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第四章 まだまだな二週目
青田設計での二週目。月曜から三日続けて清水さんと一緒に現場に行っています。朝、一緒に出て現場に向かいますが車は別。私は一現場だけ同行したら帰社しますが、清水さんはそのあとも予定を入れているため。一緒に行ったのは全てマンションの現場でした。一つはRC(アールシー)造の現場。RC造と言うのは鉄筋コンクリート造のことだと教えてもらいました。あとの二つはALC(エイエルシー)造の現場。ALC造は基本的には鉄骨造だと言われました。工場や倉庫などでよくある構造。工場などは鉄骨にスレートと呼ばれる波板や、サイディングと呼ばれる外壁を貼ることが多いです。ALC造は鉄骨にALCを取り付けて外壁にする造りだそうです。ALCって? と聞くと、発泡コンクリートの板で、巾は600ミリ、厚さ100ミリと決まっていると教えてくれました。あ、建築業界は寸法を言うときの単位がほとんどミリメートルです。それにも慣れてきました。
清水さんと行った現場は私のやることなし。現場事務所での打ち合わせを横で聞いて、現場内を見て回るときはついて歩くだけ。いつも現場監督が傍にいるし、車も別なのでろくに質問も出来ません。でも帰って来てから事務所で質問すると、嫌な顔もせずに丁寧に教えてくれます。丁寧過ぎて、講義が終わるのが夜になってしまうことも。おかげで建築図面の理解度はかなり高くなったと思います。ま、先週の私と比べてってことで、まだまだではあるけれど。事務所にいる時間は、ほとんど図面チェックのお手伝いです。
そして今日は昼から青木さんと出掛けます。一緒に下の喫茶店でランチを食べてから、すぐに出発の予定でした。でも食事中に青木さんに掛かってきた電話が原因で事務所に戻って来ました。私は席で待っています。
田子さんが私の所にやって来ました。今朝、清算をお願いするために渡したガソリンスタンドのレシートを持っています。
「とりあえず先にこれ」
そう言って、清算した1989円をくれました。
「ありがとうございます」
でも続きの話がありました。
「このスタンド、キーホルダーが使えるはずだけど使えなかった?」
「えっ?」
「車の鍵についてなかった?」
そう言われてポケットから車の鍵を出します。
「それ、その黒いの」
田子さんは、私がただの古いキーホルダーだと思った黒いプラスチックの棒を指さします。
「これ何なんですか?」
田子さんはチラッと電話中の青木さんを睨みます。
「なんでみんなちゃんと教えないのかな」
そう言いながら、私が渡したレシートのスタンド名の所を示して言います。
「この会社のスタンドならどこでもそれでガソリン入れれるから。あ、たまーに使えないとこもあるみたいだけど、ほとんどの所で使えるから」
「そうだったんですか」
「ガソリンスタンドの機械にそれをタッチするところがあるはず。それでOKだから。ただ、レシート出るからそれは頂戴ね」
「分かりました」
「洗車もそれで出来るみたいだから、汚れたら洗車してね。汚い車、お客さんの所に乗ってったらダメよ」
「はい」
捨てなくてよかった。単なる黒いプラスチックの塊で文字も消えてるし。何か代わりのキーホルダーを見つけたら替えようかぐらいに思っていました。立ち去り掛けた田子さんが戻って来ます。席に座る私をぐるりと見ます。
「梨沙ちゃん、髪型変えたのね。朝見た時からなんかスッキリしてると思ったの。似合うわよ」
朝見た時? それは月曜のこと?
月曜日に下の喫茶店で一人でランチを食べた時、ママさんや真紀ちゃんはすぐに気付いてなんやかやと言ってくれた。その時は、朝、事務所で誰も何も言わなかったのは、結構思い切って短くしたので気を遣ってくれてるのかな、くらいに思っていました。変な気の遣い方をする人たちだなって。
「おお、今まで気付かなかった。うん、似合ってるよ」
電話を終えた青木さんが話に合流。今まで? それは四日間もってこと? 気遣いではなかったようです。
「はあ、なんか短い方がいいかなって、バッサリ、切っちゃいました」
私は、『バッサリ』を少し強調してそう言いました。でも二人には通用せず。田子さんは青木さんに、ガソリンスタンドのことを私に説明していなかったと、小言を言って戻って行きました。
青木さんの電話の用件は終わったようで、それから出発しました。行き先は春日井市にある教文大学。たしか、IKO都市開発さんの依頼で図面を書いている現場です。現在三号館の改修工事をやっています。でもその工事はほとんど終わっちゃってます。年度内、つまり今週で竣工です。その三号館から隣の九号館に、地上部分でですが屋根を付けた渡り廊下が付きます。四月になったらすぐ着工予定。ですが渡り廊下のつながる先の九号館部分。当初は何も手を付けない予定だったようですが、学校の方からつながった最初のエリアだけ、きれいに模様替えしたいと要望があったとのこと。しかもそのエリアは現在未使用の小部屋が並んでいるので、そのエリアの新しい活かし方を提案して欲しいと言う事らしいです。当然その要望はIKOさんに出されたもの。教文大の建物は、十年位前から全部IKOさんが設計しているとのことです。ちなみにゼネコンは市山組さん。地場では古くからある建設会社さんらしいです。創業は明治時代、数年前に百周年を迎えたとか。今日は、提案するにしても現状がどうなっているのか分からないので、それを調査して欲しいとのIKOさんからの依頼で行きます。
大学敷地入り口で守衛さんに行き先を告げて入場。敷地内には、いたるところに駐車場があります。車で通学している学生が多いのでしょう。とある建物の近くの駐車場に、青木さんの指示で車を停めます。そして建物の中へ。そこは二号館でした。廊下をまっすぐ進んで、一番奥の部屋まで行きます。通り過ぎた部屋には教員の名前のプレートが付いていました。研究室が集まっているエリアなのでしょう。青木さんが立ち止まった奥の部屋には、『市山組現場事務所』と書かれた紙が貼ってありました。青木さんは軽くノックして扉を開けます。中には入り口前に打ち合わせスペースがあり、右手には机が五つあります。その机の所に男性が二人いました。
「お世話になってます」
青木さんが声を掛けます。すると二人は立ち上がってこちらにやって来ました。
「青木さん、早いね、聞いたの昨日くらいでしょ」
青木さんと同じくらいの年齢の方がそう言いながら、打ち合わせスペースの椅子を手で勧めてくれます。もう一人は若いです。私と変わらないくらいの年に見えます。その方は机の上に広げていた図面を持ってこちらに来ます。青木さんは、「座る前に紹介させて」と私を紹介。私はお二人と名刺交換しました。年長の方は、佐藤賢治さん。教文大学作業所、所長となっています。肩書は建築工事部課長。もう一人の方は、、前原俊さん、建築工事部となっているだけで肩書はありませんでした。挨拶を済ませて座ると、青木さんがすぐに口を開きます。
「IKOの長谷川さんから電話頂いたのは一昨日の夕方くらいです。ただ、詳細は佐藤所長にお聞きするようにとおっしゃるので、大まかなことしか知りません」
「詳細も何も、何も決まってないよ」
佐藤所長は前原さんが持って来た図面の中の一枚を青木さんの前に置きます。それは平面図ですが、かなりラフな手書きです。
「今の九号館は元々、研究棟って呼ばれていた建物なんで古いんだわ。だから新築当時の図面がないって言われた。ま、学校のどこかにはあるはずなんだけど、探しきれてないみたいだね」
「そうですか」
「それで昨日から実測始めて、こうやって図面を作ってる」
「なるほど」
「で、これがリニューアルの依頼があった部分の全体の平面。各部屋の詳細は別に作ってるけど、まだこれだけ」
佐藤所長は前原さんの手元にある残り三枚ほどの図面を示します。どれも手書きのラフなものです。
「いや助かります。ここまでちゃんとしたもの作ってくださるとは思ってなかったので」
青木さんがそう言うと佐藤所長は前原さんの首の後ろを掴んで揉むようにしながら言います。
「こいつの修行にちょうどいいから、全部やらせようと思ってる」
「いやー、そうなるとうちのやることがなくなっちゃいますよ」
「いやいや、見えるところは測れるけど、見えないところをどこまで見なきゃいけないかってのは、青木さんに指導してもらわないと」
佐藤所長はそう言います。
「分かりました。それで、この絵で見えてる範囲全部ってことでいいんですか?」
青木さんは目の前に置かれた図面を見ながら佐藤所長に尋ねます。ちなみに、建築関係者は図面のことを、『絵』と呼ぶことがよくあります。
「そう、やるとこだけを落とし込んでる。で、もうちょっと詳しく言うと、階段降りてきたここは今、常開の防火戸になってるけど、そこは常閉に変える。小さくなる分は耐火壁作る。そしてこっちの廊下の突き当りのドア、これはいじらない。だからこのドアの枠手前までが改修の範囲。あとは、サッシはなぶらん予定やけど、何年か前にカバーで改修済みやから、そのへんどうするか考えて欲しい」
佐藤所長は図面を示しながらそんな説明をします。私は聞いているだけ、分かっていません。
「分かりました。壁とか天井、部分的に壊してもいいですか?」
「うーん、壊さんと見れんわなあ」
青木さんの投げかけに佐藤所長は悩み顔。
「分かった。部屋の中は好きにしていい、どうせ使ってないから。でも、廊下や階段は工事始めるまで通る人がいるんだわ。だから最小限にしといて欲しい。壊したところは板でも貼ってとりあえず補修するけど、補修箇所が大きくならんように気を付けて」
「分かりました。じゃあ早速現地行きますね」
「僕はちょっと付き合えんけど、前原付けるから」
佐藤所長はそう言うと前原さんの方を見ます。
「前原、青木さんがどこをどう見てどう測るかよく聞いてやれよ。それと五島さんとこから一人借りて連れてって、壁や天井壊してもらってくれ」
「分かりました」
前原さんはそう返事すると、「職人さん連れて行くので、先に行っといてください」と私たちに言って、先に部屋を出ました。
「じゃあ、我々も行きますね」
青木さんは佐藤所長にそう声を掛けて腰を浮かせます。すると所長は「ちょっと待って」と、自分のデスクへ行きます。戻ってきたその手には鍵束がありました。
「これ持って行って。七部屋全部鍵掛かってるから」
「分かりました。預かります」
そして私たちも部屋を出ました。
