ふざけた体温

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太陽が陰り涼しい風が開け放った窓から吹き込んできた頃、わたしはいそいそと出かける支度をした。クローゼットを全開にし、ワンピースを引っ張り出した。ウエストに細いリボンのついた紺色のワンピース、白いシャツワンピース、薄桃色のAラインのワンピース。お気に入りはこの三着だった。パンツ姿で行くことも考えたけれど、昔よりも大人になったと思ってほしくて、ワンピースを選んだ。  鏡の前で何度も試着し、紺色のものに決めた。それが一番スタイルがよく見えたからだ。肩までの髪をハーフアップにまとめ、薄くファンデーションを塗った。仕上げに唇に色つきのグロスを塗り、自分の顔を念入りにチェックする。唇がやけにギラギラしているように感じ、ティッシュを一枚咥え、塗ったばかりのグロスを落とした。買ったはいいけれど勿体なくて一度も使ったことがないデパコスの口紅をケースから取り出し、そっと塗った。高いだけあって、発色がいいのに下品に見えない。顔色がぱっと明るくなった気がした。  いつも使っているくたくたのトートバッグから、中身をよそ行きのショルダーバッグに移し替えた。白に近いベージュだから、紺色のワンピースにも合う。バッグと似た色のサンダルを靴箱から出し、足を入れる。これで全身整った。  生野先輩が入院している病院は最寄駅から電車で三十分ほど行った、街の中心部にある総合病院だった。正面玄関の自動ドアを抜け、エレベーターで彼がいる五階の病棟まで行く。降りてすぐのナースステーションで彼の見舞いに来たことを伝え、病室を教えてもらった。廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右に曲がった個室が彼の部屋だった。  扉は開いているが、ベッドの周りに水色のカーテンがかかっていて生野先輩の姿は見えなかった。何の物音も聞こえない。テレビの音、本をめくる音、寝息でさえ聞こえてこない。カーテンの奥は静けさが瞬いていた。  ノックしようとしたが、思わず手を引っ込める。急に緊張してきた。何せ、生野先輩とは十年以上も会っていないのだ。今さらその事実がわたしの手足を縛りつける。何度もノックしようと手を伸ばしては、力なく下ろした。ここに来るまでの間、何を考え何を思っていたのか思い出せなかった。電車に乗っているとき、病院までの道のりを歩いているとき、エレベーターに乗っているとき。わたしの心は一体どこを彷徨っていたのだろう。 「誰かいますか」  突然、中から声がした。驚いて肩が跳ね上がる。足踏みしているうちに気配が伝わってしまったらしい。答えに迷っていると、ザッとカーテンが開いた。ぐ、と喉が鳴った。立ちすくんだわたしの爪先から頭のてっぺんを、彼の双眸が滑っていく。 「い、くの先輩」  絞り出すようにそう言った。声が喉に張りついて硬い響きになってしまった。 「えーと、どちら様?」  咳を我慢しているような低い声で、彼が訊ねた。十年以上も経っているのだからすぐにはわかってもらえないだろうと覚悟していたが、その言葉はわたしの胸に深く刺さった。足が震えだし、この場に立っているのが辛くなった。 「あの、わたし、津島です。津島京香。覚えて、ませんか? 生野先輩の高校の後輩だったんですけど……」  最後は尻すぼみになってしまった。それでも彼はちゃんと聞き取ってくれたらしく、表情がぱっと明るくなった。 「ああ、京香ちゃん! もちろん覚えてるよ。久しぶりだね。こっちにおいで。いやあ、本当に久しぶりだな」  生野先輩はベッドの横にあった丸椅子を引きずり出して、座って、と言った。ベッドに一歩近づくごとに高鳴る心臓がうるさかった。  丸椅子に腰かけ、改めて彼の顔を見た。もともと白かった肌の色はますます青白くなっていた。頬がこけて顎が尖っている。目の下のクマが目立つ。しばらく切っていないのか、ウェーブのかかった柔らかそうな髪の毛が首筋にかかるくらいまで伸びていた。わたしは息を呑んだ。 「京香ちゃん、元気だった? 今何をしてるの? どうして俺が入院してるってわかったの?」  矢継ぎ早に訊ねてくる。その様子がなんだか生き急いでいるように見えて悲しくなった。昔はもっと一言一言、はたを織るように丁寧に話していたのに。 「元気ですよ。今はウェブライターの仕事をしています。先輩が入院していることはマミから聞きました。