第八章 イライラとハラハラ

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第八章 イライラとハラハラ

 全面にウッドデッキの張られた中庭で、桐野建設の重田さんと並んで壁を見上げていました。正確にはダイニングエリアと中庭を隔てるサッシ上部の壁を。もっと正確に言うと、そこは梁があるところ。ダイニングエリアは吹き抜けのように天井が高くなっているので高窓があります。その高窓と下のサッシの間の部分。寸歩で言うと約1200(ミリ)の範囲。  今日から十月、制服を着ていたころなら冬服に変わる日。なのに腕をまくりたくなるくらい暑い。前の章で、衰えた、と言われた太陽さんが、そんなことはない、と言っているかのように頑張っている。まだここに立って何分も経っていないのに、おでこの辺りに汗が滲んでいる。天気予報では最高気温二十八度って言ってたっけ、なんて思っていたら重田さんが口を開きました。 「ほんとにあれが使えるものなの?」 重田さんが言う「あれ」とは、サッシの上200(ミリ)くらいの所で4メートルほど横に並んで壁から50(ミリ)ほど突き出ているボルトのことです。間隔も約200(ミリ)。それは庇を付けるために先に仕込んであったものです。庇用の下地として入れた小梁材の裏から貫通させて表に出してあるもの。当然裏では固定されています。なので予定していたアルミの庇を取付ける分には何の問題もありません。問題なのはその庇をガラスにするようにと、お施主様が言い出したこと。またかって感じ。  昨日の日曜日、家具の搬入にお施主様が立ち会っていました。搬入、設置は問題なく夕方になる前には終了。その頃に短時間ですが雨が降りました。 「ここは庇がつくんだったよね」 サッシ際で中庭のウッドデッキに落ちる雨粒を眺めていた久野夫妻のご主人の方が、そう重田さんに声を掛けました。 「はい、つきますよ」 「なんでまだついてないの?」 「まだ中庭の外壁に取り付ける照明器具等の工事が残っていますから、庇があると作業しにくいので」 それらの残工事も急に器具が変更、追加されたので、まだ製品が間に合っていないものでした。 「そっか、それは良かったかも」 重田さんの返事にご主人はそう返します。そして空を見上げて沈黙。重田さんの頭には悪い予感が。しばらくしてご主人がまた口を開きました。 「どこかでガラスの庇を見たんだよね。壁からガラスだけ突き出てるみたいなの、そういうのあるよね?」 いいえ、そんなものはこの世に存在しません! と、言いたい衝動を抑えて重田さんは答えます。 「ええ、ありますね」 「それに替えて」 あっさりそう言われてしまう。 「え~っと、分かりました。すぐに業者と相談して、どういうものがあるか確認します」 「ま、確認って言っても、ガラスだけ突き出てるみたいに見えるやつならそれでいいから」 「はあ」 「そうだ、ここの庇って、出幅って言うのかな? 壁からどのくらい出てるんだったっけ」 重田さんの重くなった気分に関係なく、軽やかに言葉を吐き出すご主人。 「えっと確か600、60センチです」 「60センチは小さいなぁ、どのくらいまで出来る?」 「すみません、確認しないと分かりません」 「そっか、ガラスなら暗くならないよね、出来るだけ大きいのにして、最低1メートル。出来るなら2メートルくらいあってもいいから」 そんなでかいの作れるか! とは言わず、 「分かりました、明日確認して、またご連絡します」 と、重田さんは返してから続けました。 「ただ、物が変わるので壁の中の今の補強などが使えなくなるかもしれません。そうなると、そういうもののやり替えが必要になりますから、その分また日数がかかりますけどよろしいですか?」 「うんいいよ、ぜんぜん慌ててないから」 このところやたらと家具の搬入予定を告げてくる久野夫妻。重田さんはその度に最終仕上げやクリーニングの段取りに追われていました。なので引っ越しを急いでいると思って投げかけた言葉ですが、あっさりそう返されてしまう。 「新築披露を兼ねて、クリスマスパーティーがここで出来ればいいかなって思ってる程度だから、ほんとに慌てなくていいですよ」 工事期間が延びることを重田さんが申し訳ないと感じていると思ったようで、ご主人は優しい顔でそう言うと離れて行ったのでした。  今朝の重田さんからの電話で、昨日のこの話を知らされました。そしてどこかやれるところを探してもらえないかと頼まれました。本来は施工している工務店が、自社の協力業者に相談するものです。でも重田さん自身が庇製品をあまり扱ったことがなく、どの業者に頼めばいいかすぐに思いつかないのでした(予定していたアルミ庇の業者は扱っていないと返事したそうです)。そして本来は手の空いてくる、最終盤になった現場。もう重田さんの部下はいません。でもここに来て多忙を極めている。お施主様のその他にも多々ある変更追加部分の施工指示や確認。ほぼ一方的にお施主様が搬入してくる家具や備品の受け入れ段取り。よく知らない製品に悩んでいる余裕はなくなっていました。  私は電話を受けてから青木さんに相談。すると非木建築(木造ではない建物)のサッシのことを時々相談している、馬池工業に聞くように言われました。馬池工業の方とは私も何度か、清水さんの担当現場でのことで電話、メールでのやり取りがありました。なのですぐに電話で相談。いつも相談に乗ってくれる設計担当の阿部さんと言う女性に話をすると、予定していたアルミ庇用の下地があるなら問題ないと思うけど、一度現場を見させて、と言われました。そして彼女は十三時に現場に来てくれることに。なので私は十二時半に現場に来て、先に重田さんと現場を見ているのでした。 「多分使えると言ってましたけど」 私は重田さんが言う「あれ」を見ながらそう返しました。 「そっか、使えるのか」 あれ? 喜ぶとか、安心すると思ったのに、予想外にがっかりした感じです。 「何かあります?」 反応が予想外だったのでそう尋ねました。 「え、なんで?」 「なんかがっかりした感じなので」 すると周りの人影を確認してから少し声を落としてこう言います。 「いや、大規模に補強工事が必要とか言ってくれたら、やらずに済むかなって、少し思ってたから」 「やりたくないですか?」 「そう言うわけじゃないんだけど、一つくらいやれないことが出てこないかなって……。ま、忘れて、問題ないならそれが一番だから」 なんとなく気持ちは分る、分かり過ぎちゃいます。いい加減何もかも思い通りにされるのに抵抗したいのでしょう。出来ることなら協力したいです。  そこへ思い通りに現場を振り回している元凶の一人、奥様が近付いてきました。 「重田さん、裏の部屋なんですけど、小さい方の部屋も水回りの設備、準備されてますよね」 そしてそう言います。奥様はなぜか裏口(家族の玄関)周りにこだわりがあります。散々変更や追加の注文を求めてくるのはそのあたりばかり。一番ひどかったのはバリアフリー対応になっていなかった裏口周辺も、全てバリアフリーにするように言い出した時。必要ないと言うご主人を説得してまで変更してきました。  逆に、ご主人の要望で本格的な防音、吸音構造で作った、裏の玄関近くのシアタールーム。それを普通の部屋にするように言い出したのも奥様。それに伴う変更、改造もたくさんありました。ま、ご主人もシアタールームを捨てきれず、表のリビングにシアタールーム的なエリアを作れと言い出したみたいだけど。当初、この変更も奥様が言い出したと思っていましたが、実はこっちはご主人でした。そしてその、元シアタールームとその隣の小部屋、元々はシアタールームに付属の物入れ部屋に、将来的にキッチンやトイレを設置することになった場合、すぐに出来るように準備工事は終わらせておくように言い出しました。 「はい大丈夫ですよ」 重田さんは姿勢を正して答えます。 「よかった、お手数増やしちゃってすみませんでした。ありがとうございます」 無理なことを言うくせにこういう言葉が自然と出てくる変な人です。奥様は私達に並ぶと、私たちが見ていた壁を見上げました。そしてこう言います。 