第九章 奥様達 前編

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第九章 奥様達 前編

 月曜日は『体育の日』でお休みだったので週明けの火曜日の朝、杉浦邸の内容についてハウスアートの遠藤さんと長電話で打合せ。そのあとは一日事務所で図面のチェック作業の予定。連休明けなので外注設計さんや現場から、大量の図面がメールで送られてきていました。土日などに集中して作図や図面チェックをやる方が多いようです。その大量の図面を打ち出して、長机の上でチェック作業をします。少し前から、右側の外の通路と事務所を隔てるサッシと、自分の机の間に長机を置いて使わせてもらっています。画面でチェック作業をしている清水さんからは、机が邪魔だとか、紙がもったいないとか言われますが、私は画面でのチェックはいまいちはかどらないので、最初に教わったやり方のままです。  未確認の図面の山があと少しになって来た午後、田子さんが傍までやって来てこう言います。 「梨沙ちゃん、電話出てよ」 少し怖い声でした。 「え? あ、すみません」 そう言いながら手元周りを見回す。スマホがない。左を向いて自分の机の上を見ました。スマホがタオルの上に置いてある。それでブルブル音が聞こえなかったんだ。今日は青木さんが十時には自宅に戻ってしまい、久保田さんも朝礼後に出掛けたままいません。なので清水さんがスピーカーでFMを流しています。その音で余計気付かなかったかも。 「桐野建設の重田さんから電話。何度も掛けたみたいよ、ちゃんと謝ってね」 そう言って田子さんは離れていきます。 「すみませんでした」 スマホに飛びつき確認。田子さんからの内線も含めて、六件も着信が。重田さんからは三回。最初に掛かって来ていたのが二時過ぎ。今は三時半に近いので一時間以上前でした。慌てて掛け直して謝罪した後用件を聞くと、奥様が昼から見えて、裏の部屋の出入り口のことでまた難題を投げかけられているとか。でもちょっと無理な要望なので無理な理由を説明したら、私と話したいと言われたようです。すぐにそっちに行きますと言うと、奥様は少し前に帰ったので明日の朝来て欲しいと言われます。奥様も明日の十一時頃にまた来るとのこと。十時には行きますと伝えて電話を終えました。  翌日、十時前に久野邸に着きました。昨日、重田さんから聞いた奥様の要望を満たすには、間仕切り壁を移動するくらいのことが必要。そんな決断、私では出来ないので青木さんに同行をお願いしたけど、遅れてる図面があるのでそれどころじゃないと断られました。任すと言われたけれど、困ってしまう。なので遠藤さんにも同行を依頼しました。同じく、任すとだけ言われてしまう。  久野邸正面の駐車スペースは、施工業者さんの車などで埋まっていました。裏の車庫に入れるのは気が引けたので、近くのコインパーキングに停めました。そこからだと裏口の方から現場に入ることになります。  裏の玄関から建物に入り、重田さんを探す前にその場所を見ることにしました。それは元シアタールームだった部屋と、その奥の小部屋との間の引き戸。元シアタールームに入る引き戸の前まで来ると、奥の部屋への引き戸前にもう奥様がいました。十一時頃と聞いていたのに一時間以上早く来ている。でも異様な姿に、一瞬声も掛けれず立ち止まってしまいました。どんな姿だったか。この前持ち込んだ手押し台車の上に椅子を置いて、その上に座っている。そして、足で台車を前後させたりして、扉に手を伸ばしたりしています。  近付いていくと私に気付いて慌てて立ち上がります。でも台車の上なのでバランスを崩して倒れそうに。私は駆け寄って支えました。奥様に蹴り出されたような格好になった台車は壁にぶつかり、椅子は床に転がりました。 「大丈夫ですか? 驚かせたみたいですみません」 私がそう言うと、私から体を離して、 「いえ、こちらこそごめんなさい。ありがとう」 と言ってくれます。そして目の前の引き戸を見て、 「昨日は重田さんに色々言ってしまったけど、何とかなりそうなのでこのままでいいです」 と言い出します。  昨日重田さんから聞いた内容は、この引き戸の開口が狭いので、もう少し広げて欲しいと言うもの。でも、元から出来るだけ広くと言われていたので、出来得る最大の広さにしてありました。引き戸は開口とは別に、戸袋となる引き代部分が必要です。でも奥の小部屋は手前の部屋より幅が狭くなっています。廊下沿いに設けられた物入れが、部屋幅の三分の一以上を取ってしまっているから。なので引き戸では作れる開口が限られてしまいます。それを広げて欲しいということだったので、物入れの背に当たる間仕切り壁をずらすしかない、くらいのことを考えていました。この住居側の部分はすでにすべての作業が完了しているような状態。今更間仕切り壁とは言え、壊してずらすのは大仕事です。どうやって思いとどまらせようか悩みに悩んでいました。なのに今の奥様の言葉、ホッとはしましたがモヤモヤ感が残ってしまう。 「え、よろしいんですか?」 モヤモヤは置いといてそう確認しました。 「ええ、壁を壊して部屋を作り替えないと広く出来ないなって言うのは分かりましたから」 「はい、そうするしかないと思います」 「ですよね。それでこの広さで色々考えて、何とかなりそうなのでこのままでいいかと」 「……」 私がすぐには何も言わなかったので奥様が続けました。 「今までも色々とお願いを聞いてもらっていて、今からさらに壁を壊してまでって言うのは申し訳ないですから」 「いえ、そんな……」 これまですべての要望を押し通して来た奥様が、初めて完全に妥協してくれた瞬間でした。でも、本当にいいのか確認しないといけない、と思いました。完全に工事が終わってから、やっぱり、なんてことになったら今以上に大事だから。 「あの、何とかなりそうっておっしゃってましたけど、何か大きなものを出し入れされるご予定ですか?」 なのでそうお聞きしました。すると、 「え、いえ、まあ、それはこちらの話だから……」 と、はっきりものを言わない奥様。何なんだろ、この反応。疑問は残りますが、そうおっしゃるのであればこれ以上はこの事を話してもしょうがない。こちらにしたら有難いことなのだし。 「分かりました。ではここはこのままということにさせていただきますね」 「はい」 「他には何かお気づきのことありますか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとう」 とりあえず話すことはなくなりました。 「分かりました。では今のお話を重田さんに伝えてきますね」 私はそう告げて離れました。部屋を出るときに奥様を振り返ると、台車を押して奥の引き戸に向かうところでした。  重田さんは表の玄関の外にいました。私は下足を裏の玄関に置いてきたので靴がない。取りに行こうかと思っていたら、重田さんの方で気付いて私の方へ来てくれました。 「どうする? 物入れ狭めて広げる方向になる? それしかないと思うけど」 挨拶抜きでそう言われました。 「いえ、あのままでいいと、奥様に言って頂きました」 はあ? って顔をする重田さん。 「いつ?」 「今です」 「え、奥さん見えてるの?」 重田さん知らなかったんだ。 「ええ、裏のお部屋にいますよ」 「そっか、それでもう話したんだ?」 「はい」 「分かった、ありがと」 そう言うと表に戻ろうとします。でも呼び止めました。 「何かあったんですか?」 「いや、門扉のパネルの取り替えやってるんだけど、加工が少し違っててすんなり付かないんだよ」 これは二、三週間ほど前にご主人が取り替えろと言い出したこと。色がイメージしていたものと違うからと言うのが理由。取付済みのパネルを外して焼付塗装をやり直すのかと思ったら、塗装を落としてやり直す方が手間だということで作り直したものです。 「え、また作り直しですか?」 また何週間も掛かるかと思いそう聞いてしまいます。 「いやいや、今ここで加工させてるから何とかする」 「そうですか」 と、私が返してる間に重田さんは出て行ってしまいました。  とりあえずやることが無くなったので家の中を見てまわることに。きれいに仕上がった表のダイニング、リビングをうろうろ。シアターエリアの機器はまだついていないので、何もない白い壁の空間。でもその後ろのリビング部分には座面の大きなソファーが置かれています。埃よけの布が掛けてありますが、座ってみようかと言う誘惑に駆られてしまう。でも絶対に座りません。数百万もする物だと聞いているので、傷でも付けたら……。ダイニングのオーダーキッチンも触ってみたいけれど、我慢我慢。ま、こちらも埃よけのカバーがかかっているので直接は触れないんだけど。そして、キッチンのカウンターの前にある大きな長テーブル。寝ころんでみたい! と、思うだけにしました。  二階は覗かずにまた裏の自宅部分に向います。すると目の前の廊下を奥のリビングから先程の部屋の方へ奥様が横切って行く。台車を押しながらゆっくりと。奥様が行った方に行きました。すると先程の部屋に入っていきます。台車にはなにも載っていません。ほんとに何をしているんだろう。と思いつつも、最近ひょっとしたらと思っていることがあります。その思っていることがさっき確信に近くなりました。なので、部屋に入ってこう聞いてしまいました。 「あの、どなたかご家族で車椅子の方が見えるんですか?」 いきなり話し掛けたので驚いたように振り返る奥様。でも驚いたのは質問の内容の方だったかも。 「え? いえ、いないですよ」 でもすんなりそう言われてしまいました。違ったかな。もしそうなら、奥様がこの自宅エリアのバリアフリーにこだわった理由が分かるんだけど。でもまた、そうならそう言うだろうという疑問も出て来てしまう。本当にわけが分からない。 「そうですか。すみません、余計なことお聞きして」 そう返しました。でも奥様は私を無言で見ているだけ。そして、少ししてからこう聞かれました。 「どうしてそう思いました?」 「こちら側のバリアフリーに、特に気を遣われているように感じたものですから」 「それだけ?」 奥様が二歩近づいて来ました。 「あとは、そうやって台車を押してまわられてるのは、車椅子での動きを確認されているのかと」 そう言うと奥様はまた思案顔で黙ります。やがて戸口から廊下を窺ってから戸を閉めると、私を戸口から離れた窓際へ誘いました。 「内緒にしてくれる? 今はまだ主人にも」 そしてなんとなく優しい顔でそう言います。 「はい」 そう答えました。でも奥様は無言で私を見るだけ。  しばらくして窓の方に向き直ると、奥様は口を開きました。 「さっき、家族にって聞いたわよね」 「はい」 「で、私は家族にはいないって言った」 「はい」 「そ、家族じゃないの」 「……」 「あ、主人からしたら元家族かな?」 私は挟む言葉がありませんでした。すると奥様が私の方を見ます。そしてこう言います。 「ここに主人の前の奥様をお迎えしようと思ってるの」 「え?」 