マミ、覚えてますか?」  動揺を悟られないように笑顔を作って答えた。半分作り笑顔で、半分は心からの笑顔。わたしは昔から生野先輩を前にするとひどく緊張する反面、話せることが嬉しくて自然と笑顔になった。 「体育祭の委員会で一緒だった子だよね? 覚えてるよ」 「先週、マミと久しぶりに会ったんです。マミは要先輩から生野先輩が入院していることを聞いたって言ってました」 「そうか。マミちゃんと要、仲がよかったのか」 「要先輩はよくお見舞いに来るんですか?」 「いや、一回来たきりだよ。あいつは昔から出不精だからな」  そう言って生野先輩は笑ったけれど、彼のほうこそ連絡不精だった。メッセージを送っても一向に返ってこない。早くて二日後、そのままスルーされることも多々あった。そのせいか、高校を卒業したあとは音信が途絶えていた。  他愛ない会話が続いた。話しているうちにだんだん生野先輩の声が枯れてきたので、長く居ることは彼の負担になるのだと悟った。  そろそろ帰りますね、と言って椅子から立ち上がる。ああ、と頷く生野先輩に、どうしても何か言いたくなった。今まで三十分近く会話をしていたのに、何も話せていない気がした。彼との会話が霧状になって空気に溶けていく。 「生野先輩」 「ん?」 「また来てもいいですか」  言った瞬間、これが言いたかったのだ、と思った。高校を卒業して十二年、わたしはずっと生野先輩と繋がりたいと思っていた。途切れた糸をどうにかして結び直せやしないかと。それでも行動に移せなかったのは、結局近くにいない彼よりも守りたいものが、大事にしたいものがたくさんあったのだろう。もう叶うことはないと自分にきつく言い聞かせていた。今さら、本当に今さら、だけどやっと、押し込めた願いが叶いそうなのだ。  生野先輩はしばらくわたしの顔を見つめ、唇を三日月のように吊り上げて、ふ、と笑った。 「セックスしに?」  わたしは唖然とした。彼はこんなことを言う人だったか。こんな笑い方をする人だったか。急に現実が遠のいて、絵空事のような空間に落ちた気がした。  わたしが何も言えないでいると生野先輩が、じゃあまたね、と掠れた声で呟いた。ぽん、と区切るような言い方だった。長い前髪に隠れて表情は見えなかった。 「あ、じゃあ、あの、また……」  しどろもどろになりながら、そそくさと病室を出る。後ろでザッとカーテンを閉める音がした。 一人になると、平衡感覚がおかしくなったようにわずかによろめいた。成長途中でもないのにしくしくと背骨が軋んだ。病院から駅までの道を、五センチのヒールをコツコツ鳴らしながら歩く。街灯が道しるべみたいに一定の間隔で並んでいて、わたしのよるべない気持ちをやわらかく照らしていた。生野先輩、と呟いてみる。何も起こらない。静かな夜の気配がそこにあるばかりだった。 マンションに着き、エレベーターを十階で降りて東側の角部屋の鍵を開ける。 「ただいま」  リビングの電気がついている。足音が聞こえ、人影がドアの磨りガラスに映った。 「おかえり。どこ行ってたんだよ」  夫がドアを半分開け、顔を覗かせた。 「友達のお見舞いに行ってたの」  靴を脱ぎ、中へ入る。チャーハンの匂いがふわりと香った。冷凍チャーハンを温めたのだ。夫は料理をしない。そんなに帰りが遅くなったわけではないけれど、待てなかったのだろう。 「何だっけ、ミキちゃん?」 「マミ?」 「そうだ、マミちゃんだ。京香の高校のときの友達って言ったら、マミちゃんくらいだもんな」 「そんなことないけど。それに今日会ったのはマミじゃなくて先輩だよ」 「先輩? 誰だっけ」 「話したことあったかな。同じ委員会で仲がよかった、二年上の先輩」 「へえ」  夫は自分から聞いておきながら興味を失ったように生返事をして、テレビのリモコンを手に取った。 「晩ご飯、まだ何か食べる?」 「いや、いらない」 「そう」  キッチンに目をやると、チャーハンの袋が出しっぱなしになっていた。米が数粒、流し台に落ちている。見なかったことにして、寝室に行き服を着替える。バッグをベッドに放りワンピースを脱ぎ捨てると、しがらみから解放されたような気分になった。肌がべたべたしている。知らずのうちに汗ばんでいたらしい。下着姿のまま浴室へ向かった。  夫は缶ビールを飲みながらバラエティを観ていた。食卓には平皿が置きっぱなしになっている。ソファの後ろを通ったとき夫が一瞬わたしを見たが、何事もなかったかのようにテレビに向き直った。  