お祈りグループワーク

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お祈りグループワーク

 彼の生前、最期の行動。面接官は五人目の学生が席に着くと、席を立って部屋を横切り扉を閉めた。小さな会議室に緊張が充満した。ブラインドの隙間から差しんでいるはずの太陽の光は、室内灯の白く強い光に打ち消され、存在を隠していた。面接官は中年の男だった。グレーのスーツから太い首が突き出ていた。彼は重たく底に沈んだ空気を蹴って悠然と歩き、元いた席に戻る前に突然、うめき声をあげその場で倒れた。足がバタバタともがいた。  五人の学生はパイプ椅子の上でそろって凍り付いた。 「え?」 「あ、え?」 「……」 「っ」 「え?」 五人は正しい姿勢で腰掛けたまま、うずくまる面接官と今しがた彼が閉じた扉とを交互に素早く見比べた。しかし彼らの健気な視線が、両者の間の因果関係を探し当てることはなかった。 佐藤は病人から最も近いところにいた。目の前の足元で横たわる人間を見て、佐藤は一瞬立ち上がりかけ、細身のリクルートスーツがぎゅっと張るその力に抑え込まれたかのように、またずっしりと腰を下ろした。差し伸ばそうと思った右手は胸のあたりで居場所を失くしていた。  たじろいでいる間に、視界の右端で立ち上がる学生がいた。背の低い男子学生だった。短髪ながら癖毛なのがわかる、猿顔の男だった。 「大丈夫ですか!」  そうか、そうだ。佐藤ははっとさせられた。このような場合にこそ、自分がやるべきことを見つけ出し、正しく動かなくてはいけない。少なくとも面接で、そういうところを見せなくてはいけない。今日が勝負なのだ。  最初に声を発した猿顔の男につられるように、その隣、大柄な男の子が立ち上がった。堀の深い顔立ちで、思慮深そうに見えた。彼は黙ったまま倒れた病人のもとへ歩み寄り、その体を仰向けに動かした。 「慎重に動かした方が良いかもしれません」そう言って駆け寄ったのは、佐藤の隣に座っていた細身の男子だった。フレームのない眼鏡をかけていた。「仰向けではなく横向きに、左手を頭の下に、そう、枕にしてください」 大柄な男の子は黙ったまま、眼鏡の彼の指示通りにした。 「安全体位ですね」と猿顔の男が言った。すると、「回復体位です」と今度は女子学生が指摘した。彼女の席は病人から最も遠い位置にあった。「あ、すみません」と彼女は言った。「いや、指摘してもらえてありがたいです」と猿顔の男は返した。 猿顔の男は他の四人の顔を順番に見ながら、大きな声で話し始めた。 「こういう事態なので、ちょっと、少し戸惑っていますが、皆さんの中でこのようなケースに詳しい方、あるいは経験者の方はいませんか」そう言って彼は真っすぐな腕を眼鏡の男子に向けた。「あなたは知識がおありのようですが、指示をいただけないでしょうか。もちろん、他の方も、意見があればお願いします」 「いや、私もこんな状況は初めてなので」と眼鏡の彼は言った。 「私もです」女子が言った。ショートカットで、黄色いインナーカラーが隠せていない。みんながしているような「就活ヘア」ではなかった。それでいいならみんなそうしてるよと、佐藤は内心羨ましく思った。 「僕も、経験はないです」大柄な男の子が言った。 「あ、私もです」佐藤は慌てて言った。 「とりあえず、ネクタイゆるめますか?」と、ショートカットの女の子が言った。 「気が付かなかったです」と猿顔の男が言った。 「気道を確保しましょう」と眼鏡の彼が言った。 大柄な男の子が小さく病人のネクタイをゆるめた。病人の顔には玉のような汗が浮かんでいた。  佐藤はひとり劣等感に押しつぶされそうだった。他の四人が、顔つきや所作まで、自分よりもはるかに成熟した人間に思えた。それが就活に臨む者の適正な精神年齢であって、自分は取り残されたのだと痛感した。彼らは大学生活までを正しく謳歌し、然るべき質と量の経験を糧にして、高いステージで戦っているのだとわかった。なにより恐ろしいのが、社会人は皆その水準を越えた先で一生過ごしているという事実だった。