葬送~供花~

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 その日はとてもよく晴れた日で、真っ青な空が見えていた。青い空にはもくもくと白く厚みのある雲がかかり、まさに夏だと言わんばかりの空だった。  しかし、こういう時期によくあるように夕方になって突然降り出した雨のせいで、ノリを利かせたシャツは濡れて肌を透けさせて意味をなくしている。  途中、傘を買おうかとも思ったが、コンビニもなく、結局ずぶ濡れになってしまった。セレモニーホールについた頃には髪を整えていたワックスもほとんど落ちて、仕方なく濡れた髪をかきあげてオールバックにする。  そんな風に整えたところで、現代日本ではオレンジに染まった髪というのは随分目立つし、特に周囲が黒い装いばかりであるならなおさらだ。実際、周りの人間の視線が平平に突き刺さっている。チラチラと、バレないように見ているつもりなのだろうが、向けられる側は案外それを敏感に受け取るものだ。  それらを無視して受付を済ませてホールに入ると、その足音で準備をしていた僧侶が顔を上げた。まだ若く、平平と同じくらいの年に見え、新米だろうか、とぼんやりと思う。彼は、平平を見てあからさまに眉を潜めた。若くてもそういうのは顔に出さない方がいいんではないか、坊主といえども客商売だぜ、と心の中でつぶやく。  作業の手を止めた彼が、つかつかと歩いてきて平平の前で立ち止まった。やばい、なんか怒られるぞ、心の準備をする。 「……ひどくびしょ濡れですが、大丈夫ですか、タオルを持っていますし、お使いになりますか?」  眉を寄せて彼が言った言葉に、拍子抜けする。すみません、と謝るために開けた口を一端閉じて、唇を引き上げた。 「ありがとうございます。でも、大丈夫ッスよ、この時期なんで」  幸せな気持ちになり、にこりと笑うと、僧侶はそれでも心配そうに平平を眺め、何か思いついたような顔をした。 「少し失礼しますね」  彼は袂から真っ白なラインの入ったハンカチを取り出すと、平平の肩と雫が伝う顔や首元を拭いた。綺麗に折りたたまれていたそれが、水を吸って色を変える。 「え、あ、すんません、え、ハンカチ汚れますよ」 「ハンカチは、そのためにあるんですからね」  ポンポン、と彼は構わずに平平を拭っていた。温かい言葉に甘えてはいたが、流石に泥の跳ねた足を拭ってもらうのは遠慮した。 「通り雨でしょうか」 「さあ、どうだろう。今がピークなんだろうけど」  すぐにピークは過ぎ、五分もしたら頭から爪先までびしょ濡れになるような横殴りの雨ではなくなるだろう。夏の雨は、そういうものだ。 「災難でしたね」 「いいや、僥倖だったよ」  え、と戸惑った顔をしている彼を尻目に、平平は席へと着く。もうすぐ、通夜が始まる。祭壇に飾られた彼女の顔は満面の笑みで、平平はひまわり畑で笑う彼女のことを思い出した。  死相、というのは本当にあるもので、平平は人一倍それがわかる人間だった。いわゆる、霊感とか言われるものにあたるだろう。死ぬ直前の人間を見れば、ああ、死ぬな、と思うし、病気にかかっている人間を見れば黒い靄のようなものがかかっているように見える。  だから、病院が嫌いだった。ともすれば幽霊や幽霊とはまた違う危険なナニかのようなものまでもが見える。そこにいるだけで神経がすり減るし、それを誰かに伝えることもできない。  だからといって、ヤバイものが見えてしんどいから病院には行きません、と言うわけにもいかない。特に、身内の入院ともなれば。 「まーでも、ばあちゃん元気でよかったわ」  階段から落ちて入院した、という知らせに、慌てて駆けつけてみれば祖母はピンピンしており、うまそうに差し入れを食べていた。大したこと無いなら早く言ってくれ、とは思ったが無事に越したことはなく、胸を撫で下ろした。 「大丈夫大丈夫、ばーちゃんが元気なのはへっぺーもよー知っとるでしょうが」  カッカッカ、と笑う祖母。その顔には死相などかけらもない。階段から落ちた怪我も、二週間ほどの入院でなんとかなるようだ。 