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逢ふことは片割れ月の雲隠れ
おぼろけにやは 人の恋しき
柿本人麻呂
諦められずに手を伸ばして、すり抜けたものに想いを馳せる。
元々無かったものなら気にならないのに、あったはずのものを忘れてしまうことは難しい。そして一度落としてしまうと、いくら捜しても見つからなかったりする。そのうち何を捜していたかも見失って、何かが足りないという想いだけが手の中に残る。
私を弱気にさせるのは、今夜の片割れ月がやけに、もの悲しくみえたからなのでしょうか。
地球が隠した断片を辿るかのように、指先で弓を描く。
求めていないフリをしながら私は、誰よりもそれを、欲していたのかもしれません。
・・・・
東山道武蔵路 国分寺辺り
ええ、その翌年、満州事変を皮切りに日本が戦争へと向かって行く中で、武器をつくる産業が盛んになったようです。武蔵野にも広い土地がたくさんございましょ。知らぬ間に、工場地帯になってしまって……
今に、本土での戦になるのでしょうか。
それだけが気がかりでなりませぬ。
ふふっ、そうでございますね。
賑やかになって来たと言えども、この辺りだけは昔と変わらず自然が豊かでございます。
原生の自然を残すこの土地は、武蔵国と呼ばれた時代より、日本屈指の「月の名所」と言われております。まことに、良き土地でございます。
日本では春は花、秋は月を愛で、季節を楽しんでまいりました。十五夜のお月見は平安時代に中国から伝わり、江戸時代より、中秋の名月を鑑賞する伝統的な行事となりました。澄み渡る、秋の夜空を昇る月に、人々は収穫の感謝を込めて祈り、来年の豊作を願いました。
私どもにとりましても、まさに……そう、正にこの日は、年に一度の収穫を祝う夜なのでございます。
今宵の名月は、黄金色に輝く望月は、我が一族には赤く見えるのです。
薔薇の鮮烈な光沢の中に、暗く妄りがましい黄赤を混ぜ込むような、或いは、洋灯にかざした婀娜っぽい赭褐色の封蝋にも似た、悍ましい血の色に染まるのです。
狼煙のごときその淫靡な赤が、一夜限りの狩猟の合図なのでございます。
そろそろ日が落ちてまいりました。あなた様はお帰りになったほうが良い。
間も無く、年に一度の名月が出る時分には、私は今の姿を留めておくことが出来ないのです。この意識も半分は、闇の彼方に飛んで行ってしまうのです。
……こんな話をするのは、あなた様を、只々お慕いしていればこそ。毛むくじゃらの醜悪な姿を、あなた様の前に晒しとうはございません。
さあ、行きやりょれ。
えっなぜ行かぬ、恥を忍んで申したものを。
さあ行かぬか……、早よう!
何を、んっ……覚悟がおありか?
そうなのですか。
何もかも、お見通しだったのでごさいますね。私が、大口真神より血を分けた、人を喰らう人狼なのだということを。
神の道より外れた魔狼だと……
えっ、帝国陸軍の密偵?
戸山町、陸軍軍医学校防疫部隷下……
関東軍731部隊。
生体……実験?
私に近付いたのは、そういうことだったのですか。
生物兵器……
端からそれが目的で。
では、私を捕えるか?