やはり今日が勝負なのだ。佐藤の考えは転回した。今日、その水準を超えられるかどうかが、つまりは実力なのだ。今日がんばれば、大丈夫。彼女は劣等感を燃料に頭を燃やした。 「あのっ」佐藤は小さく手を挙げた。手汗が空気に触れて冷たかった。四人は行儀よく彼女の方を向いた。「まだ、自己紹介がまだなので、名前だけでも交換しませんか。私は佐藤可奈といいます。よろしくお願いします」  やはり猿顔の男が先陣を切った。 「増井と申します。よろしくお願いいたします」 「台場です。よろしくお願いします」と大柄な男の子が言った。眼鏡の彼は「冨(ふ)良(ら)仁(に)」、女の子は「柴(し)衣(い)」という変わった名字だった。  佐藤は四人が自分に従ったことに感動した。 「じゃあ、誰か会社の方を呼びに行きましょうか」と増井が言った。 「AEDを取ってくる必要もあるかと思います」柴衣は発言した。 「では助けを呼びに行く人、AEDを取りに行く人を、誰か」 「冨良仁さんと、えー……、」「台場です」「あ、すみません。台場さんは残って付いててもらって、私と佐藤さんで人を呼んで、AEDを持ってくるのでどうですか」 「大丈夫です」佐藤は答えた。 「じゃあ私は残って救急車呼びます。男性陣が残って現場ってことでいいですね?」増井が言った。 「あの、AED起動したら自動で救急車呼ぶことになるんだったような、すみません、たしかそうです」佐藤は勇気をもって発言した。 「いや、どちらにしろ、」と柴衣が言いかけたが、「じゃあ一旦連絡は会社の方にお任せして!」と増井がかき消した。「男子が残って、女子が出るという方針で、どうでしょうか」 「OKです」と柴衣は答えた。冨良仁と佐藤も頷いた。台場は黙って患者の上に屈みこみ、「すいません」と手を挙げた。四人は一斉に顔を向けた。 「この人、もう死んでるっぽいです」と台場は言った。  佐藤はその日初めて人の死の現場に立ち会ったことになる。 「それは確かですか?」と冨良仁が身を乗り出して聞いた。極めて冷静な口調だった。 「息してないってことですか……」と柴衣が諦めたように呟いた。 「呼吸も、拍動もない。なにより、触れてみて初めてわかったけど、そんなの確かめる必要もないくらい、紛れもなく死体……です」台場は立ち上がり言った。 「それじゃあ、」増井は両手を揉んだ。「とりあえず、いま我々にできることは無くなったということで、社員の方を呼びに行きましょうか。当初の役割通り、佐藤さん、お願いしてもいいですか?」 「え、あ。はい。わかりました」そのとき佐藤は、自分でもわからない、直感と呼べばそれまでの、ある種無意識的な感覚によって、その場に踏みとどまり、ごく短い間のハプニングを共にした四人のメンバーたちの顔を一瞥した。なにか自分でも気づけるような大事なことがそこにあるのに、つかめない。形を成さないものは口にできない。なにか、いま、言うべきなんだけどなぁ。  佐藤にとって幸運なことに、その場の全員が、同じような感覚を抱いていた。指示を出した増井も、死体を調べる冨良仁も、再び席に着いた台場も。そして唯一、その「なにかいま言うべきこと」の正体を掴んだのが柴衣だった。 「待ってください。佐藤さん、ちょっと待ってください。まだ、他の人を呼ぶのはやめておきましょう。いま終わらせるのはやめましょう」 佐藤はその場から動かなかった。全員微動だにしなかった。 「その、考えてみたんですけど、私たちいま出て行って、受かるんですかね。つまり、無能さらして解散っていうのは、あまりにも望み薄なんじゃないですかね。だから、皆さんで力を合わせて、全員にチャンスが残るような終わり方をするべきなんじゃないですかね」 柴衣は首に手を当てて、「以上です」と付け加えた。  柴衣の言葉に対し、一同の反応は早かった。 「まったく同感です」と冨良仁。「納得しました。ありがとうございます」と増井。台場は黙って頷いた。佐藤は「賛成です」と早口で告げてそそくさと席に戻った。柴衣も死体から離れた自分の席に戻った。  「それでは!」増井が立ったまま始めた。