洗面所のドアを閉めるとため息が出た。下着を外し鏡に映った自分の体を一瞥して、浴室に入った。降り止まない雨のようなシャワーを浴びながら、体の内側の錆や汚れや澱が全部流れ落ちてしまえばいいと思った。わたしの体内に綺麗な何かがあるとしても、それすらも洗い流してしまいたかった。すっからかんのからっぽになりたかった。 朝、出勤する夫を送り出し、朝食の後片づけ、洗濯、掃除を一気に終わらせると、仕事に向かうためノートパソコンの電源を入れた。先週、指定された納期より早めに記事を納品したのが功を成したのか、同じクライアントから別件の執筆依頼のメールがきていた。 ネットショッピングについての記事を書いたのだが、思いがけず好評だったらしい。わたし自身ネットショッピングはあまり利用したことがなく内容に自信がなかったが、ネットショッピングが初めての人向けの記事だったので、「経験のなさが逆にリアルな感じを出していてよかった」とクライアントに褒められた。  今回の依頼内容は妊活についてのブログ記事作成だった。また経験のないテーマだが、わたしの登録しているサイトのウェブライターの仕事は、未経験でもネットで調べて執筆できるものが多かった。そのため依頼内容も多岐に渡る。わたしはこれまでに主婦という立場を活かして主に恋愛、結婚系や日用品の紹介などの記事を書いてきた。  クライアントの花梨さんに依頼を受ける旨のメールを送る。それから、一昨日から進めている別のクライアントの案件に取りかかる。大体週に三件ほど仕事を受け、一週間程度で納品する。報酬は案件により異なるが、一件三千円以上、もしくは一文字の単価が一円以上であれば受けることにしている。手数料が引かれ、手元に残るのは月に三万円くらい。そのうち半分を家計に入れ、もう半分を自分の小遣いにしている。  夫は大手ゼネコンの社員で、残業は多いが稼ぎもよかった。本当はわたしのなけなしの報酬を半分も生活費に回す必要はまったくないのだけれど、全面的に養ってもらうのはどうも居心地が悪かった。  記事を一通り書き終えて時計を見ると、十二時を過ぎていた。わたしは大きく伸びをして、パソコンをスリープモードにした。  また訪ねてもいいかと言ったものの、何日後に、どれくらいの頻度で行けばいいものなのかわからず、ぐずぐずしているうちに一週間が経った。本当は次の日にでも訪ねたかったが、生野先輩の枯れた声を思い出すと行動には移せなかった。  彼のいる病院は面会が午後一時から午後八時までだった。二時頃に家を出る。今日は薄桃色のワンピースを着た。髪は下ろしたままだが、まとまりがよくなるオイルをつけた。デパコスの口紅は雰囲気に合わないので、普段使っている薄めのものを塗った。  外はよく晴れていた。自然と足取りが軽くなる。前回は食べ物の差し入れをしてもいいものか迷い、結局手ぶらで行ってしまったので、今回は駅前のスーパーでお見舞い用の苺を買った。生野先輩が「あまり食欲はないけどフルーツくらいなら食べられる」と言っていたからだ。  ナースステーションに一声かけ、彼の病室の前まで行く。二回ノックをするとくぐもった声で、はい、と返事が聞こえた。 「こんにちは、京香です」  そう言うとカーテンが開き、生野先輩が顔を出した。 「京香ちゃん」 「すみません、寝てましたか?」 「いや、ちょうど起きたところ」  彼は目を擦り、丸椅子を出してくれた。中に入り苺のパックを手渡すと、彼は目を細めて喜んだ。 「苺なんてもう何年も食べてなかったよ」 「わたしもなかなか食べないです。実家に帰るとたまに出てくるくらい」 「旦那さんと食べないの?」  わたしははっとして生野先輩の顔を見た。彼は何ということはなく微笑んでいる。咄嗟に左手の薬指を触った。指輪は前回も今もしてきていない。結婚していることを話した記憶もなかった。 「夫は、フルーツが好きじゃない、ので」  隠してもしょうがないので、わたしは重い口を開けて言った。夫のことは聞かれたら言うつもりではいたが、なんだか不意打ちされた気分だった。 「そうなんだ」  生野先輩は頷いて苺に目を向けた。わずかに沈黙が漂う。 「京香ちゃんも一緒に食べようよ」  彼は再びわたしを見た。 「いいんですか?」 「俺一人じゃ食べ切れないから」  彼はフィルムを剥がし、そのまま食べようとする。 「洗ってきます」  慌ててパックを手に取ると彼は、そっか、と笑った。  苺は甘くて美味しかった。