葬送~水葬~

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 それは横殴りの雨の日で、傘をさしているのもやっとだった。跳ね返った水で濡れ、じっとりと足に張り付くスーツのパンツの端や、びしょびしょと音を立てそうなほど濡れだした革靴の中にげんなりする。しかし、高砂佳純が陰鬱な気分でいるのはそれが理由ではなかった。  その気持ちに比例して、歩みは徐々に遅くなった。その足が、ひたりと止まる。  そこには大きな看板が立てられており、高砂の行くべき場所であることには間違いはないことを知らせる。それを目にした瞬間に、ぐっと息が詰まる。 真っ白な地にくっきりとした筆で書かれたような文字。書かれている名前は、忘れたくとも忘れられないものだ。すぅ、と息を吸い、吐き出す。ほんの少しの間だ。少しだけ我慢をすればいい。そう自分に言い聞かせながらも、一歩を前に踏み出した。  入口で傘の露を払い落として濡れたスーツをハンカチで拭う。 真っ黒な着物とスーツの男女がいる受付で、お悔やみの言葉を口にしようとした。 「この度はご愁傷様でした」  この言葉に何の意味があるのだろうか、そう思いながらの上っ面だけの言葉を吐いて、記帳を済ませる。そこに載った名前に、彼らは少し不思議そうな顔をするが、それを無視して開け放たれた会場へと進む。  ぺこりと会釈をして、会葬者の席へと向かう。遺族の中の一人が高砂を見て目を見開いた。  その年老いた白髪の女は前に見たときよりもさらに老け込んでいて、時の流れを感じるばかりで何の感情も浮かんでこなかった。瞳にあるのが驚きなのか、悲しみなのか、それとも恐怖なのかは判断がつかなかった。  本当は目の前に行って遺族に対するお悔やみの言葉をかけるべきだったのだろう。口上は頭に浮かんでいたが、口にすることはなかった。困ったと思い、へらりと笑いながらできるだけ自然に見えるように目をそらし会葬者の席へとついた。  しばらくすると式が始まった。人の良さそうな僧侶が入って来て、柔らかく、しかし朗々とした声で読経が行われる。その声とともに、遺族の焼香が始まる。自分の番がくるのを手の甲を見つめながらじっと待っていた。肉が落ちて浮き出た骨が目立ち始めている。そうか、自分もそんな年なのだな、と分かっていたはずの現実をしみじみと噛み締める。  それほど大きな式ではなく、順番はすぐに回ってきた。棺の前で抹香をハラハラとくべる。視線を上げれば、どうしても見える遺影。そこに見える顔に、また呼吸が詰まる。  穏やかに笑う顔は、高砂が知っている頃の何倍もシワが増え、頬や首の肉も落ち、随分とこじんまりとして弱々しい老人のそれになっている。エラの張った顎や、つり上がった目尻は確かに見覚えがあるのに、自分の知っている顔とは違った。自分が覚えているのは、赤らんだ顔、自分を見下ろす冷たい目、振り上げられる拳。一気に過去がフラッシュバックする。思わずその場で固まった。  それが一秒だったのか、二秒だったのかはよくわからない。我に返って、大股で席に戻る。ストンと腰を落とすと、押し出されたかのようにふぅ、と息が漏れた。自分が本当に息をしていなかったことに気づき、意識的に呼吸をする。いつもより大げさに深く息を吸う。次にバクバクと心臓が鳴り始めた。  全部終わったはずのことなのに、全部遠い昔の話なのに、何一つ終わっていないのか、と手を握り締める。法話が行われているが何を喋っているのかは全く頭に入ってこない。そこにあるだけで認識の上に上がらないBGMと同じように頭上を通り過ぎていくばかり。聞こうと思ってもすぐに意識は別の方へ。ぐるぐると思考だけが巡っていく。いつの間にか、式は終わっていた。 「せっかくなので、顔を見てやってください」  誰が、あんな男の顔を。苦痛と絶望の象徴を、死んだからといって優しい気持ちで見送れるはずもない。もう、早く帰りたい。今すぐにでも、出口へと向かいたい。自分はよくやったはずだ。 「あなたは、それを知った以上行くべきだよ」  コーヒーを啜りながらそう言った恋人の顔が脳内を過ぎる。