「はいはい、ばーちゃんみたいなのはあと三十年くらい元気に生きてけるよ」 「百まで元気に生きてくつもりだからね」  軽口を叩きながら病室を出たはいいが、その途端ぐっと体が重たさを増した。さっきまで必死で忘れていたが、ここは病院だ。どうしたってマイナスの感情やモノが渦巻く場所。  怖いとか、見えるのが辛い、というわけではない。そこに内包される不幸を、悲しみを、絶望を想像するのがキツイ。病気であれば、それで死ぬ人やそれを看取る人の悲しみが、悪霊であればその人の無念さと、憑かれた人間にこれから起こる悲劇や破滅が、手に取るように浮かんでしまうことが辛い。日常的に見えるモノではあるが、無数にもなると気が狂いそうになる。  見えるにとどまらず、マイナスのモノたちがズルリと体の中に流れ込んでくるような感じに、うっと息が詰まる。小さい頃からそういうものに慣れているとはいえ、やはり気分のいいものではない。  死にたくない、怖い、寂しい、辛い、痛い、苦しい、もやもやとしたモノに押しつぶされないように、気を強く持つ。それらを消してやりたくとも、自分にできることなど限られている。大きく深呼吸をして、いつの間にか少し浅くなっていた息を整える。 「……あっ!」  角を曲がったところで、どん、と体がぶつかり、小さな悲鳴が上がった。ヒヤリ、とした感覚が体を襲う。体の芯に冷たい氷を突き刺されたような痛み。 「すんません!」  顔を上げれば、目の前に目をまんまるにした少女がいた。 おそらく平平よりも三、四歳年下、高校生だろう。くりくりとした瞳は大きく、可愛らしい顔をしていた。 「悪ぃ、よそ見してた」 「いえいえ」  にこり、と笑う顔は明るくて快活そうな印象を受ける。けれど、平平はうっと息が詰まった。その体全体にまとわりつく、黒い影。べったりと張り付くようなそれは、彼女の体をほとんど覆い尽くすようになっていた。彼女の鮮やかな笑顔との対比は大きくその分余計にその黒は濃く、重たく感じられた。  先ほどの痛みはこれか、と納得がいく。 「……どう、しましたか?」  じっと見つめる平平に、彼女が怪訝な顔をする。 「……いきなりこんなことを言うのは失礼だと思うけど、検査を受けたほうがいいぞ」 「え?」  思わず口にしてから、まずい、と思う。こんなの、まるで不審者だ。いきなりぶつかってきた男から声をかけられるなんて、宗教勧誘かナンパくらいだ。まして、いきなり検査をしろなどとは、おかしな話だ。 「……えっと、顔色が、悪ぃから」 「えっ! 本当ですか?」  嘘だ。彼女の顔色は至極普通で、ただ彼女にまとわりつく影が彼女を暗く、重たく見せている。彼女はうーん、と考え込んだ様子で、それから苦笑した。 「んー、ちゃんとお化粧したんだけどなぁ」  よく見ると、ファンデーションは濃く、更に頬も不必要なほどにピンク色がのせられている。単にそういう趣味かと思っていたが、そういうわけではないのか。  彼女の肌は年の割にはくすんでおり、化粧の分を差し引いて考えれば顔色もそれほどよくはない。分かっていて、彼女はそれを隠すための化粧をしているのだ。見た目も可愛らしいが、濃い化粧をするようなタイプには見えない。それを指摘するような無粋な真似はするまい。 「あー、影になってただけ、かな」  そう言うと、彼女の顔が、ぱっと明るくなる。 「よかった! じゃあ、お兄さん気をつけて、今度はぶつからないようにね」  そう言ってスカートの端を翻し、彼女は去っていった。ちゃんと精密検査をして欲しいが、したところで間に合うかどうか、そう思うが、彼女にとって無関係の平平にはどうすることもできない。あんなに若い子がかわいそうに、と苦い思いを抱いたが、振り払うように別のことを考える。その甲斐もあり、家に帰る頃にはすっかり忘れたていた。 「あ、お兄さん!」  声をかけられた方を向くと、ぶんぶんと手を振るこの前の子がいた。彼女の笑顔は今日も明るい。この前は花柄のワンピースだったが、今回は青のストライプが夏にぴったりな爽やかさだった。 「こんにちは」  彼女は平平の手にあるケーキ屋の袋を見て、目を輝かせた。 「それ! 駅前のプリンで有名なケーキ屋さんの! 