よく熟れていて、口の中にほどけるように溶けていった。 「酸っぱくない苺って初めて食べたかも」  生野先輩はへたをつまんでくるくると回しながら言った。 「ケーキに乗ってる苺は大体甘くないですか」 「苺のケーキってあんまり食べたことないなあ」 「何のケーキが好きなんですか?」 「チーズケーキかな。ベイクドじゃなくて、レアチーズ」 「美味しいですよね」  生野先輩と何気ない会話ができることが嬉しかった。彼は昔のようにやさしい表情を浮かべている。彼の中にあの頃と同じ仕草や言動を見つけると安心した。  しばらくお互いの好きな食べ物の話で盛り上がった。生野先輩はイカの塩辛とブリ大根が好きだと言った。近所のさびれた定食屋のブリ大根定食がこの上なく美味しくて、入院する前は週に四回は食べていたらしい。わたしは、イカの塩辛とブリ大根はさすがに差し入れできないな、と思いながら聞いていた。 「病院では出ないんですか、ブリ大根」 「出たことないなあ。出てもきっと味が薄いんだろうけどね」  生野先輩はそう言って少し笑った。それから、そのまま表情を崩さず、 「生きてるうちに食べられるかなあ」  と呟いた。  透明な壁が目の前に降りてきたのだと思った。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、どうしようもなくわたしと生野先輩を隔てる固い壁。生きているわたしと死に向かう彼は、重なり合っているようで果てしなく遠かった。  わたしだって明日死んでしまうかもしれないけれど、彼を取り巻いている終焉の空気は圧倒的に濃かった。わたしは何か言おうとしたが、わたしの中には彼に差し出せる正しい言葉など何もなかった。 「退院したら、いくらでも食べられますよ」  その言葉はわたし自身に言い聞かせたのかもしれなかった。彼を傷つけるとわかっているのに、言わざるを得なかった。 「どうかな」  生野先輩は力なく笑った。 「怖いんだ」  パックに五粒ほど残った苺を見つめ、彼はそう呟いた。何が、と問わなくてもわかった。わかったのに、何と声をかけていいのかはわからなかった。教養がないから、彼への想いが足りないから、死を身近に感じたことがないから。多分、どれも違った。  黙っていると、ふいに生野先輩がぱっと顔を上げて、 「あとは京香ちゃんが食べてよ。俺はもう食べられないから」  と微笑んだ。無理やり取り繕ったような笑顔と掠れた声に、胸が詰まった。鼻の奥がツンとして、目のふちに熱いものが込み上げてきた。 「せんぱいの、そばにいたい」  まだ涙は溢れていないのに、泣いているみたいに声が震えた。きっとわたしは今、ひどい顔をしている。こんな顔、生野先輩に見られたくないのに、彼は何も言わずわたしの目を見つめていた。その表情からは何の感情も読み取ることはできなくて、彼の茶色がかった瞳に飲み込まれそうで怖かった。  夕飯後ソファでくつろぐ夫に、話があるんだけど、と切り出した。夫は怪訝そうな顔をして座り直した。  わたしは夫に生野先輩について簡単に話した。高校の先輩だったこと、知り合ったきっかけ、卒業してから音信が途絶えていたこと、彼が病気で入院しているとマミから聞いたこと、お見舞いに行ったこと。前にも話したのに、夫は今初めて聞いたというような顔をした。夫は自分の話もあまりしないが、わたしの話を聴いてくれることも、それを覚えていてくれることも滅多になかった。  生野先輩の病気について説明したあと、彼のそばにいたい、と言うときには声が揺らがないように細心の注意を払った。真剣なのだと、本気でそう思っているのだと伝わってほしかった。夫は腕組みをして、うーん、と唸った。 「それはその人が死ぬまでってこと?」  夫の問いに、わたしは頷く。夫はまた考え込む素振りをして、 「その人、いつ死ぬの? 二、三ヶ月で死ぬならまあいいけど」  と言った。  わたしは思わず目を見開いて夫を見た。どういうつもりで言ったのか訊きたかったけれど、衝撃のあまり声が出なかった。 「フルーツくらいしか食べられないんじゃ、もう先が長くないんじゃない? そんなに長期間じゃないなら気が済むまでそばにいれば」  わたしは生野先輩と食べた苺の味を思い浮かべた。甘くて舌触りがよくて美味しかった。けれど、夫の言葉で甘かった苺が苦々しいものに変わった気がした。 「そんな……わからないよ、いつ死ぬかなんて……」  弱々しい声しか出せなかった。もっと強く夫に言い返したいのに、できない自分が情けなかった。 