「改めて、我々だけで、集団面接を行いたいと思います。勝手ながら進行は私が務めさせていただこうと思いますが、異論があればお願いします」誰にも異論はなかった。「ありがとうございます。まず面接の内容ですが、意見を伺ってもよろしいですか?」 「ディスカッション形式で、問いと答えを考えるというのはどうでしょう」まずは冨良仁が手を挙げて言った。 「グループワークなので、議論の形でなくても、なにか作業の成果が出ればいいかと思います」佐藤は食らいついた。 「課題を考えることになりますね」増井はいつの間にか書記を兼任していた。 「それで言うと、もともと何か課題が用意してあったんじゃないですかね」柴衣はそう言って立ち上がり、面接官の持ち物らしきファイルを手に取った。 「あ、いいんですかね」佐藤は思ったことを口に出した。「会社の情報、勝手に」 「それもそうか」柴衣は素早くファイルを戻した。 「いや、課題を見つけるくらい、いまは良しということにしませんか」増井が代わりにファイルを手に取って言った。「誰が見ているわけでもないですし」増井は言い、佐藤は姿勢を正した。「それに、もうちょっとリラックスしてやってみることにしますか。せっかくなんで。とにかく、良い結果を出して帰りましょう」 「確かに」そう言って台場は鞄から水筒を取り出した。 「OKです」柴衣は席に戻ってジャケットを椅子の背にかけた。 「じゃあ、改めて、課題は見つかりましたか?」冨良仁が言った。 「えーーっと、はい、紙があります。筆記用具を用意してください。紙配るので、全員でメモ取りながら進めましょう」  「まずは一人ずつ名前、大学名、それから簡単な自己紹介をしていただきます。次に過去の挫折・失敗の経験について教えてください。それをどう乗り越えたか、何を学んだか、までお願いします。その後、他の皆さんにその経験についての建設的な意見を伺います。それでは、順番は……、」増井は一同を高速で見まわして「五十音順でいいですか?」と聞いた。  自分に聞かれているようなものだと気が付かないまま、佐藤は椅子の上で姿勢を正した。「佐藤さんからお願いします」と言われ、伸ばした背中がさらにこわばった。  「佐藤可奈です。東明大学総合人間学部から来ました。大学では、えっと、地域コミュニケーション学を専修しています。趣味はランニングです。……以上です」「……はい、ありがとうございます。柴衣さん、お願いします」「柴衣もあ、京都大学文学部です。キリスト教学専修で、卒論は宗教画について論じています。大学では美術サークルに所属し、創作活動に没頭しました。よろしくお願いします」「台場俊樹です。東京理科大学工学部建築学科で一応意匠の研究をしてます」「……あ、はい。では冨良仁さんお願いします」「はい、東京理科大学理学部生物科で昆虫生態学を学んでいます、冨良仁光と申します。専攻は主に蝶の分布と移動です。御社の製品には美的な興味と教育的な関心があり、志望しました。よろしくお願いいたします」「最後に私ですね。増井康弘といいます。早稲田大学文学部で心理学をやっています。趣味は演劇で、演劇サークルで演技班と演出班を兼任していました。表現、演出に関心があります」  あ、次はなんだっけ……。佐藤はすっかり虚ろになった意識を手元の白い紙に向けた。メンバーの名前のそばに、いま自分が書きつけたはずの、要領を得ない単語が散らばっている。 「続いて、挫折・失敗の経験について、これも順番で佐藤さんから、いいですか?」  佐藤は「あ、はい」と反射的に答え、ボールペンのペン先を反射的に収めた。 「……、……えー、」佐藤も就活生なので、当然「挫折・失敗の経験」に関して話せる内容の用意があった。「すいません……」これまでの人生で何度か同じような目にあってきた。言葉が蒸発して生まれた空白に、重い自意識がなだれ込んでくる。準備不足。アガり症。色々な呼び方でその欠点を理解してきた。大きな挫折も、小さな失敗も、つまりはこれだ。そして、それを克服したことなどなかった。用意してきたエピソードは、大学受験での失敗だった。  