御見舞ですか?」  あまりにキラキラした目をしているのがおかしくて、思わずくすりと笑うと、彼女は少し照れたように目を逸した。 「ばあちゃんが今入院してて」 「おばあちゃん大丈夫?」 「元気元気。階段から落ちたってのに、ピンピンしてらあ、ありゃ百まで生きるね」  そっか、よかった、そう笑う顔に曇りはない。しかし相変わらず彼女の周りには黒い影がつきまとっていた。 「プリン、食うか?」  なんとなく、そう口に出してしまった。 「えっ!? そんな、悪いです」 「めっちゃ食いたそうな顔してたから」  そう言うと、彼女の顔が真っ赤になった。 「そんな食いしん坊みたいに言わないでくださいよ!」 「あんな目されたらなぁ」  くすくすと笑ってからかうと、もう、と言いながら子どもっぽい仕草で頬を膨らませた。ケーキの箱を開けて、その中から一つプリンを取り出す。 「ほれ」 「えっ、えっ……ほんとに、いいんですか?」  断ろう断ろうとしている彼女の視線が、プリンに釘付けになっているのがおかしくて仕方がない。 「おう、いいぞ。俺の分だからなくなってもばあちゃんに怒られたりしないし」 「えっ! そんなの駄目です! お兄さんの分がなくなっちゃうじゃないですか」  視線はプリンを見ているにも関わらず、彼女はぐいぐいとプリンを持った平平の手を押しのけている。断るのなら、その雄弁な瞳をもうちょっとどうにかしてほしいなぁ、と思いながらも、彼女の手にプリンを握らせる。 「いーんだよ、この前ぶつかったお詫びってことで」 「駄目! です! ここのプリンを食べられないなんて! あ、ならお兄さんはんぶんこしましょ!」  名案、という顔をして突拍子もない提案をしてくる彼女に、平平はとうとう笑いだした。 「それでいいのかよ!」 「え、なんでですか。あ、ごめんなさい私とはんぶんこなんて嫌ですか!?」 「嫌じゃない、嫌じゃない」  流されるままに彼女に連れてこられたのは、一つの病室だった。病室の表札には鈴本愛李の文字。女の子らしくて可愛らしい名前。あぁ、彼女はここの患者だったのかとそこで初めて気がついた。そういえば、彼女のワンピースはこの前も今日もゆるりとして余裕のあるもので、前をボタンで開けることが出来るものだった。この病院は病院着も決まっておらず、だいたいの人間がジャージかパジャマだった。  彼女はベッドに腰掛け、平平へと椅子を勧める。 「どうもどうも」  よく知りもしない男を、自分の部屋とも言える場所に招いて何を考えているのだろうかと思ってしまうが、気にせず座った。 「えへへ、じゃあ頂きまーす」  嬉しそうに彼女はプリンの蓋を開け、安っぽいプラスチックのスプーンで掬う。とろりとスプーンから落ちそうな柔らかさを持ったそれが流れる前に、彼女はぱくりと口にした。 「美味しいー! とろけるっ」  一口食べてそう声を上げた彼女を見て、平平は目を細めた。彼女の顔に浮かぶのは、なんの曇りもない満面の笑み。 「ほら、お兄さんも!」  もう一口掬って、彼女はずいっとスプーンを平平の前に突き出した。その勢いに、思わず平平はそれを咥えた。口の中いっぱいに卵と生クリームの優しい味と、とろりとした舌触り。あっという間にそれは溶けてなくなった。 「ねっ! とろけるでしょ!」 「あんたの顔が、一番とろけてるぞ」  冗談めかして返せば、美味しいんだから当たり前でしょ、と返された。確かにそのプリンはとろけるほど美味しかった。  食べ終わってプリンの入れ物を片付けながら、彼女ははっとした顔をした。 「そう言えば! 親切なお兄さん、お名前は!」 「平平平平」  さらっと答える。彼女はきょとんとした顔をした。 「ひらだいらへっぺー?」 「たいら、って文字を四つ書いて、ひらだいら、へっぺー。冗談みたいな名前だろ」  彼女の目が大きくなる。興味深そうに口角が上がった。 「すごい! 面白い! あ、ごめん、そんなこと言っちゃ駄目か」 「別にいいぜ。俺も面白い名前だと思うし、別に嫌いとかじゃねえしな」  カラリと笑えば、彼女が少し安心したような顔をする。 「よかった! 