「まあ、ほどほどにね」  夫はため息をつきながらそう言うと、話を切り上げるようにテレビをつけた。食べ歩きのバラエティ番組が映る。カレーパンを頬張る出演者たちをぼんやり見つめていると、むくむくと怒りが湧いてきた。うまっ、美味しーい、サックサクですねえ、辛さがちょうどよくて食べやすいですう。  これは何に対する怒りなのだろう。対象が入り混じっているようで、実は何に対しても怒りなど感じていないのかもしれなかった。もしくは人とか物とかではなく、もっと大きな存在に怒っているのかもしれなかった。  芸人がカレーパンの中身を服にこぼしたのを見て大笑いしている夫を残し、わたしは寝室へ引き上げた。まだ寝る時間ではないが、ベッドに横になった。重力に引きずられるように、わたしの体は重く重くなっていった。  夫の言葉が胸にのしかかっていた。わたしは生野先輩のそばにいたいけれど、そのうち彼がなかなか逝かないことにやきもきするようになるのではないか、早く逝ってほしいと思うようになるのではないか。そんな不安がよぎる。夫の言ったタイムリミットのような期間指定が、わたしを早くも縛りつけていた。  生野先輩に寄り添いたい。その気持ちに嘘はないのに、わたしは自分の感情を信頼することがうまくできなかった。  それから一週間と待たずに生野先輩に会いに行った。スーパーでさくらんぼを買い、病院を目指す。さくらんぼは苺の真っ赤とはまた違い、内側から発光しているような透明感のある赤色をしていた。つやつやと輝いて、食べると元気が出そうだった。 「生野先輩、京香です」  ノックをしながら声をかける。今日も生野先輩はカーテンを開け、京香ちゃん、とわたしを迎え入れてくれた。 「さくらんぼ持ってきました」  丸椅子に座り、スーパーの袋からパックを取り出す。ありがとう、と微笑んだ彼の顔を見てはっとした。顔色が良くない。 「さくらんぼも久しぶりだなあ」  声も掠れて、喉の奥がガラガラと鳴っていた。どうしよう、と思った。頻繁に来て、彼の負担になっているのではないだろうか。十数年ぶりに彼に会えて、浮かれすぎていたかもしれない。 「あの、先輩、もしかして具合悪いですか。すみません、わたし、こんなにしょっちゅう来てしまって。迷惑なら言ってください」  怖くて生野先輩の顔は見られなかったので、ベッドの柵に目をやりながら言った。間から彼の手が見えた。青白く血管の浮き出た、ほっそりした手だった。記憶の中の彼の手を思い出す。よく要先輩とグラウンドの隅でキャッチボールをしていた。斜め上から手を振り下ろす。ボールはまっすぐに要先輩が胸のあたりに構えたグローブの中に吸い込まれていく。あの頃、彼の手はごつごつとして大きいと思っていたのに。 「一緒に食べよう、さくらんぼ」  生野先輩の声に顔を上げる。目を細めわたしを見ていた。笑っているようなその顔が迷惑ではないと言っているみたいで、わたしは少し安心した。  さくらんぼは見た目ほど甘くなかった。熟れていそうなものを選んだのに、酸っぱくはないもののあまり味がしなかった。 「すみません、ハズレでしたね。赤いから甘いかと思ったのに」 「甘いフルーツを見分けるのって難しいもんな。十分美味しいよ」  生野先輩はそう言ってたくさんさくらんぼを食べてくれた。けれど、顔色は相変わらず悪いままだった。  空になったパックをゴミ箱に捨て、わたしは椅子から立ち上がった。 「もう帰りますね。先輩、どうかお大事に」  生野先輩に背を向け歩き出そうとすると、ふいに腕を掴まれた。驚いて振り返る。 「せん、ぱい……?」  彼はわたしの腕を掴んだまま、何か言いたそうな顔でわたしの目を見ていた。引力に引かれるように、わたしも彼の瞳から目が離せなかった。  彼の口がゆっくりと開いた。放たれる言葉を息を呑んで待った。 「冗談だよ」  彼は同時にわたしの腕をぱっと離した。行き場をなくしたわたしの腕は、だらんと体の横に垂れた。  いたずらっぽい笑みを浮かべる彼が痛々しくて、わたしは唇を噛んだ。 「もう少しいます」  丸椅子に座り直そうとすると、生野先輩は静かに首を振った。 「あまりここに来ると旦那さんに悪いよ」  途端にわたしはもどかしい気持ちになった。夫の話を出さないでほしかった。夫に百パーセント了承を得ていないことが心に引っかかっていた。  ほどほどにね。  夫はそう言っていた。どこまでなら許されるのだろう。夫という存在がありながら生野先輩のそばにいたいと思うことはいけないのだろうか。