを着ています。それに、田子さんはいつもスカートですが、そのスカートもいつもよりちょっとおしゃれなデザインのもの。 「すぐ出れますか?」 清水さんが青木さんに尋ねます。え? この格好の清水さんと青木さんが出掛けるの? 「おう、ちょっと片付けたらすぐ出る」 「じゃ、先行って席取っときますね」 「我々も先に行きますか」 スーツ姿の久保田さんが田子さんにそう言います。え? みんなでどっか行くの? 席取っとく? 私は何なのか分りません。 「じゃ梨沙ちゃん、着替えたらすぐ来てね」 田子さんもそう言って出て行きました。着替えたら? ほんとに何なのでしょう。何か言われてたっけ? 私は結構本気で悩みます。必死で記憶を探りますが、何か言われていた覚えがない。そんな私に青木さんが言います。 「高橋さん着替える? 何なら向こうに行ってようか?」 「あの、この後どこかまだ行くんですか?」 青木さんはなんだか呆れ顔です。 「高橋さんの歓迎会でしょ、今日は」 は? 聞いてないよそんなの。私の反応を見た青木さんは恐る恐るって表情になります。 「ひょっとして誰からも聞いてない?」 そして恐る恐るそう聞いてきます。 「聞いてないです」 「え~、何で誰も話してないんだ」 「……」 「ひょっとして、今夜何か予定ある?」 「いえ、ないですけど」 「よかった、近くの居酒屋なんだけど来てくれない? 主役が来てくれないと困っちゃうから」 そう言われると嫌とは言えないじゃないですか。嫌でもないし。 「行きます」 安心した顔になる青木さん。 「じゃあ向こうの部屋行ってるから着替えちゃって」 そう言って隣へのドアの方へ動き出す青木さん。 「いえ、着替え持って来てないので」 「そっか、聞いてなかったんだよね。そのままでいい?」 と聞かれても着替えに帰るわけにもいかないし。私は自分の姿をなんとなく確かめます。別にこのままでもいいでしょう。確かに今日は服も汚れてるけど居酒屋なら。 「別にいいですよ、そんなに気にしませんから」 こんなこと言うからおしゃれに気を遣わなそうに思われるのかも。 「じゃ、ちょっと待ってて」 青木さんはそう言うとパソコンを触ります。メールをチェックするみたい。私は更衣室に入りました。流しの横には鏡があります。そこで顔をチェック。ほんとは顔を洗いたいくらいだけど……。鏡を見て少しショックを受けました。ヘルメットをかぶったせいでしょう、髪に変な型が付いている。何気にボサついてるし。少し手を濡らして手櫛で何とか。あまり変化なし、ボサつきがましになった程度。髪型変えよう。ナチュラルな感じにパーマをかけている私。でも美容院で勧められてそうしただけ、こだわりがあるわけではありません。気に入ってはいるけど。私は更衣室を出て席に戻ります。青木さんはまだ画面を見ているので鞄を持って更衣室に戻りました。一応鞄に入っているヘアブラシ。もう一度髪を整えようとしますがあまり変わらず。ブラシを通すと木くずが落ちました。断念、髪を束ねてヘアゴムを装着。やめました。束ねた先がぼさぼさすぎる。さっきの方がまし。そうやっていじっているうちに、さっきまでついていたヘルメットの型はだいぶましになりました。これならいっか、会社の人と飲むだけだし。そして更衣室を出ます。青木さんはパソコンの電源を落としていて、スマホを見ていました。待っていてくれたようです。 「すみません、お待たせしました」 「じゃ、行こか」 「はい」 事務所中の電気を消して戸締り。そしてビルを出ました。  思った通り駅前のロータリーからバス通りに出たところにある、大きなチェーンの居酒屋でした。案内されたのはテーブル席。先着の三人は何も頼まずにおしゃべり中。私と青木さんが近付くと田子さんが私に言います。 「着替えなかったの?」 う~ん、そんなに変な格好かなぁ。あ、安全靴履いたまま。靴は履き替えるべきだった。 「着替え持ってきてないので」 私がそう言うと青木さんが口を開きます。 「高橋さん聞いてなかったらしいよ。何で誰も話してないの」 そして久保田さん、清水さんが並ぶ隣に座ります。