青木さんについて歩きます。学内の何処にいるのかさえ分かっていない私。付いて行く以外ありません。春休み中なので学内にほとんど人影はありませんでした。やがて九号館の前に。右手には改修工事が実質終わっている三号館があります。きれいに仕上がっています。そこには、新しく付け替えられたと思われる引き分けの自動ドアがこちらに向いてありました。おそらくあそこから、目の前にある九号館の古びた両開き扉まで、渡り廊下が造られるのでしょう。
九号館の中に入ります。入ると目の前は建物奥までの廊下です。左側に階段があり、その先は廊下の左側に扉が並んでいます。青木さんは最初の扉のドアノブに手を掛けますがやはり鍵が掛かっています。渡された鍵束から鍵を探しています。私は階段を見ました。階段に扉はなく、横の壁に大きな扉がはめ込まれているような感じです。時々見かける物。さっきの佐藤所長のセリフを思い出します。「今はジョウカイの防火戸」と言ってました。その時は意味が分かりませんでしたが、こうやって見ると何となく分かります。『ジョウカイ』は『常開』で、常に開いてるってことなのでしょう(後に知りますが、正式には常開式防火戸ではなく、火災時等の随意の時だけ閉まると言う意味で、随時閉鎖式防火戸と言うそうです。ちなみに常閉はそのまま、常時閉鎖式防火戸です)。鍵が開く音がしました。青木さんは扉を開けて最初の部屋に入っていきます。
「お、脚立がある。ラッキー」
青木さんのそんな声に続いて部屋に入りました。なんか臭います。何の臭いか分かりません。埃っぽい感じも。埃の臭い? なんて思ってしまいます。部屋に入った青木さんの第一声通り、青木さんの背より高い脚立が部屋の中にありました。書庫などの備品も、わずかですがまだ室内にありました。ラッキーと言った青木さんは、脚立を使わず部屋の壁を叩いて歩き始めます。そして扉の正面、窓のある壁を念入りに叩いています。やがて持って来ていたトートバックからヘルメットを出してかぶりました。私も手に持っていたヘルメットをかぶります。青木さんはカッターナイフも取り出すと、サッシ周りの額縁に近いあたりの壁に突き立てました。カッターで壁が切れるの? と思っていると、刃は壁に入っていきます。かなり力を入れているようですが、10センチほど縦に切り込みを入れ終わります。
「カッターで壁が切れるんですね」
私は声をかけてしまいました。
「ここはプラスターボードだからね」
そう言うと手招きします。私が傍に行くと、
「叩いてみて」
と言います。言われた通りノックするように壁を叩いてみる。板が貼ってあって、その向こうは空洞になっている感じが分かる感触と音がします。
「今度はあっちの壁叩いてみて」
ドアから入って左手の壁を指して青木さんはそう言います。私はそっちに行って同じようにしました。痛い。思いっきりコンクリートでした。見た目はどちらも白いペンキが塗られた壁だけど違いました。青木さんがまた手招きしています。私は傍へ。
「手、大丈夫?」
私が痛そうにしたのを見ていたのでしょう。
「大丈夫です」
「ここ見て、白い粉が出て来てるでしょ」
青木さんはカッターで切ったところを示します。
「はい」
「これがプラスターボード。現場ではみんなPB(ピービー)って言うから」
「はあ」
「これだとカッターでも切れる」
「なるほど」
「やってみて」
「は?」
「何事も経験。そんなに難しくないから」
「はい」
私は青木さんからカッターナイフを受け取り、両手でそれを持って青木さんが指示した場所に刃先を当てます。先に青木さんが切った場所から横に10センチくらい離れた場所です。そして、まさに押し込もうと思った時に青木さんが言います。
「いきなり力入れたらだめだよ。刃が折れたりすっぽ抜けた時に怪我するから。徐々に力を入れていって、すっぽ抜けてもいいように注意しながらやって」
すっぽ抜けるって、どう言う表現? なんて思いながら徐々に刃先を押し込むと、徐々に入っていきました。
「そうそう、そのまま僕が切った辺りまでゆっくり切っていって。慎重に、ケガしないように」
青木さんがそう言います。でも切れていかない。少しは刃が動きますが切れて行ってる感じではありません。もっと力を入れます。腕が震えるくらい。
「ストップ。そんなに力んでると危ない、一旦やめて刃を抜いて」
そう言われてカッターを壁から抜きます。そこで驚きが。驚きと言うか、怖い思いをしました。カッターが手から離れない。いえ、離れないのは私の手の方。手が開きません。そう思うと指の関節に痛みを感じる気がします。
「そのままそのまま、落ち着いて、ちょっとしたら動くから」
私の焦った様子を見て、青木さんがそう言います。私は自分を落ち着かせます。すると指が動きました。なんだか軋みながらッて感じはしますが、手が開けました。すかさず青木さんが私の手からカッターを取ります。
「力入れすぎ。だからそうなるの」
「はあ」
「あの状態ですっぽ抜けてたら、ケガしてたよ」
そう言われるとその通りかも。
「はい、すみませんでした」
「いやいや、経験だから。無理するとどうなるかって経験。すっぽ抜けたらどうなるかも経験した方がいいかもしれないけど、ケガはさせたくないから止めた」
「ありがとうございます」
うん、ほんとにいい経験になったかも。
「無理無茶は絶対にダメ。現場での鉄則の一つだよ。強引にやってもうまくいかないことの方が多いから。ケガするか物壊すかのどっちか」
「青木さんはこういう失敗の経験あるんですか?」
私はつい聞いてしまいます。
「数えきれないくらい」
「そうなんですか」
「運よく大ケガせずに済んでるから無事でいるけど、その代わり、物は沢山壊したよ」
「……」
私は何と言えばいいか言葉を探し中。青木さんでもそんな経験してるんですね、と言えるほど青木さんのことを知ってるわけでもないし。分かりました、ケガしないように物壊しますと言うのは変だし。青木さんはもう切り替わっていました。
「今みたいに、切れるとは分かってるけど切れないって時どうするか」
青木さんはそう言うとステンレスの定規を出して、私が切りかけた所にシャーペンで線を引きます。大体目的の長さまで。
「手はもう大丈夫?」
そして私にそう尋ねました。私は手をグー、パーしてみます。
「大丈夫です」
「じゃあもう一回」
私の手に再びカッターナイフが。
「今度はその線をカッターの刃先でなぞるように切っていって。一度に深くまで刃を入れなくていいから」
「はい」
その通りやってみます。2ミリくらい刃を入れて下に引きます。そうしてもう一度。今度はさっきより深く刃が入ったような感覚。そして四回目で多分切れました。そんなに力を入れることなく。
「わかった?」
青木さんが私の顔を覗き込んでそう言います。
「はい、最初からこうすればよかったですね」
「うん、一回経験したからレベルアップしたね」
レベルアップ、そう言われるとなんだか嬉しい。
「でも、ボード切りなんてうちの仕事じゃないから、覚えなくてもいいって言えばいいんだけど」
せっかく喜んだのに台無しな事を言う青木さん。気付くと後ろに前原さんがいました。もう一人、前原さんよりさらに若い男性。腰に沢山工具をぶら下げています。さっき連れて来ると言っていた職人さんでしょう。
「そこのボード剥がします?」
前原さんが青木さんにそう聞きました。
「うん、そこはカバーしたサッシ周りを見たいから。ついでにボードの仕上げ面から躯体までどれだけあるかも」
「分かりました」
青木さんの言葉を受けて前原さんが職人さんに指示します。指示された職人さんは手にバールを持ち、いきなり壁のボードに突き立てます。そしてバリバリとバードを剥がします。カッターナイフで頑張った私の苦労をどうしてくれるって感じです。あっという間に横20センチ、縦30センチくらいのボードがなくなります。あらわになった壁の中、青木さんが覗きます。いつの間に出したのか、手にはLEDの懐中電灯を持っていて、ボードの裏を照らしながらサッシの方を見ています。
「なんかあります?」
前原さんが声を掛けます。青木さんは小さな尺金をボードの中に差し込んで何かを測っています。
「45の木組か。大体70」
独り言のように呟く青木さん。やがて前原さんの方を向きます。
「サッシのこのアルミ額縁、ボード面より奥まで折り返してあるから、今のボード面くらいで次の仕上げをしたら問題なし。ここは躯体からボードの仕上げ面まで大体70(ミリ)」
前原さんは手に持ったクリップボードの上の紙にメモしていきます。
「分かりました。全箇所同じか見ればいいですね?」
「頼める?」
「はい、やっときます」
青木さんは前原さんの傍に行きました。
「さっきの平面ある? リニューアル部分全体の」
「はい」
前原さんはクリップボードに挟んだ紙からその図面を抜いて一番上に置きました。
「これに書いていい?」
「どうぞ」
青木さんはそう聞くとクリップボードごと受け取って、青のボールペンで書き込んでいきます。
「今書いたこの辺りの寸法が一番知りたい。分かる? 要は各部分の躯体の内法寸法」
「はい」
青木さんはまだ続けます。
「あとは、各部屋の間仕切りがどうなっているのか。廊下面はボードぽかったから間仕切りなんだと思うけど、それも確認」
前原さんは青木さんからクリップボードを受け取りメモしていきます。青木さんは続けます。
「部屋と部屋の間は間仕切り壁ばかりじゃないと思うんだよね」
そう言いながら隣の部屋側の壁に向って歩きます。壁の近くまで来ると青木さんは振り返って職人さんに声を掛けました。
「悪いんだけど、この天井ボード一枚外してもらえる?」
そう言って指さしているのは目の前の壁と廊下側の壁との角になる辺り。ちょうどその位置にある柱の傍です。職人さんは部屋にあった脚立を持って来て天井を外します。今度はぶっ壊すのではなく、電動工具を使って天井を止めているビスを外しています。その間に青木さんは壁を叩いて前原さんに話しかけます。
「やっぱり間仕切りじゃないね。ブロック積んであるだけだったら考えようがあるけど、コンクリだったら厄介かも」
「厄介とは?」
前原さんの質問。
「強度出してる壁だったら壊せない」
「壊さなきゃいけないんですか?」
「いや、次をどういうスペースにするかなんだけど、壁を失くして大きなスペースを作れたら、それだけ色んな提案が出来るでしょ」
「なるほどです」
青木さんの言葉に頷く前原さん。そして質問。
「強度出すための壁でなければ壊せるんですか?」