ほどほどになどできそうになかった。わたしはどこまでも落ちていきたいと思った。何もかもわたし一人で背負っていいから、わたしの自由にさせてほしかった。わたしは自分勝手だ。そんなことはわかっていた。 「先輩……」  生野先輩は黙って俯いている。前髪に隠れて目元は見えないが、唇を固く結んでいた。 「わたし、先輩のそばにいたいです」  彼は顔を上げない。 「先輩」  手を伸ばして彼に触れようとした。もう少しでわたしの指先が彼の肩に触れるというところで、彼は勢いよくわたしの手を振り払った。 「やめろ。君には帰る家がある、幸せにしてくれる旦那さんがいる。君は何も失わない、何も捨てない。それなのに更に俺のそばにいたいと言う。わがままだ、無神経なんだよ君は!」  わたしは呆気に取られて、彼の怒りに震える顔をただ見ていた。 「出て行ってくれ」  彼は再び俯き、それきり何も言わなかった。わたしはいたたまれなくなり足早に病室を出た。  息が苦しかった。吸っても吸っても、空気が肺に入ってこなかった。吐き出すこともうまくできなかった。  生野先輩を傷つけてしまった。彼の泣き出しそうな怒りの表情が、目を瞑っても瞼の裏に焼きついて離れなかった。  君は何も失わない、何も捨てない。  彼の叫びが鼓膜を突く。無神経だと言われたことよりも、その言葉がわたしの胸を深く貫いていた。  病院から駅までの道をひたすら走った。パンプスが靴擦れを起こして足が痛いのに、立ち止まることはできなかった。止まったら崩れ落ちてしまいそうだった。呼吸がますます苦しくなった。逃れたかったが、自分を痛めつけなければいけない気がして、歯を食いしばって走り続けた。  生野先輩のもとへ通うようになってから、記事作成の仕事が滞っていた。時間が足りないのではなく、支障があるとすればわたしの気持ちの問題だった。彼のことが四六時中頭から離れなくて、仕事をしていてもすぐに手が止まってしまうのだ。先週、彼に突きつけられた言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。  四日も放置してしまっていたクライアントへのメールの返信をする。十五分ほどで彼女から新たな依頼の詳細のメールが来た。内容は生活習慣の乱れから起こる、とある病気についての記事作成だった。  早速仕事に取りかかる。病気についての知識はほとんどないので、まずはネットでの情報収集から始めた。目ぼしい記事をいくつか読み、大体の内容を把握して、必要があればコピーペーストしながらまとめていく。  最悪の場合、死に至る。  その一文を打ち込んだとき、頬を熱いものが伝った。パソコンの画面が滲んで、黒い文字がぼわんと歪んだ。涙が、勝手に溢れていた。どうして、と声が出た。  どうして、生野先輩が死ななくてはいけないのだろう。  どうして、生野先輩のそばにいることに罪悪感を持たなくてはいけないのだろう。  どうして、自分の素直な気持ちに従えないのだろう。  ずっと彼のことを考えていた。高校を卒業して大学に入って、いくつか恋愛をして、社会人になって、夫と出会って結婚して。それでも心の中の決して小さくはない場所に、彼はずっと居たのだ。 「京香ちゃんの気持ちには応えられません」  卒業式の日、もう会えなくなってしまう生野先輩に想いを伝えた。彼はまっすぐにわたしの目を見て、そう言った。その瞬間にわたしの恋は終わったはずなのに。  死にゆく彼に寄り添いたい。今さら何も始まらなくても、終わりに向かうだけだとしても、わたしはただ彼のそばにいたかった。  違う。本当はそんな清い思いだけではない。彼とめちゃくちゃに抱き合ってお互いの存在を確かめ合って、体を舐め合い、傷に触れ、片隅で震える雛のように温め合いたかった。許されないことを二人で許し合いたかった。  嗚咽が止まらなくなった。ひくひくと鼻を鳴らしながら、わたしは拭っても拭っても溢れてくる涙をどうすることもできないでいた。先輩、先輩、と呟きながら泣きじゃくった。開きっぱなしのパソコンの画面が、そんなわたしを見限ったように暗くなった。  土曜日、夫は朝から家にいた。フローリングに掃除機をかけるわたしに見向きもせず、ソファに寝そべってゴルフの雑誌を読んでいた。ソファ周りに掃除機を持って行ったときだけ、うるさそうに眉間に皺を寄せた。 「午後からちょっと出かけるから」  洗濯物をリビングの隅に干すわたしに、夫が声をかけてきた。 