「順番変えますか?」増井が優しく尋ねた。 「というか、」柴衣が強い口調で割って入った。「この問答、かなりやりづらいと思うんですけど、どうですか。建設的な意見って……」 台場がちびちびと小さな水筒を傾けていた。 「就職面接でこうして実際に使われている以上、それなりの理由があるんだと思います」冨良仁が言った。 「昔の失敗を聞いて、なにを見るつもりなんですかねぇ」柴衣はボールペンでトントンと紙を叩いた。「そもそも、皆さん正直なところどうですか?こういうエピソードって本当の話しますか?そういうものですか?」 「いや、逆に、作り話するんですか?」冨良仁は半笑いで返した。 「作り話とまでは言わないですけど、本当に傷ついた経験は教えたくないし、他人が聞いても知ったこっちゃないだろうと思うんで、それっぽい話を選ぶことになりますよ」 「僕は!」台場が大きな声で言った。「本当に一番大きな挫折の話をします」 「私もそうですかね」増井が答えた。「結局それが一番効果が大きいし、喋れるし、ぼろが出ないと思うので」 「逆説的ですね」と冨良仁。 「逆説的?」柴衣は小さく返した。 「心から本当の話をする増井さんや台場さんがある意味計算高くて、逆に柴衣さんは素直で正直な動機から話を取り繕うというのが」冨良仁は右手で眼鏡を上げた。 「いや、冨良仁さんはどっちのタイプなんですか」柴衣は不服そうに言った。 「僕は!」再び台場が割り込んだ。「僕は計算高くなんかありません。僕は、いや、よく言ってくれました。計算高いのです。計算高くても良いと、そういう自分を受け入れるべきだと、思ってるんです。思いたいんです」 「え、と、すみませんでした」冨良仁は興奮した様子の台場に驚いた表情だった。 「台場さん、どうしました?」増井が尋ねた。柴衣は台場から半身遠ざかった。 「いえ、すみません。ただ、」台場は一言ごとに喉が渇くようだった。「ただですね、裏をかくとか、人を出し抜くとか、そういうことはもう、不得手だってわかってるんです。だからもう自分は不器用な正直者で通して、それが認められるようなところに入れば良いんです。会社がそれで、都合が良いと思ってくれればいいんです。これは一体、計算高いんでしょうか」 「台場さんこれお酒じゃないですか?」増井が水筒を指した。 「え!」佐藤は素直に驚いた。 台場は黙って頷いた。 「確かに、正直者とか不器用とか、計算高いとか、よくわかりませんね、もはや」柴衣は愉快そうに笑って言った。 「中身なんですかこれ?ウイスキー?」増井は台場の水筒を覗いて言った。 「ウオッカです」台場は言って飲んだ。 「隠し持ってきたんですか?」冨良仁は身を乗り出して聞いた。 「まぁ、今日くらいいいかもしれないですよね」増井が言った。「台場さんもほら、少しお酒入った方が意見を言ってくれるみたいですし。人それぞれってことで」 「人それぞれを許容した上で社会規範みたいなものが存在してるわけですけど、」柴衣が真剣に言った。「いまは私も飲みたいくらいです」 「よければ……」そう言って台場は鞄の底からウオッカの瓶を取り出して見せた。  柴衣と冨良仁は笑い出した。「いや、遠慮します」と柴衣は手を振った。 「私の過去最大の挫折は、」佐藤は膝の上で手を組んでいた。「小学六年生のときで、私は地元の公立小学校に通っていたんですけど……、クラスメートが死んだんです。親からの暴行で。私はその子と直接話したこともないんですけど、その子が死んだことと無関係ではないと思っています。その子はいじめられていました。学年全体から、先生もほとんどノータッチでした。家庭に問題があるからです。関わりたくはないんです。私は、加害者でした。無視をしたり、嫌がらせをしたり、それが普通のことでした。当たり前のことでした。みんなと同じように振る舞っただけなんです。でも、これもまたみんな同じで当たり前のことなんですけど、心の中でかわいそうだなとも思ってたんです。痛めつけられる子供を見て、当たり前に思うことなんです。救うという選択肢もそこにあったんです。それも簡単だったはずなんです。