「昨日、主人が言っていたガラスの庇、出来るんですか? あんまり手間がかかるようなら、私から主人に話しますから無理しなくていいですよ」 強硬に変更を要求してくるかと思ったら、こんなことも言い出す奥様。う~ん、よく分かんない人だ。ひょっとすると、自分が思いついたことは絶対にやりたいけれど、ご主人が言い出したことはどうでもいいのかも。 「ありがとうございます。でもすでに工事済みの下地が使えそうですから」 「そうですか」 そんなやり取りをしているところに、小柄な女性が近付いてきました。 「あのー、青田設計の高橋さんって見えてますか?」 「はい、私です」 そう言われたので返事しました。返事しながら女性を観察。年齢は私よりはかなり上、青木さんよりは若いかな。そして背が低い、私より明らかにかわいらしい、もとい、小さい。着ているジャンパーは大手サッシメーカーのロゴがあるだけで、会社名など入っていない。誰だろう? 「馬池の阿部です。今まで電話でだけだったので初めましてですね。よろしくお願いします」 そう言って名刺を差し出してくるので慌てて名刺交換。阿部さんと待ち合わせしていたことと、サッシメーカーのジャンパーを見て気付くべきでした。でも、電話での阿部さんは端的、的確に要点だけを話す、大人の女性のイメージ。なのでこんなにかわいい(背格好だけだけど)イメージは想像していませんでした。でもやっぱり電話での阿部さんと同じでした。重田さん、奥様への挨拶が終わるとすぐに壁を見上げて口を開きます。 「電話で聞いた取付用のボルトってあれですね、200(ミリ)ピッチかな? 出幅600(ミリ)までならこのままで取付できます」 そしてカタログのコピーを鞄から出して差し出してきました。カタログの写真を見ると、壁にガラスを挟み込む金物があるだけで、あとはガラスしかありません。風が吹いたら簡単に割れそう。 「これで強度は大丈夫なんですか?」 思わずそう聞いてしまいました。 「カタログにも載っていますけど、2000パスカル(1平米あたり)はクリアしてます」 即答で返って来ました。通常一階部分のサッシに求められる耐風圧強度は800~1600パスカルなので、2000パスカルあれば問題なしです。 「出幅は最大いくつまで出来ます?」 カタログを見ながら重田さんが質問しました。 「支持アーム無しだと600(ミリ)です。支持アーム付きだと1500(ミリ)まで出来ます」 重田さんは説明を聞きながらカタログの写真を見て、これがアームか、などと呟いています。支持アームと言うのは庇の少し上の壁面から斜めに庇まで伸びて、庇を吊り下げているパイプのようなものです。阿部さんは続けて話し始めます。 「ただ、支持アーム用の下工事がされていないようなので、付けるならそれ用の工事もしないといけないですね」 「どのくらいのこと(工事)が必要?」 重田さんが尋ねます。 「支持アームを取付ける位置にボルトを貫通で入れたいです。正確な位置やピッチは図面を描くときに計算するので今は言えません」 「貫通でってことなら裏が見れないと出来ないってことだよね」 「そうなります」 「ここは内装の壁を剥がせば簡単に見れるけど、あっちの庇の上はすぐに軒だし、中は天井裏で軒先側だから入り組んでて作業できないかも」 重田さんはそう言いながら中庭を挟んで向かい合う、家族用のリビングの方を指しました。そうでした、あっちのサッシの上にも庇が付くのでした。そしてそのリビング部分の中庭側には二階がなく、中庭に向って勾配の付いた屋根が見えていました。その屋根には二か所ほど、ガラスの入ったトップライトが付いています。阿部さんは中庭を横切ってそちらに向かいます。そして状況を見るなりこう言いました。 「こっちは軒樋が近すぎて支持アーム自体が付かないです」 確かに施工済みの取付用ボルトから200(ミリ)くらい上には、すでに雨樋が付いています。 「と言うことは、こっちはアーム無しで出幅600(ミリ)が最大ってことか」 阿部さんの後ろに立って重田さんがそう言いました。 「そうなります。(出幅は)いくつ欲しいんですか?」 阿部さんがそう返して質問すると、重田さんはずっと傍で話を聞いている奥様に気を遣いながらこう言います。 「最低1メートルがご希望です」 阿部さんは目の前のサッシ周りを見回しながら良策を考えている様子。そして出た答えはこうでした。 「庇の為にこの面の壁や屋根を壊して、作り直す気はありますか?」 「いや……」 重田さんは言葉が続きませんでした。すると、 「そこまでしなくていいですよ。このままで取付けられるサイズの物で構いません」 と、後ろから奥様が声を掛けてきました。 「ほんとによろしいですか?」 重田さんは恐縮しながら確認。 「ええ、無理なものは無理だって、私から主人に言っときますから」 「ありがとうございます。ではあちら側は一番大きなものでやりますので」 そう言って最初のダイニング側を重田さんは示します。でも奥様は、 「あっちも内装剥がすとかさっき言ってませんでした? 今更そこまでしなくていいですよ。付けれるものを付けといてください」 と言ったあと、それより、などと言いながら重田さんを裏口の方に引っ張って行ってしまいました。ここにはそれほど関心はないけれど、裏口の方にはまだ執着があるようです。  重田さんと奥様が離れたあと、阿部さんが少し近づいて来ました。 「どうします?」 そしてそう聞かれて少し考えます。 「とりあえずどちらも(出幅)600(ミリ)で施工図描いてください。施工図描くのに必要な部分のこちらの図面データはメールしましたけど、他にも必要なところがあれば言ってください」 そしてこう答えました。 「分かりました」 阿部さんはそう返してくれましたが、私は最初に話していた窓の方を指してまだ続けました。 「あと、申し訳ないんですけど、そっちのはアーム付きの(出幅)1メートルの場合の図面もお願いできませんか? 最低1メートルとかって言ってたので」 「いいですけど、壁壊してまではいいっておっしゃってませんでした?」 「そうなんですけど、そこの壁剥がして戻すくらいなら、そんなにすごい手間ではないんで」 と言っても、周りは全部仕上がっている中でやるとなると、何もかも埃、傷よけの養生したりして、大変ではあるのだけれど。そして仕上がった壁を剥がすのは、もったいないとしか言いようがないのだけれど。 「分かりました。ところで見積りなんですけど、うち(馬池工業)は桐野建設さんとはお付き合いがないんです。どこ宛でお作りしたらいいですか?」 そっか、それは考えていなかったけど問題だ。  この業界は、買いたい人と売りたい人がいても取引できないと言う、理解不能なルールが決められた商流があります。例えば阿部さんのいる馬池工業が代理店をしているサッシメーカーで、桐野建設は違う代理店のお客さんだと決められていた場合。仮に桐野建設から馬池工業に発注されても、そのメーカーは馬池工業に製品を出しません。そのメーカーでは、馬池工業は桐野建設と取引すべき会社ではないから。そしてその原則は広義にとらえられていて、今回のようにそのサッシメーカーで扱っていない製品であっても、取引を良しとはしません。それを無視して取引すると、そのメーカーが決めた代理店が契約した場合に、通常得られる利益額の何割かに相当する金額を、馬池工業はその代理店に支払わないといけなくなるそうです。仮にそう言うペナルティーを払う前提でも良しとはしないので、繰り返すと最悪の場合、代理店の資格が無くなったりするそうです。  わけ分かんないですよね。でも私はこの春からのわずかな期間の経験で、このタブーに触れる失敗を2回もしています。どちらもサッシの商流ではないですが、現場で困ったことを相談した会社にそのまま依頼したら、その会社がどこにも請求できなかったって感じの失敗です。青田設計で立て替えて処理したようですが、各所に心配と迷惑をかけたのは間違いありません。2回目以降は気を付けるようにもしていますし、独断で依頼しないようにとも思っています。でもまたやってしまいそうでした。だって、買いたい人に売ってはいけないルールがあるなんて、そもそも私の中の常識が受け付けないんだもん。  でも今回は元がハウスアートの仕事なので多分大丈夫。ハウスアートはゼネコンでも建材の会社でもないので、その理解不能なルールの範囲外の会社です。