「壊せると言うか、壊しようがあるって感じかな。基本的にコンクリだったら普通は壊したくない。壊してもドアの開口空けるくらい」
「そうですか」
そう言っているうちに一枚目の天井が外れました。青木さんはちょっと見させてと脚立を上りかけて止まります。
「このくらいの脚立ってまだある?」
職人さんにそう聞きます。
「多分、どこかの部屋にもう一、二台は置いたままだったと」
すると青木さんはポケットから鍵束を出して職人さんに渡します。
「じゃあ申し訳ないけど、全部の部屋のこの辺りの天井、外しといてもらっていい?」
「了解です」
職人さんは鍵束を持って部屋を出て行きました。青木さんは脚立を上って天井の中に頭を入れます。そして隣の部屋の方を懐中電灯で照らしてみて言います。
「ここはブロック積だ。しかも梁まで届いてない。50くらい空いてるわ」
そして向きを変えて廊下側を見ます。
「こっちもブロックだな、こっちは梁下、モルタルで埋めてある」
そう言った後降りて来て前原さんに見るように言います。前原さんも上って見て、降りてきます。そして「ほんとですね」とか言いながらクリップボードにメモし始めます。すると青木さんが私にも見て来てと言います。上がって見たかったので嬉しかったです。でも少し後悔。四段、五段と上ると意外と怖い。腰が脚立の上に出るくらいになるとほんとに怖い。外された天井の淵を持って頭を天井の中に突っ込みました。すると下から青木さんの声がします。
「隣の部屋の方見て」
渡された懐中電灯をそちらに向けます。白いLEDの光はとても明るくてよく見えます。でも見えるだけで私にはよく分かりません。ブロック積って言ってたっけ? そう思ってみると見えてきました、ブロック塀が。壁の中にブロック塀が立っている。そして梁の下から5センチくらい下までしか届いておらず、隙間が空いています。その隙間の所々に錆びた鉄の棒も見えます。下から5センチ角くらいの木材が伸びているのも見えました。言われていませんが廊下側も見て見ます。同じでした。でもさっき青木さんが言っていたように、隙間は空いておらず埋まっていました。私は降りることに。でも降りれません。夢中になって見ようとしたため、上半身を天井裏に突っ込んでいました。なので足元が見えない。怖くて一歩目を踏み下ろせません。恐る恐る腰を下げて右足を下におろしますが空振りばかり。
「そのまま、足掴むぞ」
青木さんの声です。右足を掴まれました。
「そのままゆっくり右足伸ばして」
言われるとおりにします。右足がしっかりした何かを踏みました。
「じゃあ、今度はゆっくり左足出そうか」
そう言われて左足を降ろしていくと、下への視界が開けました。一安心。
「すみませんでした。もう大丈夫です」
下まで降りた私に青木さんが言います。
「僕も高いところ上るのは結構平気なんだけど、降りるとき怖いんだよな」
「はあ、ほんとにすみません」
怖かったのと、恥ずかしいのと、ホッとしたのとが重なって、小さな声になってしまいました。
「いいよ、また一つ経験したね」
青木さんがそう言ってくれてさらにほっとしました。でも次の言葉はショックでした。
「外出て、前、払っておいで」
私は自分の前を見ました。埃だらけで真っ黒。ジャンパーの前だけでなく腕も。
「すみません、ちょっと行ってきます」
部屋を出ようと扉に向かうと後ろから青木さんの声。
「どこでもいいからトイレ見つけて鏡も見といで」
顔にもついてるのか……。
戻ると青木さん達は四番目の部屋にいました。そこから私もまたお手伝い。でも、どこを触っても手が真っ黒になります。そんな手でメモを取っているノートを触ると、ページが黒く汚れます。私がそれを気にしていたら青木さんが言います。
「諦めろ、改修工事の調査ってこんなもんだから」
そうなんだと思っていたら、ここはまだきれいな方だと付け足されました。
二時間以上掛かって全部見終わりました。七部屋を隔てる壁6か所の内、2か所がコンクリートの壁でした。柱はその二か所は本物? の柱だそうですが、残りは柱型にしているだけだとか。私にはよく分かりません。青木さんは前原さんに実測して欲しい個所、内容を細かく伝えていました。そして前原さん達を残して現場事務所に戻ります。
青木さんは佐藤所長に今調べてきた状況と、前原さんにお願いした内容を説明。なんだか所長は他人事。前原さんには今週中に実測結果をまとめさせるから、それで現状の詳細図を作って、あとはIKOさんと話進めちゃってと。実施内容が決まるまで関わりたくないんだと、私にも分かるような態度でした。青木さんは現場事務所を出ると自販機コーナーに行きます。微糖の缶コーヒーを二本買いました。私はてっきり帰りの車の中で飲むものだと思いました。なので心の中で、ブラックにしてよと言ってました。でも青木さんは缶コーヒーを持って9号館へ戻ります。そして前原さんと、手伝ってくれている職人さんに缶コーヒーを手渡し、よろしくと、丁寧にお願いしていました。そして現場を離れます。
車に乗って学校の敷地を出ると、青木さんはすぐに電話を掛け始めます。運転は私です。そう言えば学校内で青木さんのスマホが、気付いただけでも数回震えていました。東名高速に入ったころ、青木さんの電話が終わります。
「学校内だったから電話に出なかったんですか?」
「……? ああ、バイブでも音するからか」
青木さんは手に持ったスマホを見ながらそう言います。
「学校内とかじゃなくて、僕は誰かと話してるときとか、誰かと何かしてる時は基本的に出ないよ。あ、社内は別ね、社外の人とってこと」
「そうなんですか」
「だって失礼でしょ? 目の前で話や作業を中断しちゃうのは」
私は納得しかけながらもまた質問。
「まあ、そう言われれば。でも急ぎの電話だったらどうするんですか?」
そう言うと青木さんは少し微笑んで言います。
「一時間やそこら連絡取れなくて困ることなんてまずないよ」
「はあ」
「すぐ話したいのに話せなかったって怒る人もいるけど、その話の内容が、絶対にすぐ聞いとかなきゃいけなかったことなんてそうそうない。と言うか、僕のこれまでの人生では皆無」
おお、皆無と言い切った。ま、そう聞くと、私の人生にもまだそんなことないかも。でも何回も掛けさせたりしたら、青木さんも言ったように怒る人もいる。怒られるのは嫌だからやっぱり出るかなぁ、私は。そんなことを思っていると青木さんが続けました。
「前に、半日連絡取れなかったとかって激怒した人がいた」
そりゃいるよね。
「それでえんえんと説教してくるんだけど、説教してる暇があるんなら、半日前から話したかったってことを先に言ったらって笑えてきた。全然急ぎじゃないじゃんってね。そして最終的にその人は、その時の用件を言わずに説教だけして電話を切っちゃった」
「で、どうしたんですか?」
「いや、ほんとにカンカンに怒ってたから、切られてからは、もううちに仕事出さずに他に振ったんだなって思ってた。お怒りが冷めた頃、お詫びに行かなきゃいけないかなって」
「……」
「でも次の日の朝、電話掛かって来た。前の日の事何も言わずに、前の日話したかった用件だった。緊急でも重要でもない用件」
「はあ」
「ま、電話するってのはすぐに話したいってことだから分かるけどね、僕だってそうだから。でも、すぐに話せなくて頭に来るのはその人の都合の問題。掛けて来られた方だって、出れる出れないって都合があるんだから」
ま、そうですね。
「でもね、僕だって普段出ないタイミングの時でも、掛かってきた電話の相手確認して、すぐに出るなり、掛け直すこともあるよ。どういう時か分かる?」
私は前を見たまま少し考えます。
「何か急ぎで掛かって来そうな用事がある時ですか?」
「ううん、うちが誰かに迷惑かけてる時。そういう時だけは、迷惑かけてる相手から掛かってきたら、出来るだけ最優先で出るようにしてる」
「ああ、まあ当然ですよね」
「そ、当然のこと」
そんな話をしていると、青木さんのスマホがブルブルし出します。青木さんは電話に出ます。話の内容は根岸邸の事のようです。話し方から察すると、相手は菅野社長ではなく遠藤さんのようです。東名高速を降りた頃、電話が終わりました。事務所までは数分です。数分なのでどちらも口を開かずにいました。事務所裏の駐車場に車を停めて降ります。根岸邸の話を横で聞いていた感じでは、この前の変更内容でお施主さんの了解が出たようでした。
「根岸邸、お施主さんの了解が取れたみたいですね」
事務所に向かって歩きながら私が口を開きました。
「了解はいいんだけど、図面を直さないといけないなぁ」
「かなりですか?」
「いやそんなことないけどね。ただこっちで選んだ玄関やユニットバスで決めてくれなかったから、決まった製品の図面データ手に入れて、正確に落とし込まないといけない」
なんだかややこしそう。
「図面データって、簡単に手に入るんですか?」
「それは問題ないと思う。メーカーのホームページで大抵は公開されてるから」
「そうなんですね」
「そうなんだけど、現場はもう一週間近く待ってるから今夜にでもやらなきゃ」
なんだか暗い青木さん。時間はもう六時を過ぎていました。今からさらに仕事なのはさすがに暗くなるのかも。
「何か手伝えることあります?」
「う~ん、ないなぁ。……高橋さんにはCADも使えるようになってもらわないといけないな」
なんか怖い事を言ってます。私にCADなんて使えるわけない。
「私に設計なんて無理ですよ」
「いや大丈夫でしょ。難しくないよ」
私は返事をしませんでした。なぜなら、青木さんのそのセリフは、事務所の扉を開けながらだったから。田子さんの姿はなし。隣の部屋に入ると清水さんだけいました。その隣の部屋へのドアを通るときに青木さんが言います。
「高橋さん、ここの壁もさっき見たのと同じブロックだよ」
「え?」
「こっちの部屋と向こうの部屋は、元々別だったんだ。うちは元々向こうの部屋の方でやってた」
「そうだったんですか」
「で、こっちの部屋に入ってた会社が出て行った時にこっちも借りたんだけど、元々別の部屋だからドアなんかなかったんだ。でもいちいち外に出ないと行き来出来ないのは不便だから、大家さんに頼んでドアを付けさせてもらった」
へー、あとから付けたドアだったんだ。二か所ドアがあってもなんか不便な事務所だと思っていましたが、もともとはもっと不便だったんだ。どうせならガラスの入ったドアにすれば良かったのに、なんて思っちゃいます。
「そんなこと許してくれるんですね」