その一言に背中を押されるようにして、高砂はこの場所にやってきた。もし二、三十年前であれば、もし恋人が勧めなければ決して訪れなかったであろう場所へと。  高砂は、世界で一番憎い男の葬儀を見届けに来た。  彼のことを思い出すとき、そこにあるのは嫌悪感と、絶望と、何年経っても拭いきれない恐怖だった。 「……ごめんなさい、ごめんなさいっ!」  振り下ろされる腕から両手で頭を庇って、小さく丸くなる。大人の力によろけて床に転がれば、今度は容赦なく足が降ってくる。 「お前がいけないんだぞ。いい子でいないから」 「ごめんなさい、いい子にできなくてごめんなさい」 「これはしつけなんだ!」 「いっ……! っぐ、ぅ……ふ、ぅっぐぅえ」  防ぎそこねて、腹につま先がめり込む。ぐっと胃の中のものがせり上がってくる。ダメだ、吐いちゃダメだ。喉の奥に酸っぱい味。なんとかそれを飲み下す。生理的な涙が目の前を霞ませた。 「泣いたら済むと思ってんじゃ、ねぇよっ」 「がはっ……」  胃が動き回り、その中身を全て吐き出そうとさせる。嫌だ。吐き出したくない。吐き出せばもっと酷いことをされる。それに、吐いてしまったらきっと、もう食べる物なんてもらえない。  お腹が空くのは嫌だ。これ以上嫌なことをされるのは嫌だ。そうなんとかこらえても、また一発、腹に食らった衝撃で意識が一瞬逸れる。こみ上げてきたものは喉を押し広げ、口をいっぱいにして、溢れ出した。 「う、お、ぇっ、ぐ、……っげほっ……」 「汚ぇなぁ」  上から頭を踏みつけられる。ぐちゃりと顔の下で音がする。ぐちゃぐちゃとした半固形のものが顔に塗りたくられることとなり、粘着質な感触に、生理的かつ猛烈な拒絶を覚えた。酸っぱい匂いに、更なる嘔吐感がこみ上げてくる。 「食いもん粗末にすんなよ!」  男がかがみこみ、高砂のまだ汚れていない後頭部を掴んで、吐瀉物に押し付ける。嫌々と首を振ろうとすれば、さらに頭を叩かれる。痛い。痛いのは嫌だ。でも、舐めたくない。でも、しなかったら?  何をされるかわからない。洗うという名目で水をかけられて外に出されたこともあった。二日ほど食べ物をもらえなかったこともあった。翌日動くのが辛いほど殴られ、蹴られたこともあった。今度こそ、死ぬかもしれない。殺されるかもしれない。嫌だ、怖い、死にたくない。 「ふ、ぅっ……」  ぐずぐずと吐瀉物の匂いを嗅ぎながらも鼻をすすり、口を開く。自分が吐き出したものへと舌を伸ばす。 「それでいい」  ごしごしと頭を掌がする。撫でられた訳じゃない。彼の手にこびりついたであろう高砂の血や胃液を髪の毛で拭っているだけだ。  自分で、自分の吐瀉物を舐め、すすりながら、汚物として扱われる屈辱と苦痛。こみ上げ続ける吐き気と、胃酸に焼かれてヒリヒリとする喉。誰か、誰か助けて。けれど目の前の男が助けてくれるはずもない。殺される。嫌だ、もう嫌だ。この地獄から抜け出したい。痛いのも怖いのももう嫌だ。  伸ばした手は、届かない。 「おかあさん」  視線の先にいる彼女の顔は昔と変わらない。立ち上がったはいいが、棺の前にすら行けず、帰ることもできずいる高砂を見るのも、昔この男に殴られていた時の自分を見るのも。違うのは、既に泣いているのか、まだ泣いていないのか。  自分では何もすることはできない。そんな無力感にあふれた目。罪悪感と不安に溢れた、その顔は見飽きるほど見た。 「……佳純」 「……なんですか」  どうして、と目が語っている気がした。なぜここにいるの、なぜここに来たの、そう言いたいのは、痛いほど分かった。高砂が彼のことを許した訳ではないのは、彼女がいかに鈍感であったとしてもすぐに分かるほど自明のことだ。それでいて、ただ静かに葬儀に参加するのが不思議でならないのだろう。怒りを露わにするでもなく、喜ぶでもなくいる自分は、穏やかな顔にでも見えているのだろうか。  自分自身では自分の顔がどんな顔なのかわからない。 「許して……くれるの?」  小さな、そして怪訝そうな声。ありえないとわかっていて、それ以外の選択肢が出てこないとばかりの疑念に溢れた声。 「前も言いましたが、貴方のことは、別に恨んでませんから」  助けてくれなかった母に絶望しなかった訳ではない。