ん? ハウスアートはハウスメーカーだって言ってなかったかって? だったらゼネコンだろって? そうです、ゼネコンでもあります。でも、各建材業界のルールは何故か非木(木造ではない)分野でのみ適用。ハウスアートは非木の建物も建てますが、ほとんどが木造なのでルール外の会社なのです。ほんとにわけ分かんないでしょ? そして基本的にハウスアートはどこからでも物を買う会社です。私の思い違いでハウスアートでもダメな場合は、青田設計が間に入ればいいはず。青田設計はサンプルとして建材業者から結構色々な製品を買います。そしてサンプルとして製品を使った物件の経費として処理したり、その物件の施工業者等に請求します。ハウスアートとはしょっちゅうそう言うやり取りをしています。なので多分大丈夫。  私が、ハウスアートかうち(青田設計)で、などと考えていて、すぐに返事しなかったので阿部さんが続けてこう言ってくれます。 「ここはハウスアートさんのお仕事でしたよね? ハウスアートさんにしておきましょうか?」 「ハウスアートさんとはお付き合いあります?」 なんだかラッキーって感じでそう聞きました。 「ええ、青木さんの依頼で時々やらせてもらってます」 「でしたらそうしてください。助かります」 なんだ、またやらかしたかなって一瞬心配したけど、無用の心配だったみたい。 「わかりました。では見積りと同時に図面の方もすぐにかかりますね」 そう言って阿部さんは帰って行きました。  私は重田さんを話し途中で引っ張って行った奥様の方も気になって、裏の玄関の方に行きました。でも二人の姿はありません。誰のか分かりませんが、外履き用のスリッパがちょうど土間にあったので、ちょっと拝借して外へ出てみました。ちなみに裏の玄関も自動ドアです。すると外に出て右手の方で重田さんがしゃがんでいます。そこは車三台分の広さがあるガレージの出入り口。またまたですが、そこも自動ドアです。ほんとに自動ドアが好きなお施主様だ。近寄っていくとガレージの中に奥様がいました。なんとガレージの床に膝をついて、奥様もしゃがんでいます。 「どうしたんですか?」 思わず声を掛けてしまいました。 「このレールの所でちょっと段差が出来ちゃってるんだけど、それがどうにかならないかと」 一瞬私を見上げてから重田さんがそう言います。大きな外車も余裕で入るように、外の道側に付いたシャッターからの奥行きが8メートルほどある車庫。そして排水のための床勾配は、当然奥から道に向って付いています。自動ドアはその奥行きの真ん中あたりから、少し奥側にあります。それは勾配の途中にあるということ。レールの水上側は床と同じ高さで段差ゼロにしても、水下側は勾配で床が下がっていくので段差が出来てしまいます。しかもここは工事途中から無理矢理バリアフリーにしたために床を上げたところ。元々裏の玄関は、普通に一段下がってからドアでした。そしてドアの下レールを挟んで外部はさらに一段下がっていました。その外部とつながる車庫内の床は当然その高さです。それを内部の床の高さにまで上げたのですが、外の道の高さは変えれません。なので車庫内の勾配は床を上げた分だけ、最初の設定よりきつくなっています。見ると一番段差が付いているところで25(ミリ)くらいありました。でもしょうがないのでは、と思ってしまう。 「バリアフリーなんだからこんなに段差があったらダメでしょ?」 段差部分を手で撫でるようにしながら奥様がそう言いました。 「でも、中で洗車もするとご主人がおっしゃてったので、水勾配は必要ですから」 重田さんが奥様にそう返します。 「でも、もう少し何とかしてもらえないですか? これはちょっと気になります」 奥様も簡単には引き下がらない。いつものことだけど。  重田さんは考え込んでしまいます。私も何か解決策をと思いますが、私の能力ではまだ何も思い浮かびません。でもしばらくすると重田さんが奥様の方を見てこう言いました。 「このレール周辺だけ、レールとの段差が出ないようにモルタルで別の勾配作ります。もちろん、全体的にはちゃんと外に水が流れる格好で」 「ありがとうございます。毎回本当に申し訳ないですけど、よろしくお願いします」 重田さんの言葉を受けて、奥様は本当に申し訳なさそうにそう言いました。でも重田さんがもう一言言います。 「でも、見た目ではこの辺りだけ変な床の感じになってしまうと思いますので、そのあたりはご主人にもご了解いただけるようにお話しいただけないですか?」 「もちろん、私から話しておきます」 そのあと奥様は立ち上がると、もう一度よろしくお願いしますと頭を下げてから、家の中に入っていきました。無理を通すときと、頭を下げるときのメリハリがすごい方です。  奥様が行ったあと立ち上がった重田さんに、阿部さんに依頼した内容を伝えました。するとこう言われます。 「表のダイニング側は最大の1500(ミリ)で良かったのに」 「えっ、最低1メートルって言ってませんでした?」 「最低はね。ま、いいよ、ありがと。図面出てきたらすぐ見せてね」 「分かりました」 重田さんはスマホを出して電話をかけようとしますが、私はまた話し掛けました。 「奥様とはずっとここの話をしてたんですか?」 すると重田さんは電話をかけるのをやめると、玄関から門扉までの地面を指して、 「ここの勾配がまだきついから、もう少し緩くならないかって言われてた」 と言います。これまた、またかって話です。同じことを以前も言われて、玄関の正面にあった門扉を出来るだけずらした位置に変えたのです。そうやって玄関と門扉の距離を離して、少しでも勾配を緩やかにしたのでした。ここの地面は石風のタイルなので、スネークラインで勾配を付けて貼っていくと言うのは難しい仕事。業者の方々が苦労してやり替え作業を終えたばかりの所です。これでも気に入らないんだ、と思っていたら重田さんが続けて話します。 「ま、現状ではこれ以上無理だから、そう言ったら納得してくれたけどね」 「そうですか、良かったです」 そのあと重田さんは電話を始めたので、私は現場を離れました。  久野邸の現場を出たあと、私は東海市の現場へ向かいました。歯科医の広瀬様の住宅現場です。広瀬邸は順調に地鎮祭なども終えて、基礎の掘削をしていました。それも今日、明日くらいで終了予定。そのあとは掘り下げた基礎の底の部分に石を敷き詰めて突き固めていきます。そして防湿材や断熱材を敷き詰め、その上から捨てコンと呼ぶコンクリートを流し込みます。それで基礎のための基礎が完了と言った感じです。  今日私がここに来た目的は、掘り下げた部分の状態を確認することです。下から水がしみ出していないか、弱そうな土壌になっていないか、土の色がおかしくないかなど。でもはっきり言って、私が見たって分かりません。それにそんなことがあれば、掘削中に現場から報告が来るはずです。これは単に私の勉強のため。早く仕事を覚えるために、あらゆる段階での現場を見せようとする青木さんの計らいです。 「ご苦労様」 掘削された地面の縁を歩いていたら声を掛けられました。施工してくれている鈴木木材の山田さんでした。会社名は鈴木木材となっていますが工務店です。ここはハウスアートの現場で、鈴木木材さんは下請けで施工していますが、自社営業での戸建て住宅の販売施工もしています。その時はうち(青田設計)に設計依頼をしてくださるお客様です。そのパターンの時のうちの担当は久保田さん。 「こんにちは、お世話になってます」 山田さんに挨拶を返しました。 「いえいえ、こちらこそ。今日は?」 丸顔に丸い体形の山田さんが笑顔でそう聞いてきます。現場監督さんなので、作業しているわけではないでしょうがすごい汗です。 「お邪魔してすみません。工事の進み具合を見に来ただけで、特に用があるわけではないです」 「そっか、明日から砂利入れも始めるから予定通りだよ」 「そうですか」 現場の状態は見たし、予定通りと言う言葉も聞いたので、もう用はありません。私は現場の中から外に向って歩き始めました。 「では、捨てコン終わったころにまた来ますね」 そしてそう言いました。 「もう帰っちゃうの?」 なんて言いながら山田さんは私の後ろをついてきます。そして現場の外に出るあたりでまた声を掛けられました。 