「そう。何時に帰ってくるの?」 「遅いと思う。晩飯も食べてくるからいらない」  夫は雑誌をめくりながら言った。 明日も夫は仕事仲間とゴルフで朝から出かけるはずだった。話せるのは今しかない。わたしは残りの洗濯物を手早く干し終え、夫の向かいに座った。 「話があるの」  夫が怠そうに顔を上げる。 「何」 「生野先輩のこと」  彼の名前を出すと、夫はあからさまに面倒臭そうな顔をした。 「この前話さなかったっけ。まだ何かあるのか」  わたしは小さく息を吸って話し始めた。 「生野先輩は正直いつまで生きられるかわからない。この前行ったときも顔色が悪かった。行くたびに弱っていってる気がする。いついなくなってしまうかわからないけど、わたしは彼のそばにいたい。一緒にいたいの」 「だから、すぐ死にそうなら好きにしろって言っただろ。家のことをちゃんとやってくれれば別にいいから」 「違うの。そばにいたいって言うのは、全エネルギーを彼に注ぎたいってこと。最期のときまで彼に寄り添いたいの。半端な状態じゃ駄目なの。ちゃんと彼だけを見つめていないと」 「はあ? 何だよそれ。そもそも、そいつはお前の気持ちを受け入れてるのか」 「彼にはまだ話してない。わたしが考えてるだけ。受け入れてくれるかどうかもわからない」 「お前、言ってることがめちゃくちゃだぞ。そいつが拒否したらどうするんだよ」 「受け入れてくれるまで思いを伝え続ける」  夫は目を見開いた。その顔が呆れに変わり、夫は大きなため息をついてソファにもたれかかった。 「じゃあ何、俺と離婚でもするってことか?」  ふん、と鼻を鳴らし夫は口元に厭な笑みを浮かべた。わたしは立ち上がり、リビングの東側にある戸棚から用紙を一枚取り出してローテーブルの上に乗せた。 「何だよ、これ」  夫はその紙を見るや、わたしを睨みつけた。 「ふざけんなよ」 「ふざけてなんかない。あなたが反対するのなら、わたしと離婚してください。わたしの意志は変わりません」 「どうせ死ぬのに、こんなことで離婚するなんて馬鹿げてる! お前は頭がおかしくなったんだ!」  夫は離婚届に拳を突き立て、叫び散らした。 「わたしの一大決心をこんなことなんて言わないで」  夫は力任せに離婚届をびりびりと破いた。細かくなって床に散っていくその様を見て、わたしは自分の決意が、生野先輩への思いが、千切られているのだと思った。 「出て行け! この家から出て行け!」  夫は床に散らばった紙屑を踏みつけながら怒鳴った。夫の剣幕に押されるように、わたしは急いでスーツケースに荷物をまとめた。  化粧もしないまま家を飛び出した。外は真夏日で、立っているだけで汗がふき出してきた。服を選んでいる余裕もなかったので、改めて窓に映る自分の姿を見ると、ちぐはぐな格好をしていた。  行く当てはなかった。実家は遠すぎるし、友人の家に世話になるのも気が引けた。スーツケースをガラガラと引きずりながら駅まで歩き、構内のベンチに腰かけて安いビジネスホテルを検索した。  ふと思いつき、生野先輩のいる病院の近くのホテルを探してみた。どこもいい値段がしたけれど、その中で一番手頃なホテルを連泊で予約した。しばらく家には戻らないほうがいいだろう。次にあの家に足を踏み入れるときは、夫と離婚してわたしが引っ越すときだ。わたしの意志は変わらないのだから。  二日後の午後二時、ホテルから歩いて病院へ向かった。炎天下のぬらぬらと光る道を汗を拭いながら進む。服装はジーパンにボーダーのTシャツと、今までに比べたら随分とシンプルだ。  病室の前で深呼吸をし、先輩、と声をかける。カーテンは開かない。 「先輩、京香です」  かなりの間があったあと、静かにカーテンが開いた。生野先輩は硬い表情をしていた。遠目からでもわかった。  彼から目をそらさず、ゆっくりと近づく。彼は丸椅子を出してくれなかった。心臓がどくん、と脈打つ。でも、そんなことでは怯まない。  生野先輩の前に立ち、トートバッグからクリアファイルを取り出す。その中に挟んである今朝市役所からもらってきた離婚届を、ベッドの簡易テーブルの上に開いて置いた。彼は離婚届に目を走らせ、怪訝な顔でわたしを見た。 「夫は離婚しないと言っています。でもわたしは決めたんです。先輩、手を貸してください」 「どうして、離婚なんか」 「先輩のそばにいるためです」  生野先輩は弾かれたように肩を震わせた。 「先輩、お願いです。