葬送~箸渡し~

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「子ども、かわいいなぁ」  公園を駆けている少年を眺めながら、彼は紅葉へと何気なく呟いた。公園でもよく子どもと遊んでいる彼らしい発言だな、と思った。 「いいパパしそうだもんね」  そう言って笑う。それについては彼は何も言及せず、紅葉へと質問を投げかけた。 「紅葉は子ども欲しいの?」 「正直、結婚願望はあるし子どもも欲しい。峰行は?」 「俺はないかなー」  幼馴染の筑波峰行は、紅葉と半分に分けたポッキンアイスをかじりながら苦笑いをする。その返答は意外だった。彼は面倒見がよく人好きのする人間であったし、何よりいつも楽しそうに子どもと遊んでいたからだ。  クラスの中心とまではいかないまでも、常に笑顔を振りまき、周りに明るい空気を作り出す彼と、どちらかと言えば教室の隅で読書をしたり調べ物をするのが好きな紅葉は一見正反対の性格にすら見える。しかし、妙に気が合い中学校生活半ばの今までこうして仲良くしている。 「うちさ、貧乏じゃん」 「あぁ、うん……」  峰行の家が金銭的に困窮していることは紅葉も良く知っていた。小学校の頃に着ていた服はあちこち手縫いで繕ってあったりしたし、現在は身長が伸びたせいでつんつるてんになってしまっている学生服を買い替えることもせず、成長した体に窮屈そうに着ている。前を締めなくてはならない時などは肩や胸の辺りがぱつんとひきつれ、苦しそうだった。  それほど身長が伸びなかった紅葉はその姿を見るたびに、もし自分がもっと成長していたら、この学生服はもう着ないから、と言ってあげることもできたのにな、と思う。しかし、そんなことをしたら彼と対等な関係でいられない気がした。  紅葉の家は寺だ。それほど檀家が多いわけではなく、したがって稼ぎが多いわけでもない。しかしそれなりには豊かな暮らしをしていて、金銭的に困ったりしたことはない。買い食いだってできる。  でも、自分で買ったそれを彼に恵むように差し出せば怒るような気がした。だから二人で帰る時、夏ならポッキンアイスを二人で交代で買って半分に折る。冬なら、肉まんを半分に分けて食べる。家で使わないものがあれば 峰行に要るか尋ねることはあるし、彼も、助かる、と言ってもらってくれる。他人の優しさを無下にして意地を張るほどではない、だが、あえて施しを受けるのは違う、そんな線引きがある気がした。実際のところ、どこに線引きがあるのかは紅葉には分からない。しかし、彼のそういった思いをないがしろにする気はなかった。  貧乏だろうが、それを周りに揶揄されようが、峰行はいつも背筋を伸ばして笑っていて、そういうところが紅葉にとっては自慢の友人だった。 「俺さ、子どもができるんだったら俺と同じ思いをさせたく ないんだよなぁ、だからお金がないうちは結婚も子どももいいや」  彼は眩しそうに公園を走り回る少年を見ていた。その目は羨ましそうにも、慈しみに満ちているようにも見えた。彼はそういう風に無邪気に過ごしてみたかったのかもしれない。気がついた頃には、彼は母親思いのいい子をしていた。けれど、彼には彼のいいところがある、なんとか言い表せられないか、と頭をひねった。 「……そういうところ、しっかりしてるよなぁ、かっこいい」  紅葉は、自分よりかなり大人びて見える、しゃんとした横顔を見ていた。彼は、自分よりもずっとずっと色々なことを経験して、考えも深くて、強くて、だからこんなに眩しいのだと目を細める。彼は、紅葉の憧れだった。それをできるだけ伝えたかった。 「そうかな。俺は、おおらかで優しい紅葉の方がかっこいいと思うけど」  それは自分が恵まれているからだと思いながらも、紅葉は笑みを返すだけにとどめた。ずっとこんな日が続くんだと思っていた。  峰行と帰る日は、中学の終わりになるに従い減っていった 。彼の母親が体調を崩しがちになって 、すぐに家に帰らなくてはならなかったからだった。 「紅葉」 「何?」 「俺さ、進学するより働きたいんだよな」  ハッとした。彼が早く母親を支えたいと思っていたのは言葉の端々から伺えた。