「高橋さん、今週の金曜、夜用事ある?」 「は?」 ヤな予感。 「先月まで僕もいた本郷の木村邸の現場、金曜の昼から引き渡しなんだ。で、引き渡し終わったらみんなで飲みに行くんだけど、来ない?」 そう、山田さんはこの現場の担当になるまで本郷の現場にいました。本郷と言うことはうちの事務所のすぐ近く。近いので久保田さんに連れられて、研修代わりに何度か行った現場です。そして現場で挨拶してからしばらくしたある日、帰るときに駅前で出くわし、飲みに誘われて断れず、ついて行ってしまいました。それ以来しょっちゅう誘ってくる。誘いに乗ったのは最初の一回だけ、断り続けているのにめげない人です。 「すみません、友達と約束してます」 嘘です。 「そっか、残念だなぁ。高橋さん来るとみんな喜ぶと思うんだけどな」 みんなって、あの現場では(鈴木木材の人は)最大で三人しかいなかったと思うけど、三人で飲む予定だった? 怪しいなぁ。 「すみません。皆さん集まるってことでしたら、私はダメですけど、久保田や青木には言っときましょうか?」 と、言ってみる。するとこう言われてしまいました。 「ああ、青木さんは欠席みたいだけど、久保田さんは来ることになってるから」 あら、ほんとにそんな話があったんだ。と言うことは単なる飲み会ではなくて、関係者を集めたちゃんとした打ち上げなんだ。疑ってごめんなさい。でもだったら最初から飲みに行くなんて言わずに、打ち上げがある、聞いてない? くらいのこと言えばいいのに。ま、どっちにしろ行かないけど。 「そうだったんですか。ごめんなさい、聞いてませんでした」 そう言ったのはもう車のドアを開けるころ。 「最初から高橋さんもメンバーに入れとけば良かったね」 いえいえそんな気遣い無用です。 「いえそんな。ではこれで失礼します」 私は車に乗り込みました。 「お疲れさまでした。また飲みに行こうね」 そう言う山田さんに軽く頭を下げてから車を走らせました。  帰り道、名二環(高速道路)で事故渋滞に一時間以上もつかまりました。余裕で五時までに戻れるはずだったのに、帰り着いたのは六時半頃。時間が遅いので青木さんはいないだろうと事務所裏に乗り入れたら、こんな日に限って青木さんの車が停まっている。所定の駐車場から本郷駅を左に見ながら事務所に向って歩きます。なんとなく駅の方を見てしまう。少し前から視線を感じるときがあるのです。それにその視線の主を見かけたような気がする時もありました。出来れば会いたくない相手の姿を。  気の所為だったようで、気になる相手は確認できませんでした。自意識過剰なのかな、なんて思いながら目の前に注意を戻すと、目の前にいました。目の前のバス停の列に並んでいました。あ、この人は会いたくない相手ではありません。 「こんばんは」 私から声を掛けました。教文大の現場にいた市山組の前原さんです。9号館の改修工事のとっかかりでお世話になりましたが、彼は3号館の改修工事の人員だったので、そっちが完全に終了した四月末から違う現場に。新しい現場は栄の繁華街の中の商業ビル。前原さんは本郷駅から北に少し行ったところに住んでいました。その現場へは本郷駅から地下鉄一本で行けます。なので今は電車通勤。五月半ばにこの場所で出くわし、最初は立ち話をする程度でしたが、その後時々一緒に食事したりするようになっていました。 「ああ、こんばんは」 スマホから顔を上げて私を見ると挨拶を返してくれました。 「いいですね、もう帰れるなんて」 「そっちはまだ仕事?」 「前に話した豪邸の現場に振り回されてます」 「まだやってるんだ、お疲れ様」 笑顔でそう言ってくれる。 「ほんとは先月で引き渡しの予定だったんですけど、まだ当分かかりそうです」 「そうなんだ」 「ええ、まだ変更や追加のご要望が出てくるので。今日もですよ」 そう言ってるとバスが来ました。 「そっか、頑張って。連絡くれたらゆっくり愚痴聞くから、またね」 そう言って前原さんはバスに乗り込んでいきます。別に愚痴を聞かせたいわけじゃないけど、毎回言ってるかも。  事務所に戻ると入ってすぐの打ち合わせテーブルで、清水さんと外注設計の三輪さんが打合せ中でした。三輪さんはこのくらいの時間に時々来ています。二人とも難しい顔をしているので軽く挨拶だけして通過しました。隣の設計の部屋へのドアを開くと、青木さん、久保田さんが誰かとミーティングテーブルで話していました。二人と同じくらいの年代の男性です。 「戻りました」 そう声を掛けて部屋に入ると三人がこちらを向きます。やはり男性の顔に見覚えはありませんでした。 「お疲れさん、遅かったね、ちょっと待ってて」 青木さんはそう言ってから男性と話を再開。久保田さんは私の方に数歩近寄ってきます。 「お疲れさん。広瀬邸の現場行ったんだよね、山田君元気だった?」 山田と聞かされて、丸顔のイメージが浮かんできてしまう。 「ええ、元気そうでしたよ」 私は自分の机に荷物を置きながら返事しました。 「彼、現場責任者やるの初めてだから、なんか心配なんだよね。痩せてなかった?」 あの人が痩せた姿が想像できない。 「いえ、全然変わりなかったですよ」 「そっか、まだ始まったばかりだからね。これから忙しくなるとどうなるか。高橋さんも気に掛けてやってね」 「はあ」 「僕は今回担当外だから現場には顔出さないけど、憂さ晴らしの酒の方はつき合っとくから」 そのセリフで思い出しました。 「そうだ、木村邸、金曜に引き渡しで、そのあと打ち上げやるって聞きましたけど」 そう言うと、意外そうな顔をして久保田さんがこう言います。 「あれ、ひょっとして出たい?」 「え、いえ、そう言うわけでは」 久保田さんが嬉しそうな顔で近付いてきます。 「いや、高橋さんは出たがらないと思って声掛けなかったんだけど、まだ人数足らないから良かったら来てよ」 人数足らない? しまった、余計なことを言ってしまった。 「いえ……」 次の言葉を考えていると久保田さんが続けます。 「お施主さんが気を遣って、工事関係者を労いたいって言ってくれたんだ。ま、すぐそこの居酒屋なんだけど、20人で予約したって言うから」 そう言う事なら出ても良かったんだけど。 「鈴木木材の関係者や、下請けの担当者あたりに声掛けてるんだけど埋まらないんだよ。だめ?」 なんだか行きますって言ってしまいそう。でも今更言えないよなぁ。しょうがない、正直に話そう。 「すみません、山田さんから引き渡しの後、飲みに行こうって感じで誘われたので、用事があるって断ったんです。ですから今更……」 すると少し残念そうな表情に変わった久保田さんが、一呼吸おいてからこう言います。 「と言うことは、本当は用事ないの?」 「ええ、まあ……」 こう言うしかない。 「でも山田君の誘いを断ったってことなら、やっぱり今更か」 久保田さんは同情的にそう言ってくれる。 「すみません」 「ま、しょうがないか。気が変わったら、じゃなくて、用事が無くなったら言ってよ、歓迎するから」 「分かりました」  久保田さんはそれで青木さん達の方に戻ります。青木さん達も話が終わったようでこちらを向いていました。 「高橋さん、こっち来て挨拶して」 青木さんにそう言われて向かい掛けると横の男性がこう言います。 「名前は聞いてますよ、高橋さん。今日は純子がお世話になりました」 とても明るい顔でした。でも、純子って誰? そう思いながら名刺を差し出しました。 「高橋です、よろしくお願いします」 「阿部です、よろしく」 阿部? 受け取った名刺を見ると、『馬池工業株式会社 阿部正善』となっている。しかも代表取締役社長の肩書。そう言えば昼間、久野邸の現場に来てくださった女性の阿部さんの名刺は、『阿部純子』となっていたような。ひょっとして奥様? あの人、社長夫人だったの? なんて思っているうちにまた阿部さんが、もとい、阿部社長が話し始めます。 「今日の庇の図面、今夜やるって言ってたから、今頃やってるんじゃないかな?」 明るい笑顔のままで。でも私は恐縮した顔でこう聞いてしまう。 「あの、現場に来てくださったのは奥様ですか?」 「そうだよ」 「そうだったんですか。ええ? で、社長の奥様が図面もされるんですか?」 「そうだよ」 なんだかさらに恐縮してきました。 