「ま、うちが建築やってるのを知ってるし、こうやって鉄骨建てて補強するからって図面も書いて説明したからね」
「その図面は僕が書かされたんだけどね」
清水さんが話に割り込みました。青木さんはそんな話をしている間に帰り支度。
「清水、家で図面やりたいからすぐ帰っちゃうけど、なんかある?」
「明日の朝はこっち来ます?」
「来るよ」
「だったら明日でいいです。報告だけなんで」
「わかった、じゃあお先。高橋さんも今日はお疲れね、お先」
青木さんはさっさと帰って行きました。
「なんか急ぎの図面が必要になった?」
清水さんが私に聞いてきます。
「根岸邸の図面を直すみたいです」
「あっそ」
根岸邸と聞いた瞬間、清水さんの興味はなくなったようです。でもしげしげと私を見ています。
「……」
私が無言で見返していると、
「今日は激戦だったみたいだね。床下にでも放り込まれた?」
変な笑顔でそう言います。激戦? 床下? 一瞬何を言ってるのか分かりませんでしたがすぐに思い当たりました。私は自分の姿を見ます。ジャンパーはさらに真っ黒でした。煤けきっていました。ズボンも、そして白かった安全靴まで。
「床下じゃなくて天井裏です」
清水さんは、「なるほど」と言ってモニターに向き直ります。
「鏡、見といたほうがいいよ」
そしてそう言いました。私は更衣室へ。流し横の鏡を見ます。髪型がすごいことに。今日は汗をかいたので、完全にヘルメットの型も付いてしまっています。ヘアゴムで縛ることに。短くした甲斐がありました。そう言えば現場で見かける女性は、髪を後ろで束ねてヘルメットをかぶっている人が多いような。私もそうしよう。ついでに汚れたジャンパーを着替えます。ズボンはしょうがない、着替えを置いていないので。私は汚れたジャンパーを持って部屋に戻りました。清水さんのスマホからはラジオが流れています。イヤホンはしていません。
「いつもラジオ聞いてたんですか」
清水さんは振り向きもせずに答えます。
「ほぼね」
ほぼか。違う時もあるってことね。私は帰り支度を済ませます。
「私も帰っていいですか?」
「もちろん。お疲れ様」
やはりモニターを見たまま。
「清水さんは家で図面やったりしないんですか?」
「俺って、家ではただただくつろぎたい人だから」
初めて「俺」って言うのを聞いた気がする。
「ああ、分かる気もします」
「気もするか、さ、もう帰っていいよ、お疲れ」
なんか仕事の邪魔だから帰れと言われたみたい。
「お先に失礼します」
私は事務所を出ました。
なんか久しぶりに疲れたって感じでした。それを言い訳に、コンビニでお弁当を買って帰ります。部屋の前まで帰り着き、玄関のカギを開けてドアを開けた瞬間、
「お帰り」
と、朱美の声。なんで? 朱美にはこの部屋の鍵を渡してあり、以前からこういうことは度々あるのでそんなに驚きません。
「ただいま」
取りあえずそう言って入ります。リビングでは部屋着に着替えた朱美が私のノートパソコンでどこかのサイトを見ています。
「ごめん、先にお風呂使ったよ」
こちらに背中を向けたままそう言う朱美。それでもう部屋着なんだ。泊ってく気? 明日は金曜だよ。
「いいけど、今日はなんかあるの?」
私がそう言うと朱美は振り返りながら話します。
「この前言ってた……、どうしたの?」
私を見た瞬間驚いたような顔に、そしてセリフが変わりました。ああ、薄汚れた格好してるからだろね。
「どうしたって、何が?」
私はとぼけてやります。
「なんか、やさぐれてる」
もっと違う表現あるだろ。だいたい、やさぐれるって使い方がおかしいでしょ。私の家はここだぞ。とか思いながら話を合わすことに。
「ああ、ちょっと汚れる現場行ったから」
言葉が出ないような感じの朱美。手に持った汚れたジャンパーにも目がいってる。
「とりあえずお風呂入らせて」
私が言いました。
「うん、入って来て」
お風呂を済ませてリビングに入ると、朱美が服を着替えていました。
「なんで?」
私は聞きました。私の姿に驚きすぎて帰るの?
「いや、あんたお弁当買って帰って来てるから、私も買いに行こうかと。でも歩いて行くのヤだから出て来るの待ってた」
そう言う事か。
「いいよ、私もう着替えるの面倒だから。適当になんか作る」
私はお風呂に入ったので、もう寝巻兼用の部屋着姿でした。
「え、作るの面倒だから買って帰って来たんじゃないの?」
「そだけど、ま、いいよ」
そう言って私はキッチンに。食事の用意をしながら朱美に話しかけます。
「今日、泊ってくの?」
「うん」
「明日仕事じゃないの?」
「代休。この前の土日、イベントに駆り出されたから、月曜まで四連休」
さすが大企業。
「で、なんか用があった?」
「用もないのに来るなって?」
「そんなこと言ってないじゃん」
朱美が背後に来ました。
「何作ってるの?」
「適当」
朱美は私の手元を覗いただけで何も言わず、冷蔵庫から缶ビールを出すと戻って行きます。さっき冷蔵庫を開けた時に気付きましたが、缶ビールがやたらと入っていました。朱美が持って来て入れたのでしょう。私が作っているのはなんちゃってお好み焼き。小麦粉に粉末のダシの素をふりかけて卵二個落とす。それを適当な量のお水でこねます。そこに電子レンジで火を通した冷凍のシーフードミックスを投入。しなびかけたニラがあったので細かく刻んでそれも入れます。キャベツも適量同様に。後は混ぜ合わせて焼くだけ。味が足らなければソースの出番。それともう一つ。たまねぎ、ピーマンを細く切ってフライパンで焼きます。焼いてる途中で豚バラの薄切りを足します。そしてそのままフライパンの上でケチャップとソースを掛けて味付け。ちぎったレタスを敷いたお皿に盛りつけます。素早くフライパンを洗って、さっきのなんちゃっても焼き上げます。二枚焼きました。そして買ってきたお弁当。と言ってもアサリのスパゲッティーだけど。それを電子レンジで温めたら終了。結局しっかり料理してしまった。と言っても三十分かかってないけど。
朱美との夕食の開始。食べ始めてから朱美に聞きます。
「で、なんかあった?」
「それは私のセリフ」
「は?」
「さっきはズタボロな姿に圧倒されて聞きそびれたけど」
「……」
やさぐれからズタボロに変わってる。でも何のことか分からない。
「それ、どうしたの?」
朱美は私の左肩の上あたりでお箸をパチンと閉じます。ああ、髪の事か。
「別に」
「ふ~ん」
それでこの話題は終わりでした。なので私はもう一回聞きます。
「なんか話あるんでしょ?」
「この前のハワイ行こうって話」
「なくなったじゃん」
由美がハワイで結婚式をすると聞いて、ハワイまで行って式に参列しようと朱美はあの時言いました。でも由美が、両家とも親族だけ出席するからやめてと言うので取りやめました。それで話は終わっていたはず。
「だからグアムでどう?」
「はあ?」
「飛行機は格安チケット探すし、宿代はタダみたいなもんで済むから」
「タダみたいって?」
「千円だったか二千円だったか、そんなもん。朝ご飯もそれで付いてる」
「はあ? なにそれ」
朱美は私の料理中を含めると、三本目のビールを開けます。
「うちの保養所なの」
「さすが、そんなのあるんだ」
「ほんとはもう少し取られるんだけど、ファミリー向けの優待枠が何故か一つ空いてたからおさえたの。だから晴美や真由と一緒にって思ったんだけど、どう?」
「どうって言われても……」
「ゴールデンウィーク前半の枠だから、おさえたけど早く決めなきゃいけないの。休めるよね?」
「いやいや、私そもそもパスポート持ってないし」
「……」
朱美が固まっている。
「そっか、あんた卒業旅行も一緒に行かなかったよね」
ややあって口を開く朱美。
「だって、旅費五十万とかって言ってたじゃん。そんなお金なかったもん」
「まあ、あの時はパリ、ロンドンだったからね」
私は黙って最後のスパゲッティーを口に。
「今から申請しても十分間に合うよ。エスタだって確か二、三日だし」
エスタ? 知らない言葉だ。
「まあいいよ、今回は。晴美達と行っといでよ」
「ファミリー枠だから四人以上いるの」
「亜紀とか慶子は?」
学生時代、他に仲の良かった二人の名前を出します。
「……行く気ないってことね」
睨むような格好でそう言う朱美。
「ごめん」
「……」
無言で残りの料理をつまみ始める朱美。そしていつもの口調に戻ってこう聞いてきます。
「梨沙ってさ、一度も海外行ったことない?」
「ないよ」
「そっか、そのうち一緒に行こうよ」
「うん」
その夜はそんなに遅くまで飲まずに寝ました。私は次の日も仕事なので。
五時半過ぎに起きて朝食の用意。六時前に朱美を起こします。早すぎると駄々をこねますが、私が出勤する時に一緒に駅まで乗っていくと言うのでしょうがありません。七時前に出るのでちょっとは余裕がありますが、朱美は朝の支度に時間がかかる。化粧なんて私の三倍はかかる。なので早めに起こします。寝ぼけながら朝食を食べ終わると、一緒に出るのはやめたと言い出す、昼まで寝ると。なので、朱美を置いて出勤しました。
出勤すると課題が出ました。大きなA1の図面を数枚渡されます。それを持って根岸邸の現場に行って、菅野社長に変更箇所の説明をするようにと。青木さんは朝までに図面を直したようです。それから私への講義が始まります。ちゃんと説明できるように、私に説明してくれます。採用となった玄関引き戸とユニットバスのカタログコピーも渡されました。
初めて一人で現場に来ました。前回来た時に青木さんに言われて停めたコインパーキングに車を入れます。丸めた図面と、カタログ等を入れたトートバックを持って現場に向かいます。トートバックは青木さんに倣って買いました。A3が縦に入るサイズの物。百均の店で五百円でした。手に持つと、持ち上げてないと地面に引き摺ってしまいます。なので肩に掛けます。青木さんも肩に掛けてることが多かったような。
現場に近付いてヘルメットをかぶる。緊張してきました。現場は屋根が出来上がっており、外壁も仕上げ材ではないと思いますがほとんどふさがれています。もう柱などの骨組みは見えません。サッシも付いていてガラスも入っていました。玄関面の壁は、白いシートがカーテンのように吊り下げられています。私はそのシートの所から現場の建物内に入りました。バスン、バスン、と大きな音がします。職人さんが奥の部屋の壁を貼っているようです。キッチンになるところの奥に若い男性がいます。床にしゃがんで図面を見ながら何かやっています。私はその男性に声を掛けました。私に向けたその顔は本当に若い。中学生くらい? って感じ。でも、菅野工務店のジャンパーを着ています。
