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第六章 「 母 」 -回想- 平成二十七年
就職して最初のゴールデンウィークの初日、四月二十九日。待ってましたって感じです。まだ一か月も働いていない。いえ、実際はまだまだ働いているとは言えない。だってまだ新入社員研修中だもん。それでも連休っていうのは嬉しい。残念なのは一番の友達がいないこと。親友と言ってもいい須藤朱美は、誰でも名前を知っているほどの大企業に就職しました。でも地方採用なので、地元の名古屋勤務だと言っていました。なのに東京に行っている。新人研修は東京で行われるらしい。しかも二か月間も。そして、お金がもったいないからGWは帰って来ないと言って来た。東京で遊ぶ気なんだ。
連休初日、予定がないので思いっきり朝寝坊。起きたのはお昼過ぎ。自分の部屋を出てリビングへ。リビングに母の姿はありません。すぐ近くのスーパーに勤める母ですが、今日は休みだと言っていたはず。リビングとふすまを隔てただけの母の部屋を覗くとそこにいました。
「おはよう」
私は声を掛けました。母は押し入れから色々なものを引っ張り出して何かしています。私の方を見て小さくため息。
「鏡見てきなさい」
怒られたような感じです。二日前の月曜辺りから、なんとなく様子の違う母。私は洗面所へ向かいます。鏡の中の私はすんごい髪型。ま、なんとなく分かってはいたけど。顔を洗って髪も何とか整えます。洗面所を出ると母はキッチンでした。
「何か食べるでしょ?」
怒らせたと思っていた母が、何か作ってくれるようです。
「うん」
そう言ってテーブルに着こうとするとこう言われます。
「先に着替えなさい」
やっぱり怒ってるかも。なんでだろ? 私が休みの日に昼まで寝ているのはいつもの事なのに。とりあえずは部屋に戻って着替え。キッチンのテーブルに戻ると、朝ご飯じゃなくて、お昼御飯が用意されています。ほとんど昨夜の残りだけど。
「いただきます」
母と私の二人暮らしの我が家のテーブルは小さなもの。その小さなテーブルの向かいに母も座りました。私が食べるのを見ています。私は機嫌の悪そうな母に話し掛けません。何かやったっけ? などと食べながら考えます。
ほとんど食べ終えるころになって母が口を開きました。
「あんた、一人暮らし出来る?」
「え?」
放っておくと昼まで寝てるような私。一人暮らしだったらやっていけるの? みたいなことを言われてるのかな。そんなことを思っていたら、母がこんなことを言い出しました。
「私、実家帰るから、あんたすぐに部屋探しなさい」
唐突な話に頭が付いて行かない。
「……?」
私は母の顔を見るだけ。でも表情がない。
「ここにこのまま住むならそれでもいいけど、ここは家賃高いからあんたの収入じゃ無理でしょ?」
母はそう続けます。
「え? 引っ越すってこと?」
やっと言葉が出ました
「今月は家賃払ったから、来月いっぱいはここにいれる。でもそのあとは無理」
まだ頭は追いつかない。
「無理?」
「そう、来月は家賃払えない」
「え、なんで?」
私は母が失業したと直感しました。それでこの先お金がないんだと。様子が変だったのも頷ける。母は答えません。
「私、卒業旅行行かなかったから、ちょっとは貯金あるよ」
私がそう言うと母はまた口を開きます。
「そう、ならそれを敷金礼金にして、お給料で借りられる部屋をすぐに探しなさい」
わけが分からない、なんで急にこんなことを言い出すのか。
「お母さんはどうするの?」
「さっき言ったでしょ」
さっき? 何だったっけ? そうだ、実家帰るって言ってた。母の実家は浜松です。祖父母も健在です。そこに帰るって……。
「おじいちゃんかおばあちゃんか、病気になったの?」
「知らない。元気だと思うよ」
「ならなんで実家帰るの?」
「いいから、言った通り住むとこをすぐに探しなさい。来月中に引っ越しちゃわないといけないんだから」
ほんとにわけが分からない。なんか腹が立ってきました。
「いや」
「……」
母は無言。そして私を睨んでいる。
「ちゃんと説明してくれなきゃ何もしない」
母は目をそらしましたが何も言いません。私は一生懸命考えます。母がなぜこんなことを言うのか。
私たち親子はべったり一緒にいるって言うような、仲のいい親子ではありませんでした。どちらかと言うと、お互いに好きなことをしてる感じ。すれ違いが多い。私が中学から高校に入るころからはそんな感じ。相互不干渉親子でした。でも仲が悪かったわけではありません。少なくとも私はそう思っている。
「ねえ、お母さん、なんで?」
「……」
「スーパー辞めたの? それで家賃払えないの?」
やっと母が答えます、呆れた顔で。
「スーパーのパートで、ここの家賃払えると思ってるの?」
「……」
意外な母の言葉に反応できませんでした。でも今まで払ってたじゃん。住んでたじゃん。
「あんた、あんたの大学の学費、ほんとに私のパートだけで払ってたと思うの?」
「……」
「進学の時、国公立にしなさいって言ったの覚えてる?」
「うん」
「でもあんたは椙城に行きたいって言った。その時私がなんて言ったか覚えてる?」
「そんなお金ないって」
「……」
今の母は、何を考えてるのか分からない表情です。
「でも、行かせてくれたじゃん」
ひょっとして、スーパー以外の仕事もしてたの? 夜の仕事とか。それが嫌になったの? 一瞬そう思いましたがそれはないとも思いました。夜に時々出かけてることはありました。でも働いてるなんて頻度じゃない。せいぜい月に1回くらい。そんなので稼げるわけない。ならどうやってと思ってしまう。母の言う事は理解できる。今まで気付きもせず、考えもしなかった自分が馬鹿でした。ただ、さっき母がパートと言うまで、私は正社員だと思ってました。それでもちょっと考えて、そんなにお給料がもらえるわけないと気付くべきでした。本当にどうなってるのか分かりません。
私がうだうだ考えていると、母は自分の部屋に行ってしまいます。私は動けません。頭の中がぐちゃぐちゃすぎて、立ち上がることも出来ません。でも母はすぐに戻って来ました。
「何で行かせてあげたか教えてあげる」
口調はそれほどでもありませんが、冷たい表情です。そして、預金通帳を数冊、テーブルに置きました。それは私の知っている、母が使っている銀行の物ではありませんでした。私は目の前の食器を脇によけて、一番上の通帳を手に取ります。半分くらいまで記帳されていました。最後の記述は先月の二十五日。二十五万円振り込まれていて、同じ日に二十五万円引き出されている。残高は四百円ほど。日付を遡ると、毎月二十五日頃に二十五万円振り込まれて、ほとんどその日に引き出されています。
私が一冊手に取って見ているうちに、母は別の通帳をめくっていました。そしてページを開いて私の前に出します。
「これ見て」
母が指さしたところには入金額九十万円と記載されています。その前後の月は二十五万円。私がその数字に驚いていると、
「あんたが持ってる通帳の、前のページ見てみなさい」
と、母が言います。私は言われた通りページを戻して数字を目で追います。すると、百四十万円も振り込まれている月がありました。私がそれに気付いたタイミングで母が口を開きます。
「それが椙城に行かせてあげた理由」
そう言われても分からない。私は改めてよく見ます。百四十万円振り込まれているのは去年の三月二十五日。九十万円振り込まれているのは五年前の三月。でもよく分からない。なのでこんな言葉が口から出てしまいました。
「何なの? このお金」
「……」
母は答えず目も合わせません。
「教えて」
静かにそう聞きました。するとしばらくしてから母が私を見て、
「あんたの学費よ」
と、言いました。私はそんな気がして来ていたので、やっぱりかと思った程度。でも、何も言葉が出てきませんでした。すると母は私を見たまま続けます。
「最初から順番に話すね。離婚する時に、ここにこのまま住みたいなら家賃は出すって言ってくれたから、家賃込みの養育費として毎月二十万円もらうことになった。でも、あんたが中学に入ったころから、部活やなんやかやでお金が掛かるようになったから再交渉したの。そして月々二万円増やしてもらった」
「……」
初めて聞く話。私は聞いているだけ。でも、ここで父とも暮らしていたんだと知り、なんだかそのことに気がいってました。
「その時にね、高校に入ってからの学費も払うって言ってくれた。で、高校受験の頃、あんたが星ヶ丘女学園(私学)を受けた頃だったかな? 電話が掛かってきたの。だから星ヶ丘女学園の学費の話をした。そしたらその金額払うって言ったの。だからあんたが高校行ってる間は毎年三月に学費込みで九十万円振り込んでくれた」
「えっ!」
私は母の最後の言葉に反応して口を開きかけました。でもそれを遮って母が続けます。
「分かってる、行ったのは一社高校(公立)だって言いたいんでしょ。ちゃんとそう伝えたわよ。でも金額はそのままでいいって言われたの。その代わり、あんたが不自由しないように好きにさせてくれって。そして生活費も三万円追加してくれた」
「……」
私は何も言えませんでした。母は続けます。
「でもね、こうも言われた。あんたが大学に進むなら大学の学費も出すけど、これが限界だからって」
「……」
「でも、あんた椙城の推薦受けて、椙城に行く気満々だったでしょ。正直どうしようか私も迷ったよ。これ以上は無理言えないとは思ってたから、足らない分は私が出そうかってね。でも生活はかなりきつくなる。ううん、ぎりぎりになる。生活費目的であんたにバイトさせなきゃいけなくなるかもってくらい。でもそれはさせたくなかった。だから少しでも上乗せしてもらえないかと思って、ダメもとで電話したの」
母がそこで言葉を止めたので聞いてしまいました。
「それで百四十万円になったの?」
「結論はね。さすがに即答はしなかった。その時は考えさせてくれって言われて終わった。でね、一週間くらい経ってから電話が掛かってきたの、全額払うって」
なんだか複雑です。色んな事が飲み込めない。でも一つだけはっきりしてる。このお金は私の父が振り込んだもの。私が三歳の時に母は離婚したと聞いています。なので私は父の顔も覚えていない。どんな人だったのか、雰囲気すら覚えがない。
「そしてその時に、最後の約束をしたの」
母がまた話を続けました。
「養育費を振り込むのはあんたが大学を卒業するまでって。だからもう入ってないでしょ」
そう言って最初に見た通帳のページを、また私に見せます。確かに先月までは学生だった。でも今月はもう社会人。確かに四月の入金はありません。払う約束が無くなったのであれば、こんな大金払うわけがないと思います。そう思うと本当に大金だと思います。毎月これだけのお金を払えるなんて、父はどんな仕事してるんだろう。そんなことを考えてしまいます。それ以上に父の気持も考えてしまう。私に記憶がないと言うことは、母達が離婚してから父には会っていないと言う事。当然父も私に会っていないはず。そんな娘にこんな大金を払うなんて、こんなにも長い年月払い続けるなんて、私はどう解釈したらいいのか分かりません。