手を貸してください」  わたしはトートバッグからボールペンを取り出し、戸惑う彼の手に握らせた。彼は意味がわからないというように眉を下げ、わたしと離婚届を交互に見た。 「ここに、今から言う名前や住所を書いてください」  すでにわたしの分の記入は終えていた。 「いいですか。名前は、藤原歩」 「ちょっと待って。こんなことできない」  生野先輩は激しく首を振り、ペンをテーブルに叩きつけるように置いた。 「先輩」 「こんなこと、していいわけがない」 「先輩」 「君に、俺のそばにいてくれなんて頼んでない」  覚悟はしていたつもりだったが、実際にその言葉を言われると胸が痛かった。じわりと滲む涙を堪え、唇を噛み締める。泣くもんか。自分勝手なのはわかっている。でも、もう後には引けない。 「わたしは先輩と一緒にいたい。何を捨てても、何を失っても」 「冷静になったほうがいい。一時の感情や同情で動いたら後悔するよ」 「先輩に言われて気づいたんです。本気で寄り添いたいのなら、丸裸でぶつからないとって。何かを守ってちゃ伝わらないって。わたしは今の生活を捨てても、先輩のそばにいたいんです」  渾身の思いでそう伝えると、生野先輩は苦しげな表情で下を向いた。  それ以上はどちらも何も喋らなかった。沈黙が降りてくる。長いこと彼は離婚届をじっと見つめ、わたしはそんな彼を見つめていた。 やがて、彼は震える手でペンを掴み、離婚届に藤原と書いた。 「先輩」 「歩って言ったっけ」 「はい。住所は……」  すべての項目を記入し終え、最後に判を押した。生野先輩は放心した様子でベッドにもたれかかっていた。  病院の帰りに、市役所に離婚届を提出した。何も思わなかった。ただ彼のことだけを考えていた。  三日後の夕方、離婚届が受理されたとの連絡がきた。わたしは病院に向かう途中で夫に電話をかけた。3コール目で夫に繋がった。 「お前今どこにいるんだよ、ふざけんなよ!」  夫の怒号が電話越しに響いた。思わずスマホから耳を離す。 「今すぐ帰って来い! お前の勝手にはさせな……」 「離婚届が受理されました」  夫の話を遮ってそう伝えた。一瞬、息を呑む気配があった。 「もうあなたとは夫婦じゃありません。勝手なことをしてごめんなさい。さようなら」  何か言おうとする元夫を無視して電話を切った。そのまま着信拒否に設定する。  病室に着くと、カーテンが開いていた。生野先輩は起こしたベッドにもたれ、ぼうっと窓の外を見ていた。  ノックする前に彼がわたしに気づき、顔を歪めた。ベッドのそばに行き、 「離婚届が受理されました」  さっき元夫に告げたのと同じ台詞を彼にも言う。 「……君は馬鹿だ」  彼は苦悶の表情を浮かべ、掠れた声で呟いた。 「先輩、好きです」 「君は絶対後悔する。俺のそばにいたいって言ったって、俺は君に何もできないのに」 「先輩と数時間でも過ごせたら、それだけで十分です」  生野先輩は口をへの字に曲げて、わたしから目をそらした。あの頃は見たことがない、今にも泣き出しそうな、幼い子供のような表情だった。 「君はおかしい」  生野先輩は俯いたままそう言った。何と言われようと、それが彼から出た言葉なら愛おしく思えた。ひとつ残らず抱きしめたいと思った。 「セックス、しますか?」  窓から夕日が差し込んでいた。苺の赤ともさくらんぼの赤とも違う、ぼんやりした赤色だった。夕日は掛け布団の上に置かれた生野先輩の右手の甲を照らしていた。細い指がぴくりと動いた。  彼はゆっくりと首を振って、遠慮がちに両手を広げた。 「おいで」  わたしは血がやさしく全身を巡り、胸がじんわりと満たされていくのを感じた。  ベッドに腰かけると、生野先輩はそっとわたしを抱きしめた。ぎこちなく肩に手が触れる。彼の体温は真夏だというのにふざけているのかと思うほど低かった。わたしは彼の胸に手を当てた。心臓が動いているのがわかる。  生野先輩はわたしの首筋に顔を埋めた。キスも匂いを嗅ぐこともせず、彼はただ黙ってわたしを抱きしめる力を少しずつ強めていった。わたしは彼の弱々しい鼓動を手のひらでじっと感じていた。  いつの間にか夕日が伸びて、わたしと生野先輩を包み込んでいた。彼の体温を、わたしの体に刻みつけてほしかった。忘れるな。覚えておくんだ。心の中で自分に言い聞かせる。彼のふざけた体温は、今の彼を表すすべてだった。
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