「おはようございます。青田設計の高橋といいますが、菅野社長は見えてませんか?」
その男性は横目で見上げて私を見ます。そして左手の人差し指を上に向けます。二階にいるってこと? 口で言えばいいのに、機嫌でも悪いのかな。そう思うと表情もふてくされているように見えます。ヘルメットに名前は入っていませんでした。
「ありがとう」
私はそう言って階段の所へ行きます。階段と言っても、まだ階段はありません。梯子が掛かっているだけ。
「菅野社長、青田設計です」
私は大きな声で上に呼びかけました。上で足音がすると菅野社長が顔を出します。
「おお、青木さんとこの嬢ちゃんか」
そう言うとまた奥に行ってしまいますが、すぐに戻って来て梯子を下りてきました。
「図面見せてくれ」
私は丸めて持っていた図面を菅野社長に渡します。菅野社長はリビングに積み上げられているボードの上に図面を広げます。青木さんから教わった通り説明しようかと思いましたが、菅野社長が真剣に図面を睨んでいるので声が掛けられません。何かブツブツ言いながら図面を見ています。その図面は玄関と、横の掃き出し窓の部分の平面詳細図。一枚めくるとその部分の断面図。一枚に四か所分の断面が描かれています。社長は二枚の図面を見比べると、しばらくして脇に置きます。次はトイレ、浴室周りの平面詳細図。じっくり見ています。私は何も出来ずに見ているだけ。やがて顔を上げた菅野社長。
「この図面、小さいのもあるか?」
私に聞いてきます。私はバックからA3の図面を取り出しました。
「はい、2部あります」
それを受け取ると菅野社長は周りを見回してから、先程の男性に声を掛けます。
「幸一、まだそれやってるんか、チョット来い」
幸一と呼ばれた彼はのそのそとやって来ます。
「先にこれやってくれ」
菅野社長はそう言って幸一さんにA3図面を示します。表記されている寸法を赤鉛筆で囲んだり、柱にチェックを入れながら話します。
「これ、そこの部分や、このチェックした柱がこの寸法の所に動くから、この寸法で罫書いといてくれ。それとこっちもな」
そう言ってリビングと玄関横の部屋の入り口当たりの平面図にも同じようなチェックをしていきます。チェックが終わると幸一さんに顔を向けます。
「分かったか?」
幸一さんは頷くだけ。目も合わせません。
「ほんまに」
それだけ言って困ったような顔で幸一さんを見る菅野社長。そして私を見ると、
「あ、紹介しとく、息子の長男の幸一。学校辞めてゴロゴロしてるから手伝わしてるんや。いつまでおるか分らんけどよろしくしたって」
そう言います。息子の長男ってことはお孫さん? 菅野社長って、こんな大きなお孫さんがいるほどの年だったの? でもそれ以上に気になることがありました。「学校辞めて」と言われた時、明らかに幸一さんが反応していました。何か言いたげに菅野社長を一瞬見ました。私は名刺を差し出して言います。
「青田設計の高橋と言います。まだ何にも分からないので色々教えてくださいね」
幸一さんは少しだけ頭を下げると名刺を受け取って、そのまま胸ポケットに突っ込みます。
「挨拶も出来んか。ま、ええわ、始めてくれ」
菅野社長はそう言うとA3の図面を幸一さんに渡します。幸一さんはそれを持って最初に指示されたトイレの辺りに行きました。
「土井さ~ん、ちょっと降りて来て」
いきなり横で菅野社長が大声を出すのでびっくり。やがて男性が一人、二階から降りてきました。菅野社長よりは若い感じです。ヘルメットはかぶっておらず帽子。菅野工務店のジャンパーも来ていません。男性が傍に来ると菅野社長は図面を示しながら話し始めます。
「土井さん、やっと図面来た。そこのところやっぱり材料変わるわ」
土井さんは図面に顔を近づけて見入っています。
「これ全部取り替えか、で、こっちに組み直すんなら下地もいるんやな」
等と呟いています。やがて顔を上げると菅野社長に言います。
「取り換える間柱は二階の物入れで使うわ。あとは材料入れてくれたらすぐやれる。玄関は?」
菅野社長は脇によけていた図面を戻します。
「部屋内は間柱ずらすだけやけど、掃き出しの辺りは足さなあかんな」
また図面に見入る土井さん。やはりブツブツ言ってます。菅野社長は腕時計を見て口を開きました。
「幸一、もう十時や、飲み物買って来てくれ」
そう言いながら財布を出します。私は時間を確認、九時四十分を過ぎたあたりでした。
「嬢ちゃんもなんか飲むやろ?」
私に聞きます。
「いえ、私は大丈夫です」
咄嗟にそう答えます。
「そっか、遠慮せんでもええのに」
そう言いながら千円札を出すと、
「六人おるから適当に六本買って来てくれ」
お札を幸一さんに渡します。幸一さんは無言で受け取ると出て行きました。
「どんな玄関になったんや?」
図面から顔を上げた土井さんがそう言います。私はバックからカタログのコピーを取り出して図面の上に置きました。
「玄関はこれで決まりました。金物の種類とか色は、丸で囲ってあるもので決定です。こっちはユニットバスです。これで決まったようです」
私がそう言っている途中から手に取って見始める土井さん。
「この図面の断面はもうこれになってるんか?」
土井さんが玄関引き戸のカタログを私に見せながら聞いてきます。
「はい、サイズも実際に手配していただきたい寸法になっています」
「そっか」
「これで手配していいんやな? ユニットバスもか?」
土井さんに続いて菅野社長がそう言います。
「はい、手配してくださいとお願いするように言われています」
「わかった」
それで図面をたたもうとする菅野社長。私は少し慌ててその手を止めます。
「ちょっと待ってください」
開いている図面は丁度玄関辺りの平面詳細図でした。
「このスロープですとか手摺関係はまだ保留です。この図面はイメージだと言う事です」
「分かってるよ、保留って書いてあるやん」
なんかがっかり、大事なことを伝えたつもりだったのに。でも思い直してもう一言。
「でも玄関の土間の高さはこの図面で進めて欲しいとのことです」
私がそう言うと、菅野社長は図面をめくって断面図を見ます。玄関部分の縦断面をじっくり見て「わかった」と、一言。それで打ち合わせは終わり。私は現場を出ました。
コインパーキングまで戻って来るとちょっと先にコンビニが見えます。車に荷物を入れてコンビニに向います。トイレを使いたかったのです。先週、清水さんと行った現場で一度、仮設トイレを使いました。世の中の工事現場で働く女性たちには本当に申し訳ないと思いますが、私は二度と使いたくない。汚いとか臭いとかはある程度覚悟の上でした。が、そっちは予想よりはるかにましでした。でも、薄い樹脂の壁一枚隔てたすぐ向こうで人の気配や話し声が聞こえる。それも男の人の声が。とても落ち着いてできたものではありませんでした。
コンビニに近付くと幸一さんがいました。駐車場の車止めに腰を下ろしてスマホを見ています。私は近付いて、
「買い出しご苦労様」
と、声を掛けました。幸一さんの横にはペットボトルの入ったビニール袋があります。幸一さんは私をチラッと見てからスマホに目を戻す。何も言いません。見ているのはSNSの画面のようです。届いたメッセージばかりで幸一さんは返信していないみたい。内容までは読めませんし、読む気もありません。何も言葉が返って来ないので私はコンビニに入りました。トイレを済ませて暖かいブラックコーヒーのペット缶を購入。今日は車に乗っていると少し暑いくらいの日差しですが、ホットにしました。コンビニを出るとまだ幸一さんがいます。画面を見ているだけで何も操作していない。幸一さんが現場を出てから結構経っている気がします。少し心配。私はまた傍に寄りました。
「おじいさんの仕事手伝い始めてどのくらい?」
一瞬反応しましたが無言。でも、
「……一週間くらい。毎日じゃないけど」
しばらくしたら返事が来ました。初めて声を聞きます。なんだかかわいい声です。
「そっか、私もこの仕事始めたばかりなんだ。一緒に色々覚えていこうね」
私の顔を見上げる幸一さん。顔をちゃんと見るのも初めて。若いとは思ったけど、ちゃんと見るとまだ幼いって感じがする。
「現場の手伝いってことなら子供の頃からやってる」
そう言ってスマホに目を戻します。始めたばかりと言った私と同じにするなと言いたいのかな? すると下を向いたまま、
「でも、俺は大工なんかやる気ないから」
と、言葉を付け足しました。
「そうなんだ。何かやりたいことあるの?」
学校辞めたんでしょ? とまで言いそうになりますが、さっきの反応を思い出して言わずに置きます。中学は辞めるとは言わないだろうから高校だよね。そう思ってしまうくらい幼く見えます。
「お姉さんはやりたくてやってるの?」
こちらを見ずにそう聞いてきます。お、お姉さんと言われてしまった。色々と複雑に感動してしまう。やりたくてって聞かれると何と言っていいか分からない。私自身選んで始めた仕事じゃないから。あれよあれよと言う間に始まっていたって感じだもん。でも、今思っていることを話します。
「面白いし楽しいよ」
「……」
「建物が建つところをその中で見られるから。出来上がった建物を使ってるくせに、どうやって作ってるかなんて知らなかったから。舞台裏を覗いてるみたいでワクワクするよ」
またこっちを見上げる幸一さん。
「変わってるね。あんな仕事面白いなんて」
う~ん、どうしよう。こうなると私がどう面白いと思っているかを説明しても無駄でしょう。多分聞く耳持たないよなぁ。って言うか、私何でこの子とこんなに真剣に会話しようとしてるんだろ。でもこんな事を言ってしまう。
「変わってるかも。私、物作ったりとかするの嫌いじゃないんだよね。ま、考えるだけで何か作ったこととかないんだけど。でも今は作ってるって気がしてる。実際に作ってるのはあなたのおじいさんたちだけど、私も一緒に作ってる気になってるの。だから楽しいって感じてる」
何も言わずに私を見上げている幸一君。やがて立ち上がります。
「俺、今の学校辞めただけで、どっか他の学校行くから」
「そうなの?」
言葉の背景が分からない私。
「じゃ」
幸一君は答えずにそう言って現場に戻って行きました。
幸一君と話しているときにスマホが震えていました。車に戻りながら確認。清水さんからでした。掛け直します。
『根岸邸、終わった?』
いきなりそう言い出す清水さん。
「はい、今から戻ります」
『いや、そのまま員弁まで行って欲しいんだけど』
「いなべ?」
それってどこ?