けれど、高砂に暴力を振り続けたのは当時の母の恋人である彼だ。そこで怒りの対象を間違えるほど、高砂も馬鹿ではない。だからといって、とても許せるものではない。  だから、たまたま彼の訃報を聞いたとき、絶対にいくもんか、と思った。それでも来たのは、恋人が行けと言った、ただそれだけの理由だった。 「……ご愁傷さまでした」  そう言いながら、自分はどんな顔をしているだろうか。目の前にいる母は、物言いたげに目を伏せた。また、一つ悲しみが積み重なる。母は、どこまでいっても自分の息子より恋人を愛する女だったのだ。 「別にいいんですよ、終わった話です、過去の話なんです」  そう言って踵を返そうとすれば、ぎゅっと手首を掴まれた。振り払おうとしたその手は、皺だらけでハリがなく、少し力を加えれば折れてしまいそうなほど脆い。体格のいい高砂が力を加えれば、よろけて転んでもおかしくない。諦めて力を抜いた。触れたところが肉に従って沈む。老いた手は悲しいほどに冷え切っていた。 「……見ていってあげて」  老いた母は、高砂を見上げてぎこちなく微笑んだ。彼女はそっと高砂の背を押した。促されるまま、棺の頭側に立つ。その顔を見下ろすのが怖い。終わってしまうのが怖い。ちゃんと終わることができないことが、怖い。  息を止めて、そんなことをしてどうすると思う。彼の顔を見たところで、高砂が彼に理不尽な暴力を振るわれていたことは変わらない。それに対する報復や納得をする前に死んでしまったことも変わらない。 「ちゃんと、葬儀に出たほうがいい」  そういった恋人は、褒めてくれるだろうか。年甲斐もなく、こんなところで過去にとらわれている自分でも、いいと言ってくれるだろうか。  深呼吸をする。早鐘を打つ鼓動を見て見ぬふりをして、三、二、一、でその棺の中へと目を向けた。  そこには、見たこともない小さな男がいた。真っ白な、血の気のない顔をして、そしてやはり見たこともない穏やかな顔をして横たわっていた。これは誰だ。かつて自分を苛んだ男に似せて、年を重ねたようにして作った蝋人形か何かではないのだろうか。もしくは、自分は騙されていて、ここに寝ているのは全くの別人なのではないのだろうか。  ぴくりとも動かないその男は、明日には燃やされ、骨だけになるのだとようやく実感が沸いた。別人などということもない、間違いなく自分が恐れた男が、そこで死んでいた。 「……佳純?」  思考から現実へと引き戻す母の声。 「……え?」  そちらを見れば、彼女はもう一度手を伸ばして、両手で高砂の手を包み込んだ。いつだって、彼女はそうだ。高砂のことを抱きしめ、手を繋ぎはするが救ってはくれない。それでもそのしわしわの手は徐々に温もりを伝えてくる。抱きしめてくれる腕が温かいことは忘れられなかった。だから彼女を恨めない、憎めない。  自分を殴った男を愛する彼女を、自分よりも彼を取る彼女を恨めない。憎んで恨んで復讐出来たなら、もしくは忘れることが出来たなら、そう思ったところで、この小さな老女へと腕を振り上げることも、無視をすることもできない。だから、高砂はへらりと笑みを作り上げる。 「大丈夫です。もう、遠い昔の話ですから」  そんな風に、自分を誤魔化す。許せるわけのない過去を、飲み込んだ振りをする。 「それでは、失礼します。貴方もお元気で」  その小さな手をやんわりと外して、今度こそ確かに背を向ける。彼女のなにか言いたげな視線を感じながらも、高砂は振り返ることはせずに葬儀場を後にした。  家に辿りつけば、自分の愛する人が玄関まで出てきた。いつもは面倒臭がって奥の部屋からおかえり、と声を飛ばすだけなのに、珍しい。 「佳純、遅かったね……」  そう言いながら出てきた彼の動きが、高砂を目にした途端ぴたり、と止まる。そしてすぐに背を向けるとまた家の奥へと戻っていった。遅かった、って通夜が終わって直ぐに帰ってきたのに、と玄関の時計を見る。なんと、葬儀場から帰ってくるつもりだった時間をゆうに二時間ほど過ぎていた。自分は二時間もの間、一体何をしていたのかがぼんやりとしている。  