「すみません、社長夫人を現場に呼び付けて、その上図面まで描かせてしまうなんて」 そう言うと少し吹き出すように笑ってから阿部社長は言います。 「社長夫人って、やめてやって。うちみたいな零細企業の社長夫人だなんて呼ばれたら、あいつ怒っちゃうよ」 「いえ、その、すみません」 そんな言葉しか出てきません。 「純子が褒めてたよ。って、よその会社の人を褒めるなんて言ったら失礼だけど」 明るい表情のままそう言われる。 「え?」 「建築業界はまだ半年くらいなんでしょ? それにしては色んな事が分ってるみたいでそうは思えなかったって」 いや、そんな風に思ってもらえるほどの会話してないと思うんだけど。 「いえ、ぜんぜんそんなことないですよ。奥様こそ図面描けるなんてすごいです」 なんか私わけわかんないこと言ってる。でも真面目に返してくれる阿部社長。 「図面はすぐに描けるよ。と言うか、スケッチみたいな図面、打ち合わせ中とかに描いたことない? そう言うのだって辻褄がちゃんと合ってれば図面だから」 阿部社長の言葉を受けて青木さんが口を開きます。 「僕もそう言うんだけどね。実際彼女が打合せで書いてくる平面なんて、最近はスケールもほぼ合ってるから、もう立派な図面だよって」 「アオちゃんがそう言うなら間違いないな」 なんだかこそばゆい。でも、アオちゃん? どういう関係なんだろ。 「でも高橋さんはCADで描かないと図面じゃないと思っちゃってるから。僕らが図面描き出したころは、CADなんてなかったのにな」 「それはアオちゃんが教えてあげなきゃ」 「私には無理とか言って覚える気がないんだよな」 青木さんがそう言いながら私を見ます。なんだか責められてるような気が。すると阿部社長も私の方を見て言います。 「高橋さん、そんなに難しくないよ、CAD」 「そうですか?」 「純子は僕が教えて2、3週間で大体使えるようになったよ」 「え、そうなんですか?」 「うん、それも10年くらい前のことだから、四十過ぎてからの話だからね」 「……」 「ああ、ただ2、3週間ではCADが使えるようになっただけで、まだ図面は任せられなかったけどね。図面描くには描くための知識が必要だから」 「ですよねぇ」 「でも、今の青木の話では平面図描く知識はもうあるんでしょ? だったらあとはCADでそれを描くだけだよ」 「はあ」 「まあ、サッシの施工図と違って、建築図はもっと沢山の知識が必要だから、僕が安易に言うわけにはいかないけど。でも描いたものに責任持つのは高橋さんの上司の青木だから、青木がしっかりチェックすればいいだけ」 う~ん、どう返せばいいんだろう。 「なんか僕に振られちゃったけど、実際そうだから。大手の設計事務所で図面描いてるスタッフだって、建築士の資格持ってる人ばかりじゃないよ」 私が黙ってると青木さんがそう言いました。 「そうなんですか?」 「うん、別に資格持ってない人間が描いても、図面は図面だから。それを公の図面にするには資格がいるだけ。だから資格持った建築士が図面をチェックして、その人の名前で公の物にする」 「……」 「清水だって二級とったのは早かったけど、一級なんて最近やっと受かったんだから」 青木さんがそう言うと後ろから声がしました。 「最近って、三年前です」 いつの間にか清水さんが部屋にいました。 「そっか、でもそのずっと前から描いてたよな」 「まあ、CAD使いたかったんで」 なんだかCADを教えてもらおうかなって気になって来ました。建築士じゃないと図面を描いてはいけないって認識が強くて、CADは建築士が使う物って思い過ぎていました。考えてみればサッシも含めて、建材の業者さんがCADで施工図を描いてくるけれど、建材の設計の方が建築士を持っているとは思えない。そんなに難しく考えることではなかったのかも。 「さあ、もう遅いから終りにしようか。高橋さん、何かある?」 青木さんがそう言いながら片付けを始めます。 「いえ、さっき阿部社長がおっしゃってた庇のことぐらいです。あ、まだありました。久野邸の裏のガレージの入り口の段差のことを奥様から言われたんですが、重田さんがモルタル塗って何とかするってことです」 「わかった、じゃあ僕は久保田さんと阿部と出ちゃうけど、いいかな?」 「はい」 清水さんも頷いています。それで三人は出て行きました。  三人が出て行ってから清水さんに話し掛けました。 「まだ打合せか何かあるんですか?」 「え? ああ、飲みに行ったんじゃない? 阿部さんが夕方来ると大抵そうだから」 「青木さんと阿部社長って、友達か何かですか?」 「前の会社が一緒。しかも同期だって」 「なるほど、それでなんか親し気なんですね」 そう言いながら私は自分の机に向かいます。でも後ろのキャビネット越しに清水さんに呼ばれました。 「ちょっとこれ見て」 キャビネットには図面が広げて置かれています。3週間くらい前にとあるビルの現場でもらって来たチェック図でした。 「これ見覚えあるよね」 「はい」 すると清水さんは図面の赤ペンで記された標記を示してこう言います。 「このチェック見た時、現場で何か言った?」 それはそのビルのエレベーターホール部分の平面図でした。そこにはエレベーターホールと、それにつながるホールの間に、ドアが付いた間仕切り壁があります。でも赤ペンで壁に×が付けてあります。 「この壁なくすんですねって聞いたと思います」 「それで?」 「そうだって言われたので、分かりましたって言ったと思いますけど」 すると清水さんが私の顔を覗き込むように見ます。 「分かりましたじゃなくて、大丈夫です、とかって言ってない?」 よく覚えてないけど言ったかも。 「すみません、言ったかもしれないです」 清水さんが睨んでいる。なんかやらかしてしまったんだろな。 「聞かなかった俺も悪いけど、このチェック図の説明してくれた時にそういう会話をしちゃったって言って欲しかった」 声が少し怖いです。そして私が口を開く前に続けます。 「ここの現場、工期がきつくなってるんだよ。だから壁を失くして大丈夫って聞いたから、現場はこのホールのサッシの手配しちゃったらしいんだよ」 壁を失くしてサッシに影響あるのかな。返事出来ずにいると清水さんはさらに続けます。 「このホールのサッシは排煙窓が付いてるの知ってる?」 そう言ってそのサッシが描かれている展開図を横に出しました。確かに欄間部分に何か所か排煙用の窓が描かれています。 「いえ、気にしてなかったですけど、これを見たら排煙窓があるんだって言うのは分かります」 「排煙窓って適当についてるわけじゃなくて、対象となるエリアの床面積に応じて、必要な排煙面積をクリアするように計算されてるの」 何となく言われていることが分かってきました。 「壁が無くなって対象となるホールの面積が増えたら、必要な排煙面積も多くなる。分かる?」 「はい、排煙面積が足らないってことですか?」 「そういうこと。こっちは壁がなくなったことで必要排煙面積はこれだけですよって、図面に書き足して修正図を先週返してたんだけど、今日になってそんなこと聞いてないって現場から電話掛かってきた。ま、現場やってる協建コーポレーションも素人じゃないんだから、排煙面積が変わるってことくらい気付けよって言いたいけどね。でも設計事務所の人間が大丈夫なんて言ったんじゃそのままやっちゃうよな。向こうも工期おしてて忙しいんだろうから」 「すみませんでした」 頭を下げて謝りました。でも清水さんは図面を見つめて無言です。なので恐る恐る尋ねました。 「それでどうなったんですか?」 「もう手配して2週間以上たってるからサッシのキャンセルは出来なかった。だから再手配」 「と言う事は、キャンセルできなかった分はうちで負担することになるんですか?」 「さあどうなるかな」 「……」 「ま、キャンセルしたのは嵌め殺し窓二本だけだから、それは大したことないからいいよ。でも、排煙窓を付けたサッシは今から手配だから、そっちの納期の方が問題。工期キツイって言ってるのに、さらに遅れるからね」 そのあとたっぷりのお説教と、排煙についての法律などの講義を2時間ほど受けることになりました。  その週の土曜日、朝からまた久野邸に来ていました。重田さん、ご主人との打ち合わせで、ガラスの庇は二か所とも出幅600(ミリ)のもので決定。