「振込止める前に連絡くらいあると思ったけど、あんたが留年でもしてたらどうするのよねぇ」
そう言いながら母は、通帳を全て回収して手元に重ねて置きます。
「こんな大金払えるなんて、お父さんは何してる人?」
私はそんな疑問を口から出していました。
「別れた時はサラリーマンだった。でも十年くらい前に独立して、今は会社やってる。何やってる会社かまでは知らないけど」
「……」
「それにね、大金って言うけど最初の二十万円の頃は、家賃払ったらいくらも残らなかったんだから」
「……」
やっぱり聞いているのが精一杯。すんなり理解も納得もできない。できるわけない。でも母は最初の話に戻ります。
「すぐに部屋、探しなさいよ。一か月しかないんだから」
「そんな、決定なの?」
「そうよ。来月は家賃払うなんて無理だから、大家さんには出て行くって言ってある」
母のそのセリフ、なんだか頭に来ました。
「私に相談しないで決めたの?」
少し声の大きくなった私。でも母は気にすることなく返してきます。
「相談したら、あんた家賃払えるの?」
いや、そうじゃないでしょ。それは重要なことかも知れない。でも違うことがあるでしょ。親子なんだから、家族なんだから。
「家賃払えなくなりそうだけど、どうしようとかって、もっと早く言うべきじゃないの?」
私は落ち着いてそう言いました。母は少し難しい顔をします。
「その相談しようとしたら、このことも話さないといけないでしょ」
そう言って手元の通帳を示します。
「こんな話、最後の最後までしたくなかったのよ」
その気持ちは分からなくもない。でも受け入れられないよ。
「私、ここ出て行きたくない」
「そ、大家さんには昨日電話したとこだからまだ取り消せると思う。自分で家賃払えるなら好きにしなさい」
思いやりのない口調で、思いやりのないことを言う母。私は頭の中で計算します。来月までは試用期間的な給料なので少し少ないけど、そのあとは入社時に聞いた通りもらえるはず。ここの家賃は知っているからそれを引くとほとんど残らない。でも足らないわけじゃない。贅沢は一切出来ないけど、何とかなるかも。頭の中でそんな結論が出たタイミングを見計らったように母が口を開きます。
「何とかなると思ってる?」
私は返事しません。
「家賃以外に、電気、ガス、水道もあるのよ。電話代もインターネットの会社に払ってるお金も」
母はそう続けます。私は家賃しか考えてなかった。そっか、まだそんなにいるんだ。とても足らない。足りても生活費がない。
「お母さんがパート代から少しでも出してくれたら」
私がそう言うと、母はすぐにこう言います。
「いやよ、私はもうあんたから離れるって決めたの。これからは私の人生をやり直すの」
なにそれ、私ってなんなの? とてつもなくショックな言葉でした。母の人生を私が邪魔してたの? 私って嫌われてたんだ、邪魔だったんだ。私は母の顔を呆然と見つめていました。やがて母は電話機の置いてある所へ行きます。そして自分のスマホを見ながら、電話機横のメモに何か書いています。私はその姿を目で追ってるだけでなにも出来ず、何も言えません。やがて母がメモを持って私の横に来ます。私の前にメモを裏向きに伏せて置いてから言いました。
「私は荷物の整理してるから、あんたは好きにしなさい。でも繰り返しになるけど、あと一か月だから、悩んでる暇ないよ」
そう言って私の横から離れます。離れていく母に私は聞きました。
「これ何?」
私の前に置かれたメモ。なんだか触れるのも嫌で見ているだけ。
「あんたの父親の、名前と携帯電話の番号書いといた。念のために会社名とそこの電話番号も。今まで教えなかったけどもういいから」
今更? 過去に何度も聞いたことがあるのに名前すら教えてくれなかった。それをほんとに今更教えるの? 何も言わない私に母が続けて言います。
「あんたのことは大事みたいだから、泣きついたら援助してくれるんじゃない?」
母は自分の部屋に行ってしまいました。そしていつもは寝る時くらいしか閉めないふすまを閉めてしまいます。父はずっと会ってもいない私に援助してくれる? 大事みたい? 母は私の事、大事じゃないんだ。就職して手が離れたら、もう一緒にいたくないんだ。就職して、養育費が入らなくなったらいらない子なんだ。泣きそう。私は食事の後を片付けました。ここでは泣きたくなかった。そしてテーブルに残ったメモを手に取って、自分の部屋に行きました。
部屋に入って立ちすくんでしまいます。頭の中がくちゃくちゃ。でも今は、手に持ったものが一番気になっている。初めて知ることになる父の名前。見たいけど見れない。今更見て、知って、どうなるって思ってしまう。娘に存在を知られずに隠され続けていた父。なのに今まで私たちの生活を支えてくれていた父。今更さらに助けてもらうなんて出来ない。なので何もかも今更。私はメモを見ずに、ビリっと破ってゴミ箱に投げ入れました。
私は自分の部屋で何もせず、ただボーっとしていました。いっぱい考えないといけないことがあるのに、それも出来ないでいました。
「梨沙、ご飯よ」
部屋の外から母の声。いつもと同じ調子。私は部屋を出てキッチンへ。テーブルにはポテトとハンバーグの上にチーズをのせて、グラタンのように焼いた私の好きな料理。なんで今日これなの? と思ってしまう。
「さ、冷めないうちに食べよ」
いつものようにそう言う母。私は席に着きます。
「いただきます」
そう言って食べ始める。いつものように。そう、いつもと変わらない夕食。昼間の話はどこかに行ったように感じてしまう。でも母が口を開くと、どこにも行ってなかったと思い知らされる。
「さっき調べたら、引っ越しの時に出るいらないものを処分してくれる業者があったの」
「……」
私は母の方を見るけど何も言わない。
「私は家具とか全部処分するつもりだからそういう業者に頼もうと思う。だからあんたも引っ越し先に持って行かないものは早く決めちゃって。一緒に処分しちゃうから」
私は実感する。怖いほど実感してしまう。母はもう本気でここを出ると決めている。私と離れて暮らすと決めている。私はいらないと決めている。私の手は止まってしまう。頭の中も止まっている。「聞いてる?」とか、「食べないの?」とか、母の声が聞こえる。でも、聞こえただけ。気付くと食事を終えた母が、自分の食器を下げている。そして自分の部屋に行ってしまう。私はまだしばらく動けませんでした。半分も手を付けていない食事はすっかり冷めています。食べる気はしない。のそのそと立ち上がり、流しの方へ。蓋つきのゴミ箱を開けて、食器ごと食べ残しをその中へ落とす。全部処分だ。
次の日は同期の女の子二人と、ランチを兼ねた買い物の約束がありました。起きた時に母はいません、仕事に行ったのでしょう。何か適当に食べようと思ってキッチンへ行きました。昨夜はほとんど食べなかったのでお腹が減っている。でも、食べる気がなくなりました。流し横の洗った食器を立てておくカゴに、昨夜私がゴミ箱に入れた食器が並んでいる。母が拾って洗ったのでしょう。食べ残しと一緒に捨ててあったのを見て、母がどう思ったか考えてしまう。すごく悪いことをしたと思ってしまいました。でも、母は何とも思っていないかも。ただもったいないと思っただけかも。いずれ処分するとしてもまだ使うかもと。もう、母が何を考えている人なのか分らない。
待ち合わせの栄地下街へ、私は空腹のまま出掛けました。三人そろったところでカフェへ。カフェのおしゃれなランチ。美味しかったのですが、空腹の私には全然足らない。ノリの悪い私を二人が気にしている。機嫌が悪いと思ったようなので、簡単に悩みを打ち明ける。簡単に嘘をつく。母が急に実家に帰ることになったので、一人暮らししなければならない。すぐに部屋を探さないといけない。そんな風に。
結局買い物の途中で私は帰って来てしまいました。本郷の駅まで帰って来ても家には足が向かない。住んでいるマンションは駅の北側のロータリーのすぐ北側。目の前に見えている。私はロータリーではなく南側に出ました。南側はすぐに小さな川があり、特に何もないところ。川に沿ってバス道の方に歩きます。バス道に出たところに不動産屋さんがありました。そこを目指したわけではありませんが、ショーウィンドウに沢山貼られた物件のビラに目がいきます。さすがに本郷駅周辺の物件が多い。家賃を見て驚きます。ワンルームでも七万、八万している。今のマンションの家賃を思えばはるかに安いです。でもワンルームの間取りを見て、この部屋に七万も出すのかと思ってしまう。見ていくと一つの物件に目がいきます。1LDKで五万五千円。しかも、「キッチン、浴室を含めて四年前に改装済みなのできれいです」のコメント付き。最寄りの交通機関は本郷駅ではなくバス停の名前。生まれてからずっとこの駅前で暮らしている私。ここから離れたくないと思いながらも、間取りと家賃が結構魅力的。一応住所をスマホで検索。駅から南東方向へ行ったところでした。徒歩ルートで現在地から約3キロ。でも微妙なところです。私の知っている限り、何もないようなところ。それこそ、ここって山の中じゃないの? って認識の場所。とりあえず却下。他に目ぼしい物件は見当たらない。家に帰ってパソコンで探そうと思いました。
パソコンで物件探しを続けること約二時間。不動産屋さんのウィンドウで見て気に入った1LDK程度の間取りも、ワンルームもあまり家賃が変わらない気がしてくる。築年数と立地、マンションのグレードに左右されるみたい。この一、二年の物でグレードの高いマンションだと、ワンルームでも十万以上のもある。そういう部屋はワンルームでも広いし、部屋の写真を見ても、良さそうな設備が付いている。いわゆる高級感があるって感じ。でもワンルームだ。1LDKでそのクラスになると、家賃で見る気にならない。代わりに安いと思ったら築五十年近かったり、駅前と呼べるエリアからは遠ざかる。さっきショーウィンドウで見たところは確か築三十五年でした。ふいに机の上のスマホが鳴りました。画面を見ると、同期入社の男の子からのメッセージ。同期入社は男女四人ずつの八人。この八人はすぐにみんな仲良くなりました。その中でもこの男の子は、特に仲良くなった一人でした。
『部屋探してるって聞いた』
そう言って来てる。昼間に会った二人のどちらかから聞いたのでしょう。
『今探し中』
『手伝おうか?』
『部屋探しを?』
『俺最近やったとこ』
『なる、なんか極意ある?』
『見なきゃ分からない』
『だよね』
『一緒に見てまわろうか?』
『別にいいよ』
『不動産屋と一緒に行くの結構気を遣うよ』
『不動産屋さんとか』
『普通はそう』
『いいの?』
『もちろん、明日?』
『分かった、お願い』
こんな感じで明日部屋探しをすることに決定。ここから引っ越ししたくない気持ちは今も強い。昨日の今日で割り切れるわけない。でも、もう母に何を言っても無駄だとわかってしまう。今までの母との付き合いでそれは分かってしまう。母が何を考えているのかは分からないけど、それは分かってしまう。母が帰って来た音が玄関から聞こえてきました。