あの子に手を差し伸べたからといって、途端に自分が標的になるとか、そういう空気ではなかったんです。でも私は、その選択肢を手放しました。一度だけ、人前で話す機会があって、そのときみんなに呼び掛けようと思ったんです。練習もしたんです。でも、駄目でした。声が出ませんでした。あの子が死んで、親が逮捕されたニュースが出てから初めて、これはみんなで殺したんだ。私も殺したんだと思いました。初めて、自分が手放した選択肢を意識したんです」  増井は押し黙った一同を素早く見渡して次の言葉を考えた。唐突に始まった佐藤の独白は、彼らを戸惑わせ、同時に深く考えるための材料を与えた。ゆっくりと慎重に、真剣に言葉を紡ぎ出した佐藤の姿が、聴衆の心を動かす効果を顕した。それは効果的な演出だった。 「佐藤さん、ありがとうございます。それではみなさん、佐藤さんのお話について、どうですか?」 「どうですか……って言われても……」と柴衣。 「すみません」佐藤は目を伏せた。 「あ、いやいやむしろすみません。話してもらって、ありがとうございます」柴衣は頭を下げた。「せっかく真剣に話をしてもらったので、真剣に意見を言おうと思います」  柴衣はそう言ってじっと一点を見つめ静止した。周りの人間はそれを見守った。彼女の中で石造りの塔が積み上がっていくようだと台場は思った。柴衣は姿勢を崩さないまま口を開いた。 「私は、その佐藤さんが、私が殺した!って言ってるのに正直違和感があるというか、納得できなくて……。殺したのは親じゃないですか。なにはともあれ、結果としては。佐藤さんは、それを取り巻く環境の一部分に過ぎないと私は思います。選ばなかった選択肢に責任はないんじゃないかと……思います」柴衣はそのときふと口を結んで何かを確かめるように二、三度細かく頷いた。「私にもあるんです。近しい経験。一年前父が死にました。病気です。私ははっきり言って父が嫌いでした。趣味も、人間性も合わない、古い価値観の人だからです。働いて、家では置物みたいに座って、くだらないテレビを垂れ流してました。でも仲が悪いというわけではありません。父は私たち家族を養って、私は養われて、つまりは親子、普通の家族です。それ以上を私は求めませんでした。父は平凡な病気で入院しました。平凡な死因です。私は病院で家族と一緒に父の死に立ち会いました。そのとき、父は義務と責任の獣だと思いました。私たちのために人間性を捨てた労働者。私たちへの愛を働くという形でしか表せない、単一の価値観の獣です。私は、病院で、死ぬ前に何か好意的な素振りのひとつでも見せてあげればよかったかなと思いました。ジェスチャーでもよかったんです。そういう仕草が大事だったんです。手放した選択肢……、私の場合は単なる後悔です。それからはあんまり、父のことは考えてないです」  冨良仁が手を挙げた。 「柴衣さんの話の場合、柴衣さんが自分を責めることはないわけですよね。お父さんは病気で亡くなったので。いや、お父さんが亡くなる間際に不幸せに見えてしまったとしたら、それが自分のせいだと思われるかもしれませんが。佐藤さんの話も、実は柴衣さんと同じで、佐藤さんが自分を責める余地はないと思います。責任とは、自分を責めることです」ここまで言って冨良仁は大きく息を吐いた。「幼稚園のとき、僕には恋人がいたんです。ませてるでしょう?まあ、今考えればかわいらしいものです。いつもふたりで遊んでいました。ある日僕たちはあるおもちゃで遊んでいました。おもちゃを食べ物に見立てて、僕は恋人にあーんってしてあげたんです。恋人はそのあーんされたおもちゃを口に含んで、そのまま喉に詰まらせて、死にました。もちろん僕には成す術なしです。残酷な事実に対するせめてもの抗いとして、幼い僕は恋人が自分で勝手に飲み込んだのだと言いました」彼は眼鏡をはずして、その構造を観察するようにじっくりと眺めた。「不思議ですよね。自分が死んでしまうようなエラーを起こすなんて。子供の頃はまだ、それで僕が自分を責めるようなこともありましたが、いまではもう少し考えが進みました。出来事はその場その場の偶然が積み重なって必然と成ります。