『住所、ショートメールで送るから、杉山建設の現場行って資料もらって来て』
「はあ、資料ですか」
『昨日お施主さんが現場来て、これ使えとかってなんだかんだカタログとか置いてったらしいんだ。それもらって来て』
「分かりました」
よく分からないけどそう言うしかない。
『悪いけどよろしく。僕は昼から出かけちゃうから、受け取った物、机に置いといて』
「はい」
私の返事を聞き終えたかどうかのタイミングで電話は切れます。少しするとメールが来ました。住所と杉山建設の担当者、篠原って名前と携帯電話の番号でした。住所をナビに入れると結構遠い。桑名からずっと山の方に入ったところでした。コインパーキングを清算してからナビ通りに車を走らせました。
現場に着いたのはお昼前。熊田商店新築工事って看板に、杉山建設って会社名が書いてある。設計はIKO都市開発。ここで間違いないようです。現場はかなり広い敷地です。車を乗り入れるのに何の問題もありません。でも整地されているとはいえ、現場の土の地面。車は結構揺れます。かなり広い木造の平屋の建物を作っている現場でした。屋根はのっていますが、まだ外壁は貼っていません。かなり大きなガラスが入ると思われるサッシはもう付いています。車は三台停まっていました。職人さんたちがよく乗っている大きなワンボックスが二台と、ライトバンが一台。現場内には三、四人の人がいました。私は車を降りるとヘルメットをかぶって建物の方へ。作業ジャンパーを着た人がこちらを見ています。ヘルメットに杉山建設と書いてあるのが読めました。この人が篠原さんかな?
「青田設計の高橋と言います。篠原さんですか?」
私はある程度近付いたところでそう声を掛けました。
「ああ、清水さんの所の」
そう言って名刺入れを取り出す篠原さん。私も名刺入れを出して名刺交換。
「篠原です。よろしく」
そう言うと建物から出て傍のコンテナの事務所に向います。こういう現場事務所は多いようです。私はついて入りました。
「これ、こんなに置いてったんだよ」
そう言って篠原さんが長机に置かれたカタログ類の山を指します。十冊以上あります。私は一番上のカタログを手に取りました。店舗用の家具のカタログみたいです。付箋が何ページかについいているのでその一つのページを開きました。細い丸太を組み合わせたような見た目の、商品を置くための大きな陳列台の写真が黒のマジックで囲んであります。そして同じマジックで「5」と、数字が書いてあります。すると篠原さんが平面図を差し出しました。そこには色々と手書きで家具などの配置が書き加えられています。その中の二つに「5」と言う数字が書かれています。
「つまりその台を二台、こことここに置きたいってことなんだよね」
篠原さんが説明してくれます。私は平面図を見ます。一杯書き込んであり、目で追っかけると39まで数字がありました。つまり、39個の指定品があるってことか。図面上の壁際にひかれた線に目がいきます。そこを指で追っかけます。21と数字が振られている。
「それは実際はもう少し長い線になる」
篠原さんが私の指先を見て言います。
「これ何ですか?」
篠原さんはカタログの山を漁って一冊取り出します。某大手家電メーカーの名前が目につきました。そして付箋の付いたページが開かれます。150型のテレビでした。カタログ写真にはその前にいる人も写っていますが、人が小さい。ミニシアターのスクリーンの前にいるみたい。
「いくらするんですか?」
最初に思ったのはそれでした。
「いや、値段は知らないけど、大きさと重さがすごい。ざっと、3000(ミリ)の2000(ミリ)って大きさだし、150キロもある」
すごい、私の部屋には置けそうもない。
「それをこの壁の所に付けるんですね」
私がそう言うと、篠原さんは平面図を示して言います。
「よく見て、そこは壁じゃなくてガラスなんだよ。サッシはもう付いてるし、ガラスもそろそろ入れる予定」
「どうするんですか?」
篠原さんはすぐには答えず、カタログを積み直して私の方へ差し出します。
「それはそっちで考えて。他にももう取付用の下地取り付けが終わってる照明器具が変えられてたりとかあるんだわ。多分全部はこの要望に沿えないだろうから、それはおたくとIKOさんで相談して、お施主さんと調整してよ。こっちはしばらく止めて待ってるから」
「分かりました」
としか言えない。
「いろんなとこ、どこまで進んでるか分からんだろうから、電話くれたらいくらでも教えるから」
そう言ってくれる篠原さん。
「これ、持っていっちゃっていいんですか?」
私は差し出されたカタログ類を抱え上げながらそう聞きます。
「しっかりしたお施主さんだから、現場用と設計用でちゃんと2セット持って来た」
そう言って奥の机を示します。机の上には同じようなカタログの山がありました。
「分かりました。では頂いて帰りますね」
「清水さんによろしく」
員弁の現場からまっすぐ帰社しました。現場を出て走り出すともう12時半を過ぎていました。お昼を食べようかと思いましたが、知らないお店に一人で入ることには抵抗が。それにお昼時のお店の駐車場はどこも車が多い。そんなことも入らない理由にしているうちに、高速のインターまで来てしまいました。なので知ってるお店に行くことに。会社の下の喫茶店。私は荷物を抱えて事務所に入りました。田子さんが「お帰り」と言ってくれます。自分の机に荷物を置いてから時計を見ます。二時をとっくに過ぎていました。
「下でお昼食べてきます」
田子さんにそう言って事務所を出ました。喫茶店の店内はまばらにお客さんがいるだけ。青木さんがいつも座るカウンターの隅の席に座りました。
「いらっしゃい、アメリカン?」
キッチンから出て来た真紀ちゃんがそう言いながらおしぼりなどを持ってきます。
「ランチまだいいですか?」
「ランチはもうなくなっちゃった。お昼まだなの?」
「そうなんです」
私はメニューを手に取ります。そして前から気になっていたものを頼みます。
「揚げハンバーグの定食、いいですか?」
「はーい」
真紀ちゃんはそう言うとキッチンに入っていきます。店内に他の店員さんはいませんでした。キッチンの中には真紀ちゃんと、男性が一人だけ。後は誰がいるか分かりません。この男性はモーニングの時は見かけませんが、ランチタイムにはいつもいるようです。表に出てこないので顔をはっきり見たことはありません。でもママや青木さんと同じくらいの年齢に見えます。そう言えばママさんも姿がありません。
真紀ちゃんが洗ったコップの入ったカゴを持ってカウンターの中に現れます。そしてコップを布巾で拭いて所定の場所に置いて行きます。
「今日はママさんいないの?」
「なんかママに用事?」
真紀ちゃんは手を止めずにそう言います。
「ううん、姿が見えないと思って」
「お昼のピーク過ぎたから、さっき銀行行った。月末だからね、いろいろ」
「そうなんだ」
「多分そのまま買い物行っちゃうと思うから、当分帰って来ないよ」
そう言うと真紀ちゃんはさっとカウンターの反対側の端に移動します。そこにはレジがあり、席を立ったお客さん二人がお勘定の為に向かっていました。二人連れのお客さんが出て行くと、お盆を持って席を片付けに行きます。そしてまた戻って来ました。
「今は真紀ちゃんだけ?」
私はすることもないので、邪魔してるかもと思いながら話しかけてしまいます。
「ちゃんなの?」
そう言って少し笑ってから真紀ちゃんは言います。
「朝のバイトのおばさんは、二時で上がりだからもういないよ。もう一人のバイトの子は裏で休憩中、お昼食べてる」
「そうなんだ、真紀ちゃんも朝からいるよね、何時まで?」
私がそう言ってる時にキッチンから「いいよ」と声がありました。真紀ちゃんは待ってって感じで私に手を上げるとキッチンに入ります。
「はい、お待たせしました」
戻って来ると定食の載ったお盆を私の前に置きます。
「いただきます」
私が箸を付け始めると答えてくれます。
「私は朝六時から夕方四時まで。ま、実際は六時開店だから、五時半くらいには来てるけど」
「朝早いし長いね」
私は食事しながら言います。
「長いって言っても忙しい時間帯って決まってるから。ほら、今はこんなでしょ」
そう言って店内を見せるように手を振ります。確かに私のほかは一人のお客さんが二組だけでした。
「夜は七時までだから、夕食のお客さんがそんなに来るお店じゃないし、ピークは朝とお昼だけ」
「そっか」
「キッチンにいる旦那さんも、七時前に帰っちゃうこと結構あるみたいだよ」
「旦那さんって、ママの?」
「知らなかった?」
私は食事を進めます。暇になったのか、真紀ちゃんはカウンターで雑誌を見始めます。私の一つ横の席で。
「これって、ミンチカツだよね」
私はほとんど食べてしまった揚げハンバーグを見ながらそう言います。
「そう言うこと言わないの」
「えー、でもそうじゃん」
「ドリンクはランチ扱いで付けてあげようと思ったけど、なしだね」
「うそうそ、これは揚げハンバーグだね」
そう言って二人で笑いました。
事務所に戻るとまだ田子さんだけでした。私は何をすればいいかと思い尋ねます。