或いは、退治なさるか……
密命なのでこざいましょ。
それは……いけませぬ。
そんなことをしてしまったら、もう二度と、今の世界には戻れないのですよ。
いいえ、……駄目です。
獣と化した私が、あなた様の心情を、果たして覚えていられるかわかりかねまする。
血肉だけを喰らうやも知れません。
えっ、それでも良いと仰るか。そんなお方は初めてでございます。
覚悟を決めて参られたのですね。
それほどまでに、私のことを……
あぁ、この鬼歯が顎の先まで伸び、その鋭い鋒で、あなた様の喉元を貫く。どくどくと絶え間なく脈打つ大動脈の鮮血をすすり、碧白く輝く頸静脈に、我が一族の証たる聖血を注ぎ込む。
それは、私にのみ与えられた古よりの理、存続の本能。
仲間になると……その身を犠牲にしてまでも、来世を一緒に歩んで行きたいと……
軍部の手から、私を守りたいが為に。
愛しているからと……倫理も道徳も、全てをかなぐり捨て、暗黒の中で、究極の愛に生きると……
私と共に、永遠に。
人狼族の姫として、身を潜めながらの千と五百年。あぁ、生きた甲斐がございまする。
私は、これ程まで愛し、愛されたのはあなた様が初めて。
嬉しゅうございます。
そろそろ、時がまいります。
どうか、あちらを向いていてくださいまし。
変わり果てる刹那の、あの醜い姿だけは、あなた様には見せられませぬ。
後生ですから、どうか……
ぐあぁぁぁぁ………………
ど……、どうか……
ぐあっ……ぁぁぁあっ……
あちらを……
♢ ♢ ♢
令和XX年
IDSC国立感染症研究所 感染症情報センター
十年来の流行り病で、仲間はとうに死に絶えもうした。魔法の薬を打ったとて、彼らには効かなかったようでございます。
永遠の命と言ったは情けない。砂上の楼閣の如く、いとも簡単に……
ええ、思えばあの御方の、素朴な優しさ、暖かさに縋っていたのかも知れません。凍えるほどの寒さと言うものは、温度計で計るものとはまた、違った意味をもつのだと、彼の地、満州で思い知らされたのでございます。
『ふるさとは遠きにありて思ふもの』とは、よく言ったものでございますね。初夏の湿地を彩るミズバショウやワタスゲ、冬に降り積もる雪の重みで地を這うように、クネクネとうねりながら広がるダケカンバやハイマツは、秋の紅葉ではしっとりと色付いて。
理由ですか……
殺める苦しみから、逃れる為?
過去の殺戮を、忘れ去りたかったから?
確かに最初はそうだったのかも知れません。
あの御方が教えてくれた故郷の温もり。知らずと気が付いたら、そこにおりました。
暖かくて、嬉しくて、ただ幸せで……
私は、百年経った今でも、月夜を見上げる度に出逢った頃を思い出しまする。
黄昏色に染まる高尾山の梺、細く長い坂道。つづら折りの曲がり角に、浴衣姿の私はひとり、遠くを見つめ佇んでおりました。藍染めの江戸小紋に半幅博多帯を締め、黒いレース地の日傘を斜にさして。眼下を流るる城山川は、キラキラと輝いておりましたっけ。
あの時あの御方は、ハイキング客を装っていたのでございます。
そんなことも露知らず、足を挫いたと言うあの人を、私の別宅までお連れして。肩を貸した私に、体重を乗せてくるもので、それは随分と骨をおりました。
家につく頃にはどっぷりと日が落ちて、西の空には宵の明星が瞬いて……
刹那、あの人は、顔を出したばかりの上弦の月を見つめながら一言、こう言ったのでございます。
「月が、綺麗だ」……と。
あぁ、その時のお美しい横顔に、私もまた、見惚れておりました。
今ならわかる気がします。
山は嫋やかだった。あの御方の穏やかな言の葉が、木霊のようにいつも響いておりました。
そう……
あの日までは。
どうか、赦して下さいまし。
あの人の覚悟に報いることが出来なかった。野生の本能の前には、どうすることも……
あの夜、狼煙の如く揺蕩う赤い月は、確かに血の色をしておりました。
えっ……
新ワクチンの開発?
流行り病に、私の血が役に立つと……
承知いたしました。
いいえ、逃げも隠れもいたしませぬ。
私の体を好きにしたらよろしい。
生体実験でも、なんでも……
すでに、
生きる気力をも、なくしてしまいました。
了
・・・
大口真神とは、日本神話に登場する聖なる神の一柱。真神とも呼ばれ、日本武尊の命を受け、ニホンオオカミ(白狼)が神格化したものである。
陸軍軍医学校防疫研究室は、旧大日本帝国陸軍の医学科系機関。日本の勢力下にあった満州への研究施設、関東軍防疫給水部本部731部隊(細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関)を設置し、それを統率した。
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