私の反応を見てから、奥様はまた窓の外に顔を向けました。そして、前の奥様と言うことは、この奥様はご主人の再婚相手? などと、私に考える閑を与えずこう言います。 「愛人に子供が出来ちゃったから出て行った人」 私はまた何も言えません。そして奥様も窓の外を見たまま黙ってしまいました。私は奥様の視線を追うように窓の外を見ます。  今いる部屋は元々シアタールームの予定だったところ。防音、吸音仕様の壁に囲まれた部屋で、窓を付ける予定ではありませんでした。でも奥様がここを普通の部屋に変えるとおっしゃった。なので窓は後から壁に開口を開けて付けたもの。その窓からはきれいに仕上がった裏庭が見えます。今は彩に欠けますがいいお庭です。でも、元々は窓に面していなかった場所。なのでここは駐車スペースでした。表の駐車スペースからつながる奥の部分でした。 「普通の部屋にして窓があるのに、見えるものが車なんて味気ないわ」 そうおっしゃったのも奥様。そしてここも変更されてお庭になりました。  その部屋にご主人の前の奥様をお迎えすると奥様は言いました。愛人に子供が出来たから出て行った方だとも。愛人と言うのは当然、この奥様のことでしょう。自分が原因で出て行った方をお迎えする。それは住まわせる、一緒に暮らすということ。なにか負い目でもあるのかな? そう思ってしまいます。  前の奥様は車椅子を使っているのでしょう。裏の自宅エリアに部屋を用意し、バリアフリーにこだわり、自分で車椅子での動線まで確認して回る。そしてその部屋の窓からの景色にまで気を配る。奥様と前の奥様はどういう関係なのでしょう。私には想像もできない。  窓の外を見ていた奥様が部屋の奥に移動します。 「ここに水回りの設備を用意してもらったでしょ?」 そしてまだ何もない部屋の隅の床を指してそう言いました。 「はい」 私も返事しながらそちらへ。 「ここにはキッチンを置くつもりなの。どう思う?」 そう聞かれましたが、 「前の奥様用に、と言うことですか?」 と、質問で返してしまいました。 「そ、入り口から奥の部分は壁で仕切って寝室にして、こっち側はリビングとキッチン。ちょっと狭いかなぁ」 奥様は部屋の方に振り返ると、左側の廊下に出る引き戸から右側のお庭に面した壁の間を手で示しながらそう言います。  さっきまで話していたお庭に面した窓は、キッチンを置くと言ったこの場所からすぐ近く。そしてここから部屋の右奥に当たる部分にもう一つ窓があります。部屋全体から見ると、この二つの窓の間隔はバランスが悪い配置です。でもその位置に窓をと言ったのは奥様。理由が分かりました。奥様は初めからここを二部屋にするおつもりだったのです。そしてどちらの部屋にも窓がつくように考えていた。確か50㎡弱(30畳弱)の広さのあるこの部屋。LDKと寝室に分けても問題ないスペースです。この家のスケールで見ると狭いけれど、常識範囲内なら十分。  奥様がなぜ前の奥様を迎えたいのか、そこのところは全く理解できません。でも、ここに生活できるスペースを作ると言うことは、もう理解出来ました。それも、生活する方のことを想い、細やかな気遣いの元に考えていることも。なので私は奥様と向き合うように奥の小部屋の方を向きました。その小部屋にも水回りの設備が床下に用意してあります。 「ちょっと狭いかもですね」 そして先回りしてそう言いました。私が小部屋への引き戸の先を見てそう言うので、奥様もそちらを見ます。私はそれを見て続けます。 「そちらには脱衣、洗面、浴室、トイレをご予定ですよね?」 奥様が少し驚き顔で私を振り返ります。 「バリアフリー対応の広さを確保するには、そちらは少し狭いかもです」 奥様が私の顔を見ています。私は構わず床にしゃがみ込みました。そして肩に下げていたトートバックからA3の方眼紙を出して床に広げます。  私は床の上で方眼紙に、この部屋と奥の小部屋周辺の平面図を描きます。フリーハンドでですが、大体の縮尺を合わせた図を描きます。いつの間にか奥様も床に膝をついて覗いています。なので描きながら話しました。 「廊下の物入れは半分くらい潰して、洗面、脱衣のスペースを広げましょう。そして左側にトイレ。奥に浴室……」 奥様は私が話しながら描き加えていく内容を黙って見ています。 「その方は、お一人では全く歩けない方ですか?」 質問しました。 「ううん、つかまる物があれば多少は……」 「分かりました」 「車椅子対応のお部屋だけど、今もお一人で生活されてる方だから」 「そうですか。車椅子対応のお部屋ということは、キッチン等もそう言いものになってます?」 「そう言いもの?」 奥様は図面から顔を上げて私を見ました。 「車椅子対応だと、作業台やシンクが普通の物より少し低くなってます。それと、それらの下は普通は物入れや食洗器などになっていますが、車椅子で近付いて足が入るように空間になっていたりします」 奥様は上を見て思案顔。そして、 「いえ、普通の物だったと思う」 と、顔を私に戻してそうおっしゃいました。そしてさらに思い出しながら続けてくれます。 「車椅子対応になっているのは玄関だけかも。お風呂場とかは見たことないけど、トイレは普通だった。だから業者に頼んで手摺を付けてもらったの」 「そうですか」 「多分、そんなに気を遣わなくてもお一人で生活できると思うの。でも、それが少しでも楽になればって思って」  私は図を描く手を止めました。奥様は前の奥様の今のお住まいに行ったことがある。話からそれが分かりました。するとなぜだか何か気になりました。何がなのか全然分からないけれど、何かが気になりました。そして、こう言ってました。 「奥様は前の奥様とお付き合いがおありなんですね」 「ええ、五年くらいかな? 上の子が生まれるときから」 う~ん、色々と私の常識では理解できないことばかり。こう言っては何だけど、前の奥様にしたらこの奥様はご主人の浮気相手。そしてその浮気相手のせいで離婚している。そんな相手との付き合いが成立するのだろうか。私なら絶対に無理。彼氏を奪った相手なんて、彼氏ごとどこかに消えて欲しいくらい。何がどうなればそんな相手との付き合いが始められるのだろう。この奥様の立場でも私には理解できない。 「奥様は本当に、前の奥様をここにお迎えするおつもりですか?」 なのでこう聞いてしまいました。 「……ええ」 しばらく私の目を見てからそう答えてくれます。 「ここで一緒に暮らすためにですか?」 「一緒にと言っても、基本的に生活は別々に出来るようにだけど。さすがに何もかも一緒だと、お嫌だろうから」 「同じ家に住むことはお嫌ではない?」 「それは……、多分」 そう言うと顔を伏せて、奥様は黙ってしまいました。  部屋の中がさっきより暗くなった気がします。陽が高くなり、窓から差し込む光が少し減ったせい、だけではないかも。そんなことを感じていたら、奥様が立ち上がり、また窓辺へ行きます。そして話し始めてくれました。 「私が今ここにいられるのは、奥様、美季さんがそう望んだから」 私は立ちあがって奥様に少し近づきました。でも言葉は挟みません。奥様は言葉を継ぎながら話し続けてくれます。 「美季さんの望みは主人に子供を持たせることだった。自分が子供の望めない体だと分かってからもその想いはずっとあった。 「美季さんの話だと、主人は四十になるころに初めて外に女を作った。でも半年も続かなかったみたい。そしてそのあとも二人続いたらしいの。でも、その二人とも長続きはしなかったみたいだけど。 「そのあと数年は何もなかった。でもやがて、四人目の女が出来る。それが私なんだけどね。二十歳の時に付き合いだして、貴男を産んだのが二十六の時だから、私は愛人として六年付き合っていたことになるの。 「美季さんは、今までと違って何年も関係が続いていた私のことを調べていた。私の家って普通じゃない家庭だったから、最初はこの女はダメだと思ったみたい。 「私の母親は記憶にないくらい幼いころに家を出て行った。父に育てられた私は中学卒業と同時に、父と二人で暮らしていた福井から、津に住む叔母を頼って家を出た。家を出た理由まで大体調べてあってびっくりしたわ。 「叔母の所から高校に通ったんだけど、叔母と父は私のことでかなり揉めてた。でも叔母は、私と父を会わさずにいてくれた。 「高校を出て名古屋の会社に就職、それで叔母の所からも出て行ったの。その次の年の年明けに叔母から連絡があった。父に出した年賀状が、配達先不明で返ってきたと。会いたくなかったけれど心配は心配だから、叔母と一緒に福井まで行った。そしたら父と二人で暮らしていた借家には、もう他の人が住んでいたわ。 「近所の方に父のことを聞いて回ったら、昨年の秋に出て行ったと言われた。家財道具を処分して、ほとんど身一つで出て行ったと。転居先を聞いても答えず、口ぶりから東京に行ったんじゃないかと言う事が分かった程度だったって。だから私は中学を出てから父と会っていないし、どこにいるかも分からない状態だったの。 「どこにどんな調査を頼んだのか知らないけれど、美季さんはそんなことまで全て知っていたわ。そして、父だけでなく、記憶にない母の居場所まで突き止めていた。 「ま、私は今更どちらにも会う気はなかったから、そのことは詳しく聞かなかった。父が神奈川、母が福井にいると言うのをその時は知っただけ。 「そんな私の素性を知った上で、美季さんが私の所に来たの。それは主人が私と言う愛人がいること、その愛人が妊娠したこと、そしてその子を認知したいと、美季さんに打ち明けた数日あとのこと。 「主人は家の外で子供を作るわけにはいかないって常識はあったの。だからとても気を付けていた。でも妊娠してしまった。堕ろせと言われるだろうな。いえ、あんなに気を付けていたんだから俺の子じゃない、とか言われて捨てられるかも。そんなことを思いながら覚悟してすぐに話したわ。そしたら、最初はさすがに驚いた顔をしたけど、すぐに喜んでくれたの。そして産んでくれと頼まれた。美季さんが私の所に来たのはその数日後。主人はすぐに美季さんに打ち明けたのね。 「私と美季さんはその時が当然初対面。いきなり主人から私のことを聞いたと切り出された。でも、聞く前から、数年前から私のことは知っていたし調べてもあったと言って、さっき話したことを話された。 「そしてこう言い出したの、自分はすぐに主人と別れるから、お腹が大きくなる前に主人と結婚してやってくれと。 「びっくりしたとしか言えないわ。だって私自身、二回りも上の人とどうにかなりたいなんて思ったこともなかったから。 「主人には惹かれるものがあった。だからそう言う関係になった。でも私は自分が愛人だと分かっていた。いつかは終わる関係だと承知してた。さっき捨てられると覚悟したって言ったけど、妊娠でその潮時が来たって思ったの。だから産んでくれと言われた時は素直に嬉しかった。でも、間違っても、奥様を追い出して後妻に入ろうなんてこと、考えもしなかった。 「だから美季さんの申し出を断ったわ。そんなことは出来ないと言ったの。