真っ直ぐに帰ってきたはずなのに。そう考えて、ふと思い出す。電車に乗っていったのに、歩いて帰ってきたのだ。 「……何してんだか」  足元を見れば、ぽたぽたと全身から滴る水が水たまりを作っている。右手には、綺麗に丸められた傘がある。そういえば傘すらさしていないじゃないか、と今更気が付いた。 「佳純」  戻ってきた彼から、タオルを投げられる。それを受け取ったものの、ずぶ濡れの全身を拭く気力も沸かない。早く風呂にでも入って眠ってしまいたいのに、何一つしたくない。このままここでへたりこみたい。 「終わりに出来た?」  穏やかな声。そう言いながら、彼は立ち尽くしている高砂の手からタオルを奪う。 「……本当に、終わったんですか」 「さあ、僕にはわからないよ」  彼が両手でタオルの端と端を持ち、高砂の頭にかける。そしてそのまま引き寄せ、濡れた高砂の頭をタオルごと抱え込んだ。  高砂より小柄な彼の胸に頭を預けるには、玄関の段差があってもまだ少し足りない。少しだけ背中が丸まる。彼は黙って高砂を抱きしめ、次の言葉をじっと待っているようだった。ああ、これが、生きている人間の体温なのだと、ふぅ、と息を吐き出す。ようやく、息ができた気がした。 「天河くん……私は、最低です」 「何が?」 「死んだ人間を見て、安心した」  逃げても、自分の力の方が彼より強くなったと分かっても、それでももう彼に人生をめちゃくちゃにされることはないんだと納得できなかった。どこかで彼に怯えている。また殴られるんじゃないか、また罵られるんじゃないか、また幸せを壊されるんじゃないかと、頭の片隅によぎる。  そんな馬鹿な、そう思って見て見ぬフリをしてきた。もう怯える必要などないと言い聞かせて来た。今は愛する人がいて、昔の自分とは違うのだと信じていた。だが、駄目だった。目の前にある彼の死体を見て、いかに自分が彼の呪縛に囚われ続けていたのか知るばかり。  彼が死んで得たのは、ざまあみろと胸のすく思いでも、憎んだ相手が死んだことによる爽快な気持ちでもない。ただただ、ほっとした。涙が出そうなほど安心したのだ。  この男が死んでよかった、そう思ってしまった。復讐したいとかそんな気持ちはもうなかったのに、実際にもう動かない彼を見て、これでもうこの恐怖から逃げられる、終われるのだとようやく納得ができた。 「……ごめんなさい」  はたはたと涙が溢れた。何が苦しいのかわからない。ただ、とっくの昔に全て終わったのだと思いこもうとしていた。あの家を出て、他人に救われて、今こうして隣で支えてくれる人がいるにも関わらず、未だなお彼に怯えていた自分が情けない。色々なものを与えてもらいながら生きてきたにも関わらず、相変わらず何も変われないでいる自分が嫌になる。  人の死を喜んでいる自分に、反吐が出る。 「頑張ったね」  そんなことを、言って貰える人間じゃない、そう思って顔を上げる。そこには、優しい顔をした恋人の顔。 「っ……」  何も、言えなくなった。 「終わりに出来た?」  彼は、もう一度尋ねた。 「終わらせて、いいんですか」 「もう、十分過ぎるほど抱えてきたでしょ。お風呂に入って、あったまっておいで。風邪引くよ」  足だけ拭いて、風呂へと向かう。すでに湯船にはお湯がはられている。体を洗い、お湯に浸かればじんわりと疲れが抜けていく。ぐるぐると汚い自分の思いも抜けていくようだった。風呂からあがれば、キッチンで彼がコーヒーを啜っている。その背中に、椅子の後ろからそっと腕を回した。 「どうかしたの」 「ありがとう」 「何が?」  わかっているくせにそんな風に聞く彼が好きだ。 「貴方が言わなければ、ずっと怯えて暮らすままだった」 「……いいんだよ、別に恨んでも、憎んでも。でも終わりにできるならそのほうがいい」  ぎゅっと腕に力を込める。痛いよ、と彼は小さく呻いた。自己嫌悪や罪悪感は消えやしない。けれど、たった一言彼の言葉で、こんな自分を許された気がする。今腕の中にある温もりを確かに感じて、そっと目を閉じた。
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