私は……」 「鈴本愛李だろ」 「えっ!? なんで、すごい。へっぺーさんエスパー?」  身を乗り出す彼女に、にや、と笑って首を傾げる。 「すごかろ?」 「すごーい!」  放っておくと本当にそのまま信じ込みそうだったので、ネタばらしをした。それはそれですごい、と嬉しそうに言う姿は無邪気で可愛いな、と純粋に思った。食べ終わってから少し世間話をして、しばらくした頃。 「そういえば平平さん、行かなくていいの?」 「え?」 「おばあさんのところ」  ハッとした。時計を見れば、行くと言っていた時間から三十分以上は過ぎている。これはまずい、と慌てて席を立つ。 「やべ、行くわ」 「ありがとう! 楽しかった! もしよければ、また来たら会いに来て」  なんて無邪気に言うから、思わず、また行くわと返して連絡先を渡してしまった。  そうして、祖母が入院している間愛李には何度か会いに行った。大学の話、バイトの話、友人の話、一時間かそこらとりとめもなく話すだけだが、それを彼女はいつもにこにこと聞いていた。  彼女自身友達はそれほど少なくないような性格なのに、病室にはいつ行っても誰もおらず、それを指摘できるほど平平も鈍感ではなかった。  ただ、いつだって明るい彼女のおかげで、一人きりの病室は華やいで見えた。彼女にまとわりつく影さえなければ。それでも、平平は彼女がなんの病気かを尋ねることはなかった。  彼女の表情にはいつだって死の影などないのに、徐々にやつれていく青白い頬と、病的に細い体は彼女が少しずつ病魔に冒されていることを平平に如実に告げた。 「今日、いい天気だね」 「おー、そうだな」 「ここの病院の裏庭、ひまわりが綺麗なんだ、見に行こうよ」  大丈夫なのか、と聞きたくとも聞けなかった。 「大丈夫! すぐそこだから」  ね、と手をひかれるままに裏手に連れて行かれた。病院にしては大きな、しかしひまわり畑というにはかなりこぢんまりとしたひまわりの花壇。 「ほらね! いいよね、ひまわりって、見ているだけでこっちも元気になりそうなほど明るい花」  振り返った彼女の笑顔は降り注ぐ太陽にも負けないくらい眩しくて、思わず目を細める。背中でぐんぐんと背を伸ばし、必死で太陽に顔を向けているひまわりが、よく似合うような笑顔。 「愛李は、ひまわり似合うと思うよ」 「えへへ、本当?」  そういってひまわりに伸ばす指は白く細い。真っ白な七分丈のワンピースから覗く手足は、触れたら折れてしまいそうで、ぐんぐんと背を伸ばして育つひまわりくらい明るい花が似合うと思った。白く儚い花では、か弱すぎて、彼女もその花と同じようにすぐに色褪せていってしまいそうだから。 「ひまわりみたいだとも、思うよ」  何も言わずに笑うその強さが、恐怖だってあるだろうに、真っ直ぐに前を向く強さが、ひまわりに似ていた。 「なら、平平さんは太陽だ」  ふわり、と笑った彼女が夏の空に溶けていきそうで、何も言えなくなった。 「平平さんがいるとね、なんだかすごく自分が自分らしくいられる気がする。だからね、太陽だよ。あ、そのオレンジ頭も太陽っぽいよね!」  そんな風に笑う彼女に、平平ができることは一つもない。彼女の病を治すこともできなければ、死に臨む彼女の心を楽にする言葉なんて、この浅い付き合いでは当然出てくるはずもない。  それ以前に、彼女は自身がどんな病気かを話すこともなかった。 「愛李のことはいつでも照らしてやるからな」  出来もしないことを、笑って言うしかできなかった。 「信じてる」  彼女の笑顔を、裏切ることしかできない。その頭に手を伸ばし、そっと撫でる。ずるり、とその瞬間黒い影が腕に絡みつく。あ、と思うよりも先にするすると腕を辿ったそれは、あっという間に平平の中に吸い込まれた。一番初めに彼女の体が触れたときの、氷が体の芯に差し込まれたような感覚が再来する。 「死にたくない」  愛李の、叫ぶような、しかし押し殺した悲鳴。小さく細い体で背負うには重すぎる運命だろう。 「なんで私が」  その問いに答えなどない。しかし、彼女はその問いを何度繰り返したのだろう。 「怖い。