すると美季さんは、そうするのが自分の望みだとおっしゃった。子供を欲しがっていた主人に子供を持たせてやりたい。そしてその子は生まれた時から主人の家族にしてやりたい、と。 「しばらく問答になったわ。でも、ま、結果として私が主人の妻になっているんだから分かると思うけど、私が説得されてしまったの」  そこまで話すと奥様が私の顔を見ました。 「喉乾かない?」 そしてそう言うと、戸口の方に向います。部屋に入ってすぐの引き戸横には、奥様のトートバックが置いてありました。その中を探って、 「良かった、二本あった」 そう言ってペットボトルを二本取り出します。戻って来るとお水とお茶の二本を見せて、 「どっちがいい?」 と、私に聞きます。 「いえ、わたしは……」 「遠慮しなくていいわよ。じゃ、私はお水もらうわね」 そう言って私にお茶のペットボトルを差し出します。私が受け取ると奥様はすぐに一口、二口と口に含みました。私はペットボトルを両手で受け取ったまま。お茶ではなく、今聞いた話をまだ飲み込んでいる最中でした。  確かに恨みあったり妬みあったりしたお二人ではないように聞こえました。でも、こういう関係で出会った二人が一緒に住もうとする感覚は、理解できませんでした。特に前の奥様、美季さんの方の本音は。そんなことを思ったからではありませんが、 「前の奥様、美季さんですか? その方とはそれから親しい関係になられたんですね?」 と、わざわざそんな言葉で聞いてしまいました。奥様は窓を背にして、窓枠に腰掛けるような格好で答えてくれます。 「すぐにじゃないわよ、その時は二度会っただけ。そのあとは……、その時は、もう会うことはないと思ってた」 私は奥様の顔を見つめるだけでまた何も言いませんでした。奥様はもう一口お水を飲むと続けてくれます。 「上の子、貴男は予定日より一週間ほど早く生まれたの」 そしてまたお水を一口含みます。 「生まれる二日前の定期検診には主人もついてきた。出産に立ち会いたいから、予定日を自分で確かめるって。で、その時も、予定通り一週間後くらいですねって言われて、安心して東京に行ったの、三、四日の予定で。その時ね、最初の東京のお店が開店間近だったのよ。 「でも産科から帰って来て主人を送り出した午後、急に体調が悪くなったの。体なのかお腹なのか、とにかく重たく感じてだるくなって。だんだん気分も悪くなってくるし、お風呂に入った後は眩暈までしてきた。 「腰に鈍い痛みまで出て来た時に産科に電話したの。でも、出産直前にはよくあることだからって。でもね、ソファーから一歩も動けないくらいの状態だったの。食べなきゃいけないのに夕食も食べれない。 「心細くて救急車呼ぼうかなんてことも考えてた。で、気付いたら、なんでか美季さんに電話してた。他に頼る人がいなかったからだけど、あとから考えると、美季さんに頼るのもねって感じよね。でも結果的に正解だった。 「電話したのが夜の遅い時間だったのもあって、最初は不機嫌な声だった。でも私が今の状態を話したら色々心配してくれて、そのうちちょっと待ってなさいって言って電話が切れたの。私はまた掛かって来ると思って電話を持ったまま待ってた。でも掛かって来なかった。 「小一時間ほどした頃にインターホンが鳴ったの。私、ソファーで寝かかってたからびっくりして出たら美季さんだった。美季さんと二人って言うのは気まずかったんだけど、それ以上に、傍に誰かいて欲しかったから、うん、嬉しかった。 「美季さんはそのままうちに泊まってくれて、次の日は食事やらなにやら、全部やってくれて、ずっと話し相手にもなってくれたの」 私は奥様の話に聞き入っていました、が、そこで少し疑問が湧きました。でも話の邪魔をせずに聞き続けます。 「でもほんとはその日の朝から、腰の鈍い痛みがはっきりした痛みになってた。お昼を過ぎて夕方が近くなるころには、時々声に出ちゃうくらい痛くなった。その様子を見て美季さんが、陣痛が始まってるんじゃないかって、産科で渡された冊子を見て言うのよ。で、また病院に電話した。そしたら、前兆の陣痛でももう少し頻繁に起こるからまだ違う。陣痛だったとしても十数分間隔になるまでは慌てなくていいって。 「そう言われたらどうしようもないから楽にして過ごしてたんだけど、夜になったら気分も悪くなってきて、ましになってただるさや眩暈がまたひどくなったの。そして痛みは腰だけじゃなくて、お腹の下の方全体に広がった。ただ、陣痛みたいに定期的な物じゃなくて、ずっと続く痛みなの。そしたら今度は美季さんが病院に電話してくれた。そして私の状態を説明したら、とにかくこれから連れて行くから診てくれって。もう遅い時間だったから明日の朝にしてくれって言われたみたいだけど、連れて行くって押し切ってた。それから、そのまま入院になってもいいようにって、慌ただしく準備をしてくれるの。そして病院に連れてってくれた。 「結局は検診の日の午後から陣痛が始まってたみたい。お昼までに貴男は生まれたわ。立ち会うって言ってた主人じゃなくて、美季さんが立ち会ってくれた」 そこで奥様は、ふふっと、小さく笑います。 「貴男を最初に抱いたのは、私でも主人でもなく、美季さんなのよ。こんなに小さいのよ、こんなにかわいいのよ、なんて言いながら私に見せるの。嬉しそうな顔して、自分の子を自慢するみたいに。そんな姿を見て思った、美季さんも子供が欲しかったんだって」  小さく笑った後の表情のまま、奥様はそう言いました。私も微笑んでいました。でも同時に、疑問に一つの答えを出していました。前の奥様、美季さんはこの時はまだ車椅子を使うような体ではなかったんだと。車椅子の方が妊婦の手助けに駆けつけたり、赤ちゃんを抱いて見せたり出来ない、とまでは言いませんが、難しいだろうとは思います。  奥様の話は続きました。 「それからは毎日のように会いに来てくれた。私じゃなく貴男にだろうけど。さすがに主人と顔を合わすのは避けてたけど、退院して家に帰ってからもしばらくは来てくれてたの、私の体調が完全に戻るころまでは。そのあとも週一くらいのペースで会いに来てくれるの。三か月のお祝いとか、半年のお祝いとか、そんなこともしてくれた。 「主人はいるけど、仕事があるから一人で育ててるのと一緒でしょ? だから気に掛けてくれる美季さんの存在は有難かった。こんなこと言ったらいけないけど、母が傍にいてくれてるみたいな感覚。 「そして私はまた妊娠した。下の子、雅男ね。そしたら、もう美季さんは主人がいてもお構いなしにうちに来て、家事の手伝いやら貴男の世話やらしてくれたの。他人の家のことだと、とっても変、いえ、異常でしょ? 後妻の私が主人と子供と、そして私自身の世話を前妻にしてもらってるなんて。でも楽しかった」 奥様は自分の足元を見た姿勢のまま、そこで話を止めました。私も黙っていました。  しばらくすると奥様が窓の方に向きを変え、また外を窺います。でも何も話し始めませんでした。このあと何を話そうか考えている風にも見えません。ただ外を見ているだけ。今話した当時のことを思い出しているのかも。すると私の口が開きます。自然とこんな質問をしていました。 「美季さんはいつから車椅子を使うようになったんですか?」 奥様は一瞬私の方に振り向きかけました。でも顔を窓の方に戻してから、 「ちょうど三年前、雅男の一歳の誕生日のすぐあと。三年前の今頃よ」 と、答えてくれました。 「ニュースとかで見たことない? 地下鉄の階段で何人か転んでけがしたって事故」 そしてそう続けます。私は少し考えてから、 「すみません、覚えてないです」 そう言いました。 「そ、ま、知り合いでもいなければ覚えてないわよね。美季さんはその時にけがした人の一人。一番重傷だった人。腰と骨盤を骨折したの」 「それで車椅子に?」 「そう。お医者さんは元通りにはならないけど、歩けるようにはなるって。でもなかなか……。歩行訓練って言うのはかなり辛いみたいだし」 奥様はそう言ってからペットボトルの蓋に手をやります。でもそのまま。蓋を開けずに見つめています。 「それからはそんなにお会いになっていないんですか?」 私はまた聞いてしまいました。奥様は私の方を向くと明るい顔で答えます。 「ううん、回数は減ったけど、元々出歩くのが好きな人だから。車椅子対応の今の部屋を探したのは主人だし、私も子供達連れて時々会いに行ってるわよ」 「そうですか」 そう聞いて、なぜだか私も笑顔になってました。 「子供たちが保育園に入ってからは、保育園の行事も観に来たりしてくれるのよ」 そう言ってから奥様は、何かを思い出したようにトートバックに駆け寄ります。そして慌ててスマホを取り出すと画面を確認。 「もうこんな時間だった」 その奥様のセリフに私も自分の腕に目がいきます。十二時前でした。そんなに時間が経っていたとは思いませんでした。 「ごめんなさい、今日は保育園お昼までなの、迎えに行かないと」 そう言ってバックを持つ奥様に、 「分かりました。このお部屋の改造案、満足してもらえるものを作りますね」 そう声を掛けました。 「よろしくお願いします」 その声を残して奥様は出て行きました。  久野邸の現場を出たあと、もう一現場寄ってから戻りました。車を停めたのは三時過ぎ。青木さんと会って話をしたかったのですが、図面に追われている様子だったので自宅でやっているでしょう。今日は無理だと思いながら、事務所に向って歩いていました。すると一階の喫茶店の中に青木さんを発見。私も店に入ろうかと思ったら、カウンターを挟んで真紀ちゃんと何やら楽しそうに話ています。なんだかお邪魔虫になりそうだったのでやめました。この二人、こうやって話ているのを時々見かけます。まさか……ねぇ。  事務所に入って田子さんに、 「青木さんっています?」 と、聞いてみました。するとパソコンの画面から目を離さず、指を下に向けて指します。どうやら読書中の様子。返事するのも面倒なくらい、いいところなのでしょう。私はそれを見ただけで隣の部屋に入りました。  部屋の中は無人でした。自分の机まで行くと図面が一束置いてあります。杉浦邸の図面。立面図(外観図)、平面図、矩計図(断面図)、展開図など、とりあえずの物が一通りそろっていました。リビング、キッチンなどの、内部のイメージ図もあります。先日の打ち合わせの内容を落とし込んだ物を青木さんが仕上げたのでしょう。後はこの図面内容での見積書が出来上がれば契約の話に進めます。一通り図面に目を通してから、遠藤さんにこの図面を送った方がいいかな? なんて思っていたら青木さんが戻って来ました。 「お疲れさん、久野邸どうだった?」 私の顔を見るなりそう聞いてきます。 「とりあえずそのままでOKです」 そう答えてから奥様との話をしようと思いました。でも青木さんは私の返事に頷いた後、私の手元を見て先にこう言います。 「あ、杉浦のとこの図面、目を通して気付いたことがあったら言って」 そう言われたら先にこっちの話をするしかない。 「えっと、今、目を通しましたけど特には何も……。