週明けに手配して、最短納期で施工ということになりました。そのあとは裏の自宅側の一階で、バリアフリー対応にしたあとに指摘された、様々な箇所の手直し状態を確認していました。月曜日に話をしていた車庫の入り口も確認。モルタルで段差のないきれいな床が仕上がっていました。勾配の具合も違和感なく、上出来だと思います。  そう思っていたら、三台分で三つ並んだ電動シャッターの真ん中が上がり始めました。ご主人の車は表の駐車スペースに停まっています。こっちに移動してきたのかな? すると大きなSUVが入って来ます。奥様の車です。停まった車からは奥様と小さな男の子が二人降りてきました。五歳と四歳の子供が二人いるとは聞いていましたが、会うのは初めて。 「おはようございます」 奥様も来るとは思っていなかったので少し戸惑いながら挨拶。すると、 「おはようございます」 と、大きい方の男の子が元気な声で挨拶を返してくれます。奥様もその子に遅れて挨拶してくれました。そして、 「こら、まー君もお姉さんにご挨拶しなさい」 と、小さい方の男の子にそう言います。するとその子もかわいい声で挨拶してくれました。 「すみません、子供連れてきちゃって。新しい家を早く見たいってこの前からうるさくて。そっちが上の子で貴男、こっちが雅男です」 奥様が初めて見せる優しい笑顔でそう言います。 「いえ、全然いいですよ」 私はそのあと二人の子供に改めて挨拶しようとしました。でも、 「おばさん誰? 何やってるの?」 と、貴男君に言われてしまう。 「おばさんじゃないでしょ、お姉さんって言いなさい。この人はタカ君やママたちの新しいおうち作ってくれてる人なの。ごめんなさい、高橋さん」 奥様は貴男君にそう言うと、私にも頭を下げてくれる。う~ん、普通のお母さんのようだ。私の中の奥様イメージが、ガラッと変わってしまいました。 「じゃあお姉さんは大工さん?」 貴男君が私を見上げてそう言います。するとすかさず奥様が、 「大工さんなわけないでしょ」 と言いました。 「なんで? おうち作るのは大工さんでしょ?」 「おうち作るには大工さんのほかにもいろんな人がいるの」 「じゃあ何する人?」 「このお姉さんは設計する人なの」 「せっけー?」 「設計って言うのは、おうちの図面を描く人のこと」 「図面って何?」 会話に入っていけない。親子の会話が始まってしまいました。すると後ろから声がします。 「来たなー、よし、おうちの中、探検するか」 ご主人でした。子供たちは「パパ」と言うなり駆け寄ります。ご主人はしゃがんで二人を両手で受け止めると、そのまま抱えて立ち上がりました。 「私は後から行きますから、先に行っててください」 奥様がご主人にそう言います。 「わかった。じゃあ行こうか、どこから行く?」 「上がいい」 そんな会話を残してご主人たちは家の中に入っていきました。奥様は車の後部から手押しの台車を降ろしたあと、大きなトートバックを取り出します。台車が必要なほどの何を持って来たのかとかと思いました。でも、そんなに重そうには持っていません。台車に置かれたバックの中を覗くと、タオルや毛布が見えるだけ。台車の意味が分かりませんでした。 「すみません、主人がここでお昼を食べようって言い出したので、お弁当作って来たんです。あとは子供たちが寝ちゃってもいいようにと」 私がバックの中を覗いているのを見て、奥様が恐縮したようにそう言います。今の奥様は本当に普通の主婦、普通のお母さんに見えて、なんだか親しみが湧いてきます。私は明るい声で返しました。 「いえ、全然構わないですよ。新居での初めての食事ですね」 「あ、そうですね。もっといいもの作ってくればよかった」 笑顔でそう言います。 「大丈夫ですよ。お子さんたち、十分楽しそうでしたから」 「ありがとうございます。でも、ほんとにすみません、皆さんまだお仕事して下さってるところで」 本当に今日の奥様は、一回り小さくなったように見えます。 「そんなにお気になさらないでください。それと、お食事されるならこっち側の2階がいいと思いますよ。他の所はまだ作業している部分があるので埃が舞ってますから」 「ありがとうございます。そうさせてもらいます」 そして奥様はトートバックを持つと家の中に向います。台車は車庫に置いたまま。本当に意味不明です。  久野邸を出てお昼前に会社に戻って来ました。お昼から杉浦さんが来社される予定です。でも事務所に寄らずに先に下の喫茶店でランチ。そう思ってお店の中に入ったら、テーブル席に青木さんと杉浦夫妻がいました。 「こんにちは」 傍まで行って杉浦夫妻に挨拶。 「ああ高橋さん、こんにちは」 「お疲れさん、久野邸どうだった?」 杉浦さんの挨拶に続いて青木さんがそう聞いてきます。 「庇は600(ミリ)でご主人の了解を頂きました。なのであとで阿部さんに手配依頼のメールしておきます。それと奥様の指摘箇所の手直しも終わってました。問題ないと思います」 「そっか、これで一段落かな」 「ですね、このままお引渡ししたいです。あ、今日はお子さん達も来てました。今頃新居でお弁当食べてると思います」 そう言うと青木さんが腕時計を見てから、 「もう昼か、僕らもこのまま食事にしようか」 と、杉浦夫妻に投げかけます。 「ですね」 頷く奥さんの顔を見たあとそう答えるご主人。 「今日の日替わり何?」 おそらく私のためのおしぼりとお水を持って、後ろに立っていた真紀ちゃんに青木さんが尋ねます。 「松花堂風のお弁当。豆ご飯と鯖の味噌煮がメイン。あとはいろいろ」 相変わらずのイントネーションで真紀ちゃんがそう答えます。青木さんが、それで、と言うと、杉浦夫妻も頷きます。そして、 「りゅう、お前もお弁当でいいか?」 と、ご主人が後ろの席を振り返って声を掛けます。そこには漫画を見ている男の子がいました。 「いいよ」 男の子は漫画に目を落としたままそう返します。私も同じものを頼みました。私が青木さんの横に座ろうとすると、 「息子の隆一、お姉ちゃんの方は家で留守番。勉強してるかどうか知らないけど、受験生だから」 ご主人が説明してくれました。 「そうですか」 そう言ってから隆一君に挨拶しようかと思いましたが、漫画に熱中しているようなのでやめました。代わりに、 「お姉ちゃんの方はお昼ご飯いいんですか?」 と尋ねました。 「まあ、自分の分くらいはもう作れますから」 奥さんがそう返してくれます。座ってテーブルの上を見ると図面が広がっていました。喫茶店の小さなテーブルなので図面で埋まっている感じです。そして一番上の平面図には、赤ペンで色々修正が書き加えられています。 「ここでもう打合せ始めてたんですか?」 青木さんに尋ねました。 「うん、間取りはこれがいいって言ってくれたから、これに今聞いた内容の修正加えたらとりあえず決まり」 一番上にある平面図を示しながら青木さんがそう言います。 「ごめんね、ちょっとこの後用事が出来ちゃったんで、打合せ十一時からにしてもらった」 ご主人がそう言ってくれます。 「いえ、私の方こそ戻って来れなくてすみませんでした」 そう言ってるうちにお弁当が運ばれてきました。慌てて図面を片付け、テーブルの上をあけました。  お弁当が運ばれてくると、奥さんは隆一君の向かいに移動しました。なのでこちらは三人で食事を開始。食べながらご主人が話し始めます。 「十一時からにしたこと、小百合にも連絡してないですよね。失敗したなぁ、あいつ一時に来ちゃいますね」 「あっ、遠藤は今日、用事あるから来れないって言ってた。わるい、よろしく言っといてって言われてたのに、言うの忘れてた」 そんな話が本当にあったのかどうかわかりませんが、青木さんがそう言いました。 「そうだったんですか。なんだあいつ、先週も顔出さなかったのに」 「まあそう言うな、遠藤はあれでもあそこの営業の長だから、いろいろと忙しいんだよ」 「そうですね、すみません」 「それに、俺が関わってるから任せていいと思ってるんじゃないか?」 「ですね、先輩がやってくれるんなら問題ないです」 そしてしばし無言で食事が進みます。でもまたご主人が話し始める。 「この鯖、うまいですねぇ」 「うん、そだな」 そして黙食、と思ったらまたしゃべりだす。 「鯖と言えば、昔釣りに行った時のこと覚えてます?」 