なんの希望もないのなら、もういっそ、死んでしまいたい」  矛盾した願いは、もう未来がないということを受け止めきれないそれで、でもきっと普通の感覚。 「誰か、助けて」  絶対に、叶わない願い。最初のあの冷たさは、病魔の冷たさではない。  ぐらり、と視界が歪んだ。 「平平さん?」  目の前の愛李は怪訝な顔をして固まった平平を見つめている。たった一瞬で、手のひらが汗でびっしょりになり、背中はキンと冷えていた。あの冷たさは、病魔のそれではない。全て彼女の感情だったのか。それを抱えながらも、彼女はこうして笑っている。毎日、毎日怯えながら、苦しみながら、それでもそれを見せずにこうして過ごしている。彼女の頭をもう一度撫でて微笑む。 「白昼夢的な、それ? 愛李がひまわり畑にいるように見えた」 「いいなぁ、ひまわり畑。平平さん来年連れてってー!」 来年なんときっとないだろう。それを知っていても彼女は笑う。先ほど伝わってきた そんな未来があればいいと、願って、祈って、諦めずに、奇跡のような確率を信じて口にする。それを、ふいにする訳にはいかない。言霊に乗るように信じて口を開く。 「連れてってやるよ。右見ても左見てもひまわりでいっぱいの場所へ」 約束だ。ゆびきりをした。  次のひまわりどころか、咲いたひまわりが枯れきることもしない日に、彼女は死んだ。突然かかってきた電話から漏れる嗚咽混じりの通夜の案内。彼女の遺書に、平平を呼ぶように頼んでいた、とのことだった。  そうしてやってきた通夜の日は綺麗な晴れで、ひまわりにの似合うような空模様でよかったと思ったのも束の間、突然の豪雨に変わった。覚悟を決めていたはずの平平が何一つ覚悟などできていなかったのだと嘲笑うような天気だった。  まだまだ若い彼女の葬式では、陰鬱な空気が広がる。すすり泣く声。そこには彼女と同じくらいの年の人も多くいた。近くの高校の制服。ああ、彼女はあそこに通っていたのか、とぼんやりと思った。皆悲しそうな顔をしていた。  きっと友達だったのだろう彼らは、なぜ見舞いにこなかったんだろうか。愛李はやつれた顔を見られたくなかったのだろうか。いつでも綺麗なワンピースを着て、化粧をしていた彼女だ。病気の自分を認めた上で、そうではない自分でいたいのだろうか。それとも。  真相はわからない。それを平平は聞こうとしなかったから。聞くのは彼女の努力を無にしてしまうと思ったから。 「顔を見ていってやってください」 そうして開けられた棺を覗く。最期の彼女の顔なんてみたくなかった。平平の中の彼女はいつも綺麗に化粧がされ、笑顔で彩られていた。それでも隠しきれない病魔の影が、きっと彼女の努力を無にしているだろう。やつれ、強ばった彼女の顔など見たくない。そんなものを見て心を見出しでもしてしまったら、彼女の努力を無にしてしまう気がした。  しかし、平平に見てくれと頼んだのだ。どれほど彼女の死に様が無残でも、そうだったとしてもそれが彼女の生きた証なのだと、平平は意を決して覗き込んだ。 「……愛李」  平平とひまわりを見に行ったときの、綺麗な白のワンピース。その手には一輪のひまわり。  彼女の顔は生前の白さもやつれも見えないように美しく、それは美しく、棺の中で微笑む。今にも喋りだしそうな彼女の周りには、もう黒い影はない。 「エンバーミング、してもらったんです。綺麗でしょう。ワンピースも自分が一番気に入っていたものを、と言っていたので」  いつの間にか隣に立っていた彼女の母がそう言った。愛李と会うときはいつも二人で、彼女とは面識がなかったが、一目見て彼女が愛李の母なのだと気がついた。彼女とよく似た目元、そして強ばってはいるがその笑みの浮かべ方。 「貴方のこと、好きだったみたいですよ。何も聞かずに隣で笑っていてくれるから。太陽みたいだって」  ぽたり、と水が落ちた。ハンカチではぬぐいきれなかった髪から垂れた水が頬を伝ったのだった。ぐいっとスーツで拭う。涙みたいで、いけない。 「……俺にとっては、愛李さんが太陽でした」  綺麗すぎる。いささか上品すぎるんじゃないか、なんてそんなことは言えなかった。遺体にもう一度向き合う。  皮肉な話だ。