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花が好きというよりは、花を買っていく人を観察するのが好きで花屋に勤めてもうすぐ一年。ここ最近毎日、一輪だけ花を買っていく人がいる。何日かに一度花束でまとめて買った方が安いだろうに、毎日毎日、欲しい種類の中でその日一番瑞々しく咲いている物を、一輪だけ。
夕闇に紛れるようにして現れるその人が、最初は男性なのか女性なのか分からなかった。女性にしては背が高く、男性にしてはやや低いくらい。声は、低めで擦れていた。首から下は、真っ黒な衣服で覆われて殆ど露出していない。
顔立ちは、深めに被った帽子によって視界から遮られていた。男性にしては細い腰つきと、一度だけ窺えた長い睫毛から、今では多分女性なのだろうな、と思っているが、確証は無い。
花屋の客というのは此方から訊ねなくても買った花の用途を教えてくれる人が多い印象だが、彼女が私に花の行方を漏らしたことは無い。
ほら、今日も彼女は黙って店内を見回して、切って欲しい花を見つけて一言告げるだけ。
「今日は、あの向日葵をお願いします」
白い指が店の奥を指さす。黄色い強膜と茶色の瞳孔から成る巨大な目玉のような頭花が、おあつらえ向きに彼女の方を向いていた。まるで、彼女が来るのを待っていたように。
青空の下で咲く向日葵はまるで快活な子供の瞳のようだが、この夕暮れの中だとこちらを何処かに誘おうとしているような不気味さがある。向日葵は菊の仲間である。一見そうは見えなくてもその実、死者に手向ける花に限りなく近い存在なのだ。夕闇の中切られるのを待つ向日葵は、そんなことを思い起こさせた。彼女の喪服のような出で立ちもそれを手伝ったかもしれない。
そんなものを無言で指さし続ける彼女の様子が何だかいたたまれず、私は他の客にするように花の話題を振った。
「知っていますか、向日葵が太陽の方を向くのって、花が開くまでだけなんですよ」
言いながら切った向日葵を差し出すと、彼女は微かに笑ってそれを受け取った。
「ええ知ってます、教えてもらいました」
私はその発言に思わず手を止めた。冷静に考えれば当たり前かもしれないが、彼女がこの店の外で誰かと会っているところが上手く想像できなかった。自分は花が主食で食べるために買っている、そんな突拍子もない理由を言われた方が納得できるような雰囲気が彼女にはあった。彼女も、彼女が花を贈っている誰かも、実在しないのではないか、そんな幻想が、勝手に私の声帯を動かした。
「誰に、ですか」
不躾な言い方になってしまったかと一瞬反省したが、彼女は気分を害した様子も無く答える。
「私が毎日、花を贈っている方に」
「どんな方なんですか」
彼女は首を傾げた。流石に踏み込みすぎたかと、私は慌てて言い訳した。
「あ、いえ、花を贈る方について聞かせていただければ、今後の花選びに役に立つんじゃないかと思いまして」
慌てる私を見て、彼女は少し悪戯っぽく笑った。口元しか見えないとはいえ、初めて見る現実感のある表情だ。
「では、ちょっと遊びをしませんか」
「遊び?」
「はい、明日から私が花を贈っている方について訊かれたら、嘘を交えてお答えします」
「は、はあ……」
「今日から一週間後、貴方はそれまでの私の発言から、何処までが嘘なのかを当ててください」
「どうしてそんなことを?」
「なに、暇潰しですよ。ここで花を買ってそれを渡しに行く以外、碌に会う人もいないのでね」
私は初めて彼女とまともに話をして妙にくすぐったい気持ちになっていた。
だが同時に、これ以上彼女と、花の貰い手について知ることがなんだか怖くなってきていた。何日も底が見えないまま覗いていた穴を、初めて懐中電灯で照らすことを許可されたような心地がする。
「では、また明日会いましょう」
沈黙を是と受け取ったのか、彼女はそう言うと私の返事も待たず、暗くなってきた街路に振り返った。その真っ黒な後ろ姿は闇に紛れて、程無くして消えた。溶けてしまったようだ、と何となく思った。
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