翌日、五月一日。昨日メッセージをくれた同期の男の子、中野栄一君が本郷駅まで来てくれると言うので、改札の外で待っていました。待ち合わせの十時の十分前です。昨夜も母はそれまでと変わらない様子でした。夕食を一緒に食べながら、部屋探しを始めたことを告げました。少し驚いたような顔をしたあとこう言いました。
「契約の時に多分保証人が要るから、それは私がサインしてあげる」
私は分かったとだけ返事しました。淡々としたものでした。
改札の向こうの階段を下りて来る中野君を見つけました。顔の高さで手を振ると気付きました。改札を出て傍に来ます。
「東山線って、途中から地上に出るんだね、知らなかった。地下鉄じゃないじゃん」
挨拶もなく、そう明るく言います。
「ごめんね、来てもらって」
「いいよ、どうせ今日は暇だし」
改札前からロータリーの方に出ながら話します。
「連休、実家帰らないの?」
たしか彼の実家は恵那だと言っていたはず。
「帰るって言うほど遠くじゃないし」
「そっか」
恵那がどのくらい遠いところなのか、私は分からない。でも、就職を機に一人暮らしを始めたと言うのだから、それなりに遠いところだとは思ってしまう。
「どうする? お茶でもする?」
「ううん、先に部屋探ししちゃいたい」
私がそう言うと、辺りを見回す中野君。
「じゃあ、あそこから行ってみようか」
中野君はロータリーの西側に建つビルの一階にある不動産屋さんを見ていました。そこはテレビでもよく宣伝を見る、大手の不動産屋さんです。二人でそちらに歩きます。店の前まで来て、私はガラスに並べて貼られた物件のビラを見ました。
「中で聞いた方が早いよ」
中野君がそう言います。いきなり入るのに躊躇う私。
「こんな部屋がいいって、条件言えば探してくれるから」
そう言われて入ることに。中に入るとすぐにカウンターの席を勧められます。三十歳くらいの背の高い男性でした。
「この辺りでお部屋をお探しですか?」
そう聞いてきます。
「はい」
「お住みになるのはお一人ですか? それともお二人で?」
私たちを交互に見てそう言う男性。私は咄嗟に返事します。
「私が一人で住みます」
カップルだと思われたようでなんだか恥ずかしい。
「では、ワンルームくらいで、お家賃のご希望はおいくらくらいですか?」
目の前のパソコンを操作しながら続けて聞いてきます。
「ワンルームか、1LDKくらいがいいです。家賃は……、5~6万くらいで」
「分かりました。少しお待ちくださいね」
そう言ってパソコンを操作している男性。
「もう少し出さないといい部屋ないよ」
中野君が小声で耳打ちしてきます。私は頷くだけ。昨日ネットで見てそんなことは分かってるけど、出来ればそのくらいで抑えたい。パソコンを見ていた男性が話し始めると、カウンターの上のモニターの画面が変わりました。
「ご希望のお家賃では駅のすぐ近くはちょっと見つからないですね。少し離れれば、この七件ほどがご紹介できます」
私はモニターを見ました。建物名、間取りなどが七物件分並んでいます。昨日ネットで見たものもありました。男性はワイヤレスのマウスをカウンターに置きます。
「ご覧になりたい物件をクリックしてもらったら、詳しい物件内容や写真がご覧になれますよ」
私は一番上から見ることにします。内容よりも写真を。最初の部屋はワンルームでした。パッとしない。ベッド置いたらそれまでってくらい狭いし、浴室内にトイレがある。即却下、次の物件。そんな感じで見ていきます。私の様子を見て、男性が席を立って裏に行ってしまいました。
「こんなんで見るより、実際に見せてもらった方が早いって」
中野君がそう言います。
「うん、でもどの部屋見せてもらうか決めなきゃ」
私はクリック作業を続けながら答えます。
「全部見せてもらえばいいじゃん。七件しかないんだから」
「え~、そんな、悪いよ」
「俺、今の部屋探した時、三日で四十件以上見せてもらったよ」
「そんなに?」
「そのくらいしなきゃいいとこ見つからないよ」
まだクリックして写真を追っかけている私。
「写真ってきれいに見えるように撮ってるから、実際見るとがっかりっての多かったよ」
「そうなの?」
「うん、広そうに見えたのに、行ってみたらむっちゃ狭いみたいなのも結構あった」
男性が戻って来ました。手にファイルを持っています。
「お時間あります? すぐに現地をご案内できるのが五件ありますけど、見られますか?」
「どこが見れますか?」
私がそう聞くと、ファイルをカウンターに置いてくれます。五冊ありました。一冊を開くと、モニターで見た一件の内容がプリントアウトされたものでした。ページをめくっていくと、本郷駅までの道順とバスの経路が書き込まれた、地図のコピーがありました。これは分かりやすいです。モニターで出て来た地図は、建物の周辺だけだったのでいまいち場所がつかめませんでした。私は五冊のファイルに目を通して、私の基準で三件を選びました。
「この三件、見せて頂いてもいいですか?」
「分かりました。では準備しますので、もう少しお待ちください」
男性はまた奥に行ってしまいます。
「五件くらいすぐだから、全部行けばいいのに」
中野君がそう言います。
「いいよ、三件見れれば」
「高橋って、一人暮らししたことないの?」
そんなことを聞いてきます。
「ないよ」
「そうなんだ」
「なんで?」
「いや、椙城女学園だったよね」
「うん」
「ここからだと通うの不便じゃない?」
確かに不便と言えば不便だけど、乗り換えは一回だけだし、時間がかかるって程度。私は少し考えてからこう言ってやります。
「恵那から名古屋まで通ってくるよりはましだよ」
「俺の事か、俺は親からダメって言われたからしょうがなかったんだよ。ほんとは大学の近くで一人暮らししたかったよ」
「そうだったんだ、私は別に家から通学するのに不満はなかったから」
少し笑いながらそう言いました。男性はなかなか戻って来ません。私たちはどうでもいいことを話しながら待っていました。すると、後ろから声を掛けられます。さっきの男性が店の入口から入ってきていました。
「お待たせしました。それではご案内します」
そう言って店の外へ誘導します。外に出ると店の前のロータリーに、不動産屋さんの名前が入った車が停まっていました。
「どうぞ乗ってください」
そう言われて二人で後ろに乗り込みます。運転席に座った男性はファイルを見てから言います。
「では、一番近いところから行きますね」
「お願いします」
車はバス道に出て北へ。しばらく行ってから左折。坂を上っていきます。その坂の途中で右折。住宅街をしばらく走って停まりました。三階建ての建物の前。そんなに古くはないようです。
「こちらの二階ですね」
そう言いながらこの物件のファイルを手渡してくれます。男性に案内されるがまま階段を上がり部屋の前に来ます。階段から2軒目の部屋でした。男性が鍵を開けて扉を開きます。
「どうぞ、中にスリッパがあるので使ってください」
そう言われて中に入りました。外から見たより使い込まれた感がある室内。ファイルの写真より、はるかに痛んだ感じがします。それに狭い。1DKとなっているし、間取り図ではそれなりに見えますが、実際に見るとこんなのはワンルームと同じ。浴室もかなり使い込まれた感がある。はっきり言って使いたくない感じです。キッチンもすごく残念。うちの洗面所と変わらない程度の大きさの流し。そしてコンロは一口。男性は色々と説明してくれますが、もう見るところも聞くこともなかったです。次を見せてもらうことにしました。
車に乗ってから次に行くところのファイルを渡されました。一番期待しているところ。築四十年近いところですが、2DKの物件。車は駅から南の方向へ向かいます。駅の百メートルくらい南には、上に高速道路が走る幹線道路があります。それを超えて坂道を上っていきます。そして右折。今度は坂を下っていきます。下りきった辺りで停まりました。七階建ての建物の前。
また案内されるまま付いて行きます。さすがに古い。どこもかしこも古さをアピールしてくる建物です。エレベーターに乗りますが、それもボタンの感じなんかが古い。四階で降りました。男性が鍵を開けてくれた部屋に入ります。ここはスリッパがなく、靴下で上がりました。広いのは広い。キッチンもそれなりに使えそう。でも床は安っぽい木目柄のビニールシート。しかも擦り切れて木目柄がなくなっているところもある。キッチンから続く部屋は和室です。まっ茶色の畳が六枚。ふすまで仕切られた隣の部屋も同じでした。和室奥の掃き出し窓は、透明ガラスではありませんでした。開けてみます。狭いベランダの下に見える建物の裏は駐車場でした。その先、狭い道を挟んで大きな建物が、視界を全て遮るように建っている。どこかの会社の建物のようです。窓の向こうの人と目が合いそうな感じでした。ファイルを見ると、ここの家賃は六万四千円。こんな部屋でもこんなにするのかと思ってしまう。一応、浴室とトイレも見ます。見ただけで終わり。
三件目に連れて行ってもらいます。そこはワンルームマンションです。車は何分も走らず停まりました。三階建ての建物。また二階の部屋でした。ここはとてもきれいです。それに最初の1DKの部屋より広く感じます。キッチンはいい勝負だけど。でも浴室やトイレはきれいなものです。
「ここは建物もそんなに年数経っていませんし、この部屋は二年前に改装されていますから、中はさらに新しいです」
男性がそう説明してくれます。ファイルで家賃を確認。さっきの部屋より千円高い。ワンルームでもその分きれいってことか。お店に戻ります。車内でどうですかと聞かれましたが、考えますとしか言えない。はっきり言って、ここなら住んでもいいかと、すぐに思える部屋はありませんでした。他の所も調べてみましょうかと言われるけど、もうお昼も過ぎていたので断りました。連絡お待ちしてますと言われて、お店の前で別れました。男性がいなくなると中野君が口を開きます。
「俺は全部却下だな」
「うん」
「昼食って、他のとこ行こう」
私は彼を見上げます。
「他のお店探すの?」
「他にもあるでしょ。それよりどこで昼食べる?」
私はバス道の方へ出ました。たしかラーメン屋さんがあったはず。店が見えてから聞きます。
「ラーメンでいい?」
「いいよ、それに次の不動産屋がそこにある」
彼がそう言う方を見ると、ラーメン屋さんの並びに別の不動産屋さんがありました。そこもよく宣伝している大手です。家の近所なのに知りませんでした。ラーメン屋さんに入ってから言います。
「今日は付き合ってくれてるお礼代わりに奢るから、好きなの頼んで」
「いいよ、俺が勝手に来たんだから」
「いいからそうさせて」
彼はしばらく私を見てからメニューに目を落として言います。
「わかった、ラーメンセットでもいい?」
「うん、いいよ」
七百円。そんなに高い訳じゃないから文句なくOK。彼は醤油ラーメンとチャーハン。私は塩ラーメンと中華飯にしました。