遠藤さんがご主人はおしゃべりだと言っていたけど、どうやらその通りのようです。 「うん? いつのこと?」 「いや、だいぶ前ですよ。知多半島の先から乗り合いの船乗って釣りに行ったじゃないですか」 「ああ、でもそれって何回か行ったよなぁ」 「はい、その何回か行った中の一度、確かイサキ釣りの時です。全然釣れなくてみんな不機嫌になって、船頭も諦めかけてたら、急に釣れだしたって時ですよ」 「ああ、あったなぁ」 「で、みんな喜んで釣りだしたら、小百合の竿に鯖がかかって、周りの人の釣り糸みんな絡めて釣り上げたもんだから大ヒンシュク。挙句に騒ぎが治まったころからまた釣れなくなって、あの時は他のお客さんの視線が痛かったですよ」 「鯖は横に走るからなぁ」 「ほんとに、大騒ぎしましたもんね」 二人は楽しそうに話しているけれど、私はヒヤヒヤしながら聞いていました。口に入れたものの味がしない感じ。もうそれ以上その名前を口にしないで、と願ってしまっていました。奥さんはどういう気持ちでご主人が口にするその名前を聞いているのだろう。こちらに背を向けて座っているので、また表情も反応も分からない。  するとご主人の軽い口がまた開きました。 「うん? これ何ですかねぇ」 おかずの一品の、ある物の揚げ物を一口食べてそう言ってます。よかった、あの名前は出そうにない。 「俺も何だろうって思ってた」 青木さんもそれに注目します。 「うまいですよね、何の揚げ物だろ?」 「ほんとに何だろな、なんか天ぷらの衣だけって感じもするけど、なんか入ってるよなあ」 二人でそんなことを言ってます。するとご主人が、 「ですねぇ、あ、天ぷらと言えばさゆ……」 そう言い出したので割り込みました。 「それ多分、車麩です」 二人が私を見ます。 「くるまふ?」 青木さんが聞き返してきました。 「お麩の一種です」 「おお、麩なんだこれ」 「麩って、お澄ましとかに入ってるやつ?」 青木さんに続いてご主人もそう言います。 「はい、これは多分車麩って言って、元はこのくらいの大きさのバームクーヘンみたいな見た目なんです」 私は両手で直径10センチくらいの丸を作って説明。 「なるほど、車型だから車麩か」 「へ~、そんなのがあるんだ」 青木さんに続いてご主人がそう言って口に入れます。 「麩とは思えないね、食べ応えあるしうまいよ」 そして三人共また箸を進めます。 「高橋さん料理得意なの?」 食事をしながら青木さんがそう聞いてきました。 「得意かどうかは……。何でですか?」 「車麩って珍しい物でしょ? よく知ってるなと思って」 「何年か前に友達から教えてもらったんです」 「おいしいよって?」 これはご主人から。 「それもありますけど、ダイエット用に」 そう言うと二人の視線が私のお腹や胸に一瞬向く。こういう男性の反応ってどうにかならないんだろうか。なんて思うけど、私も同じことするかも。 「お麩って高タンパク低カロリーなんで、ダイエット食材に結構使われるんですけど、車麩は食べ応えもあるよって」 「なるほど、確かに麩とは思えない食べ応えだね」 ご主人がそう言って残りを口に入れました。そしてまたその軽い口がしゃべる方に開きます。 「で、その何年か前はダイエットしてたんだ」 「何年か前とかじゃなくて、ずっとですよ」 食事を続けながら受け答え。あんまり私を話の中心にしないで欲しい。 「そうなの? ダイエット必要そうに見えないけどな」 青木さんまでそう言い出す。 「がっつり食べたいときに食べれるように、女性はいつもダイエットのこと考えてるんです」 なんか奥様の背中が笑ったように見えた。 「女性は常時ダイエット中なんだ」 「人にもよると思いますし、ダイエットと言っても程度がありますけどね」 「程度ってどんな?」 今度はご主人。 「え~と、体重落とすレベルと、体重維持のレベルって言えば分かります?」 「あ、それ分かりやすい。なるほど、常に維持レベルのダイエットは続いてるんだ」 「実際はダイエットってところまで意識してないですけどね。でも、これとこれ食べたらカロリーオーバーだよなぁ、こっちはやめとこって感じでは普通に考えてますよ」 「すごいなぁ、そんなこと考えたことないし、考えたくないですよね」 ご主人が青木さんにそう投げかけます。 「いや、俺は少し前から意識してるよ」 「そうなんですか?」 「俺も適正体重ってやつより重いからさ。お前も五十過ぎただろ? そろそろ意識しないと増えるばっかりで減らないぞ」 「確かにお腹のぜい肉は増えるばかりで減りそうにないですね」 そう太っては見えませんが、確かに膨らんで見えるお腹を摩るご主人。 「そのくらいで止めないと、奥さんに嫌われるぞ」 「それはやばいですね」 ぜんぜんやばそうに聞こえませんがご主人はそう言います。そして会話が途切れて食事が進みました。やがて青木さんがまたこう言い出しました。 「さっきの車麩って、僕は見かけたことないんだけど、どこで売ってるの?」 「私はネットで買います」 「ネットか、どこかで売ってるの見たことない?」 「さあ? とりあえずそこのスーパーでは見たことないですね」 なんだか残念そうな青木さん。売ってたら買って料理するのかな? 「この辺りで作ってないのかな、どこかの名産?」 「あ、確か新潟の食べ物です」 私がそう言うとカウンターの方から声が来ました。 「そ、新潟のよ。新潟行った時に食べておいしかったから、うちは向こうのお店から取り寄せてるの」 ママさんでした。 「取り寄せてるんだ」 「そうよ、でもアオちゃん、それ今までもうちで出してるから何度も食べてるわよ」 「いや、いつもなんだろうって思いながら食べてた」 笑いながらそう言う青木さん。すると、 「新潟か」 と、ご主人が口を開く。 「小百合の田舎が上越なんですよ。だからそこ宿代わりにして、妙高とか赤倉とか、何度かスキーに行ったなぁ」 また出てしまった、その名前。 「遠藤って新潟出身だったっけ?」 青木さんもその話に乗らないで。 「いえ、さゆ……」  ご主人がまたその名前を口にしようとしました。私はそれを遮るように勢いよく立ち上がり、右足を振り上げ、テーブルにドンっと踏み下ろす。そして上からご主人を睨みつけながら、 「そろそろ無神経なこと言うのやめな。その口、縫い付けるぞ」 と、凄んだりはしませんでした。が、ご主人の言葉を遮るくらいには勢いよく立ち上がり、 「皆さん食事終わったみたいなので、そろそろ飲み物頼みましょうか」 と言って、空になったお弁当箱を重ねていきました。そして真紀ちゃんたちが食事の後片付けを済ませ、飲み物が出てきたらすかさずこう言いました。 「間取りはだいたい決まったってさっき聞きましたけど、事前審査に出す図面はそれで作りますか?」 「ああ、そのつもり。早めにやっちゃうから久保田さんと書類づくり頼むね」 青木さんは私の言葉に答えてそう言ってくれます。そう、ここからは今日の本題を進めて、もう無駄話はさせない。  そのあとはまた奥さんも交えての話になりました。最終的な契約用の見積書を作るための、細かな内容も打ち合わせていきました。この段階では不必要な部分まで要望を聞いたりして、青木さんからは不思議な顔で見られていました。とにかく、このあと出来ちゃったって用事が何時からなのか知りませんが、その時間まで話が脱線しないように。  その時間は意外とすぐでした。一時をいくらか過ぎると奥さんがそろそろ、と言い出し、話のまとめに入りました。そして一時半前には解散。  お勘定をしている青木さんを残して、私は先に事務所に上がりました。そして今お聞きした内容を整理する意味も兼ねて、議事録用の用紙に清書し始めました。と言っても、清書は画面の中でだけど。しばらくして青木さんが入って来ました。 「なんかママが、梨沙ちゃんファインプレーだからご褒美あげなさいよ、とかって言うんだけど、なんかあった?」 そして入ってくるなりそう言います。う~ん、よく分かんないけど思い当たることは一つしかない。だとしたらあのママさんすごい、いや怖い。 「え? なんですか、それ」 とりあえずそう返しました。 「いや、こっちが聞いてるんだよ」 「さあ、何でしょ?」 青木さんんは変な顔で私を見ましたが、やがて自分の机に向いました。 