「誰か帰ってくるまで適当に時間潰してたら?」
そう言う田子さんの後ろに回ります。
「時間潰しですか……」
田子さんの目の前のモニターを見ると字が一杯のサイト画面でした。私が見ていることに気付くとこう言います。
「私、することない時はネットで小説読んでるの」
さらっとそんなこと言います。時々マグカップを握りしめてモニターを見ていますが、ひょとするとそういう時は……。
「そうだったんですか」
「仕事しなきゃいけない時はちゃんとやるんだからいいのよ」
「はあ」
「梨沙ちゃんはそのうち、夜も休みもなくなるんだから、今のうちにゆっくりしときなさい」
夜も休みもって、そんなことになったら辞めます。私は設計の部屋に戻りました。机の荷物を降ろします。その時トートバックの外側のポケットに、会社のスマホを入れっぱなしだったのに気付きました。取り出して見ると着信が。知らない番号。当たり前です。会社の人しか登録されていないこのスマホ、他の誰から掛かって来ても知らない番号です。一瞬迷ってから掛け直します。呼び出しが鳴ってしばらくで相手が出ます。
『はい菅野です』
菅野社長でした。
「青田設計の高橋です。すみません、お電話頂いてました」
何か図面に不備でも? 私に言われても分かんないよ。なんて思っているとこう言われます。
『おお、嬢ちゃんか、悪いな電話して、ちょっと今いいか?』
なんだか明るい調子です。
「はい」
『さっき、幸一と話したんか?』
なんか変、声が明るすぎ。
「ええ」
『やっぱりそうか、話したんか』
「何かありました?」
『いや、あんた来てる時にあいつに買い物行かしたやろ』
「はい」
『帰って来るの遅かったから何してたって聞いたら、あんたに話しかけられて捕まってたって言うから』
捕まってた? 確かに話しかけたのは私だけど、捕まってたって……。捕まえてたのかな。
「すみません引き止めちゃって」
取りあえず謝ります。声の感じからすると怒ってるわけではないようですが。
『いやいや、ええんや。で、何話した?』
「は?」
明るい調子でそんなことを聞いてきます。なんだかよくわからない。すると社長の声が続きます。
『あいつなんか暗なってなぁこの頃。学校辞めるって言い出してからは誰とも話さん。返事もろくにせん。さっきも散々問い詰めたら、やっとあんたと話してたって言うたんや』
そうだったんだ。コンビニでの幸一君の態度や言動を思い出します。
「そうだったんですね」
『で、何話した? なんか言うてたか?』
何って、大工やりたくない? いや、それ言っていいのかな。
「そんなに色々話したわけじゃないですけど、今の学校は辞めるけど、他の学校には行くみたいなことは言ってましたよ」
私がそう言うと、少し間が空きました。
『他の学校に行くってか』
菅野社長の声は一転して難しい感じに。
「何かあったんですか?」
また少し間があってから声が返って来ます。
『俺は詳しいこと知らんのや、あいつの親も俺には何も言わん』
あいつの親って、自分の息子じゃないの?
「そうですか」
なんだか深刻だったようです。
『いじめられてたんかなぁ』
菅野社長のそんな声が聞こえてきます。いじめ。そのセリフを聞いて私もなんだか暗い気持ちになります。でもなんか引っかかる。幸一君とのやり取りをもう一度思い出します。そして幸一君が手に持っていたスマホを思い出す。SNSのメッセージの羅列。届いたものばかりで、発信したものが表示されていなかったあの画面。はっきり見て、読んだわけではありません。でも、いじめてる相手からのメッセージには見えなかった。でもはっきり見たわけではないので迂闊なことは言わないことに。そんなことを考えていると菅野社長の声がまた聞こえてきました。
『嬢ちゃん、悪いけど明日また現場来てくれへんか? 一日おるから何時でもいいわ』
「はあ?」
『頼むわ』
「……分かりました」
ついそう言ってしまいました。
『良かった、ありがとな、明日待ってるわ』
そんな菅野社長の声で電話は終わりました。
電話を終えてから、私は健気にもやることを探します。自分で健気と思うのはどうかとも思うけど、ただ時間潰しと言うのはなんだか申し訳ない。心の中は曇天でした。明日現場に行かないといけないのか。しかも、本来の仕事ではないでしょう。あ、仕事じゃないとなると会社の車使えない? どうやって行こうかな。なんてことを考えながら、熊田商店の現場で預かったカタログ類をバックから取り出します。そしてなんとなく平面図に書かれた手書きの配置を見ていて思います。平面図の配置に書かれた数字がカタログのどれにあたるのか、探すだけでも一苦労。そこで、カタログ類に付いている付箋に、同じ数字を書いていこうと思いました。作業は簡単でした。だって付箋のついいているカタログページにも数字が書いてあるので、その数字を付箋に書いていくだけ。そんなに時間もかからずそれは終わります。でも根本的に、この大量のカタログをいちいちめくっていかなければいけないのが手間です。付箋のページをコピーしよう、そう思い付きました。そしてコピー開始。全部をカラーコピーし終えてから、数字順にコピーを重ねていきます。うん、これで見やすくなった。平面図もコピーして新しいセットを作りました。そしてまた、やることがなくなりました。
時計を見ると四時半。やることがないので、今自分が作ったものを手に取ります。カタログコピーの一番上の物。1番の数字が付いていたのはレジカウンターです。数字の13番まではすべて同じカタログの中の物です。分厚い店舗用家具のカタログ。平面図で1番の数字を探します。自動ドアの前、風除室から入ったところでした。そんな風にカタログの物と平面図の配置とを順番に見比べていきます。これはもう、単なる時間潰しだなぁ、と思い始めた頃、清水さんが帰って来ました。
「お帰りなさい」
私は声を掛けます。
「ただいま、ごめんね変なこと頼んで」
「いえ」
「で、どれ?」
私はミーティングテーブルにいたので、そこに清水さんが寄って来ます。私はミーティングテーブルの端に積んだ、カタログの山を指して言います。
「もらってきたのはそれです」
「おお、かなりあるね。それは?」
清水さんはカタログの山を見てから、私の手元のコピーの束を見てそう聞きます。
「カタログからいちいち探すのは面倒だと思って、カタログの付箋が付いたところだけカラーコピーしました」
それから私は平面図の配置と、そこに書かれた数字とカタログに書かれた数字の関係を説明しました。
「なるほど、この方が見やすいね」
清水さんも自分の椅子をミーティングテーブルまで引いてきてコピーをめくっていきます。
「え? この照明ってもう付いてるんじゃないか?」
シャンデリアのような物のカタログ写真を見ながら清水さんが声を出します。私はそれで篠原さんの言葉を思い出しました。
「現場でもう付けちゃってる物もあるので、電話くれたら詳しく教えますって、篠原さんが言ってました」
「そっか、そういう物、他にもありそうだな」
私は配置の21番を指さします。
「これ、大きなテレビなんですけど、ここのガラスもそろそろ入れるって言ってました」
清水さんはコピーの21番を探します。
「150型! うちに欲しい」
うちとは自宅なのかこの事務所なのか……。私とは反応が違う。
「え? 147キロ? で、ざっと3000(ミリ)の2000(ミリ)。どうやって置くの?」
「……」
私は反応出来ない。
「篠原さんはこれどうするか言ってた?」
清水さんが私を見て言います。
「いえ、IKOさんと相談して、お施主さんと調整して欲しいって言ってました」
「……現場はそう言うよなぁ。後ろに壁作って、窓は内側でふさいじゃうか」
清水さんがそんなことを呟いていると、後ろの扉が開いて田子さんが入って来ました。
「夢中になってたら五時過ぎてた」
そんな事を言います。夢中で小説読んでたんだ。時計を見ると五時二十分くらいでした。更衣室に入った田子さんに私は呼びかけます。
「田子さん、青木さん帰って来るって言ってました?」
「青木君は帰っちゃったから戻ってこないんじゃない?」
はあ、もっと早く聞くべきだった。更衣室から出て来た田子さんが私に言います。
「梨沙ちゃんは? まだ帰らない?」
「はい、ちょっとまだ」
「そ、じゃお先ね」
田子さんはさっさと帰っていきました。清水さんは順番にコピーを見ています。私は青木さんに電話しようか迷い中。
「青木さんに何か用事ある?」
清水さんがコピーをまとめながらそう聞いてくれます。私は菅野社長との話を簡単に説明しました。
「行くって言っちゃったんなら行くしかないんじゃない?」
清水さんのコメント。それはそうなんだけど、行ってどうしたらいいんだか。
「青木さんに電話しなよ。それか、隣なんでしょ? 相談に行けばいいじゃん」
清水さんはそう言いながら、カタログの山を自分の席の後ろのキャビネットに入れ、コピーを持って自分の席に着きます。電話することにしました。部屋に行くのはいくら何でもしたくない。青木さんはすぐに電話に出ました。私は清水さんに話したのよりは詳しく説明しました。