食べ終わるとすぐに不動産屋さんに向かう彼。その行動力は頼もしいけど、少し休憩したい。でも彼は中に入っていこうとしています。慌てて追いつきました。
さっきのお店と同じような手順です。紹介された物件はこちらの方が多くて十件ですが、中には同じ物件もありました。こちらでは全部見れると言われます。私は四件ピックアップしました。ここでは店頭で相手をしてくださったのは女性ですが、物件を案内してくれるのは男性です。午前中の方より若そうな方でした。物件は似たり寄ったりです。そう、ここがいいと思えるところはありませんでした。お店まで戻って来て、また同じように連絡お待ちしています、と言われて店を出ました。
駅のロータリーまで二人で歩いて来ます。私はなんだか疲れていて帰りたい気分でしたが、付き合ってくれた中野君をこのまま帰すのは気が引ける。なので改札のすぐそばにある、地元チェーンのコーヒーショップに誘います。
「付き合ってくれてありがとう」
アイスコーヒーを一口飲んでからそう言います。
「ううん、それにしてもいい部屋なかったね」
「うん、やっぱりもう少し家賃高目の設定にしないとダメかな」
「それもあるけど、場所が悪いんじゃない?」
「場所?」
「うん、もっと街中って言うか、人の多そうなところがいいよ。ここはちょっと田舎だよね」
私には十分街中だと思えるこの駅周辺も、違う人からすると田舎になってしまうんだ。確かに徒歩圏内ですぐに自然に出会える環境だけど。
「田舎かなあ」
「もっと住む人が集まるところなら物件数も増えるし、物件同士も競争率が上がるから、グレードが上がって、家賃が下がるんじゃない?」
なんとなく分かる話だけど、逆のような。人が集まるところは家賃下げなくてもいいような気もする。それに、私はこの駅周辺からは離れたくないなぁ。
「それはあるかも」
そう相槌を打っておきます。
「俺の住んでるところ辺りに来れば? こう言ったらなんだけど、俺が紹介されたのはあんなひどい物件ばかりじゃなかったよ」
ひどいって……。確かにそう言いたくなるところもあったけど。
「中野君の所は家賃いくら?」
「七万五千円」
う~ん、ぎりぎりのラインだなぁ。男性の方が一万円くらいお給料が良かったはずだから、私よりは妥協できるラインがそのくらい上になるんだ。
「間取りは?」
「1K。キッチンは風呂やトイレの並びの通路って感じだけど、部屋は十畳くらいあるよ」
「そうなんだ」
「それに一階はセキュリティーかかってるから、住人以外は入れないし。高橋さんは女の子なんだから、そういうところの方がいいよ」
「だよね」
今日見た中では、エントランスの鍵を開けて入ったのは午後から二件だけでした。そういうことも必要かな。
「明日は友達と遊びに行く約束あるけど、明後日は暇だから、俺んとこおいでよ。不動産屋案内するから」
そう言ってくれるけど、ここから離れる踏ん切りはつかない。でも時間の余裕はない。踏ん切り付けるためにも他で部屋を見た方がいいのかな。
「ありがと、ちょっと考えさせて」
「わかった、連絡頂戴。それよりこれから栄辺りまで出ようよ。晩飯食って飲もう」
それは勘弁。帰ってゆっくりしたい。
「ごめん、今日はなんか疲れたから」
「なんで、いいじゃん。なら晩飯だけでも行こうよ」
来てもらって追い返すのは悪い気がするけど、今から出掛けたくない。
「ごめん、またにしよ」
「そっか、残念」
本当に残念そうな顔をする。そのあと店を出て別れました。
私は家に帰って自分の部屋でまたパソコンを見ていました。部屋探しを継続中。今日見た物件も思い出しながら探していました。やはり家賃の設定を二万円くらい上げなければ、良さそうなところは見つかりません。母の声で中断。
「梨沙、ご飯よ」
またいつもと同じだ。私は返事して部屋を出ます。今日は返事した、私も少しいつもに戻しました。食後、お風呂に入って部屋に戻ります。母との会話は何か異常です。母の神経を疑う。なぜなら、この話が出る数日前までと同じになっているから。スーパーで何があったとかそんな話。逆に私は口数が減ってます。部屋探しのことも、聞かれなかったので何も言いませんでした。ネット検索する気もなくなって、ベッドに寝ころびます。今日見た部屋やネットの情報が頭の中をめぐります。もう、家賃の安さに重点を置いて、部屋の質は犠牲にするしかないと考えが向いてしまいます。古びていたり、使用感がひどい部屋も、住んでから少しづつきれいにしていけばいい。自分が清潔に使えばいいと思えてきました。そして頭の中に一つの物件が浮かびます。一番最初に見た物件。実際に見たところではなく、店頭のビラで見たもの。あの部屋を一度見たいと思いました。机に置きっぱなしだったスマホを見るとメッセージがいっぱい。同期の子や、学生時代からの友人などからでした。連休はまだ五日もあるので遊びの誘いばかり。とりあえずみんなに、それなりの理由を付けて断りメッセージを送りました。中野君からのメッセージは大量でした。明後日のことから始まって、私が返信しないものだから、その心配メッセージでした。今日のお礼を返した後、また連絡するとだけ返します。
翌日、最初にビラを見た不動産屋さんに行きました。窓に貼られたビラがまだあるのを確認してから入ります。狭い店内。いえ、店と言うより事務所です。入り口入ってすぐの小さな応接セットに座るように言われました。この応接セットと事務机二つだけの事務所。応対してくれたのは年配の女性でした。六十くらいかな?
「あの、そこの窓に貼ってあるお部屋を見たいんですけど、見れませんか?」
私がそう言うと、女性は事務机の後ろの窓の方へ行ってこう言います。
「どのお部屋でした?」
私は指をさして説明。女性はそのビラを窓から剥がして持ってきます。剝がしちゃうんだ。
「大橋ハイツね」
と言いながら、女性は剥がしたビラを持って目の前に座ります。ハイツなんて名前だったっけ、と心配になりながら、目の前の小さなテーブルに置かれたビラを見ます。間違いありませんでした。女性は私の顔を見つめます。それから口を開きました。
「日本の方よね?」
「はい」
そんなこと聞かれるんだ。
「学生さん?」
「いえ、就職したばかりですが社会人です」
小さく頷く女性。
「社会人の方でも保証人が必要だけど大丈夫?」
「はい」
母の言葉を思い出し、そう答えます。
「そ、ちょっと待っててね」
女性は事務机の方に行って電話をかけ始めました。聞こえてくる内容からは、どこかにこの部屋がまだ空いているか確認しているようです。電話が終わると私に声を掛けてきます。
「今からすぐに見に行く?」
「はい、出来れば」
女性は奥の扉を開けて声を上げます。
「お父さん、お客さんご案内して」
すぐに女性と同じくらいの年齢の男性が出てきました。二人並ぶといかにも似たもの夫婦って感じに見えます。二人とも人好きのする優しい顔をしています。私を見て「いらっしゃい」と言ってから女性に話し掛けます。
「どこや」
「大橋さんのところ。確認したらまだ決まってないし、引き合いもないって」
「そっか、ええとこなんやけどな。わかった」
ええとこってセリフに期待感が上がります。男性は机の引き出しから何か取り出すと、鞄に入れて私の方に来ます。
「じゃあ、案内しますからついてきてください」
そう言って店を出ます。少し歩いたところにある駐車場まで来ました。乗るように言われたのは国産の高級車でした。助手席を指示されたのでそこに乗ります。車は南へ向かいます。坂を上り始めると男性がこう言います。
「今から行く大橋ハイツの大家さんはここですよ」
そう言って右前方を指します。そこは五階建てのビルで、『大橋建設』となっています。
「建設屋さんなんですか」
「そう、建築より土木のほうが専門の会社やね。入居することになったら、ここと契約してもらうことになるから」
「そうですか」
「管理も会社でやってるから安心していいよ」
「そうですか」
それしか言えない。車はバス道から左にそれて、さらなる上り坂を行きます。上り坂が少し平坦になった辺りでまた話し掛けられます。
「そこのバス停が最寄りになるから。この先の学校まで行ってる路線やから、それなりに本数はあると思ったけど」
左手に店舗のような建物を建てている工事現場があり、その前にバス停がありました。この先の学校? そう言えば何とかって大学があったような。バス停を過ぎるとまた上り坂。しかも左側は雑木林で、右側は畑です。ここまではまだ住宅など建物があったのですが、景色が一変しました。そして坂を上りきると左側に大橋ハイツはありました。三階建ての古い建物。築三十五年と見ていたので、そこまで期待していたわけではありませんが、少しがっかり。さっき上がった期待感が一気にマイナス方向へ振れました。裏の駐車場で車を停める場所を探す男性。やっと停めたのは建物から一番近い列の端から二番目。車を降りると男性は言います。
「ここは全戸に一台ずつ駐車スペースあるから。今から案内する部屋用のスペースはここ」
「そうですか」
こんな場所じゃ車いるだろうから当然だなって思いました。建物の前に回ります。エントランスは集合ポストがあるだけ。
「302号室だから、ポストはここ」
男性が説明してくれます。そこはチラシなどが入れられないように、投函口が塞がれていました。そして階段を上ります。コンクリートの階段。壁面はヒビの補修でもしたのでしょう、白い不規則な線がそこかしこに見えます。
「古いけど鉄筋コンクリートやし、きっちり補修とか管理されてるから、見た目はちょっと悪いけどええ建物やで」
階段を上りながらまた説明してくれます。そう言えば昨日の不動産屋の人たちは、こういう説明してくれなかったよな、と思い出します。三階に着くと通路を進みます。下の駐車場の向こうは空き地。雑草の草原でした。山の上、もとい丘の上なので、見晴らしはいい、田舎の風景だけど。東名高速も見えていました。奥から2番目の部屋の前まで来ました。玄関ドアを見て、またがっかり。古い団地なんかで見るようなペラペラの扉です。何度塗り重ねたのだろうかと思うくらいペンキが塗ってあります。男性が鍵を開けて扉を開きます。やっぱり中央はペラペラの扉。でも中を見て驚き。まだ新しそうな玄関収納からフローリングが中に伸びています。男性が先に、
「靴脱いでな」
そう言って入っていきます。
「ここがトイレ」
玄関を入ってすぐ左の扉を開けてそう言います。まだまだ新しそうな温水洗浄便座が付いています。そし先へ。今度は右側の引き戸を開けます。
「ここが洗面と風呂。どっちも四年前に取り換えたからきれいやろ」
私は男性の前に出て浴室を見ました。少し狭いけど、きれいなユニットバスでした。今の部屋の浴室は、家族用なので多分広め。それに慣れているから狭く感じるだけでこれで十分なのでしょう。高級感は感じられないスタンダードなユニットバスですが問題なし。洗面所の方を振り返ると、また男性が口を開きます。
「この洗濯機置き場やけど、最近の斜めドラムの奴は一番小さいのしか置けんから」
「はあ」