なので私は田子さんの隣に。 「え、なんで? 青木君が話してると思った」 田子さんがそう言います。青木さん以外の男性二人も頷いています。 「僕は……、ま、高橋さんが来てくれたからいいか」 店員さんが傍で待っています。注文を取りたいのでしょう。適当に料理とビールを頼みました。すぐにやって来たビール。グラスに注ぎ合ってから青木さんが口を開きます。私も含めてみんな起立です。 「では、高橋さんがうちのメンバーに加わってくれたことを歓迎して乾杯しよう。乾杯」 みんな乾杯と言ってグラスを合わせます。ビールに口を付けると拍手されます。 「ありがとうございます」 私がそう言うと皆さん着席。私が座ったところで清水さんが言います。 「梨沙ちゃん、何か一言」 今一言言ったじゃん、ありがとうって。私はこういうのが苦手です。でもみんな私を見ている。何か言うしかありません。 「えっと、何日かお手伝いさせていただいてますけど、正直まだまだ何をやっているのか分かりません。でも楽しいなと思ってます。家が出来ていくのに関わってるのが、分からないなりに楽しいです。何か知らなかったことが少しわかったりすると面白いです。なので頑張って覚えますから色々教えてください。よろしくお願いします」 自分で驚くくらいしゃべれました。でもまた拍手されて少し引きます。お願い、やめて。 「すごい、海老原の時とは全然違うな」 そう言う清水さん。海老原って、去年辞めた人だったかな? 「うん、青木君よりスピーチ上手かも」 田子さんもそう言います。私はビールに口を付けました。すると私の減ったグラスに手を伸ばして注いでくれようとする久保田さん。注いでくれながらにこやかに言います。 「よろしくね」  そして料理が来るとあとはもう、普通の飲み会でした。二時間くらいで終了したあと、二件目に行く話にもならず解散でした。田子さんは徒歩で帰宅。清水さんは家が本山らしいので地下鉄で帰ります。久保田さんはどこに帰るか聞いてませんが、タクシーに乗りました。私はまだバスが走っている時間ですが、青木さんとタクシーで帰宅しました。  翌日はいつもより少し遅めに起床。土曜日は基本的に休みだと聞いています。ただ現場を持つと、仕事しないといけない日があると言われています。ゆっくり朝食を食べてから駅まで行くことに。目的は車を取りに行くこと。使える車があるとなると、手元にないのは不便だと思ってしまう。それにあの車を結構気に入っています。バスに乗ってから昨夜のことを思い出します。色々話を聞けました。田子さんが青木君と呼んでいる理由とか。  青木さんと田子さんは同じゼネコンにいたそうです。聞いてびっくりですが、私も名前を知っているくらいの大手ゼネコンでした。何で辞めたんだろう。田子さんはずっと現場事務をやっていたそうです。そして田子さんが事務をやっている現場に配属されてきたのが、若いころの青木さんと言う事です。それは青木さんが『クン』と呼ばれる年齢の頃の話。そのまま癖になっているようです。青木さんが退職してからは付き合いがなかったそうですが、田子さんが定年退職されたころに再会。青木さんが今のところで仕事を始めたので、近くに住んでいる田子さんと出くわしたそうです。田子さんも退職したと聞いた青木さんは、田子さんをスカウト。そして今に至るそうです。定年退職と聞いて田子さんに年を聞くとびっくり。なんと今年で七十になるそうです。全然そんな風に見えません。私の祖母は今年七十三。ずっとおばあちゃんと呼んでいたからかもしれませんが、どう見てもおばあちゃんです。田子さんはそう言う風には見えません。そう言うと、 「だって私はおばあちゃんじゃないもん。まだ孫がいないから」 と言って笑います、チャーミングに。息子さんと娘さんが一人ずついるそうですが、どちらもまだ、一度も、結婚していないとのこと。「一度も」を強調して言うのがなんだかおかしかったです。でも七十の方のお子さんだと青木さんより少し若いくらい? それは心配かも。そう言えば青木さんはどうなんだろ。どう見ても一人暮らしだし。  