「分かったでしょ、遠藤さんが自分の部下と杉浦を合わせたくない理由」 「はあ、なんとなく」 「ハウスアートの人間が、あの調子で話す杉浦の話聞いてたら、誰でも気付くよね」 そう、それが問題。誰でも気付く、ご主人と遠藤さんの関係。ハウスアートの人でなくても。そう、奥さんでも。  私的には、ハウスアートの人に気付かれようが、知られようが、騒ぎになろうがどうでもいい。でも、奥さんには気付いて欲しくないと思いました。いえ、それ以上に話を聞いていてほしくない。もう聞かせたくない。彼から以前の彼女の話なんか聞きたくない、絶対に。私はそういうタイプ。奥さんがどういう方か分からないけれど、聞きたい話ではないはず。  奥さんにこれ以上、ご主人の口から出る「小百合」と言う言葉を聞かせないようにするにはどうしたらいいか。ご主人と遠藤さんとのエピソードを聞かせないようにするにはどうしたらいいか。答えは簡単、ご主人に話をさせなければいい。でもどうやって? あんなに軽く開く口をふさぐ方法なんてあるかしら。おしゃべり過ぎるんだよなぁ、あのご主人。しゃべってないと間が持たないのかな。間が持たないからしゃべるネタにしてしまう。ん? それは青木さんとの話のネタ? 遠藤さんとの共通した思い出があるから、青木さんとの話のネタになってしまうのかも。なら、青木さんがいなければ、遠藤さんは話のネタにならないかも。そんな結論が出て来たところで、 「高橋さん」 呼ばれてました。 「はい」 「大丈夫?」 すぐ左側から顔を覗かれていました。何度も呼ばれていたのかも。 「すみません、考え事してました」 青木さんは一歩下がって私の顔を見ています。そして、 「ひょっとして、杉浦がいたから言わなかっただけで、久野邸でなんかあった?」 と聞いてきました。 「いえ、何もないですよ」 「そ、ならいいけど。僕、杉浦の家も含めて、ちょっと図面が溜まってるから帰ってやろうと思ってるんだけど、いいかな?」 「あ、いいですけど、今日の杉浦さんとの打ち合わせ内容、まだ清書中です。終わったらメールでいいですか?」 「うん、助かる。でも今日は杉浦の家まで手が回らないから、慌てなくていいよ。それとその議事録、遠藤さんにも送っといて、すぐに見積り作れってコメント付けて」 青木さんは自分の席に戻って帰り支度をしながらそう言います。 「分かりました」 そう答えてから、さっき出た結論をどう切り出そうかと考えます。でも青木さんが先に口を開きました。 「それと、久野邸の庇の手配も忘れないでね」 危ない、忘れてた。 「分かりました、メールしておきます」 「じゃ、よろしく」 青木さんは戸口に向います。私は意を決して声を掛けました。 「青木さん、お願いがあるんですけど」 「なに?」 扉の前で青木さんが振り返ります。 「杉浦邸ですけど、あとは私一人で打合せさせてもらえないですか?」 「どうしたの、急に」 少し驚いた顔をしています。どう言えばいいか考えていると青木さんがこう言います。 「最初に遠藤さんからそう言われたから?」 「それもありますけど……」 そうは思っていなかったけれど、なんとなくそう返しました。 「別に気にしなくてもいいよあんなの。僕はあの二人のこと元から知ってるけど、別にそれを誰かに話してまわろうなんて思ってないから。もちろん久保田さんや清水にもね」 「それは分かってますけど。……でも……」 私はいい言葉が見つからない。そして、今の青木さんのセリフが何故か引っ掛かる。何が引っ掛っているのか分からないけれど、気になりました。 「分かった。いいよ、この後は高橋さん一人で打ち合わせだね」 黙っていたら青木さんがそう言ってくれました。 「いいですか?」 「もちろん。だって、すでに他の物件は高橋さん一人でお施主様と打合せしてるでしょ。今回は後輩の仕事だから、僕の方が話がしやすいかなって思っただけだから」 「すみません。ありがとうございます」 そう言うと少し笑いながら青木さんがこう言います。 「なんか変だよ」 「そうですか?」 「ま、いいや。次は見積書と図面が出来てから契約の話になると思うから、しっかり準備してね」 それで青木さんは帰って行きました。青木さんが出て行って、閉じた扉を見て思いました。大失敗、奥さんには申し訳ないけれど、次が終わってから今の話をするべきでした。契約の話を一人でするなんて、責任が……、重すぎます。  自分で背負ってしまった責任の重さに悩むのは家に帰ってからにしようと頑張って、一時間ほどでやることを済ませました。そして三時頃に事務所を出ようとしたら清水さんが帰って来ちゃう。下手に会話すると何か手伝わされそうなので、お先ですと挨拶だけして、すれ違うようにして事務所を出ました。  ドラッグストアに寄りたかったので、駐車場とは反対側へ向かいます。ドラッグストアは以前の職場の向こう側。顔を伏せて通過します。なぜならこの前ここを通った時、「おお、コーヒーの姉ちゃん」なんて声を掛けられて、長話につかまってしまったから。何事もなく通過して、買い物も終了。また顔を伏せて歩いていたら自動ドアの開く音と共に、大音量でホール内の音が溢れてきました。扉近くの台が一斉に大当たりでもしているみたい。思わずそちらを見てしまいました。すると、ひょろっとした体形に、どちらかと言うと地味な顔の知った人が出てきます。地味な顔が不景気そうに暗いので、一層地味に見えてしまう。負けたんだな。と言うか、この人パチンコするんだ、って驚きもありました。立ち止まった私に気付かず、私の進行方向の方に歩き出す彼。どうしようか一瞬迷った後、私は速足で後ろまで追いついて、 「前原さん」 と、声を掛けました。振り向いた彼は驚いた顔をした後、ばつが悪そうに、 「高橋さん、なんで」 と言います。私は、 「そこで買い物してたんです」 と、後ろのドラックストアを指します。 「前原さんは?」 そしてそう聞きました。彼は目を逸らしてこう返します。 「別に」 見られてないと思ったのかな。でもこう聞いてやりました、笑顔で。 「いくら負けたんですか?」 また目が合いました。 「いや、ご……、まあ、ちょっとね」 うそ、今「ご」って聞こえた。五万って言い掛けた? 信じらんない。 「昨日入った新台が空いてたからちょっと打ってただけだよ」 無理矢理の笑顔でそう付け足します。 「新台の二日目はまず出ないですよ」 「え?」 「あ、明日なら7の日だから、新台なら出たかも」 私がそう言うと驚いた顔をします。 「高橋さんやるの?」 「いいえ、やりませんよ」 「え? なんで? 詳しくない?」 なんだか反応が面白い。 「やってる人達からさんざん聞かされたんで」 「どう言うこと?」 「私、ここでバイトしてたんです」 また驚いた顔をします。 「えっ、ここにいたの?」 「あ、ホールスタッフじゃないですよ、ワゴンサービスの方です」 「そっか、そうだったんだ。ワゴンサービスと店の人は違うの?」 「ワゴンサービスは隣のカフェがやってるんです。だから正確に言うと、私はカフェでバイトしてたんですけど、仕事場がここだったんです」 そう言ってから思いつきました。一度もお客として入ったことのないカフェ。一度入ってみたい。フーンとか言ってる前原さんを無視して、 「私、バイトしてたカフェ、入ったことないんですよ。一度入ってみたいんで今から行きません?」 と誘いました。 「いいよ、……って、今日はちょっと」 「……」 「またにしない? ちゃんと付き合うから」 なんとなく分かっちゃったし、聞かれたくないだろうなとも思いましたが、聞いてやりました。 「ひょっとして、有り金全部すったってやつですか?」 またばつの悪そうな顔をします。 「いや、まあそこまでじゃないけど、ちょっと……」 「バカですねぇ、熱くなったら勝てないって、適当にいつも遊んでる常連さんはそう言いますよ」 「バカって……」 「ああ、私の中の前原さんポイントがだいぶ減っちゃいましたよ」 「なんだそのポイント」 「まあいいから行きましょ、倍返しってことで私が出しますから」 そしてちょっとだけ嫌がる前原さんを引っ張って、カフェへお客として初めて行きました。
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