「玄関が狭いから、どっちにしても入らんのやわ。だから玄関から入る洗濯機が置けるサイズになってるから」
「そうですか」
「そや、入居することになったらそれは注意してな。玄関から入らん家具があるかも知れんから」
「分かりました」
そして今入った引き戸の前にある扉を開けて入ります。LDKのDK部分でしょうか。入った正面左側にキッチンがあります。普通サイズのキッチン。これも高級感はないですが、まだまだ新しいものです。廊下と同じフローリングが、キッチンから右側のリビング部分まで続いています。ダイニングのスペースは実際ありませんが十分。リビングに入ると右側は可動式の間仕切りのようです。折れ戸が三組、六枚並んだ格好です。男性が中央の一組を折りたたんで開けます。隣の部屋も同じフローリングの床。リビングより狭いですが、リビングから入って右手の壁が折れ戸になっているので収納だと思います。開けてみるとやはりそう。欄間スペース付きの押し入れを、欄間まで含めて折れ戸で塞いだ感じです。その収納の正面は掃き出し窓。リビングも同じです。透明ガラスなので外が見えています。ベランダは腰の高さまでコンクリートなので、下は見えません。開けてみます。丘の上の三階ですが、ここから南は丘陵地帯なので見晴らしが良いと言うほどではありません。でも視界を遮る何かがあるわけでもないので、解放感は抜群です。今の部屋からは高架鉄道、高速道路とビルしか見えないので、こちらの方が気分がいいです。
「ここは一番上の階やけど、ちゃんと下と同じだけ庇があるから雨もそうはかからんよ」
男性が後ろからそう言います。確かにベランダと同じ出幅だけ庇があります。
「給湯器も改装したときに付けたからまだ新しい。だけど、元々ここにあった風呂を向こうに持って行ったから、追い炊きは出来へんようになった見たいやわ。給湯だけ」
右側の隣戸との仕切りの手前の壁面に給湯器がありました。それを見た男性がそう説明してくれます。
「浴槽にお湯は張れるんですよね?」
私が質問。
「それは問題ない。風呂やシャワーに使える能力の給湯器やから」
「分かりました」
一人で住むんだから追い炊きなくても問題なし。私はもうこの部屋を気に入っていました。細かいことを言えば、内装全て古いのを隠してる感があります。それも安上がりに。改装して新しいと言っても四年前。使用感もしっかりあります。でも、昨日見た中でも、ネットで見た中でも、家賃と場所を考え合わせると一番ましなようです。エアコンもリビングだけですが付いている。四年前の物と思われる新しいものが。照明もドーム型の素っ気ないものですが天井にくっついてる。キッチンのガスコンロも三口の物があった。
「ここに決めたいと思うんですが、いいですか?」
「おお、ありがとさん。こんなすぐ決めていいんか?」
私の申し出に少し驚き顔でそう言います。
「はい、色々他の所も見て探していたんですけど、ここが一番気に入りました」
「そっか、それならええわ。ありがと」
私は話しながら部屋を隅々までもう一度見てまわります。
「入居はいつ頃になる?」
そう聞かれました。
「出来れば今月中に」
「問題ないな。クリーニングだけやから、契約すんだら一週間くらいで入れると思うわ」
「助かります」
「いやいや、もうちょっと色々見て行って。それでこれ直して欲しいとかあったら先に言うて欲しい」
そう言ってもらったので、その後はさらに細かく見て、触っていきました。でもこれと言った不満はなし。事務所に戻りました。事務所に戻ると、部屋を押さえちゃうので申込書を書くように言われました。名前や現住所のほかに勤務先等を書いていきます。それから大橋ハイツの説明を受けました。説明と言っても簡単なもの。共用部の清掃は月に一回、管理会社がやっているなど。そして契約内容の説明がありました。細かく読み聞かせをしてくれます。それでOKなら、契約書に署名押印して出来るだけ早く持ってくるように言われました。契約が成立したら、敷金と紹介料で家賃四か月分と、五月の日割り家賃と六月分の先払い家賃がすぐに必要になるので用意しておくようにとも言われます。それくらいは貯金で何とか足りるので問題なしです。私は必要書類をもらって事務所を出ました。
家に帰ってから、自分の部屋の机にもらって来た書類を出してみます。書類を眺めて思います。誰にも何も相談せずに決めちゃったと。母はどう言うだろうかと少し不安になる。簡単に遅いお昼を食べた後、リビングでゴロゴロ。この家ともお別れなんだと思っていたら、寝てしまいました。
母が帰って来た気配で目が覚めます。リビングで寝ていた私を見て一言。
「風邪ひくよ」
そのまま自分の部屋に入っていきます。私は自分の部屋に行って、不動産屋さんからもらった書類をリビングの座卓まで持ってきました。そして着替えて出てきた母に言います。
「今日、部屋決めてきた」
少し驚いたような顔をしてから、母も座卓に着きます。ざっと書類に目を通します。
「ほんとにここでいいの?」
私を見てそう言いました。
「うん」
「お金は大丈夫?」
「大丈夫」
すると母は立ち上がって言います。
「案内して」
「今から?」
「どんなところか見るだけだから」
母は部屋からジャンパーを取って来て、それを着替えた部屋着の上から着ます。そして車の鍵を持つと玄関に向いました。私は外出した時の格好のままだったのでそのまま続きました。駐車場に行くと母は助手席に乗ります。私は運転席に座って言います。
「私が運転するの?」
「私、場所知らないもん」
母はそう言いながらシートベルトを締めています。私は車を出しました。外はもう暗くなっていて景色が昼間と違います。まして、助手席に座って一度行っただけの所、バス道から左折するところを間違えました。左折した道もバスが走る道ですが、入り口が狭いのでバスが通る道だと思えませんでした。行きすぎて気付いたので、ナビの画面を頼りに別の道からその道に入りました。坂を上っていきます。昼間見た左側の工事現場にまだ灯がありました。そしてその先は真っ暗。その真っ暗を抜けるとすぐ左に目的地です。建物の前で車を停めました。
「ここ?」
母が左側の建物を見上げながら聞いてきます。
「そう、ここの三階」
「人は、住んでるみたいね」
酷い言いようですが、私も他人事なら同じこと言ったかも。七時前ですが、四分の一くらいの部屋に電気がついていました。でも、お化け屋敷みたいに見えます。真っ暗な道を抜けたところにそびえる建物。周りには他に何もなし。異様な光景とも言えます。
「ほんとにここに住むの?」
今度は私を見て母が言いました。
「いいでしょ、中はきれいになってるんだから」
母はしばらく黙った後、ナビにこの場所を登録しました。なんでそんなことするのって顔で見ていると、
「昼間に一度見に来るから」
と言います。一応は心配してくれているようです。そして帰り道、真っ暗な下り坂でバスとすれ違います。ぎりぎりでした。上り坂を上るバスの黒煙がすごい。すると真っ暗な歩道を歩いて上る男性がいました。さっきのバスを降りた住人でしょう。坂の上には他に行くところはないと思うから。
「暗すぎてさっきの人もう見えないけど、あんたあんなところ歩けるの?」
母が横からそう言います。
「大丈夫」
そう言った後、心の中で「多分」と付け足し。あの真っ暗さは怖いかも。自分でも心配になって来ました。
帰宅して夕食を済ませた後、母はリビングの座卓で私がもらって来た書類を見直していました。私は先にお風呂を使うように言われたので入りました。済ませてリビングに入ると、母はテレビを見ています。座卓の上には黒い革張りの小箱がありました。母が使っている印鑑ケースもあります。
「本当にあそこでいいの?」
そう言われて私も座卓に着きます。
「うん」
しばらく沈黙。
「もっと他の所も見なくていいの? 会社の近くとか」
一瞬考えましたが、私は私の中の大前提となっている思いを話しました。
「この本郷の近くにいたいから」
母は私の顔を見ているだけで何も言いませんでした。なので続けます。
「この周辺は何軒か見に行ったけど、私の払える家賃だといいところはなかった。でもあそこは入った瞬間、ここなら住んでもいいかなって思ったの」
母は私の目を見て口を開きます。
「同じような家賃であそこだけいいって言うのは、何か他に理由があると思わない?」
そう言われると分からない。同じ地域で同じような条件で探して、一軒だけ他よりいいっていうのは、おかしいと思っても当然。私、何か騙されてるのかなと、今更思ってしまう。私がそんな風に考えていると、母がこう言います。
「ま、あの見た目であの場所だから、家賃下げないと誰も入らないかもしれないね」
私は母を見ました。
「もう一回聞く。本当にいいのね?」
「うん」
私は頷きました。
「わかった」
母はあっさりそう言いました。逆に私が聞いてしまいます。
「ほんとにいいの?」
母はうっすら笑いました。
「いいも悪いも、元々私が早く探せって言ったんだから、あんたがいいって言うならそれでいいんじゃない?」
「ありがと」
「買うわけじゃないんだから、嫌なら引っ越せば済むしね」
母はそう言いながら、私の前に黒革張りの小箱を差し出します。それが何か聞く前に母が話し始める。
「社会人になったら渡そうと思って作っておいたの。開けてみて」
言われた通り箱を開けます。黒い印鑑ケースが三つ並んでいました。三本は微妙に大きさが違います。大中小って感じ。
「押してみて」
母は朱肉とメモ用紙を差し出します。私は一番大きな印鑑ケースを開けました。太い印鑑に少し緊張。印面を見てもなんて彫ってあるのか分かりません。とりあえず押してみる。メモ用紙に押された印影を見て、母がメモ用紙の向きを変えました。
「この向き。覚えなきゃだめよ」
「なんて書いてあるの?」
変な文字で読めません。
「よく見て」
じっくり見ます。印鑑なのだから『高橋』と言う文字を当てようとしていたのが間違いでした。だんだん文字が見えてきました。
「梨沙?」
「そ、自分で作る気ならそれでもいいけど、そうでないならそれを実印にすればいいわ」
「実印?」
「そ、役所に登録する印鑑」
「はあ」
実印って言葉は知っているけど、自分が持つ実感はありません。
「引っ越したら住民票移しに区役所行くでしょ? その時に印鑑登録もしてきなさい」
住民票か、そんなこともしなきゃいけないんだ。そして印鑑登録。
「登録しとかないといけないの?」
「いけないってことはないけど、必要になった時に困るわよ」
「……」
実感がなさ過ぎて言葉が出ない。
「そうそう必要な機会もないけど、お金借りるときはいるんじゃないかな? あ、車買う時も必要だったかも」
「分かった」
今母が言ったような使い道は当面ないと思いますが、登録はしておこうと思いました。後の二つの印鑑はどちらも『高橋』の文字でした。でも大きい方の文字はなんだか格好いい字体です。
「大きい方は銀行印用で、小さいのは認印。あんた今の口座は認印で作ってるでしょ。その印鑑は使ってて欠けたりして、印影が変わるといけないから、もう銀行印として以外は使わないように保管しときなさい。そして新しい口座作るときはこの印鑑使ったらいいから」