見積り用に、遠藤さんにこれ送らなくていいですか?」 「もう送ったよ。見積り終わってたみたいだから、相違がないか確認するって言ってた」 自分の席に着きながら青木さんが答えてくれます。そして、 「明日、ここに見積書持って来るって言ってたから、明後日以降で杉浦とアポ取って、って、高橋さん一人が良かったんだっけ、ま、そう言う事で任せるよ」 「分かりました」 一人で契約の話をすることになっていたのを思い出し、少し沈んで返しました。  でも気を取り直して青木さんの傍に行きます。 「あの、久野邸のことでちょっといいですか?」 「他に何かあった?」 青木さんはパソコンの画面を見たまま聞いてきます。私は一瞬どう切り出すか考えてから話ました。 「給排水の準備工事をした裏の部屋の用途なんですが」 「おお、何かわかった?」 今度はこちらを向いて興味あり気にそう聞いてきます。  私は奥様と前の奥様とのつながりをまず話ました。その上で奥様が前の奥様をあそこに住まわせたいと思っていること。そして、その前の奥様が車椅子を使っているので、裏の自宅部分の一階のバリアフリーにあそこまでこだわっていたことを説明しました。そして自分で描きかけた図面も見せながら、車椅子対応の部屋への改造案を考えて欲しいと頼みました。  青木さんは私の図面を見ながらしばらく思案顔。 「ほんとに前の奥さんが一緒に住むと思う?」 そしてそう言いました。 「分かりません……、けど……」 「けど? いや、ないよね」 青木さんが私のセリフを引き取ってそう言います。 「ないですか?」 私は奥様から聞いた話から、お二人なら一緒に住めると感じました。なのでそう返しました。 「うん、ないと思う」 青木さんはあっさりそう言います。私の話方が悪かったのかな? 私は奥様の話で二人の関係と言うか、心の距離みたいなものは近いと感じたのだけれど。そう言う風には青木さんには聞こえなかったかな? そんなことを考えていると青木さんが続けて口を開きます。 「分からない?」 そう言われて一つ思いつき、 「ご主人が嫌がるということですか?」 と、返していました。 「う~ん、それは分からない。でも、僕は前の奥さんが断ると思う」 「え、何でですか?」 私にとっては意外な青木さんの考えに、思わず少し声が大きくなってしまいました。 「ま、それは……、一言で言うと、けじめ、だよ」 「でも、今でも親しいお付き合いをされてるんですよ。保育園の行事まで観に行かれたりして」 私がそう言うと、青木さんは私に椅子を持って来るように促しました。そして私が自分の椅子を引いてくる間に、ミーティングテーブルに移動しています。 「さっきの話だと、一時例外みたいな時期はあったみたいだけど、基本的に前の奥さんはご主人がいない時に現れるんでしょ?」 私がミーティングテーブルに着くと青木さんがそう言います。 「……みたいです」 「それがけじめだよ」 「前の奥様がご主人を避けてるってことですか?」 「いやいや、そうじゃなくて、けじめ、だって」 私には理解できませんでした。しばらく青木さんの顔を見ていましたが、理解できずに俯いてしまいます。すると青木さんが話し始めてくれました。 「僕が思うに、ってのが前提の話をするよ」 私は顔を上げて頷きます。 「前の奥さんがご主人を避けるって言うのは無いと思う。子供を欲しがったご主人の為に身を引いたんだから。本心は他所で子供を作ったことに腹を立てて別れたんなら、何があってももう関わらないだろうしね。同じ理由で今の奥さんを避けるようなわだかまりも無いんだと思う。当初の本音は分からないけどね。でもご主人の子供のことだけを想ってのことなら、出産の時の手助けだけで、あとの付き合いはしないと思う」 青木さんはそこで言葉を切りました。なので私はそれに頷きながらこう言ってました。 「だったら一緒に住めるんじゃ……」 「だから前の奥さんのけじめなんだって」 私はまた青木さんの顔を見たまま黙ります。 「どんな想いだったにせよ、前の奥さんは自分から別れを切り出して別れたんだろ? だからどんなに近くにいても、一線は引いておくつもりだと思うよ」 そう言われればそんな気がしてきました。私は人が言う事をすぐにそうだと思ってしまう。少し前まで反対のことを思っていても。 「ま、最初に言った通り、これは僕の考えだけどね」 青木さんはそう言って話を終えました。 「分かりました。でもどうします?」 「どうって、どうもしないよ。これは僕らから何か言ったり、したりすることじゃないよ。前の奥さんを含めた久野さん一家が結論を出すことだから」 「ですよね。すみませんでした」 余計なことをして、って気持ちでそう言いました。でも青木さんはこう言ってくれます。 「いや、いいんじゃない? お客様のこういう本音を聞けるなんてなかなかないから。高橋さんだから話してくれたんだろうね」 「でしょうか?」 「多分ね。僕が思うに」 青木さんはそう言って笑顔を見せてくれます。私も笑顔になりましたが、それはなんだか褒められたような青木さんの言葉に嬉しくなっての照れでした。でも一つ思い出して、 「あ、改造案を出しますって言っちゃったんですけど……」 と、言いました。でも青木さんはさらっとこう言います。 「それはご本人を交えて要望を聞かないと、本当に使い勝手のいいものは作れないから、住まわれることが決まってからにしましょう。って言えばいいよ」 なるほど、それはその通りだと思います。 「分かりました、そうお伝えしておきます」 「うん、それに、リハビリ次第で良くなるかもしれないってことでしょ? なら、一緒に住むにしても無用のことかもしれないし」 「そうですね」 奥様の話で熱くなった胸が、青木さんに冷まされてしまいました。ううん、冷まされたなんて感じではない。自然に暖かいところに落ち着いてくれた感じです。  青木さんはそのあと、自宅で図面をやると言ってすぐに帰ってしまいました。私は久野邸と、午後に行ったニューブレインの滝川さんの現場、菊田様店舗兼住宅での打ち合わせ内容を、それぞれパソコン内の議事録に入力していきました。それらが終わって一段落してから遠藤さんに電話。久野邸はハウスアートの仕事なので、遠藤さんにも簡単に今日のことを報告しました。青木さんの言ったことも伝えると、それでいいと言われます。最後に杉浦さんとの打ち合わせを金曜日にして良いか確認すると、私は出ないから好きにして、と。見積書が本当に明日もらえるのかどうかの念押しのつもりだったのですが、そう言われて何も言う気が無くなって電話を終えました。  時計を見るともう少しで五時。仕事はありますが、この時間から手を付けるほどの急ぎのものはありませんでした。なので田子さんが五時で帰るのに合わせて事務所を出ました。久保田さん、清水さんとは顔を会わさず。帰って来るのかな?  田子さんと別れてスーパーの方に向いました。そこで見ました。ロータリーの向こうからこちらを見ている、見たくない顔をはっきり見てしまいました。気付いた瞬間に顔を逸らしました。でも気になってもう一度チラ見。……いない。なのでもう一度。……やっぱりいない。でも、気のせいでも、見間違いでもない。  スーパーに寄るつもりでしたがやめました。うろうろして出くわしたくなかったから。まっすぐ駐車場に行き、車を出しました。でも後ろを気にしてしまう、ついて来ていないかと。でもそれは気にするだけ無駄だとすぐに気付きました。だって相手は私の家を知っているから。その見たくなかった相手は、中野栄一。何で今更また……、憂鬱です。  翌日、一晩寝たのに気分は晴れず、最悪。いいえ、一年前の悪夢の再来かと、浅い眠りにしかつけなかった。そう、あれからもう一年経つのに、なんでまた現れるの……。  事務所に入ると挨拶する前に左から声が掛かりました。 「梨沙ちゃ~ん、今日、どうしてもって予定ある?」 その猫なで声の主は清水さん。 「え? どうしてもってのは無いですけど……」 あ、沈んだ顔のままだった。 「ん? 調子悪い?」 私の表情を見てそう聞いてくる清水さん。しょうがない、笑顔スイッチ、オン。 「いえ、元気ですよ」 「良かった~、頼みたいことがあるんだけど、い~い?」 ホッとした顔でそう言う清水さんはワイシャツにネクタイ姿。そして折り目の付いたスラックスに黒の革靴。多分どこかの現場で建築検査(役所の検査)があるんだ。清水さんはそう言う役所がらみの行事の時はこういう格好をします。青木さんはそういう時でも基本的にいつもと同じ格好。入社前に一度スーツ姿を見たけど、入社してからは皆無。どういう時にスーツ着るんだろう。久保田さんは……、いつもネクタイしてる。あの人の頭にはクールビズと言う言葉がまだ入力されていない。 「いいですよ、何するんですか?」 私はそう返しながら自分の机に向かいます。向かいながら右側の長机に気付きました。私の机の右側に並べて長机が一台あります。私が使っているもの。それとは別に、外の通路に面したサッシ沿いにもう一台ありました。昨日までは使っておらず、折りたたんだまま置いてあったものです。 「竣工図用に施工図とか現場のチェック図の整理して欲しいんだ。で、それをまとめたチェック図にしてくれると助かる」 清水さんが明るい声でそう言います。  私が青田設計で担当することの多い青木さんの現場では、大抵その都度、青木さん自身が施工図に関わり、元の建築図もそれに合わせて修正、加筆、時には図面を追加しています(以前行った根岸邸の時のように)。なので最終的に作成する竣工図は都度更新されている格好なので、そんなに手間なく出来上がります。  久保田さんは申請などの書類作成と、青田設計が下請けとなる時の、発注元となる設計事務所などへの営業が主な仕事。なので物件を担当するのは僅かです。担当しても自分ではほとんど描きません。自分では描きませんが、適時、図面の修正や追加を外注さんに指示しているので、青木さんと同様に、工事の進行に伴って図面も更新されている状態です。  清水さんは設計事務所の下請けでやっている現場が多いです。それらはRC(鉄筋コンクリート)造の高層建築が主。工務店と下請けの施工業者との間で交わされる施工図は桁違いの多さです。それも変更、修正が繰り返されるのでさらに増えていく。なのに工務店からは設計事務所の下請けの図面屋と見られることが多いので、相談や決定連絡は元の設計事務所にのみされて、その後のフィードバックが遅れて来ることがしょっちゅう。清水さん自身が現場で図面との違いを見つけて初めて知ることも。でも、遅れがち、溜まりがちとはいえ、適時修正されているはず。  猫なで声で頼んでくるということは、かなり溜まっているのかも。いえ、もう一目瞭然です。昨夜置かれたと思う長机の上には、A3、A4混ざりあった紙が積まれて山になっていました。それも、崩れず上手に積んであるなぁ、と思ってしまうくらい高い山が。二山あるので連山とでも呼べばいいかな。 「チェック図作るんですか?」 連山にまだ気付いてない風を装ってそう聞きました。 