『行っといで』
簡単な答えでした。
「でも、行って何したらいいですか?」
『さあ、何って言われても』
「……」
『高橋さんが思った通りにしたらいいじゃない』
そう言うアドバイスって無責任だと思うんだけどなぁ。こんなこと青木さんだって誰だって、どうすればいいかなんてわかるわけない。そうは分かっています。だから、僕も一緒に行くよって言ってくれればいいんだけど。
「思った通りですか」
『うん、菅野さん達と話しなかったって子が高橋さんとは話したんでしょ?』
「それはそうですけど……」
そこで少し間が空きました。そしてそのあとの青木さんの言葉。
『高橋さんって雰囲気がいいんだよね』
「はい?」
何を言われているのか不明です。
『どう言ったらいいのか分からないんだけど、何と言うか、近づきやすいって感じかなぁ。話しかけやすいと言うか』
「……」
『だからお姉さんみたいに思われたんじゃないの?』
確かにお姉さんとは呼ばれたけど、それは他に呼び方が思いつかなかっただけでしょう。
「はあ」
『まあ、明日その本人に会えるかどうかわからないけど、会えたら話聞いてあげたら?』
「私がそんなことしていいんでしょうか?」
『いいんじゃない?』
「でも、何言えばいいんですか?」
『だから思った通り話して、聞いてあげればいいよ』
「そんな」
『今日だって何も考えずに話したんでしょ?』
何も考えずにって、そうだけど。
「わかりました」
結局私はいつもこのセリフを言ってしまう。わかりました。何もわかってないのに。
『うん、頑張って、遠藤さんには僕から簡単に話しとくよ』
なんで遠藤さん? そのまま聞いてしまいます。
「なんで遠藤さんに話すんですか?」
『彼女も気にしてたから、菅野さんの息子の事』
え? すでにそんな話があったんだ。て言うか、息子じゃなくて孫でしょ。
『あ、一応仕事の格好して行ってね。その方がいいと思うから』
「はあ」
『じゃ、着信入ったから切るね』
言葉が終わると同時に切れました。なんだか疲れが急に出てきました。振り返ると清水さんがこちらを見ています。
「何かあります?」
私はそう聞きました。
「いや、高校生の悩み相談、どうなるかなって」
野次馬か。
「とりあえず明日行ってきます」
「うん、どうなったかまた教えてね」
本当に野次馬だ。私もそっち側なら興味あるかも。気が重くなるのに比例して、疲れも増してきたように感じる。
「もう帰っていいですか?」
「うん、明日頑張ってね」
明日は仕事じゃないって言うの。そんな清水さんの明るい声を聞きながら事務所を出ました。
事務所を出てからスーパーに寄りました。食材の補給。このスーパーの駅側の入り口は、入ってすぐに野菜、果物売り場です。でも事務所からだと反対側になるので、入ってすぐにお惣菜、お弁当売り場があります。この入り口は、疲れているときに入ってはいけません。家に帰って食事を作ろうという意欲を全て消されてしまう。と言うわけで、お弁当を物色。春っぽいちらし寿司に目がいってしまい、それに決定。でもなんだかお肉っ気も食べたい。唐揚げは定番だよなぁと思っていたら、一口大の大きさのローストチキンがありました。おいしそう。でも、一人で食べるには量が多いい大きなパックしかありません。横のスペースが空なので、小口パックは売り切れたのでしょう。唐揚げと迷いながらも大きいパックに決定。唐揚げなら迷っても買わない。なぜなら冷凍庫に入っているから。そしてレジに行くまでに通り過ぎるおにぎりコーナーにおはぎを発見。お彼岸過ぎてるのにまだあるんだと思いながら、手に取ってしまいます。しかも二つ入りを。だって好きなんだもん。そして家に帰りました。
マンションの駐車場に車を入れるとき、駐車場の隅の駐車スペースでないところに、赤いコンパクトカーを発見。なんだかすでに予感がしました。昨日朱美が、私が車を停めてると車で来れないのでここは不便だと言いました。不便なら来るなと言いたいですが、来ないとなると寂しいので言いません。なので教えました。このマンションに住んでる人の所に来たお客さんは、駐車場の隅っこに停めてるよって。しょっちゅうだと何か言われるかも知れないけど、たまにならいいんじゃない?と。無駄にスペースのある変な駐車場です。一台や二台隅っこに停まっていても、誰も邪魔だとは思わないはず。部屋に帰ると予感は当たっていました。連日の朱美登場です。
「また来たんだ」
すっかり部屋着でくつろいでいる朱美。私はリビングに入るなりそう言いました。
「だって行くとこないんだもん。うん? ガーリックのいい匂い」
凄い、一瞬で嗅ぎつけた。そんなに匂いしてたっけ? 私はスーパーの袋を朱美に渡します。
「これ買って来たから」
朱美は座卓に袋を置いて覗きます。
「なんでちらし寿司一つなの? 私の分は?」
「来てるなんて知らないじゃん」
「おはぎとチキンは二人分あるのに」
説明するのが面倒。
「とりあえずシャワー浴びさせて」
なんだか昨日もこんなセリフ言った気がする。
シャワーから出てキッチンに向かうと、朱美が声を掛けてきます。
「何か作る気?」
「だってそれじゃ足らんでしょ」
「大丈夫だよ」
「……?」
「さっきピザ頼んだから」
「はあ?」
「初めてスマホで注文した」
私は大きめのお皿を持ってリビングへ。それを眺めながら朱美は続けます。
「でもスマホだと、トッピングとか選びにくい」
私はローストチキンをお皿に盛ります。電子レンジで温めるために。
「で、どうしたの?」
「選ぶの面倒だったから、最初に出て来たセットにした」
「ふ~ん、どのくらいで届くの?」
「え~と、七時半だって」
スマホを操作してそう言う朱美。メールか何かで知らせて来るのかな? でもまだ三十分ほどある。ピザの配達って三十分以内とかってルールあったんじゃなかったかな? 私はキッチンに行って小皿を二枚取って来ます。
「朱美もお寿司食べるでしょ?」
「うん、食べたい」
そう言うと思って取って来た小皿。ちらし寿司を二つに分けました。分けていてちょっと感動。スーパーのちらし寿司なんて、具が上にのってるだけで中は酢飯だと思っていました。でも酢飯の中にも椎茸やレンコンと思われる具が入っていました。そんな私を見ていた朱美が言います。
「梨沙って毎食自炊だと思ってたけど、結構中食だね」
セリフの意味が分かんない。なかしょく? 聞いたことある気もするけど何だっけ?
「なかしょく?」
「言わない? 中食。こういうの買って来て家で食べること」
テーブルの上を指してそう言う朱美。
「ああ、なんか聞いたことある。そっか、中食って言うんだ」
私はチキンを載せたお皿をキッチンに持っていきました。まだ温めないけど。座卓に戻ると朱美がまた話し始めます。
「先に報告しとく」
「なに?」
改まった感じに少し驚き。
「昨日話してたグアムの件」
「うん」
「亜紀と奈津美が行くって言うから晴美入れて四人で行ってくる」
「うん」
「真由は仕事。慶子は彼氏とどっか行くって」
「うらやまし。でも良かった、せっかくお得に行けるのに、私のせいでなしになったら悪いなって思ってたから」
「ううん、ごめんね。次は一緒に行こうね」
「わかった」
「じゃ、暇なときにパスポート取っときなよ」
「……そだね」
パスポートか、なんだか気が引ける。卒業旅行の時、お金がなくて断念したけど、いい機会なのでパスポートを取ろうと思いました。でも戸籍が必要だとわかってやめました。その時は父親のことを知りたくなかったから。そして母親が私から離れて実家に帰ってしまった時、あることを知って今度は父親のことを知りたくなりました。でも、いざ知りたいとなると、知ってしまう勇気がありませんでした。そしてその勇気は今もありません。戸籍で分かるのは名前だけのはず。それだけでは知ったことになんてならないとは思います。でも踏み出せません。
そうこうしているうちにインターホンが鳴りました。ピザが届いたのでしょう。朱美が取りに出ました。私はチキンのお皿を電子レンジへ。戻ってきた朱美を見て呆れます。
「あんたどんだけ食べる気?」
大きな箱が二枚重なっています。でもそれどころではなかった様子。
「熱い熱い」
と言って朱美は、床に箱を落とすように置きます。両手で端っこ持てばいいのにと思ったら、片手には膨らんだビニール袋。
「そっちは何?」
「え? ああ、唐揚げとポテトとサラダ」
「そんなのも頼んだんだ」
「だからセットだって、唐揚げ付きのセットと、ポテト付きのセット」
「どうやって食べる気? こんなに」
「いいじゃん、明日の朝も食べれば」
結局唐揚げも加わってしまった。うちの小さな座卓では全部のらないので、ピザは床の上で開けることに。温めたチキンを持って来て、缶ビールを開けたら、またまた二人での宴会の始まり。
「昨日は中途半端だったから、今日はとことん飲むよ」
朱美のその意気込みには私が水を差しました。
「明日も仕事だから、今日も十一時で終了ね」
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