「生け簀に住む猫」

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「生け簀に住む猫」

私は憂えていた。 「時間を巻き戻す能力」に憂えていたのである。 始めはなんて便利な能力かと感動したが、存外にも「時を巻き戻す能力」とは使いづらいものだ。 正確には、「望む望まないに関わらず、時が勝手に巻き戻る能力」は持っていても煩わしい、だろうか。 ・・・・・・・・ 初めて時が巻き戻ったのは数年前のある日。 温かい日差しの下で気持ちよく散歩していたら、次の瞬間には我が家に戻っていた。 慌てて周りを確認すると奇妙なことに気がついた。数時間、時間が巻き戻っていたのである。 驚きの感情より先に、朝食をもう一度用意することへの煩わしさを私は感じた。本当に驚くと一度冷静になるものだ。 朝食を用意する前に時間が巻き戻っていたため、朝ごはんを再度用意する。今朝使った食材が丸々冷蔵庫に戻っていることから、時間が本当に巻き戻っていることの実感が湧いてくる。 朝食を頬張りながら、私は「時間が巻き戻る」という怪事について、誰も騒いでいないことを知った。どの媒体で検索しても、騒いでいる人がいないのだ。 どうやら、この世界で私だけが「時間の巻き戻り」を認知しているようだ。その事実を知った時、少しだけ心が踊った。まるで映画のような話ではないか! 高揚する私を戒めるように、愛猫が鳴く。そういえば、飼い猫に餌を与えるのを忘れていた。「巻き戻り」前の記憶では餌を与えていたので、混乱していたのだ。 いつもは私の朝食に合わせ、餌を与えているため、我が愛猫はご立腹の様子である。時間の「巻き戻り」とは意外と"不便"な能力かもしれない、と一抹の不安を覚えた。 ・・・・・・・・ 結論から言うと、「時間の巻き戻り」は”不便”の一言で片付けられる甘い能力ではなかった。 初めての「巻き戻り」から、今までの数年間(暦上の数年間、体感した年月は数えたくもない)、実に壮絶な生活だった。数時間に1回巻き戻ったり、1ヶ月間巻き戻らなかったり、この能力に大きく大きく振り回されたのだ。 失敗しても取り返しがつくと安易に考え、気になる子に愛を伝えたら惨めに振られた上に一向に時は巻き戻らなかった。 同じ数時間を数十回以上繰り返し、延々に朝食を作り続けたこともあった。 いっそ、「巻き戻り」の能力を悪用しようかと考えたものの、その勇気は出なかった。 何よりも辛かったのが、小説を書く趣味を諦めなくてはならないことだ。書いた文が不定期に消えてしまうのだから、創作意欲は風船のようにしぼんでいった。 ・・・・・・・・ 時の荒波に流される生活に私は激しく疲れていた。 この能力の良い所なんて、溺愛している猫と一緒に過ごす時間が長くなったことくらいだろうか。それくらいのものである。 しかし、最近になってようやく一筋の光が見えてきた。数年間に渡って、「巻き戻り」した時間を詳細に記録したことが実を結びつつあるのだ。 記録によると、朝方と夕方の決まった時間に「巻き戻り」が起きることが多いのだ。 特にご飯前に戻ることが多い。ご飯を食べた記憶はあるのに、お腹は減っている。奇妙な感覚だから、よく覚えていた。 この法則の意味はなんだろうか。 ・・・・・・・・ 法則の意味が理解出来ず、随分時間が経った。 半ば法則の解明を諦めかけて意気消沈していた私は、とんでもないことをしてしまった。  人生で一度も踏んだことのない愛猫のしっぽを踏んだのである。私にとって、愛猫を傷つけることは何よりも避けたいことで、猫を傷つけるくらいなら、首をくくったほうがマシというものだ。 生まれてこの方、尻尾を踏まれたことがない我が愛猫は、聞いたこともない悲鳴を上げ、飛び上がった。 こうなってしまったら、人に出来ることなどたかが知れている。平謝りと餌による媚びへつらいだ。愛猫は尻尾を舐めながら、恨みがましい目で私を眺めている。 相当痛かったらしく、猫は尻尾を左右に素早く3回振った。 次の瞬間には、時間が1分遡っていた。 そう私が尻尾を踏んでしまう前に。 ・・・・・・・・ 驚いた。愛猫が3回尻尾を振った次の瞬間に、時間が巻き戻っていたのだ。 まるで、猫が時間を巻き戻すスイッチを入れたかのように。 まるで、猫が尻尾を踏まれる前に時を戻したかのように。 私を見る猫の不満そうな目は、尻尾を踏まれた恨みを忘れていない目だ。 その目を見た瞬間に、私は一つの思い違いに気がついた。 なぜ、時を戻す能力が自分の能力だと誤解したのか、と。 ・・・・・・・・ どうやら我が愛猫は、たった3回尻尾を振っただけで、自由に時間を巻き戻せる猫のようだ。 ご飯時に巻き戻しが多いことも納得である。 恐らく我が猫は、お腹が減ったからもう一度餌を食べるか、位の気持ちで世界を巻き戻したのだろう。 なぜ、世界中で私だけ「巻き戻り」を認知しているかは不明だが、愛猫の優しさで「巻き戻し」の対象から私を外しているのかもしれない。「巻き戻し」の対象を指定出来るかは不明だが、不可能ということもないだろう。相手は猫なんだから。 さて、困った。 このままだと猫がお腹が減ったなと感じたら、時間を巻き戻されてしまう。 猫が今日は天気が悪いな、と思ったら、時間を巻き戻されてしまう。 尻尾を3回振るだけで、時の流れは猫の思いのままとなるのだ。 ただ私に出来ることなど何一つない。 猫なんて、時間よりもコントロールが難しいのだ。 ・・・・・・・・ 世界一気ままで、世界一愛くるしい愛猫。 そんな猫に振り回される生活も悪くない。 近頃はそう思えてきた。 映画や本を嗜んだ記憶は消えないのだ。幾らでも楽しむことが出来る。最近になって始めた趣味の釣りも謳歌できるというものだ。 私は今日も釣りを楽しんだ。 夕方に釣り上げて、生け簀に入れてある魚をさばいて夕食にでもしようか。猫にも刺し身をあげようじゃないか。 我が愛しの猫は待ちきれなくなったのか、器用に生け簀を開け、まだ元気に泳いでいる魚を襲おうとした。慌てて止めようと思ったが間に合わない。 猫が魚を咥えようとしたその瞬間、魚がバタバタバタッ、と尾ひれを3回振った。
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