いつだって自分が何もできないのがもどかしい、というようなことを言っていたし、一緒に遊んでいる時も母親のことを気にしてこんなところで遊んでいていいのだろうか、という素振りを見せることもあった。  もしかしてそのまま働くのだろうか、と思ったことがないでもない。けれど、彼の母親は彼がそうして進学を諦めることがないように、ずっとお金を貯めてきているのは、彼から聞いて知っていた。だから、高校も同じように通って、バイトを始めるであろう彼を励ます日々がやって来るのだと勝手に思っていた。 「え、でもお母さんが必死で……」 「だーかーらーだーよ」  峰行は苦笑いをした。 「母さんにこれ以上負担かけたくねーの。もう、働き先は見付けてるんだけど」  近くの工務店の知り合いに話は通したのだと彼は言う。けれど、紅葉は昔、峰行が良い大学に入っていい企業に就職して、体の弱い母親に楽をさせるのだと笑っていたのを覚えていた。彼が家事をする傍ら、必死に勉強をしていたのも知っていた。てんで成績があがらない紅葉と違い、塾に通う家の子どもを押しのけて、彼はいつもテストで上位。それに手を叩いて喜ぶのがテスト返却の唯一の楽しみと言っても過言ではない。努力が数字という形で報われるのは、なんとも気分がよかったのに。 「……お母さん、悲しまない?」 「でも、このままじゃ母さんだって持たないだろ」  決めたんだ、ときゅっと口元を引き結ぶ彼を紅葉は止めることができなかった。彼の決意は固く、のらりくらりと生きている自分の言葉ではとうてい引き止められそうになく、口を閉じる。一緒に学校行こうよ、そう言ったところで紅葉の子どもっぽいわがままにしかならず、結果として彼の足を引っ張ってしまうことになるのなら。 「峰行がそう決めたのなら、僕はこれ以上止めたりはできないな」 「……やっぱり、紅葉も反対するんだな?」  眉を寄せた彼に、紅葉は慌ててフォローする。皆と同じだと思われたくなかった。憧れの人からの特別な信頼を、失いたくないと思う幼い見栄。 「ち、違うよ! あれだけ頑張ってたから……でも、峰行なら大丈夫、どこでも頑張っていけるし、うまくいくよ」  ね、と笑えば、彼は自信を取り戻したかのように胸を張る。紅葉のなんの根拠もない無責任な期待に背を押されたように、彼は朗らかな笑みを浮かべた。 「紅葉なら、そう言ってくれるって思ってた」  ちっぽけな自分であっても彼の力になれるんだと、すごく価値のあることをできるんだと、峰行はいつでも勘違いをさせてくれた 。だからこそ、紅葉は彼と対等でいられたのだろうと思う。  峰行は貧乏ということで他人より下になるのを恐れていた。もちろん、紅葉に対してもそうだ。けれどそれは違う。恵まれなかったからこそ、必死で彼が勝ち取ろうと育んできたものがある。その方がよっぽど、尊い。紅葉が持っているものなんて霞んでしまう。彼の努力と対等であろうとするのなんて難しい。  彼が自分が彼の役に立つのだと示してくれなければ、そうでなければこの危うい関係はすぐに崩れ去り、対等の友達だなんて口が裂けても言えなかっただろう。幼いがゆえに気づかなかったその圧倒的なねじれを、紅葉はただ本能的に避けていた。  それに気が付いていたらもっと他に出来ることがあったのだろうかと考えても、詮無きことだ。  高校にあがってから、勉強の時間が増えた紅葉と仕事が忙しい峰行では時間が合わなくなっていった。仕事だけでは金銭的に厳しいのか、少しでも母親に楽をさせるのだと峰行はバイトまで掛け持ちをしているようで、連絡すら取りづらい状態。  たまに時間が合っても一緒に外食をしても、話の最中にうとうととしていることが増えた。そうして共に過ごす時間が減るに従い、なんとなく距離が開いていくのはよくある話だろう。 「悪いな、紅葉……もっと面白い話できたらいいんだけど」 「いや、別にいいんだよ。お疲れ様」  そうは言っても、知らない世界の話、仕事場の話、たまに愚痴、そう言ったものは紅葉とは住む世界が違いすぎてピンとこなかった。どんなものなのかはふわっとわかる程度で、実際の状況があまりイメージできない。