「チェック図作ると言うか、まとめて見れるチェック図にするって感じかな?」 清水さんが連山に目をやりながらそう言います。やっぱり、あの連山の中身は施工図やチェック図なんだ。修正されていない内容があれだけあるってことなんだ。 「まとめるのはあれですか?」 私は観念して連山を指して言いました。 「そ、昨日、現場監督に言って、あるだけ出してもらったんだ」 まだ明るい口調の清水さん。思わず不機嫌顔で睨んでしまう。 「いや~、最後に業者からのメールの添付図面で不足無い? あったらそれも打ち出して、って言ったら、メール探してはくれたけどデータだけくれて打ち出してくれなかったよ。ま、その時点で十時過ぎてたからしょうがないけど。俺はここに戻ってからそれ打ち出してたから、家帰ったら一時過ぎてたよ。思いっきり怒られちゃった」 清水さんは私が睨んでいるのをかわすように、そんなことを言いながら連山に向いました。私は黙ったまま少し近づきます。近づきながら気付きました。青木さんと久保田さんがこちらを見ないように、こちらを気にしている。おはようございますの挨拶もしていなかったので、二人のことを忘れていました。 「見れば分かると思うけど、これ全部変更されてるところの図面なんだわ。決定までのやり取りの図面も含まれてるから、いらない図面も大分あると思うけど」 清水さんが山の一つに手を置いてそう言います。 「はあ」 「で、これがメールのデータから打ち出したやつ。こっちは決定図だけ選んであるけど、こっちに同じものがあるかも知れないからね」 連山に並んでもう一つ丘がありました。それと山を指して清水さんがそう付け加えて言います。あの山々の内容を整理するなんて、目を通すだけでもかなりの重労働だ。でも、やるしかないんでしょう、青木さんの反応を見ても。 「それを整理して元の図面にまとめてチェックしていくんですね。まとめる元の図面はあります?」 私は観念して明るめの声でそう言いました。すると清水さんは、背中合わせの私と清水さんの席の間にあるキャビネットの上を指します。 「うん、用意してある、それにお願い」 そう言われて見た先には一束の図面がありました。『ヴィラ松原新築工事』と大きく書かれた表紙が一番上で、百数十枚はありそう。表紙には他に、『設計監理:株式会社大川設計 大川一級建築士事務所』と、『施工:株式会社協建コーポレーション』の表記があります。設計監理って書いてあるんだから大川設計でやれば? って思ってしまいますが、そうなるとうちの売上が無くなるわけで、文句言うわけにもいかない。それに、これだけの変更箇所を修正依頼せずに溜め込んだのは協建コーポレーションの監督だ。文句言うならこの人だ。なんて思いながらも、 「チェックは全部赤でいいんですか? 色分けします?」 と、作業指示を確認する私。清水さんは少し考えてから答えます。 「う~ん、うん、全部赤でいいや」 「分かりました。で、急ぎなんですよね、いつまでにやればいいですか? 明日中くらい?」 すると、そこでやっとばつの悪そうな顔をする清水さん。いやな予感。 「出来れば今日中にまとめて、上がり次第三輪君に送って欲しいんだけど。これの為に彼の予定空けさせてるから」 私はわざとらしくゆっくり連山を振り返って言いました。 「目を通すだけで夜になっちゃいそうですけど」 「いや~、不要な図面もだいぶあるから、実際はそんなにすごい量じゃないよ」 だったら自分でやれ、と言いたい。今日は私が夜中までかかるかも。そう思ったところで疑問が。 「清水さん、今からどこか行くんですか?」 「プレコート安城3の建築検査、十時からだからもう出ないといけないんだ」 清水さんはそう言うと思い出したように席に戻り、鞄などを確認し始めます。 「そのあとは戻って来て一緒にやるんですよね?」 そう聞くとまたまたばつの悪い顔をして、 「ごめん、そのあと休みなんだ。ちなみに明日も」 そう返してきます。 「はあ?」 「昨日の夜、ばあちゃんが死んじゃって、今夜通夜、明日が葬儀になっちゃったんだよ」 「そうなんですか。……あの、ご愁傷様です」 う~、文句言えない。軽く頭を下げてお悔やみを言いました。 「いやいや、気にしないで。九十過ぎで病気もあったから、時間の問題だったんだよ」 清水さんはそう言うと青木さんの方を向いて、 「じゃあすみません、勝手します。あ、それと、香典ありがとうございます」 そう言うと頭を下げました。 「いや、気を付けて行ってきてね」 そして青木さんのその言葉で出掛けて行きました。  清水さんが出て行ったあと、青木さんが私に声を掛けてきました。 「高橋さん、やれそう? 僕も今日は打ち合わせあるし、追われてる図面がまだだいぶあるからそれやりたいんだよね」 「ま、やるしかないんで……」 私は連山を見てそう言ってから、また青木さんに向き直りました。 「それより香典、私、知らなかったんで……、どうしましょ? 後からでもいいですかね?」 「いや、いい、いい、会社名で渡したから」 「そうですか」 「僕も出してないから気にしなくていいよ」 久保田さんもそう言ってくれます。 「そうですか。あ、お二人はお通夜とか葬儀に行かないんですか?」 「ま、おばあさんだからね、行った方が気を遣わすだろうから。それにちょっと遠いし」 青木さんが答えてくれました。 「遠いって、どこなんですか?」 「清水の実家は田原、渥美半島だよ」 「……遠いですね」 そう返していると久保田さんが数歩近付いて来ました。 「それにしても、こんなに溜めるかねぇ」 そして連山を見ながら呟くように言います。 「現場担当、河田さんだったから気を付けろって言ってあったんですけどね」 久保田さんの呟きに青木さんがそう返します。河田さんって言うのは協建コーポレーションの監督さんです。 「河田君か、相変わらずだなぁ」 相変わらずと言われるような人なんだ。久保田さんがタバコに火を付けてからこう言ってくれます。 「僕も今日は出ずっぱりだけど、夕方戻ったら手伝うよ」 「ありがとうございます」 私はそう返してから自分の席へ。机に置きっぱなしの鞄を片付けます。そして鞄からスマホを出しながら、 「清水さん、昨日、スマホ持ってなかったんですかね?」 どちらへともなくそう言いました。 「なんで?」 青木さんが返してくれます。 「夜中に帰ったら怒られたって言ってたから、それまで連絡つかなかったのかなって」 「いや、おばあさんのことは九時くらいだったかな? 僕に連絡くれたよ」 「そうなんですか」 「寝てるところ起こされて、奥さんんが怒ったんじゃないの?」 久保田さんがおかしそうにそう言います。 「ええっ、奥さんいたんですか? 清水さん」 独身だと思ってた。いえ、独身としか思えなかった。 「知らなかった? まあ、正式には奥さんじゃないけど」 「そだね、内縁のってやつだ」 青木さんに続いて久保田さんがそう言います。内縁か、私の世代では使わない言葉だよね。同棲してる彼女がいるって感じかな。 「そうだったんですね」 とりあえずそれしか言えませんでした。  そんなところへ田子さんが出勤してきました。朝の挨拶が終わると、青木さんが田子さんに一枚の紙を渡します。そして清水さんのことを説明、弔電や供花の手配を頼んでいました。  私は二つの図面の山に向き合いました。適当に上から目を通していきます。まずはどう整理していくか、方向を決めるため。ダブルクリップなどで綴じてある十数冊の図面にざっと目を通して、いろんな業者の図面がバラバラに混ざっていることに気付きました。そして、何冊かには『手配図』とか『承認図』の表記がありました。なので、まず業者ごとで仕分。そこから手配図などの表記があるものを探して、それに類似する図面はそれにいたるまでの過程の図面だと判断して除外する。そう言う方向で進めることに決めました。  九時過ぎ、山二つと丘一つ分の図面、全て仕分け終了。意外と早く終わりました。と言うのは、建築図のコピーに書き込まれたチェック図的なものが一番多かったから。それだけで元の一つの山くらいになってしまいました。それと業者名とかが不明の図面。図面の種類が違うので数社分の図面が混ざっていると思いますが、その仕分けは後回しってことでまとめてしまったので、それもかなりあります。そ、仕分けても山二つと、小さな丘未満程度の物がいくつか程度にしかならなかったのです。既に事務所は私一人、後回しとして積んだ山を、どう仕分けるか相談する相手もいない。あ、隣の部屋に田子さんはいるけど。  丘の方は清水さんが選別済みだったので、承認図に相当するものばかりでした。その一つを机に広げて確認作業開始。でも……、確認できない。いえ、出来るんですが、修正された箇所がどこなのか、あるのかないのか、一目では分からない。通常、図面の修正は修正前の図面の変更部分に、修正する内容を書き込んだチェック図を作ります。その書き込むチェックは赤や青と言った色のついたペンでされます。故に、一目瞭然で変更箇所が分かるのです。でも、手配図などとして修正された図面には、色のついた部分はありません。これでは内容の全てを見比べるしかない。  しょうがないので見比べていくことに。最初に開いていたのは玄関ドアメーカーの図面。頭の方の仕様書部分は飛ばして、一階の配置図を見ます。『ヴィラ松原』は九階建てのマンション。一階はエントランスと管理人室、駐輪場と、1LDKが四戸。二階から七階は共通で、1LDKが各八戸。八、九階がまた共通で2LDKが各四戸。なので配置図は三枚です。元の建築図の一階平面図と見比べ、違いなし。ま、建具の配置なんてそうそう変わるものじゃないでしょう。そして二階。問題なしと思い、三階から七階を飛ばそうと図面をめくっていて気付きました。玄関ドアの開き勝手が左右違うところがある。よく見ると、PS(パイプシャフトスペース)のガスチャンバードア(PS内にガス給湯器を収める時の扉)も左右違うのがある。  まとまったチェック図とする元の図面の平面図にその違いを書き込みました。どれだけ書き込む内容が出てくるか分からないので、消せるタイプの赤のボールペンを使いました。九階の平面図まで赤ペンを入れてから一枚めくりました。次は一階平面詳細図1となった図面。次もめくっていくと平面詳細図は各階1~4までありました。これも全部赤ペン入れなきゃダメ? いや、これ以外にもドアの勝手が載っている図面なんていくつもある。設備や電気の配置図なんかも含めたら、きりがないくらい。玄関ドアの勝手修正だけで、それら全部の図面に手を入れなきゃならないとなると……。絶対に今日中になんて終わらない。  三輪さんに電話しました。平面図に代表で赤ペンを入れて、あとは共通ってことにしてもらえないか聞くために。 『いいよ、それで。平面とかは固定レイアにしてるから、それを直しちゃえばあとはそれを使いまわすだけだから』 「良かった、それだけでも手間が減るんで助かります」 『それよりその固定レイアにしてるところ先にやっていきたいから、その辺の図面先に欲しい』 その辺って、どの辺なのよ。