バスが駅前に着きました。私は事務所に足を向けます。特に用事はなかったのですがなんとなく。事務所前に来ると設計の部屋に電気が付いているのが分かります。中に入りました。設計の部屋に入るドアを開けると女性の声がします。田子さんの声ではありません。もっと若い声。部屋に入るとすぐ左の席の清水さんが席にいます。イヤホンをしてCADで図面を描いています。すぐ横のドアから入った私に気付かないわけはありませんがこちらを見ません。ミーティングテーブルに声の主が青木さんといました。青木さんよりは若い女性。スーツ姿です。タイトスカートから伸びた足がきれいで格好いい。 「おはようございます」 まだ十時過ぎなのでおはようでいいでしょう。私は小さ目の声でそう言います。 「おはよう、どうした?」 青木さんが挨拶を返してくれる。えっと、事務所に来た理由を探さなきゃ。自分の机の下のスニーカーに目がいきます。 「いえ、昨日靴を履き替えずに帰っちゃったので回収に来ました」 「そっか、高橋さん、ちょうどいいから紹介しとく。こっち来て挨拶して」 青木さんが手招きします。しまった、名刺入れがない。あ、引き出しの中にはある。私は引き出しの中の名刺の入った箱から一枚抜き出して駆け寄ります。女性は立ち上がって待っていました。 「高橋です。よろしくお願いします」 私が頭を下げて名刺を差し出すと、 「ハウスアートの遠藤です。よろしくね」 と、女性の方も頭を下げて名刺をくれました。遠藤、昨日どこかで聞いた名前だ。名刺を見ると課長となっています。なんだかすごい。私なんかから見ると、課長なんて肩書の人はもう立派なお偉いさん。恐れ入ってしまいます。遠藤さんはしばらく私の顔を見ていました。ちゃんと寝ぐせは取ったし化粧もしてる。おかしいところはないはず。 「高橋さんはどこかのゼネコンか設計事務所にいらしたの?」 いえいえ、いらしてませんよ。 「いえ……」 どう言葉を返そうか考えていると青木さんが口を開きます。 「この業界はうちが初めて。一から鍛えてるとこ。遠藤さんもいろいろ教えてやって」 「へぇ~、建築は初めてなんだ。そっかそっか」 改めてじっくり見られる私。 「仲良くしましょうね。私、女の子の後輩いないからなんかうれしい」 後輩って、なんか違うと思うけど。 「よろしくお願いします」 そう言っときます。遠藤さんは小さく頷くと椅子に座り直します。そしてテーブルに広げられた大きな図面を指さしながら青木さんとの打ち合わせを再開。 「で、トイレだけどほんとにこの通りになる? これで車椅子から便座に移れる?」 「狭いのは狭いけど、スペース的には大丈夫なはず」 二人が見ている図面を見ると昨日の根岸邸の図面でした。トイレの部分だけを拡大した詳細図になっています。それは昨日現場で見た図面と違って奥行きが広くなっていて、トイレ内に車椅子の絵が描き込まれています。両側の壁には手摺も書き足されている。  キャビネットの上にも大きな図面が置かれているのでそちらを見ると、玄関周りの図面でした。引き戸に変わっています。図面の半分が玄関周辺の平面詳細図で、残り半分が玄関とリビングの掃き出し窓が並んで描かれている外観図でした。こんな配置の図面はなかったので新しく書いたのでしょう。青木さん、昨夜あれから家で書き直したんだ。徹夜したのかな。平面詳細図の方で気になることを発見。リビング前の外は駐車スペースだったはず。この図面では玄関に続くスロープになっています。リビング前を横切った後90度曲がって外に向かうスロープ。外観図でも斜めの線と手摺が描かれています。こういう風にしたんだ。そう思って見入っていると、声を掛けられました。 「ごめんなさい、この図面いい?」 遠藤さんが図面を手に取りながら私を見ています。 「はい、すみません」 私は一歩下がりました。遠藤さんは図面を滑らすように移動させて、テーブルの図面の上に置きます。 「ここって、横向きに軽一台くらい置けない? ここまでで、え~と、3000(ミリ)くらいあるから何とかなるわよね」 等と青木さんとすぐに話し始めます。  