「分かった」
「分かったじゃなくてついでだから、今の銀行印持って来なさい」
そう言われて部屋に取りに行きました。プラスチックの印鑑ケースを差し出します。母はそこから印鑑を出すと、黒革の印鑑ケースに入った認印と入れ替えました。そして小箱にケース三つを並べると言います。
「この三本は大事な印鑑になるから、普段は人目に付かないところにしまっておくのよ」
「分かった」
すると母は契約書の署名欄を開いて私の方に出します。保証人欄はすでに記入されており、印鑑も押されていました。そこで気付きます。母の署名欄の住所が浜松市になっている。
「なんで浜松の住所なの?」
「ここの住所書いてもすぐにいなくなるんだから意味ないでしょ」
「そっか。私は? ここの住所?」
「それでいいんじゃない? それしか書きようがないもんね」
私は母から渡されたボールペンで名前と住所を書きました。
「さ、あんたが初めて交わす契約書に押す印鑑。どれにする? 一番大きいの使ってみる?」
書き終えた私に母がそう言います。
「実印じゃないとだめなの?」
「ううん、必要書類に印鑑証明は入ってないから認印でいいはず。それに、それはまだ実印じゃないでしょ」
「そうなの?」
「実印ってのは印鑑登録してあって、役所から印鑑証明がもらえる物の事を言うの」
「……」
「そのうち分かって来るわよ」
あまり話を呑み込めていない私に、母はそう言って締めくくりました。私はプラスチックのケースに入れた新しい認印を出しました。
「認印でいいんならこれ使う」
そう言って母に見せます。母は頷きました。そしてもう一言言ってくれます。
「押す前にもう一回だけ、本当にいいのね?」
私は母の目を見て頷きます。
「この契約書は向こうがまだハンコも押してないし、署名もしてないからいいけど、相手の署名や押印が終わってる物だったら、あんたがハンコ押した時点で契約成立だから。こういうものにハンコ押すときは、最後までよく考えて押しなさい」
「分かった」
そして私はハンコを押しました。契約書二部にハンコを押し終えてなんとなく感慨にふけっていると、母がおどけた調子で言います。
「どうせなら『梨沙』の印鑑使って欲しかったな」
「認印でいいって言ったじゃん」
「印鑑登録してないんだから、それもまだ単なる認印よ」
そう言って微笑みます。
「そっか、使ってみてもよかったんだ」
私もそう言って笑いました。
他の提出書類も母の前ですべて記入して、ハンコも押し終えました。
「聞くの忘れてたけど、その部屋、すぐに入れるの?」
母がそう聞いてきます。
「うん、契約が済めば、クリーニングするだけだから一週間くらいで入れるって」
母はそう聞くと壁のカレンダーを見て言います。
「二週間は余裕がありそうね」
「うん」
「それ、明日持ってく?」
私の手元の書類を指して母はそう聞きます。
「うん、早い方がいいと思うから」
「明日日曜日だけど、開いてるの?」
「大丈夫。連休中はやってるって言ってたから」
「そ、じゃあ、十一時過ぎにそこの前で待ち合わせね」
意外な母の言葉。
「え? 来てくれるの?」
「明日は早番のシフトだから、お昼休み十一時からなの、だから十一時十分なら行けると思う」
正直に言うと、一人で契約するなんて心細かったのです。だからとても嬉しかったです。
「ありがとう、でもいいの?」
「何が?」
「話が長くなったりしたら……」
「ああ、戻るの遅れても少し怒られるくらいで済むから。どうせ二十日で辞める職場だし」
なんか一言すごいセリフがありました。
「二十日で辞めるの?」
「うん、お給料の締めが二十日だから」
「そうなんだ」
もうそんなことまで決めてたんだ。なんと言っていいか分からない気持ちになりました。部屋に戻るとスマホにメッセージが入っている。中野君から何度も。明日、二回目の部屋探しをしようって言っていたことでした。もう決めたことを伝えると、がっかりした返事が来ました。何故か少し怒ったような感じで。私の事で勝手に盛り上がられても困る。なんとなくSNSは好きになれない。端的な言葉のやり取りは、楽なこともあるけど面倒と感じることが多いです。電話してくるなり、メールなりで、言いたいことを細切れにせず全部言って来いって思ってしまう。
翌日の午前中、私は家の中で家具や家電製品を物色中。母からこの家の物は欲しいもの全部持って行っていいと言われたから。家電製品は選択するまでもなくすべて持っていくつもり。家具をどうしようかと悩んでいます。部屋が狭くなるのであまり置きたくない、でも必要なものは必要だし。とりあえず候補となるものの寸法を計っていきました。後はあの部屋に入れるようになってから考える。そんなことをしているうちに、十一時近くになっていました。私は少し急いで不動産屋さんに向います。地下鉄の高架下で母と出会いました。母は少し早めに出たようです。二人で不動産屋さんに入ります。母はいくつか質問していましたがそれで納得したようです。聞いていたのは主に大家さんの事でした。話は三十分ほどで終了。大家さんと契約が終わったら連絡くれることとなりました。でも、大家となる大橋建設の契約担当は連休中なので、休み明けになると言われました。母はそこですぐに職場へ戻って行きます。
連休明けの五月七日木曜日。新人研修は明日までですが、配属先の発表がありました。私はメンテナンス事業部の業務課と告げられました。明日はそこで最後の研修になるようです。帰宅すると母にリビングに呼ばれます。私は座卓に着きました。
「今度の土曜日、予定ある?」
いきなりそう聞いてきます。
「別になにも」
私がそう言うと不動産屋さんの大きな封筒を取り出します。中から出てきたのは契約書でした。
「もう来たの?」
私はそう聞きます。
「お昼過ぎに電話もらったの。完了しましたよって。それで受け取って来た」
「行ってくれたんだ。仕事じゃなかったの?」
「ま、それはいいから。で、これ」
そう言って銀行の振込控えを二枚、私の前に出します。
「こっちは不動産屋さんに払った敷金とか、家賃の四か月分。こっちは大家さんに払った五月分の日割り家賃と、六月分の家賃。どっちもあんたの名前で振り込んであるから。これは保管しときなさい」
私は振込控えを受け取りながら言います。
「払ってくれたの? なんで?」
「ま、ここまではね。契約書にも書いてあるけど、毎月月末までに大家さんに払わないといけないから。次は六月末。そこからはちゃんと自分で払いなさいよ」
「うん、ありがと」
私は本当にありがとうと言う気持ちで、振込控えに目を落としました。すると母はこう言い出します。
「で、今日振り込むってことで、最短でいつ入れるか聞いたら、明日入金の確認が取れたら、土曜日の朝からクリーニングしてくれるって。だから、土曜日の昼からなら引き渡せるって言われたけど、どうする?」
どうするも何も返事は決まっています。
「行く、行きたい」
「なら決定ね。明日電話しとく。土曜日は私も休みだからついてくよ」
「うん、分かった」
その翌日、金曜日。これまで通り新入社員は会議室に集まりました。でもすぐに各々の配属先の人が来て、散っていきます。私も配属先の先輩となる女性社員に連れられてメンテ部の業務課に行きました。業務課はメンテ課と同じ部屋です。二つの課は所々のキャビネットで仕切られています。業務課には机が二十人分ほどあります。そこに今は十四人いました。大半が女性です。私は私を連れに来てくれた方に、当面指導してもらうようです。
業務課は忙しい課のようでした。ひっきりなしに電話が鳴っています。皆さん電話しながらパソコンを操作したり、ファイルを見たりしています。私にも分厚いファイル五冊が渡されました。私専用にしていいファイルなので、中身の並べ替えとかは好きにしていいと言われます。中身はメンテナンスを請け負っているお客さんの所の、メンテ対象となる機器全てのカタログと業務用マニュアルと言う事でした。どこに何の機器のマニュアルがあるか把握しておかないと電話口でもたつくので、探しやすいように自分でカスタマイズしなさいってことでした。それと別のファイルが一冊。それは客先の詳細な資料でした。何のメンテを請け負っていて、どんな機器が設置されているかが全て載っています。これらを把握するだけで何年もかかってしまいそうです。でも、半年くらいを目安にして、慣れてきたと判断されたら、土日や夜間の電話受付も当番制で回って来ると言われました。思わず半年では無理と答えそうになります。そんな説明を聞いただけで配属初日は終わりました。
そして土曜日。朝からソワソワしていました。なんだか母もそんな様子です。不動産屋さんとの約束は一時半に現地で。昼食を二人でとりました。食べながら部屋に行ってからのことを考えていました。部屋の寸法を計って家具をどう置くか決めていく。それだけですがどう計ろうかとか考えていると気になることが出てきました。
「電気とかってどうしたらいいの? 電気屋さんに頼むの?」
母に尋ねました。すると母は何言ってんのって感じで答えます。
「もう通じてるわよ。今も掃除するのに使ってるんじゃないの?」
「え、いつ? この前は電気つかなかったよ」
「お金振り込んだ日に、電気もガスもあんたの名前で電話しといたから。電気はすぐ開通するみたいね。ガスは今日のお昼から開けに来てくれることになってる」
「そうだったんだ。ありがと」
母がいなかったらちょっと困ってたかも。多分電気もガスも、使おうと思った時に気付いてそれから慌ててたでしょう。
「電話は何もしてないけど、どうする? ここの回線持ってく?」
「うん、そうする」
すぐにそう答えた私に母が待ったを掛けます。
「いや、よく考えて、電話いる? うちの電話も全然使ってないでしょ?」
「そっか……」
私も母もほとんどスマホで用が済んでいます。家の電話なんてほとんど使っていませんでした。
「昔は固定電話の番号持ってるってことで、それが信用になったところもあるけど、今はそんなことないから」
「……」
信用になったとか意味が分からない。
「この回線はあんたのインターネットに使ってるくらいでしょ? あの部屋ではどうするの? 今は光とかにするんじゃないの?」
なんか母の方が色々考えてる。
「考えとく」
そう答えるしかありませんでした。そんなことを話しているうちに十二時半を過ぎていました。
「そろそろ出ようか」
母がそう言って腰を浮かせます。まだ少し早い気もしますが私も席を立ちました。母は鞄に雑巾を二、三枚入れています。
「そんなの持ってくの?」
「一応ね、あんたは用意いいの? メジャー入れた?」
「うん、大丈夫」
そして家を出ました。着いたのは一時過ぎ。この前乗せてもらった不動産屋さんの車は建物の前にありました。私は運転している母に裏に入るように言います。そしてこの前教えてもらった場所に車を停めるように言いました。表に回って不動産屋さんの車を覗きますがいません。