僕たちにできることは、よくてその偶然をひとつ積み加えることくらいです」  台場が冨良仁を手で制した。ウオッカの瓶を太股に挟んでいた。 「冨良仁さん、よくわかります。すごくよくわかります。僕は大学で、それこそ意匠ですよ、デザインですよ。必然を創り出すことに賭けていたんですよ。起こることをコントロールして、全部自分のせいにすれば、何に責任をとればいいのか丸わかりだと思って。でも、祖母が死んで、アル中の両親と向き合うことになって、はっきり挫折を感じたんです。人生のデザインもやめました。生活のデザインもやめです。働いて、酒飲んで、それだけです。獣とはよく言ったものだと思います。でも、僕には不思議とそれがネガティブに思えないんです。わかりますか?」  「ネガティブに思えない……ですか」佐藤は考えた。「そういうものかもしれない」 「その結果が納得できないものだったとしてもですか?」柴衣が言った。 「これから一生仕事して、その結果がご両親みたいにアル中になって……、それでも後ろ向きじゃないってことですよね?」冨良仁が言った。 「まっとうしてると思うんです」台場が答えた。「自分にできることをまっとうしている。選択肢とか、そういうものは、自分にできることじゃあないです」 「聞いてもいいですか?」と佐藤。これまでで一番しっかりと声を出した。「私はどんなことをまっとうすべきだったんでしょうか。自分にできることって何だったんでしょうか」  「昔のことはわかりませんが、」増井が控え目に言った。「いまはこのグループワークをまっとうすべきということでは、どうでしょうか」 冨良仁は息を漏らした。増井は言葉を続けた。 「私、今の間に考えました。いまこの場で我々がまっとうすべきこと。会社の方に、我々の努力と成長と、それに誠意を見てもらう方法です。ずばり!この面接官の方を弔いましょう。みんなで!」 一同は死体を見下ろした。 「まあ、せめてそれだけさせていただたければありがたいかもしれません。賛成です」冨良仁が言った。 「この人がいないと、私たち何もできないってわかっちゃいましたね」柴衣は上着を着た。 「弔うにしても、どうやって形にしますか」台場が尋ねた。 「あの、火葬はどうですか」佐藤は言った。「わかりやすいし、あ、でも火が要りますよね、すみません」 「火ありますよ」そう言って冨良仁は内ポケットからライターを取り出し、机に置いた。 「しかし、ライターでは燃やせないんじゃないですか」台場が言った。 「あの、台場さんのウオッカとか、どうでしょうか。アルコール……」佐藤は思いついて言った。 「何もないよりは燃えるでしょうね」と柴衣。 「とにかくやってみますか」と増井が言った。  五人は立ち上がり、死体を囲んで並んだ。その場所に立つと、窓から差す細長い日の光が彼らに届いて映り、真っ黒な海に白い橋が伸びているようだった。光は彼らの腹のあたりを貫いていた。増井の合図で、台場は死体に酒を振りかけた。液は上等なスーツの表面を伝い、肌を伝い、床に広がった。続いて冨良仁がライターに小さな火を点し、しゃがみ込んだ。柴衣は動かずに立っていた。佐藤は胸の前で手を合わせ、祈るように俯きながらも、目はしっかりと開けて立っていた。五人は目の前の光景を焼き付けようとしていた。それが社会人にふさわしい態度だと、全員が考えていた。  ライターの火は濡れた表面を炙り、一瞬薄い炎がほんの数センチ広がったかと思うと、何事もなかったかのようにもとの小さな火に戻り、表面を少し乾かすだけに終わった。そんなことが数回続いた。 「駄目みたいですね」冨良仁が言った。 「仕方ないですね」増井が言った。「やることはやりました」  酒まみれの死体を囲んで、誰もが動けないでいた。そのとき佐藤が、その日その場で培った勇気によって声を上げた。 「じゃあ私、社員の方呼んできます」 「お願いします」 「お願いします」 「お願いします」 「お願いします」
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