そう言えばこんな大きな図面どうしたんだろう。A3の倍どころじゃない、もっと大きいです。そう思いましたが答えは目の前にありました。久保田さんと清水さんの席の間にある、カバーを被った横長の機械。今はカバーは外されています。そしてその機械から少しだけですが、大きな紙が垂れ下がるように覗いています。その向こうには紙が見えないので中にロールで入っているのかな? この機械は大きな図面用のプリンターだったようです。なんか感動してしまいます(後に知りましたが、プロッターと言うそうです)。右の方で動きがありました。遠藤さんが大きな図面を重ねて丸めています。図面がなくなるとその下からカタログのカラーコピーが出てきました。 引き戸の玄関とユニットバス。ウェブカタログからプリントしたものでしょうが、こんなものまで用意してるなんて。青木さんは何時から事務所にいたんだろう。遠藤さんはそのコピーも丁寧に重ねるとクリアファイルに入れます。それを鞄に入れながら、 「ほんとに青木さん来てくれないの? 一緒に行こうよ」 と言います。なんだか甘えた口調で。 「勘弁してくれ」 「一人じゃ根岸さんに説明しきれないかも」 なんか遠藤さんのキャラが変わったような気がする。 「ほとんど徹夜だったから眠いんだよ。話しながら寝ちゃうよ」 「着くまで助手席で寝てていいから」 「さようなら、いってらっしゃい」 そう言いながら青木さんは手を振って背を向けると、自分の席でモニターに向います。遠藤さんはしばらく青木さんを見ていましたが、向きを変えて今度は清水さんを見ます。清水さんは相変わらず画面に集中しています。私が清水さんから遠藤さんに視線を戻すと目が合いました。 「じゃあ、高橋さん一緒に行こう」 そう言ってニコッと笑います。話の流れ的にこれからお施主さんと打ち合わせだよね。うそうそ、一緒に行っても何もできない。って言うかそんな格好してない。白地に大きくユニオンジャックがプリントされたトレーナー(朱美のロンドン土産)に紺のブロックチェックのスカート。そして足元はスニーカー。こんなきっちりしたスーツ姿の女性の横に並んだら、引き立て役にもならない。青木さんも清水さんも無反応。うろたえすぎて声も出ない私。 「冗談だから、本気にしないで」 笑顔のままそう言う遠藤さん。 「じゃ、行ってきます。この後も現場よろしくお願いしま~す」 青木さんの方にそう言うと遠藤さんは部屋から出て行きました。しばらくしたら清水さんが顔を上げます。青木さんもこっちを見ています。 「はあ、行った……、行ってくれた」 清水さんがほっとしたようにそう言って、タバコに火を付けます。タバコ吸いたかったのかな? でも私が入ってきた時、青木さんは話しながらタバコ吸ってたような。 「高橋さんごめんね、ああいう人だと思って勘弁して」 「はあ」 勘弁してと言われても、私何もされてないんですけど。 「もう、田子さんいない時は遠藤さん出入り禁止」 清水さんがそう言います。けど、意味不明。田子さんが何か関係あるの? 「そう言うなよ、彼女は沢山仕事くれるんだから」 「それは青木さんが何でも言うこと聞くからじゃないですか。って言うか青木さんも遠藤さんの先輩なんだから、もう少し言うこと言ったらどうです?」 なんだかわからないけど、遠藤さんって嫌われてるの? 清水さんの口調は呆れてるって感じで、酷い言い方ではないですがそう聞こえます。それに青木さんが先輩? 「だから今も打ち合わせ拒否したじゃん。それに彼女の仕事はお前にやらせてないからいいだろ」 「今はね。前はあの人に散々こき使われたけど」 そう言って清水さんは私を見ます。 「梨沙ちゃん、手遅れかもしれないけど気を付けてね」 「はい?」 「もう目を付けられたから」 もうなんだか分かりません。 「あの、遠藤さんってどういう方なんですか?」 二人に聞きました。聞かれた二人は目を合わせます。が、やがて清水さんは向きを変えてモニターに向います。 「会社勤めしてた時の僕の後輩。僕が名古屋に赴任して来て最初の現場に、彼女が新入社員で配属されて来たんだ。