きっと何もなく過ごしていたのなら出会うこともなかった彼女に、病気だからこそ出会えるなんて。病気だったからこそ、その死の影と、彼女の生きるという意志の光に惹かれ、生き抜いた姿に惚れ込むなんて。 「やっぱりひまわりよく似合うよ。綺麗だ」  微笑んだ。その手を掴んで引き出して、笑う彼女をひまわり畑に連れていけたのなら。そんな夢は、絶対に叶うことはない。そっと目を伏せて、式場を後にした。  幽霊でもいい、会いたい。いつも見えているんだから、見えてくれ、そう思う。けれど、これでいいのだ。この場所にあるのはただ彼女の遺体だけ。それでもきっと、見る人に覚えておいてもらいたいと思う最高の姿でそこにあって、この世に留まることもないくらいに、しっかりと彼女がやるべきことをし終わった形としてそこに残されているのだ。彼女が安らかに逝けたのなら、それが一番いいことだろう。  外に出るとあれほどの土砂降りはほとんどやみかけていて、柔らかく温かい慈雨に変わっていて、傘を持たない平平の体を濡らした。来たときは忌々しく感じたその雨が今は優しく感じる。 「なぁ、大地、年下の女の子とデートってどうしたらいいと思う?」  適当な居酒屋で酒を空けながら、尋ねる。 「何、平平彼女できたの?」  目の前の色男は、顔に似合わずカシスオレンジ、カルーアミルク、と甘ったるい酒を延々頼んでいる。既に少し頬が赤く、彼にしては珍しく、揶揄うような口調をして、カラカラとグラスの中の氷を鳴らした。楽しそうで何より。 「いや」  残念ながら、ここ二年ほど彼女はいない。彼は平平の顔を見てなるほど、と苦笑した。 「例の彼女か」 「おう。今週末が命日だ。晴れたらいいな」  そうだな、と大地は頷く。そして、先ほどの平平の質問について少し間を置いて口を開いた。 「一番かっこいいと思う服を着て、相手が好きそうなプレゼントを持っていって、相手のこと褒めて、好きだってちゃんと伝えてこい」 「そうだな」  夏の終わりに去った君との約束を果たさなければならない。それが今の自分にできる、唯一のこと。 「今度は笑えるかな」 「今度も、笑えるさ、お前はいい男だから。一年前も、ちゃんと笑えてたじゃないか」 「あの日は、雨だったから」  通夜の終わり、どうしようもない気持ちを吐き出す為に会いに行った。大地は驚いた顔をしながらも夜通し平平と飲んでくれた。いい友を持ってよかった。 「いいや、平平はちゃんと笑えてたよ」  そう言って大地は微笑んだ。優しい笑みだった。あの日、雨でよかった。じゃなければ、どれだけ顔をとりつくろったところですぐに平平が泣いていたことはバレてしまっただろう。大地はそれを知っていて、それでも十分だと、笑えていたと言ってくれているのだ。 「……そりゃあ、そうだろう。ずっと背を伸ばして自分の人生を生き抜いた人間を、最後の時まで一緒に生きてくれた人間を、泣きながら見送るなんてできるかよ」 「そういうところが、お前の最高にかっこいいとこだよ。万が一俺が死んだときは、墓に花火と酒そえて大笑いしながら楽しかった話をしてくれ」 「冗談じゃねぇよ」  洒落にならない冗談をいうんじゃない。じろりと睨めば、それでも彼はひるまずに笑う。 「悪い。ただ、そんな風に見送ってもらえた彼女は幸せだと思うよ。週末のデートも、気張って男見せてこい」 「さんきゅ」  一番お気に入りの服を着て、彼女の好きだった駅前のプリンを持って、それから、あの日彼女の母から貰った写真を持って、会いに行こう。 「君は俺の太陽だ」  まっすぐに生きたあの子は、太陽よりも眩しくかった。 「そりゃ臭すぎるだろ」  大地が笑う。しかし、そうやって揶揄う口調とは裏腹に、平平に向けられる視線は優しい。  これから彼女を何度思い出したとしても、きっと飽きずにそう思うのだ。真っ青な空の下、一面のひまわり畑、その中に真っ白なワンピースが見えたなら。やっぱり、ひまわりみたいだと何度でも言うだろう。  例えありえないとしても、そんな夢を見るくらいは、許してもらえないだろうか。
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