固定レイアにしてるってのがそもそも私には日本語じゃない。意味を教えてって感じなのにそれ以上望まれても、何を望まれてるのかが分からない。 「えっと、すみません、どの図面か言ってくれません?」 『どのって……。とりあえず躯体図関係探して。決定稿がどれか分からなかったら全部送ってくれたらいいから』 「……」 どの図面のことか分からない。躯体図って言葉は聞いたことあるけど、そんな図面見たことあるかな? 私は返事出来ずに手元の建築図を繰っていました。すると電話の向こうから三輪さんが、 『多分、A2かA1の図面だよ。この現場、何度か直してるけど、その時はそう言う図面だった』 折りたたんであって、内容が意味不明だった図面がありました。意味不明だったので隅にまとめて積んじゃった。私はそう言われたのでその図面の一枚を広げて見ました。でもよく分からない。 「A1の図面はあります、何枚も。これですかねえ?」 『とりあえずそれ送って、って、そうだなぁ、そのサイズは送れないよね。持って来れない?』 勘弁して、そんな時間ない。ただでさえ何時間掛かるか分からないのに、余計な時間を使わせないで。と思っていたら思いつきました。 「それなら全部持っていきましょうか? その方が間違いないだろうし」 そして私は解放されるし。しばらく三輪さんから返事がありませんでした。 『いや……、そっち行くわ。青木さんいる?』 そしてそう言います。来てくれるのは嬉しい。でもなんで青木さん? 「いえ、青木は打ち合わせに出てて、多分そのまま戻りません」 『じゃあ青木さんのところ停めれるね、車乗ってくわ』 そう言うことか。そのあと昼までにそっちに行くと言って電話は切れました。  それまで何をしてたらいいか聞くのを忘れました。なので仕分けした中から「手配図」等の最終図面だと思われるものを抜き出すことにしました。でも十一時過ぎにはそれも終了。かなり気を付けて目を通していきましたが、元から十数種類しかないもの。そんなに時間がかかるわけではありません。  お昼までには来ると三輪さんは言ってました。それってお昼ご飯食べてから来るのかな? それなら私も先に済ませておいた方がいいかな? なんて思っていたら、三輪さんが来ました。 「大変だね、こんなこと押し付けられて」 事務所に入ってくるなり挨拶無しでそう言われました。 「いえ、こちらこそわざわざすみません」 「いいよ別に。で、どれ?」 「あ、これです」 私は折りたたんだ図面が積んである所を示しました。三輪さんは一枚ずつキャビネットの上で広げて見ていきます。見ていきながらすぐ畳んで脇に置いて行く図面が結構あります。脇に積まれていく図面を見ていたら、 「これは前に見た奴だからもう直しが終わってる分」 と、説明してくれます。大きな図面を全て広げ終わると、三輪さんは建築図のコピーの山に目を通し始めます。そしていくらも見ないうちに手を止めました。 「今は何をやってました?」 そして私にそう聞きます。私は業者の図面の最終図をピックアップしていたと告げました。 「じゃあ、これ整理してくれない? とりあえず同じ図番で集めていって。内容が違うのが混ざっちゃうんだけど、もう何も考えずにページごとで直していくから」 三輪さんはコピーの山を指してそう言います。 「分かりました。同じ図番を集めればいいんですね」 「うん、頼みます。僕は清水さんのパソコン借りて直しを始めるから、何かあったら聞いて」 そう言うと大きな図面を抱えて清水さんの机に着きます。  三輪さんに指示された建築図のコピーの仕分けを始めてしばらくしたころ、「こんにちは」と、隣から聞こえました。知っている声でした。すぐに目の前の扉が開きます。開けたのは遠藤さん。私は扉前の床に図面を広げて仕分けしているところでした。遠藤さんが私を見下ろして言います。 「何やってんの?」 「清水さんの手伝いです」 私がそう言うと遠藤さんは左側の清水さんの席を見て、 「あれ? 三輪さん、こんにちは。でもなんで? 清水君は?」 そう言うとまた私に目を落とします。三輪さんは軽く会釈しただけで何も言わない。なので私が説明。 「清水さん、おばあさんが亡くなられてお休みなんです」 「え? そうなの? 知らなかった」 「昨日の夜みたいですよ。私も今朝知りましたから」 仕分けを再開しながら答えました。 「そう、青木さんや久保田さんは? 葬儀の方に行ったの? あ、昨日の夜なら今夜がお通夜かな?」 「ええ、今夜がお通夜だって聞いてます。お通夜も葬儀も出ないみたいですけど」 「そうなんだ、行かないんだ。どこでやるの? 訃報ある?」 こっちは作業中なのに、田子さんにでも聞いて。と思ったらこう言ってました。 「田原みたいですけど、私も詳しく知らないので田子さんに聞いてください」 「そっか、田原だったね、清水君。わかった、田子さんに聞いとく」 そう言ってもその場を動かずこちらを見ています。しばらく無視して作業を続けていましたが、私の方が気になって顔を上げました。 「何かありました?」 「何かって、杉浦さんのとこの見積書とか届けるって言ったでしょ」 そっか、そうだった。 「あ、ありがとうございます。預かります」 そう言ったけど、お礼を言う事ではないかも。だって、見積書に関わるなんて、本来はこっちの仕事じゃないんだから。でもこう言われます。 「預かりますじゃなくて、予算書とかの見かた、説明しなくてもいい? 分かるの?」 なんだか怒られてます。 「あ、すみません、お願いします」 私はそこで立ち上がりました。そして遠藤さんが促すので隣の部屋のミーティングスペースに移動。三輪さんに聞かれたくないのかな?  見積書と予算書のレクチャーが終わると、 「お昼は? そんな暇ない?」 と、遠藤さんが私に聞きます。十二時を過ぎていたので、田子さんは一人黙々と自席でお弁当を食べている。 「えっと、どうしようかな……。三輪さんはいいのかな?」 そう言うと遠藤さんが奥への扉を開けて、 「三輪さん、お昼は?」 と、声を掛けてます。 「う~ん、とりあえず後でいいです」 「あとで食べるなら今でも一緒でしょ。お弁当買ってこようか、何がいい?」 「いや、俺はいいですから」 「いいからいいから、三輪さんにもお世話になってるから、たまにはご馳走させて、お弁当で申し訳ないけど」 「じゃあ、……牛丼、大盛で」 「牛丼でいいの? わかった」 そして扉を閉めると私の方を向きます。 「梨沙ちゃんは?」 なんだかすごい勢い。こうなったらこうしか言えません。 「私も同じでいいです」 「わかった。じゃあちょっと待っててね」 「あ、私が買いに行きますよ」 「いいわよ、忙しいんでしょ」 その声を残して遠藤さんはもう出て行ってました。  遠藤さんが出て行ってから私は、杉浦さんのご主人の方に電話しました。お昼中に悪いかなとも思いましたが、お昼中の方が話しやすいかもとも考えて掛けました。電話に出たご主人に契約用の図面と見積書が用意出来たことを伝えると、明日の夕方、仕事帰りに寄ってくれるとのことでした。電話を終えてから遠藤さんが持って来てくれた書類を持って自分の席へ戻りました。そして書類を置いて表の部屋に戻ると、田子さんがもうミーティングスペースに移動して来ていて、テレビを観始めていました。 「あ、まだここ使う?」 使わないわよね、って言ってる笑顔でそう聞いてきます。 「いえ、いいですよ、もう」 私はそう言ってまた奥に引っ込みました。  遠藤さんが戻るまで作業を継続。しばらく経っても戻って来ません。どこまで行ったんだろうと気になりだしたころ、奥の扉から田子さんが入って来ます。一時を過ぎたってことです。奥の流しから洗い物の音が消えて田子さんが戻って行く。遠藤さんが待ち遠しい。半分諦めていた昼食ですが、食べれるとなって待っていると、空腹感が半端ない。気のせいか三輪さんも時々時間を見ている。私と一緒かな? 「お待たせ、牛丼屋さんどこにあるか聞いてけば良かった」 突然扉が開いて、声と一緒に遠藤さんが帰って来ました。 「駅の方にあったと思ってたら、駅と反対側だったんだね」 そしてそう続けながら奥のミーティングテーブルにビニール袋二つを置きます。 「すみません、ありがとうございます」 そう言いながら近付くと、ビニール袋から中身を取り出しながら、 「みんな一緒にしたからね。大盛と豚汁、卵とポテサラ」 遠藤さんがそう言います。並みで良かったのに。そう思いながら取り出すのを手伝っていると、お茶のペットボトルも三本出てきました。 「さ、三輪さんもこっち来て、食べましょ」 遠藤さんがそう言うと三輪さんが寄ってきますが、仕事しながら食べると言って、自分の分を持って戻りました。故に遠藤さんと二人で会食となりました。なんだか久しぶりの牛丼、すごくおいしい。  牛丼を牛丼らしく、かき込むように食べる遠藤さん。予想外の姿だけど、なんだか様になってる。美人って何やっても格好いいんだ、ずるい。なんて思いながら杉浦さんと明日の夕方で約束したことを告げました。それと、 「内容見て、良ければ契約書にハンコ押しちゃうから、契約書も用意しといて、と、言われました」 と、杉浦さんからの言葉も伝えました。 「分かった、何とかする」 遠藤さんは少し思案顔をしてからそう言いました。そして黙食、と思ったら、 「仕事帰りってことは一人で来るのかな?」 と、独り言のように言います。 「多分。そのあと飲みに行こうって青木さんに言っといて、とか言ってましたから」 「ふーん、そうなんだ」 またしばらく黙食。でも少しして、 「家近いから奥さん呼ぶんじゃない?」 と言ってから、豚汁をすすります。私は少し食事を進めてから返しました。 「小学生がいるんで夜は出ないんじゃないですか? 奥さん」 でもそのあとは、食事が終わるまで何も返って来ませんでした。  遠藤さんは食べ終わった自分の容器を片付けると立ち上がります。そして、 「じゃあ、私行くわね。契約書は明日の夕方までに届けるから」 そう言うと帰ろうとします。 「杉浦さんとの打ち合わせは? 同席するんですか?」 私は慌てて問いかけます。 「ううん、任せるわ。契約の話だけなら同席しようかと思ったけど、そのあとまで引っ張られたらヤだから」  遠藤さんがそう言って帰ったすぐ後に、田子さんから内線が入りました。青木さんからの電話でした。杉浦さんの件を伝えると、杉浦さんがそう言うなら同席すると言ってくれました。多分奥さんは来ないと思うので、私は大歓迎。その話の後、青木さんはメモするように言ってから携帯電話の番号を言います。何だろうと思っていたら、午前中に行った現場に会社のスマホを忘れて来たので、しばらくその番号に掛けてくれとのこと。個人のスマホの番号です。電話を切ってからメモした番号をスマホに登録しました。そして登録した番号をじっと見ていました。最後の四つの数字が0910。それは私の誕生日。そして、そこだけを覚えているある人の携帯番号と同じ。  四時過ぎくらいで建築図のコピーの仕分けが終わり、図番順にも整理しました。