三階へ上がりました。部屋の玄関扉は開けっ放しに、中を覗くと不動産屋さんがいました。「早かったですね」と言いながら、招き入れてくれます。クリーニングは終わっているようです。この前もきれいでしたが、より一層きれいになっていました。
不動産屋さんからクリアファイルを渡されます。中身は全部この部屋の機器の取説だと言う事です。退去の時は返却が必要なので保管するように言われました。そしてもう一度見てまわるように言われます。ちょうどそのタイミングでガス屋さんが来ました。ガスを開通してガス漏れ検知器などのテストをしてくれます。ついでに給湯器とガスコンロの動作チェックもしてもらいました。私達もエアコンの作動を確かめたり、電気をつけてまわったりしました。全て問題なし。これで引き渡しも終わりですと言われて、鍵を三本もらいました。大家さんの所にも一本あるとのことです。最新のディンプルキーなので合鍵屋さんでは作れないから、どうしても追加が欲しい時は大家さんに言って有料になると言われます。また、追加を作ったら退去の時に、追加した分も合わせて返却なので失くさないように言われました。失くした時は鍵の取り替えで、数万円請求されるようです。
不動産屋さんが去った後、二人でリビングの床に座り込みました。なんとなく脱力です。
「ほんと、中はきれいね」
母が部屋を見回しながらそう言います。
「だからそう言ったじゃん。改装してまだ四年らしいから」
「はいはい、なんか暑いわね」
母はそう言って立っていくと窓を開けました。外を眺めて言います。
「夏はいっぱい虫が出そうね」
他に言う事はないのか。
「エアコンつけて窓開けないから大丈夫」
そう言い返します。母はこちらに向きを変えると玄関に向かいます。
「あんた家具の配置考えるんでしょ? 私、何か飲み物買ってくる。何がいい?」
「大きい缶のコーヒー、ブラックで冷たいの」
「あんた本当にコーヒー好きね」
そう言って出て行きました。そのセリフは私が母に言いたいけど。
私は家の家具の寸法を部屋の床にマーキング。そのためにマスキングテープを用意してきました。一番大きなベッドを寝室の窓際に置く想定で、四隅の位置が分かるようにテープを貼ります。そんな要領でいろんな家具を配置していきます。母が帰って来ました。飲み物以外にトイレットペーパーを持っています。
「トイレ使うの?」
「今はいいけど、これがあったらすぐ使えるでしょ」
なるほど。
「これ何?」
リビングの床の中央に貼ったテープを見て母が言います。私は母から手渡されたコーヒーを一口飲んでから答えます。ちなみに母の手にも同じコーヒー。
「家にある座卓」
「座卓? ああ、この大きさなのね、大きすぎない?」
確かに大きい。実際ここにあったら邪魔でしかないような気がする。
「小さいこたつでも買ったら?」
「そっか、そうしよっかな」
それから母のチェックが入りまくりました。おかげで座卓、洋服ダンス、2台持ってくる予定だった整理ダンスの内1台がなくなりました。洋服ダンスは押し入れの上段にハンガー掛けのパイプがあるので、それで十分と言われます。整理ダンスも一棹で足らなければ、引き出し式の押し入れ収納を買いなさいと。食器棚も今使っているのを持ってくると言うと、あんな大きいのは必要ないと言われます。今でも使わない食器ばかり入ってるからと。でもそれは私が却下して持ってくることに。机もいるのかと聞かれましたが、持ってくることにしました。あと、冷蔵庫は大きさより電気代が無駄じゃないかと言われます。うちの冷蔵庫はそれほど大きなものではありませんが、一人暮らしにしたら大きなものです。でも持ってくることに。それはまだ新しいのでもったいないから。二年前に買い替えたばかりなんだもん。
そんなことをしているうちに外は真っ暗でした。帰ることにします。帰りの車の中で母が言ってくれました。車使っていいから、少しずつでも荷物を運んでいきなさいと。帰って来て車を降りると、母はもう疲れたから晩ご飯食べて帰ろうと言い出します。その日は外食になりました。
五月二十三日土曜日。朝一番で引っ越し屋さんが来ました。私の部屋に持っていくものを運び出していきます。これでこの部屋での生活は終わりです。今日から一週間は、母も私の新しい部屋で生活します。引っ越しのトラックを追いかけて新居へ。三時頃には終わってしまいました。別に運んでおいた衣類などをタンスに入れていきます。母の荷物は大きなバックが一つだけ。まだバックが二つ三つありますが前の部屋に置いたままです。それ以外はもう浜松に送ってしまっています。
「そろそろいいかな」
そう言って母が冷蔵庫のコンセントを差しました。母が言うには、冷蔵庫は動かしたら半日くらい電源を入れずに、そっと置いておかないと壊れるとのこと。引っ越し屋さんは設置するなりコンセントを差そうとしたので、ほんとのところは分かりません。冷蔵庫は一番最初に置いてもらったので、もう大丈夫と判断したのでしょう。私はそのあとテレビを壊してしまいました。アンテナの線をつなごうとして倒しました。その時に液晶の画面が割れたようです。空になった冷蔵庫の中身の補充に、スーパーまで行くことにしていました。その時に前の私の部屋に置いたままにしたテレビと入れ替えることに。32型テレビが27型テレビになってしまいました。
週が明けた月曜日。新しい部屋からの初出勤。駅まで車で送ってくれると言う母の申し出を辞退。慣れなければいけないので。バスの時間も調べてあるので間に合うように出ます。会社に引っ越しは届け出て、通勤手当も変わりますが、変わるのは六月の給料から。一か月ちょとの間の定期代のバス分は持ち出しです。しょうがない。駅が近付くと渋滞でバスが動かない。少しイライラ。でも、席の半分も人が乗っていないバスに乗って、終点で降りるので余裕で座っていられます。そして恐怖の帰り道でした。この日に限って定時で帰れず、会社を出たのが六時半。バスを降りると目の前の坂は真っ暗の闇の中。でも降りたバス停でいいことに気付きました。バス停の所の工事現場、コンビニが出来るようです。六月中旬オープンと看板が出ていました。ここにコンビニが出来たら便利だと、心を明るくしてから暗い坂道を上りました。闇を抜けて帰り着く建物が見えるとホッとします。この前お化け屋敷みたいと思ったことを、心の中でお詫びしました。
五月三十日土曜日。前の部屋の退去の日です。十時に不用品の回収業者が来ました。どんどん運び出していきます。三週間近く検討した結果、処分すると決めたものばかりです。でも運び出されていくのはずっと見て触れて育ったものばかり。私は生まれてからずっとこの家にいました。すっと私と一緒にあった物ばかりです。処分されるとなると、なんだか涙が出てきました。
すっかり物がなくなった部屋を母と一緒に掃除します。台所や浴室などを含め、大体のところはこの一週間で母が済ませています。でも家具の置いてあった床などは別でした。掃除機をかけて雑巾がけ。母も長年暮らした部屋との別れに思うところがあるのか、無駄口一つ叩かず無言でやっています。
カーテンも私の部屋に持って行ったので、本当に何もない空間でした。私は急に思いついて、何もない部屋をスマホで写真に撮りました。色んな所を取りました。窓の外の風景も。物を運び出す前の部屋も撮っておけばよかったと後悔。掃き出し窓から外を見ている母の後ろ姿も撮りました。それに気付いて振り向いた母も一枚。管理会社の人が来て部屋の中を見てまわります。それで退去は終了。掃除機など掃除道具を持って外に出ました。管理会社の人は鍵を閉めるとさっさと帰って行きます。
「お母さん、写真撮って」
私は玄関前で母にそう言うと、スマホを差し出しました。
「さっき中でも撮ればよかったのに」
そう言いながら母は撮ってくれました。母からスマホを受け取った私は、撮ってもらった写真を見て、また涙を流します。これで本当にこことはお別れです。
両隣に挨拶してから下に降りました。下で偶然同級生の女の子に出会いました。中学までは一緒でしたが、その後は違う学校だったのでなかなか顔を合わす機会のなかった子です。本当に偶然。今日で引っ越したことを言うと少し話そうと言います。私は母にバスで帰ると告げて、車に荷物を積んで別れました。そして駅の所のコーヒーショップに行きました。色々思い出話もしましたが、彼女も八月に引っ越すと聞かされます。お父さんが家を建てたそうです。私の引っ越し理由はうまく説明できないので誤魔化しました。暗くなり始めるまで話してから別れました。
部屋に戻ると夕食が準備してあります。新しく買った小さなこたつ兼用の座卓の上に置かれたのは、あの日私がゴミ箱に入れた大きめのグラタン皿。ポテトとハンバーグの上にチーズをのせて焼いた、私の好きな母の料理。今夜は母との最後の夜。その晩ご飯にこれを作ってくれた。
「さ、冷めないうちに食べよ」
この母のセリフもあの日と多分一緒だ。この前これを食べた日から始まった今回の騒ぎの最後の夜に、あの日と同じ料理。母は意図してこれを作ったのか。いや、私の好きなものを最後に食べさせようと思っての事だろう。そう信じます。今夜は冷めないうちにちゃんと全部食べました。やっぱり母と離れたくないと思いながら。その夜は遅くまで母と話していました。もう寝ようと電気を消してからも。
翌朝、母が浜松に向かう日。朝食を終えて二人でコーヒーを飲んでいると、母が鞄から封筒を出します。
「これ渡しとく」
それだけ言って座卓の上に置きました。私は手に取って中を見ます。一万円札がたくさん入っています。
「なにこれ?」
母はマグカップに口を付けたまま何か考えている様子。やがて口を開きます。
「一応フルタイムでパートしてたから、それなりに収入には余裕があったの」
「うん」
「だから貯金もあった。と言っても、それなりにいい暮らししてたでしょ? だから知れてるけどね」
「……」
「で、その中からそれはあんたの分」
「え、いいよ、お母さんがパートで貯めたお金でしょ」
「それはあんたの養育費があって出来たことだから、受け取りなさい。これからまだ何にお金かかるか分からないんだから」
「でも、私何とかなるから。学生時代にバイトで貯めたお金だって三十万ちょっとあるし」
私はそう言いました。でも母は微笑んで言います。
「そんなに貯めてたの。あんたお金使わない子だったもんね。でも、これは受け取りなさい」
でも私は封筒を母の方に置いて言います。
「今回色々かかったお金、全部出してくれたでしょ、それで十分。これからおじいちゃんたちのとこ行っても、仕事見つけるまでお母さんお金いるでしょ」
母は私の顔をじっと見ます。それから封筒に手を伸ばして言いました。
「じゃあ、今回使ったお金として、十万ここから引かせてもらうね。だから残りはあんたが持ってなさい」
そう言って十枚抜き取りました。そして封筒をまた差し出します。
「この部屋に何かあってまた引っ越すなんてことがあった時、私は傍にいないから。これはそのとき用に持ってなさい」
今度は半ば強引に私の手に握らせます。
「わかった、ありがと」