彼が面白おかしく話してくれるから退屈ではなかったが、同意や共感というのをしてやれるかというとそうではない。しかも、峰行の顔には疲れが色濃く滲んでおり、お世辞にも顔色が良いとは言い難かった。 「無理に会わなくても休んだらいいんじゃないかな」  さっと彼の顔色が変わった。まずい、と瞬間的に悟る。。会うのに気兼ねしている彼を傷つけた。ごめん、と謝るよりも先に、彼が言葉を発する。 「ばーか、たまには友達とも会わなきゃやってらんねーよ」  ごめん、言い損ねた言葉を飲み込む。しかし、それでよかったように思えた。もしここで謝ってしまっていたら、余計に彼を傷つけた気がした。  もはや、二人の関係は対等などではない。退屈そうに話を聞く紅葉と、ただ付き合わせるだけの峰行、そういう図式が彼の中で出来上がってしまった瞬間だったのではないかと思う。 「僕も、峰行と会えるのは嬉しいからなぁ」  必死で取り繕うが、白々しく聞こえなかっただろうか。そう思って峰行の顔を伺う。彼の顔は陰になってよく見えなかった。ただ、いつものような口調で屈託なく彼は言うのだ。 「俺ら親友だもんな!」  その言葉に、紅葉はほっと胸を撫で下ろした。たった一言で信じてしまう視野の狭さと愚かさに気づけないほど、楽観的だった。 「紅葉!」  母親の鋭く呼ぶ声に紅葉はノートから顔をあげた。時計の針はまだ夕食には早い。何事かと首を傾げながら母の声のした方へと向かう。 「どうしたの母さん」  顔を覗かせれば、そこには固い顔をした母がいた。 「筑波さんちのお母さん、亡くなったって」  電話を持つ母の手が震えていたことだけを妙に鮮明に覚えている。 「え」  ただ立ちすくむ。峰行に電話を掛けたかった。けれどもそれは母親に止められた。忙しいだろうし、心の整理もしたいだろうから、ということだったが、その顔を見たかった。彼を元気づけたかった。ただ、母の言うことも分かる。葬式の日が来たら、自分はどういう顔をしたらいいのか、なんて声を掛けたらいいのか、そんなことが頭をぐるぐると回った。明確な答えなんて、経験の浅い紅葉には出てくるはずもなく、ただ無為に時間ばかりが過ぎていった。  その日は、それでもやってきてしまう。母子家庭だった峰行だから、当然喪主は彼だ。真っ黒なスーツを着て、凛とした姿で立っていた。スッと伸びた背筋に、きゅっと引き結んだ口元、彼がしゃんとしていればしているほど、紅葉は切なくなった。  その姿と少し腫れた目元がアンバランスで、悲しくなった。今は乾いており、涙は影も形もない。ただ、その心中を考えれば心配になる。  周りからは一人で大変だっただろう、とか、よく頑張って、とか、お母さんは良い人だった、とか口々に声がかけられている。  峰行はその言葉に一つ一つ誠実に対応しながら、随分こけたようにも見えるその頬を引き上げて微笑んでいる。瞳を潤ませることもせず、愛想よく応対する態度はいつも通りすぎた。真っ黒な喪服の人々の中、紅葉を見つけた彼の目が安心したように緩む。 「紅葉」 「峰行……! 大丈夫?」 「大丈夫大丈夫」  にかっと歯を見せて笑う彼に安心した。 「よかった……辛いと思うけど、僕も、うちの家族もできることはいくらでも協力するから……」 「ありがとな、でも大丈夫。俺だって一応働いてるんだし、自分のことはなんとかできるよ」  参列者が、しっかりした子、あのこなら大丈夫、お母さんも安心してるわね、などと口々に言っているのが聞こえた。そういえばそうだった。彼はいつだって頑張ってやってきた。紅葉と同じようにのらりくらりと高校に通って生きている同級生よりもずっと大人で、ずっと、生きていく力があるのだ。自分が余計なことをしなくても、むしろきっとしない方が彼にとっていいのかもしれない。  だって、こんな時だって背中を伸ばして頑張っているのだ。その張り詰めた心の糸を切ってしまう必要はない。落ち着いたら、落ち着いたらきっとゆっくりと話をしよう。 「……本当に、しっかりものだなぁ。でも、無理はしないでね」  峰行が、優しく微笑んだ。 「……紅葉は、本当に優しいなぁ……流石俺の親友だ。ありがとう。じゃあ、俺ちょっと喪主の仕事があるから」  そう言って、彼は背を向けた。  