すると三輪さんが手を止めて、私が整理したものに目を通し始めました。そして時々図面の右下に赤で印をつけていきます。一束その作業が終わると、 「こうやって、要る図面だけ印付けていくから、あとでもいいから印の付いた図面だけスキャナーかけてPDFにしてくれる?」 と言います。言ってからは私の返事を待たずに次の束をめくり始めました。 「分かりました」 返事は不要だったかもしれないけれど、そう返しました。  三輪さんの確認がある程度進むまでは見ているだけなので、私は本来今日するはずだった仕事に手を付けることに。と思ったら、各業者の最終図もPDFにしてと言われてそれを始めました。判断のつかなかった図面を三輪さんに確認してもらったりしながらやっていたら、それが終わったのがもう六時前。田子さんが帰った様子がなかったので隣の部屋を覗きに行くといない。電気も入り口のところ以外は消えている。いつの間に帰ったのだろう。  電気の付いている入口の方を見ていたら扉が開きました。そして大きな声と一緒に丸い体が入って来ました。 「あ、高橋さんいるじゃん」 鈴木木材の山田さんです。でも何で? 「お世話になってます。えっと、広瀬邸で何かありました?」 半歩下がってそう返しました。 「いやいや、こんな時間から仕事で来ないよ」 だったら何しに来たんだ。そのまま近付いてくるのかと思ったら、ミーティングスペースのテーブルで止まってくれました。 「久保田さんが飲みに行くかって誘ってくれたんだけど、まさか高橋さんが一緒とは思わなかったよ」 嬉しそうにそう言うけれど、勝手に嬉しそうな顔して盛り上がらないで。一緒に行くわけないし、今日は仮に行く気になっても行けない。と言うか、久保田さん、帰ってから手伝うとか言ってくれてなかったっけ? 絶対に忘れてるな。そう思っていたら久保田さんが入って来ました。 「お疲れさん」 そして私の顔を見てそう言いますが、言ってからまずいって顔になります。やっぱり忘れてたんだ。 「お疲れ様です」 そして私がそう返している途中でこう言います。 「そっか、あれがあったな。どんな感じ? まだだいぶ掛かりそう?」 「う~ん、三輪さんが頑張ってくれてるんですけど、聞いてみないと……」 「三輪君来てるの?」 「はい、お昼前から」 そう言うと久保田さんは山田さんに、座って待ってて、と言って隣の部屋に行きます。なので私も山田さんを残して隣に戻りました。 「三輪君ごめんな」 「いえ」 「で、どんな感じ?」 「う~ん、とりあえずあと二時間くらいですかねぇ」 「え、そんなんで終わっちゃうの?」 「終わるって、必要な図面選びが終わるってことですよ。あとは帰ってやりますから」 「そっか、そうだよな。何か手伝ったほうがいいか?」 「いえ、高橋さんがいてくれたら十分ですよ」 「そっか、分かった。すまんけどよろしくな」 そんな会話を交わすと久保田さんは、自分の机に鞄を置いて私の方を向きます。 「じゃ、高橋さん悪いけど頼んだよ」 そしてそう言うと、サッと出て行きました。私は何も言えなかった。  そのあと三輪さんは久保田さんに言った通り二時間ほどで作業を終え、帰って行きました。でも私には、三輪さんが指示した図面をスキャナーに掛ける作業が残されました。しかも三輪さんが作った束ごとでファイルを分けてと言う注文だったので結構手間です。ざっと全てを一気にスキャナーに掛ければすぐに終わるんだけど、一束スキャナーに掛ける度に、三輪さんが指定したファイル名を付けてってことをやっていると、……かなり面倒。  すべてをスキャナーに掛け、ファイル名を付け、三輪さんにメールで送り終わったのは、更に二時間くらい後になりました。もうくたくた、と言うより、ペコペコ。大盛の牛丼はお腹の中に、もう欠片も残っていないでしょう。  簡単に作業の後を片付けて、事務所を出たのは十一時を過ぎていました。スーパーは十一時までなのでもう閉まってる。家の近くのコンビニは、遅い時間になるとお弁当類はほとんどありません。駅の所のコンビニへお弁当を買いに行きました。でも、ここもろくなものがありませんでした。なので近くの別のコンビニへ。そこも同様で、お弁当類には食べたくなるものがない。もう他の店を覗きに行く気力なし。おにぎりとカップのお蕎麦を買いました。そして駐車場へ。昨日、あいつを見かけて避けて帰った駅前を、こんなにうろついていました。でも無事に車にたどり着き、帰ることが出来ました。もっとも、昨日のことなんて忘れていたから、うろうろ出来たんだけど。  翌日、私はお昼まで事務所で自分の仕事をしてから外出。そして四時に戻りました。戻るとハウスアートから杉浦邸の契約書が届いていました。田子さんが言うには、持って来たのは遠藤さんではなかったとのこと。内容に目を通していった最後のページで、高額の印紙を見てびっくり。これが家を建てる契約書なんだと実感しました。  自宅に戻っていた青木さんも、五時前に事務所に来ました。そして杉浦さんは六時前に来社。やはりご主人だけでした。  私一人で、なんてことを言ってましたが、青木さんがほとんど話してくれました。見積り内容についての図面での説明がほとんどだったので。いい勉強になりました。でも、こういう契約に立ち会うことは本来ないのだけれど。青木さんの丁寧な説明が終わり、ご主人も納得。契約を、となりました。でもそこで問題発生。ご主人が印鑑を持って来ていませんでした。  と言うわけで、契約書をご主人が持って帰り、押印しておく。それを明日、私がご自宅まで取りに伺う、と言うことになりました。そして二人はいそいそと飲みに行ってしまう。誘われたけれど、私は行きません。ご主人、飲むのはいいけど、契約書をどこかに忘れて帰らないでね、と、祈りました。  翌日は土曜日。でも青木さんと並んでモーニング中。杉浦さんのところへ行くのは十時過ぎの約束。そして杉浦さんの今のお住まいは名東区の富が丘ってところ。車ならここから五分くらい。モーニング食べる時間に事務所に来ている必要は無かったんだけど。  昨夜、青木さんからショートメールが入りました。 『明日事務所行くでしょ? 朝乗せてって。七時に車のところまで行くから』 青木さんからのこの手のメールは、最近時々入ります。そんなわけで朝から青木さんと一緒です。モーニングを終えて事務所へ。時間潰し代わりにメールをチェックすると、三輪さんから長文が入っていました。例の図面が何点か抜けているようで探して欲しいという内容。よく分からないところがあったので電話しようかと思いましたが、メールの受信時間が四時過ぎになっています。三輪さんは夜中に仕事するタイプ。おそらくその時間までやって、メールを送ってから寝ているでしょう。分かるものから探していくことにしましたが、杉浦さんのところに行くまでには終わりそうにない。戻って来てからもやるしかないかな。  青木さんは一時間ほどパソコンをいじってから、 「一件現場見に行って、そのあと家で図面やってるから。杉浦によろしく言っといて」 そう言うと出掛けてしまいました。  九時半を過ぎてから事務所を出て富が丘に向いました。お住まいのマンションはすぐに見つかりましたが、戸建て住宅とマンションばかりの住宅地の中。コインパーキングが近くに見当たらない。結局、藤が丘駅の近くで車を停めました。これなら一駅だったので地下鉄で来た方が良かったかも。  十時五分にインターホンを押すと奥さんが出ました。そしてリビングに通されます。リビングのテーブル傍のソファーを勧められてそこに座りました。目の前のテーブルはソファーセットの物にしては少し背が高くて大きいです。ひょっとしたら、こたつ兼用のテーブルかも。座った正面のテレビは整理棚に埋め込まれているような感じ。棚にはいろんなものが一杯。お子さんの物が多いように見えるけど、様々なものが混在しています。隅に寄せて片付けてはありますが、リビングの色んな所にも物や衣類が。家族が暮らしているんだって感じが溢れていて、見ているだけでなんとなく和みました。 「すみません、散らかってて。片付けても片付けてもきりがなくて」 奥さんがそう言いながらコーヒーを出してくれました。そして、 「ごめんなさい、主人は息子にせがまれて出掛けちゃったんですよ。でも、書類は預かってますから」 そう言って棚から昨日ご主人に渡したA4サイズの封筒を取って、横のリビングチェアに座ります。 「ありがとうございます」 私は差し出された封筒を受け取りながらそう返します。 「確認させて頂きますね」 封筒から中身を出しました。そしてページを開いて、青木さんが付けた押印箇所の印に、割り印も含めて全て印鑑が押してあるのを確認しました。添付の図面にも必要箇所に押印してあるのを確認。 「ありがとうございます。問題なしです」 私はそう言って、二組ある書類の一組をまとめると封筒に戻しました。 「良かった、主人が何か間違えてないか心配でした」 そしてそう言っている奥さんにこう言って封筒を返します。 「こちらは杉浦様の控えになりますのでお返しします。保管しておいてください」 「分かりました」 奥さんは受け取った封筒を見つめていました。しばらく黙ってその姿を見ていたら、 「あ、すみません。コーヒーどうぞ」 と、封筒をテーブルの端に置いて勧めてくれます。私はお礼を言ってコーヒーに手を出しました。すると奥さんもカップに手を出しながら口を開きます。 「ほんとに、これで家が出来るんですね」 視線は封筒に向いています。 「ええ、すぐに確認申請を出しますから、一か月もしないうちに着工になりますよ」 そう答えましたが、すぐには返事がありませんでした。やがて奥さんは封筒から顔を上げて、私の顔を見てこう言います。 「ですね、もう建てるしかないんですよね」 微笑んではいるけれど、何か変な感じです。 「何か気になることでもおありですか?」 そう尋ねてしまいました。 「いえ、ごめんなさい、変なこと言って」 そして奥さんはカップに口を付けます。口を付けてまた封筒に目を落とします。ハウスアートの文字が印刷された封筒に。なので私も一口含んでから、 「差し出がましいことかもしれないですけれど、何か気になっていることがおありならおっしゃってください。今ならまだ話を戻すこともできますから」 と、言ってました。ハウスアートの仕事を、売り上げを、白紙に戻すようなことを勝手に言ってました。そうなったらこれは怒られるだろうな、かなり。でも私は奥さんがもう気付いていると感じていました、ご主人と遠藤さんのことを。そして何か胸に詰まっていることがあるのだろうと。  前回の喫茶『峰』での打ち合わせの時、細かいご要望をお聞きしていると、楽し気に話しながらも奥さんはなんとなく、本心から乗り気じゃないような気がしていました。希望を聞き出そうとする青木さんの言葉に乗せられて、ご主人がはしゃぐように何か言うたびに身構えるような様子も。気になっていました。  でも奥さんは慌てたようにこう言います。 「いえいえ、ほんとにごめんなさい、変なこと言って。