もうそう言うしかありませんでした。
「じゃあ、きりがないから私そろそろ行くわね」
母はそう言って立ち上がると荷物をまとめ始めます。私は立ち上がりはしたものの動けませんでした。今日別れたら当分母とは会えません。浜松まで会いに行くしかないから。荷物をまとめて立ち上がった母。車のキーホルダーに付けたこの部屋の鍵を外します。
「それ、お母さんが持ってて」
咄嗟に私はそう言いました。
「三本しかないんだから、彼氏にでも渡しなさい」
そう言って返してきます。
「あ、でも渡さない方がいいかな? 女の家に転がり込む男は、大抵ろくでもないやつだから。気を付けなさいよ」
おどけたようにそう言います。
「なにそれ」
私も笑顔でそう返しました。そして母は玄関に向いました。私は部屋着のままだったので、慌てて着替えて追っかけます。母は玄関の外にいました。ここでいいと言いますが下まで行くことにします。
母は車に乗ってエンジンを掛けると窓を開けてこう言います。
「梨沙、今までありがとうね。お母さん、梨沙が一緒にいてくれたから幸せだった」
なんだか、母が笑顔のまま泣き出しそうに見えました。それに母が私に自分のことを、お母さんと言うのはずいぶん久しぶりでした。
「大げさだよ、お盆休みに浜松行くから。お母さん元気でね」
母はしばらく私の顔を見て、
「梨沙も、元気でね」
そう言って車を出しました。私は表の道まで車を追いかけて、母の車が坂を下っていくのを見送りました。
部屋に戻った私は急に寂しくなりました。この狭い部屋で長い間なかった、母との親密な時間を過ごしました。それはなんだか暖かくて楽しかった。一週間母がいたこの空間には、もう私一人。今から本当の一人暮らしが始まる。次に会えるのはお盆休み。さっと計算、二か月半も会えないんだ。そう思いながら座卓の上のマグカップを流しに持っていきました。朝食の食器もまだ洗っていない。その時コンロの上の鍋が気になりました。小さ目の片手鍋。ガラスの蓋がのった状態で置いてあります。朝食では使っていなかったはず。ひょっとして、母が何か作って行ってくれたのかな。ガラスの蓋越しに中を覗きます。中の物を見て慌てて蓋を取りました。中身は、一万円札が十枚。封筒から抜き取ったものをここに入れたのでしょう。私は机の所に行って引き出しを開けます。母からもらった封筒は、母を送りに出る時ここに入れました。取り出して中を数えると九十枚もありました。鍋の中にあった十枚を足すと百枚。なんだか胸がいっぱいなのか、空っぽになったのか、分からない感覚になります。私は押し入れを開けて欄間部分に置いた鞄を取り出しました。それは高校時代に使っていた学校指定のボストンバック。中には母からもらった、印鑑の入った小箱があります。そこに封筒を足して欄間に戻しました。このお金は、本当に困った時に使うことにします。
朱美がリビングから、「始まったよ」と声を掛けてきました。大晦日の夜、恒例の歌番組。見たいわけではないですが、何故か毎年見ている。私は最後の料理を持ってリビングへ。座卓に先に置いた料理に並べて置きます。既に飲み始めている朱美、料理が少し減っている。
「なにこれ、おいしそう」
最後に置いた皿を見てそう言う朱美。
「これ、お母さんがよく作ってくれたの」
ポテトとハンバーグの上にチーズをのせて焼いたもの。一人になってから作ってみて、なかなか母と同じ味にならなかった料理です。スライスしたポテトとハンバーグの柔らかさが母の物と違う。何度か失敗したのちに気付きました。ただ焼いたものを重ねてチーズをのせていただけではなかった。軽く焼いたポテトを敷いた皿の上に、同じく軽く焼いたハンバーグをのせてから、水を足して塩味で煮込んでいたのでした。だから直火に掛けられる大き目のグラタン皿を使っていたんだ。丁寧に煮込んで汁があらかたなくなってから、チーズをのせてオーブンで仕上げる。それで母と同じ味が再現出来ました。今日は朱美と食べるので少しアレンジ。ハンバーグを一口サイズにして、たくさん入れました。
「ふ~ん、お母さんね」
朱美はそう言って座椅子に着く私を見ます。
「おばさん、まだどこにいるか分からない?」
「うん」
「そっか。……とりあえず食べよう」
朱美はそう言うと、缶ビールを開けて私に差し出します。
「もう食べてるじゃん」
そう言って受け取りました。
お盆に浜松の祖父母の家で母と過ごしました。二か月半離れただけなのに、とても嬉しい三日間でした。母は近くの会社にパートで勤めていると言いました。それを聞いて安心もしました。
戻って来たお盆過ぎ頃から、同期入社の中野栄一と付き合い始めました。とっても良くしてくれたのですが、どんどん私の生活に入り込んできました。一か月も経たずにほとんど同棲状態。さらに一か月ほど過ぎると重くなってきました。束縛が強すぎる。私の自由がなくなっていることに気付いて追い出しました。三か月足らずで別れました。その時に、母の言葉が思い出されます。
『女の家に転がり込んでくる男はろくでもない』
ほんとにその通りだと、納得しながら悲しく笑っていました。
そんな頃に浜松の祖母から電話が掛かって来ます。母が私の所に来ていないかと。話を聞くと、二日帰って来ていないと言われます。母のスマホに掛けると、電波が届かないか電源が入っていないと言うアナウンスでした。祖母からさらに話を聞くと、一週間ほど前に母は失業していたようです。理由は勤め先の倒産でした。しばらく様子を見ようと言うことになります。定期的に母のスマホに電話をかけ続けます。そして一度だけ、呼び出し音が鳴ったことがありました。でも出ませんでした。二週間くらいした頃、祖父母の所に母から連絡がありました。元気だから心配するなと。どこで何をしているのか言わず、それっきりです。
朱美が食べながら言います。
「梨沙ってこの時期、いつもお一人様だよね」
母のことはもう話題にしないようです。気を遣ってくれてるのかな。でもこの話題もいただけない。言い返してやります。
「朱美も今年は一人じゃん」
「一人じゃないよ、一緒にいないだけ」
「いるんなら一緒にいればいいのに」
朱美には高校からの彼がいます。
「だってスキー行っちゃったんだもん」
「なんでスキーだとついてかないの?」
朱美は新しい缶を開けます。
「何度行ってもうまくなんないからつまらないもん。あっちも気を遣って私の傍にいるからつまらなそうだし」
「そっか、彼に気を遣って一緒に行かないんだ」
「まあね、せっかく行くんなら楽しんで欲しいもんね」
私はカセットコンロの上のおでん風の鍋をつつきます。朱美がまた話し始めました。
「でもここが空いててよかった」
空いてて? うちは飯屋でも宿屋でもない。
「なにが?」
「あんたの彼がまだいたら、私は両親と過ごしてた」
「両親と過ごせばいいじゃん」
「そしたらあんたが寂しい新年を迎えるでしょ」
「別に一人でも良かったのに」
朱美は最後のハンバーグを頬張っている。
「それにしても、この前の彼はよく懐いてたねぇ、梨沙に」
「……そっかなあ」
懐かれてたと言うより、絡みつかれてたって気分だったけど。
「梨沙を盗られたみたいで何だか妬けたよ」
「ま、私が初めての彼女だったみたいだから、大事にしようとしてくれたんじゃないの?」
もうこの話題はやめたい。
「……童貞君だったの?」
朱美が少し声をひそめて言います。酔っぱらってるな、こいつ。
「そう言うこと言わないの」
「そっかそっか、それであんなにべったりだったんだ。よく追い出せたね」
そう言って笑い始める。もうやめようよ。私は話題を変えます。
「お鍋、もう少し食べて」
そう言って私も自分のとんすいによそいます。
「なんで?」
「あとでこれにお蕎麦入れるから、もう少し具を減らしたい」
不思議そうな顔でこっちを見てから口を開く朱美。
「そっか、梨沙のとこは年越し寸前に食べるんだったね」
私も思い出しました。朱美の所は、大晦日の一食を蕎麦にするんだった。
「ひょっとしてお昼に食べちゃった?」
「いいよ、もう一回食べる。お蕎麦好きだし」
結局うだうだ話しているうちに、テレビの歌番組は最後の歌になっていました。空いた食器を流しに下げて洗い物。そして年越し蕎麦用にネギと蒲鉾を切っていました。すると足下に冷気が滑り込んできます。ベランダの方を見ると、朱美が窓を開けてベランダに出ています。そして手招きしています。私はベランダの方へ行きました。
「寒いと思ったら雪だよ。下の道、積もりかけてる」
朱美が言うように、ちらちらと雪が降っていました。
「私、冬用タイヤじゃないんだけど、明日溶けるよねぇ」
朱美はひと月ほど前に買った、ハイブリッドの赤いコンパクトカーで来ていました。
「やめば大丈夫じゃない?」
その時どこからか鐘の音が聞こえました。そんなに大きな音ではないので近くではなさそう。
「この辺りにお寺か何かあるの?」
朱美に聞かれます。
「知らない。それより寒いからもう入って」
「うん、確かに寒い」
そう言って部屋に戻って来る朱美。でも、窓は閉めるけどカーテンを閉めない。ガラス越しに雪を見ています。
「ねえ、隣、電気ついてたみたいだけど、誰か入ったの?」
「うん、一か月くらい前かな?」
朱美に尋ねられてそう答えます。うちの隣、三階の一番奥の部屋は、私の入居直後に引っ越していきました。引っ越して来たご挨拶に行った時に、来週引っ越しますと言われました。その後、改装工事をしていたようですがずっと空き家でした。そして先月の末頃に、隣に越してきましたと、入居された方が挨拶に来てくれました。
「ふ~ん、どんな人?」
「おじさんだったよ」
「夫婦で?」
「知らない」
私はキッチンで準備を整えて座卓の上の鍋に蕎麦を投入。鍋がもう一度ぐつぐつし始めたところで、大きめのお椀によそいました。そしてネギと蒲鉾を添えます。
「おでん風の出汁だからちょっと甘いけど」
そう言って朱美に勧めます。
「いいよ、おいしそう」
朱美は何でもおいしそうと言って食べてくれる。
蕎麦をすすり終わったころ、テレビの中の女性が新年を告げました。同時に朱美のスマホから音がします。彼からの新年メッセージ。自慢げに私に見せます。私はそれを見て、母にショートメールを送りました。返事くれると嬉しいな。母はどこで新年を迎えてるのかな。そんなことを考えました。
メッセージのやり取りを終えた朱美がカーテンを閉めに行きます。
「寒い寒い、エアコンの温度上げてよ」
私はリモコンを操作。
「朱美が窓開けるから寒くなったんでしょ」
「それよりこれこたつでしょ? なんでこたつとして使わないのよ」
「布団買いそびれてるから」
「意味ないじゃん」
「だって、こたつ布団抱えてバス乗るの、なんか恥ずかしいから」
「ネットで買えばいいじゃん」
「そっか、思いつかなかった」
「もう、明日雪やんだら買いに行こ」
社会人になった最初の年は色んな事がありました。そして、こんな感じで終わり、新年を迎えました。
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