それで僕が彼女の教育係やったんだよ」 青木さんが説明してくれました。 「はあ。あ、その時、田子さんも一緒だったんですね」 「そ、田子さんはにこにこしてるけど厳しい人だったから、彼女はよく怒られてた」 「だから田子さんがいるときはここでもおとなしい」 青木さんの言葉に続けて清水さんがそう言います。さっきのセリフはそう言う事だったんだ。 「遠藤さんは事務だったんですか?」 「いや、僕と同じ工事部だよ」 「工事部の人が事務の人に怒られるんですか?」 「そりゃまあ、いろいろね」 いろいろ……、って何だろ。 「でも、いいやつなんだよ、基本的に」 青木さんがフォローを始めます。 「落ちぶれた先輩が食いっぱぐれないように、こうやってずっと仕事作ってくれてるんだから」 「……」 私は何と言ったらいいか分からない。 「確かに、最初はあの人の仕事なかったら食えなかったですもんね」 清水さんがそう言います。 「だろ?」 「いや、俺も毛嫌いしてるわけじゃないですよ。そう言う意味では感謝してるし、すごい人だと思ってます。ただ、出来れば近寄りたくないだけです」 それを毛嫌いしてると言うのでは。でもなんだかこの二人と遠藤さんには長く親しい付き合いがあるようです。 「ま、高橋さん、あんまり巻き込まれない程度に付き合ってやって、何と言っても彼女はうちのお得意様だから」 「はい」 「それに性格はさっぱりしたもんだから、何があっても後引かないから大丈夫だよ」 う~ん、よく分からん。後引かない? 「さっぱりと言うか大雑把だけどね」 なんだかんだ言っても、清水さんも遠藤さんには親しみを感じているようです。 「さあ、ちょっと早いけど昼行かない? 巻き込んだお詫びに奢るよ」 青木さんが私たちに向って言います。 「下か。ま、たまには。ご馳走になります」 清水さんはそう言って腰を上げます。なので私もこう言います。 「ご馳走になります」  昼食を終えてから事務所へ戻ると久保田さんがいました。山城邸のお施主様の所へ行っていたとのこと。青木さんと久保田さんは早速山城邸の打ち合わせを始めます。清水さんはイヤホンを付けて作図を再開。私はスニーカーを回収して帰ることに。スニーカーと一緒に、青木さんから事務所で渡された大きな尺金とヘルメットも持って出ました。車に積んでおくためです。  駐車場に歩いて行く途中でいつも行く美容院が見えます。一本北側の道の角なので、駐車場手前の交差点を渡るときに遠目に見えるだけです。その遠目に見て、お店の前の駐車場に車がありませんでした。予約していないけど大丈夫かも。急いで車に荷物を放り込んで向かいます。  扉を開けて入ると、いつも私を担当してくださる女性がカウンターにいました。 「高橋さん、こんにちは」 そう言って手元を見ます。 「こんにちは、予約してないんですけどいいですか?」 私は申し訳なさげにそう言います。 「ですよね、お聞きしていないみたいなので書き忘れかと思いました。大丈夫ですよ、どうぞ」 そう言って招き入れてくれます。私は事情を話して、パーマを落としてストレートにしたいとお願いしました。今の髪型を勧めてくれたのは彼女です。なのでもったいないなぁと言いながらも快く受けてくれます。でも、肩のラインくらいかそれより短めにして欲しいと言うと、ストレートにするなら長めの方が手入れが楽ですよと言われます。でも昨日なんか下の方で寸法を見るとき、地面に顔が付くくらいの姿勢になりました。髪の毛は絶対に地面についていたと思います。実際木くずが付いていたし。なので構わないから切ってくださいとお願いしました。終わって最後に鏡を見た時に、肩のあたりがすっきりしたと感じました。ふんわりした質感がなくなって、顔が目立つなぁとも。言い換えるとなんだか寂しい感じです。でも、この新しい髪形で、新しい生活が始まるんだとも思います。私の再就職後、最初の一週間はこうして終わりました。
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