そんなつもりじゃないですから気にしないで」 「そうですか」 奥さんがそう言うのならそれ以上は聞けません。それに、遠藤さんのことで何か胸にあっても、家はちゃんと建ちます。ならそれでいいか、なんて思いながらもスッキリしない不満が顔に出てしまっていたかも。私と目を合わせていた奥さんが、困ったような笑顔を作って口を開きます。 「もう、ほんとにごめんなさい、変なこと言って。全然大したことじゃないから、私の気持の問題なんです」 そう聞いて、やっぱりそうなんだと思いました。私が黙っていると奥さんは、 「主人には言わないでくださいね」 と、前置きして、少しだけ話し辛そうに話してくれます。 「今回のことは全て主人のご両親からの話なんです。近くに住んでくれるなら家を建てるお金を出すと言われて、それが始まりです。あ、出すと言ってもそれは老後用に溜めてらしたお金だから、しばらくお借りするってことですよ。でも身内だからローンの返済みたいな約束はないから、ある時払いの催促なし、ありがたい話。そうでなければうちには家を建てる余裕なんてないから」 なんだか私が思っていたのと話の方向が違うような気が……。それもあって私が黙っていると、奥さんはコーヒーに口を付けてから続けてくれます。 「私の実家は川崎なんです。神奈川県川崎市。主人とは東京で出会って、結婚してもこの春までは東京に住んでたから、実家はすぐ近くだった。でもこっちに引っ越して、主人の実家の近所に家まで建てる。それも主人の実家に助けてもらって。……そうなると私は、完全にこっちに根付いてしまう。それが嫌だって言うわけじゃないんだけど、なんかね。主人の実家の近くだから、そのうちご両親のお世話をすることにもなると思う。それも嫌ってわけじゃないのよ、でも、自分の両親は? って考えちゃう」 奥さんはそこで言葉を止めました。そしてまたカップを口に持っていきます。私もつられるようにカップに手を伸ばしました。そしてコーヒーを口に含みながら思います。私、勘違いしてたみたい。奥さんの想いは全然違うものだった。色恋にしか考えがいかないのは、まだ幼いってことかな? なんだか勝手に少し恥ずかしかったです。 「コーヒー足しましょうか」 奥さんが急にそう言って席を立ちました。おかまいなく、なんて言う閑もなく。そしてガラスのコーヒーポットを持ってキッチンから戻って来ます。 「そこに足しちゃっていい?」 私のカップを見ながらそう聞いてきます。 「あ、すみません、ありがとうございます」 としか言えない。奥さんは自分のカップにもコーヒーを足すとキッチンに戻ります。そして戻って来ると座りながら、 「ま、そんなことを思っちゃってるだけだから気にしないで」 と、また微笑みます。 「家を建てれるなんてほんとにありがたいこと。ありがたすぎて怖くなってるのよ。ほんとに家を持っていいのかって。そんなことの理由にしちゃってるだけ、親のことは。親の老後のことなんて、誰でもそのうち悩みになるんだから」 奥さんは明るい顔でそう言うとカップを口にします。私はまたまた真似るようにコーヒーを飲みました。そして、 「やっぱり考えますよね、親のことって」 と、適当に合わすようなことを言ってました。私にとって親のことって言うのは老後のことではなくて、今現在が進行形で悩まなきゃならないことだし。でも、悩んでないけど。 「高橋さんはまだまだ先のことでしょ、若いんだから」 「ええ、まあ、まだまだ元気ですから」  奥さんにそう返して、私はコーヒーを飲み干しました。そしてもらって帰る方の書類を鞄に入れながら言いました。 「では、これ頂いていきますね」 「ええ、よろしくお願いします」 そして立ち上がりました。すると奥さんがこう言います。 「あ、ちょっと待って、高橋さんにもう一つ話があるの」 そう言われて私は座り直します。 「はい、なんですか?」 そう返すと、奥さんは少し俯いて何も言いませんでした。でも少しして、こう言うのが聞こえました。 「あのね、あんまり気を遣ってくれなくていいですよ」 「え?」 何のことか分からない。そしてまたしばらくすると、 「小百合さんのこと」 と、俯いた奥さんから聞こえました。 「あの、それは……」 私は何か返そうと思いますが言葉が続きませんでした。奥さんが顔を上げて私を見ます、笑顔で。 「ご存知なんですよね」 そしてそう言います。 「ええ、いえ、えっと……」 うまく返事出来ないし、リアクションもとれない。 「大丈夫ですよ、結婚する前から知ってますから」 「え?」 「だって、転勤してきた頃、あの人、名古屋に彼女がいるって言ってましたから」 転勤してきた頃と言うことは、奥さんはご主人の転勤先の、東京の職場にいたんだと分かりました。奥さんは続けます。 「小百合は、小百合は、って、みんなさんざん聞かされましたよ、自慢話。ううん、思い出話かな」 奥さんがそう言った後、驚きました。キッチンからこう聞こえてきたから。 「お母さん、いい加減やめさせてよ、その話」 奥さんも驚いて後ろのキッチンを振り返ります。そこには娘さんがいました。 「何言うの、お客さん来てるのに」 「お客さんにそんな話してるの、お母さんでしょ」 「やめなさい」 「はいはい、お水飲みに来ただけ、もう行くから」 娘さんはそう言ってコップにお水を汲むと、玄関横の部屋に戻って行きました。それを見送って奥さんが私の方をまた見ます。 「すみません、娘の真優美です」 そして困ったように微笑んでそう言いました。でも、娘さんまで『小百合』の話を知っていることに、私は驚いていました。 「ああ、えっと、中学三年生でしたよね」 なんとかそう返します。 「ええ、志望校にちょっと成績が足らないので最近神経質で、ほんとにすみません」 いや、父親の小百合話を知っているなら、受験生でなくてもそれには神経質になるのでは? 今までどうだったんだろう、なんて考えてしまいました。 「でも、今ので分かりましたでしょ、うちでは子供たちも知ってる話なんです」 奥さんは相変わらず微笑み顔です。でも、今はなんだか影が掛かっているように見えました。呆れなのか、諦めなのか。  昨夜もうちの事務所で話が脱線して雑談になると、ご主人の口から何度か出てきた小百合と言う名前。同じことが家の中でも日常的に起こっているんだ。でもいいの? それ。 今までそうだったんだから今更って感じもするけれど、さっきの娘さんの反応、そして奥さんの言った最近って言葉、今更なこともないかも。娘さんがこういう話に敏感になる年頃になってるんだから。今のうちに何とかした方がいいんじゃないの? なんて、きっと余計なお世話だ。私が思う事なんて奥さんだってきっとわかっている。自分の子供のことなんだから。 「そうなんですね。でも、私だったらあんまり聞きたくないですけど。お父さんからお母さん以外の女の人の話は」 だからそう言うのが精一杯。 「でしょうね」 「それに、彼氏からも昔の彼女の話は聞きたくないかも」 「……」 奥さんが何も返してくれませんでした。明るく言ったつもりだけどまずかったかな。余計な一言だった? 「あ、でも私、しばらく彼氏もいないんで、想像ですけどね」 取り繕うようにそう言いました。すると奥さんは優しい顔で私を見ます。 「それが正解だと思う。私が変なだけ」 そしてそう言います。そう言ったあと、奥さんは娘さんの部屋の方を振り返って気にしながら続けました。 「小百合って彼女がいるって、そう言ってる主人のことを好きになった私が変なの。だから結婚前も、結婚してからも、その話はやめてって言えなくなっちゃったの。ううん、聞かされすぎちゃって、私達の会話の中で小百合って名前が出てくるのが当たり前になってたの。私も小百合って会話の中で言っちゃうのよ、主人が何か面倒なこと頼んできたりしたら、それ、小百合さんにやってもらって、とか。ま、私が言うのはたま~にだけど。もう麻痺しちゃってるのよね」 そう聞いて私は、 「そうですか」 としか言えなかった。なんとなく分かる気もするし、そんなに気楽に会話の中で登場させれる雰囲気なら、とも思ってしまう。でも……。 「でも、実際に会うとは思ってなかったから、この前会った時はなんだか……」 「え?」 「主人と話してる小百合さんを見たら……、ね」  そのあと奥さんは言葉を続けませんでした。なので私は、書類と一緒にモヤモヤを抱えたまま、帰ることになりました。  事務所に戻ると清水さんがいました。事務所に入ってすぐのミーティングスペースの、広いテーブル一杯に例の図面を広げて何かしていました。 「お、梨沙ちゃん、今日仕事だったんだ」 私を見た第一声はこうでした。 「お疲れ様です。清水さんも? あ、その、ご愁傷さまでした」 とりあえずもう一回お悔やみを言っときました。何を言ったらいいか分からなかったから。 「いや、だからいいって、気にしないで。俺は休んだおかげでやること溜まっちゃってるから。そうだ、三輪君から図面探してって頼まれてるでしょ? それ、今やってるから、梨沙ちゃんはいいよ。ありがとね、助かった」 ラッキー! 厄介な仕事が一つ減ってくれた。でも、 「いいんですか? 手伝わなくて」 と、言っておきます。 「うん、いいよ、あと少しだし」 「そうですか、ありがとうございます」 「で、今日は何かあったの? また久野邸?」 清水さんはそう言ってから図面探しを再開します。 「いえ、杉浦さんのところへ契約書もらいに行ってたんです」 「契約書? そこまでやらされてるの?」 一瞬手を止めてそう言う清水さん。 「ええ、まあ」 「ふ~ん、杉浦って……、ああ、例の遠藤さんの奴か」 「そうだ、もらって来た契約書ってどうしたらいいですか?」 「どうしたらって?」 「いえ、遠藤さんに渡すにしても月曜日になっちゃうから、それまでどこか入れとくところとか……」 清水さんが手を止めて顔を上げてくれます。そして田子さんの席の方を振り返って言います。 「鍵の掛かるキャビネットは田子さんの後ろにある奴だけど、鍵は田子さんが持ってるから開かないし、開いてても閉めれないよ」 なら意味ないじゃん。でもそれで思いつきました。 「あ、ロッカー。ロッカーは鍵あるじゃないですか。あそこに入れとこ」 「なるほど、良かったね」 清水さんはそう言うと作業を再開しました。  本当に何も手伝わなくていいと清水さんが言ってくれたので、私はそのあと事務所を出ました。駐車場に向いながら遠藤さんに電話。杉浦さんから無事に契約書を頂けたことを報告すると、月曜日の午前中にハウスアートまで持って来るように言われました。ほんとに人使いが荒い。  スーパーに寄って買い出し。ついでにお惣菜コーナーでキーマカレーとミンチカツ、卵サラダを調達しました。お昼は中食に決定。  駐車場で車に荷物を積んで乗ろうとしたら物音が。音がした一つ奥側の車の方を見たら、人影が現れました。 「なんで……」 中野栄一がいました。
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