それが、紅葉が見た彼の最後の笑顔だった。  後から話を聞けば、彼は仕事場で人間関係のトラブルがあり、本人からから聞いていた話のようにうまくいっていたわけではなかったらしい。いつもにこにこと話をしていた彼は、そうすることで自分を保っていたのだろうか。  金銭的にもやはり厳しいままで、かなり無理をして働いていたそうだ。そんな状況で、疲れて帰ってきた彼が倒れている母を発見した時には母親は既に亡くなっていた。母が倒れた時に傍にいれなかったこと、助けることはできないまでも看取ってやれなかったことも彼の中で大きな痛手だったのだろう。  辛かったのなら、辛いのだと言って欲しかった。  喪主としての務めを果たし、全てが落ち着いた頃、彼は一人で部屋で首を括った。見つけた頃には既に日が立ち、近所の人がその異臭で発見したのだった。  遠い親戚が見つかったおかげで、無縁仏になるのは避けられ、葬儀は紅葉の父が執り行った。しかし、葬儀には出席させてもらえなかった。当然、彼の死に顔も見ていない。その遺体は損傷が激しく、見れたものではなかったらしい。それを押して見せてくれ、ということはできなかった。ただ、死んだ、という事実だけが宙に浮き、冷たい墓石に刻まれた名前を見たところで実感など沸くはずもなかった。  優しくて強い彼が、どうしてそんな死に方をしなければいけなかったのか。もっと自分にできることはなかったのか、そう思っていた頃に、一通の手紙が届いた。 『紅葉へ ごめん、俺頑張りきれなかったわ。 でも、紅葉がいてくれて、いつだって励ましてくれて、応援してくれて、しんどくても辛くても、頑張れる気がしたんだ。 いつだって対等でいてくれて、だから人間として立ってられる気がした お前みたいな友達がいて、本当に幸せだった ありがとう。俺の分も幸せに』  死ぬくらいなら、対等でなくてもいいから縋り付いてほしかったと、そう思ってしまうのはわがままなのだろうか、自分が甘いからなのだろうか。  彼が死んだということには、実感が沸かないまま。ただ、もう二度とその声が聞けないこと、彼には会えないことが胸を締め付ける。 「いっそ、化けて出てくれたら」  詰ってくれたら、怒ってくれたら、恨んでくれたら。一つでも多く、自分には見ることができなかった君の本音が知れたなら。何もできなかった自分を彼は本当は憎んでいるんじゃないのか。本当のことが、知りたかった。  彼を追いかけた。降霊術や霊能力者、イタコや霊山、思いつく限りのことをやった。オカルトじみたものにも散々触れた。高校の勉強など、当然手に付くはずもなかった。  けれど、彼に会うことは叶わなかった。人は、死んだらどこに行くんだろう。どうしたらまた会えるんだろう。安らかな死とは。安らかな生とは。考えれば考えるほど、分からない。  そんなことに疲れ果て、家の本堂に寝転がっていた。息を吐き、全身の力を抜いた。板張りの床と体が一体化するような気持ち。  そのまま寝入ってしまった紅葉がふと目を開けたとき、ぼんやりとした視界に夕日に照らされる仏様の顔が飛び込んできた。 「……あぁ、もう会えないのか」  こんなどうしようもない自分を穏やかに見下ろす仏様。あるがままで、構わないと言われている気がした。あぁ、救いとはこういうものなのか。なんの脈絡もなく、すとんと心に落ちてくる。  涙が頬を伝った。そうだ、友は死んでしまった。どれほど焦がれようと、彼と再会することはない。  彼が死んでから、一番泣いた。体中の水分が全部消えてしまうんじゃないかというくらい泣いた。声を出して泣いた。泣いて泣いて、泣き疲れて、ぼんやりとした頭のまま体を起こして目の前の仏様に向かい合った。  彼はいない。それでも明日は続いていく。自分はこれからも生きていく。彼と結んだ縁は消えない。そうして、一つ、また一つと、目には見えない何かが繋がっていく。  言葉では理解できない。感覚として、ただ、広い宇宙に放りだされて、どこまでもどこまでも世界が続いていくような、逆に何もない虚無の中に自分という存在だけが取り残されたような不思議な感覚に陥る。悟り、などという言葉にはまだ遠い。ただ、そこにある何かに触れた気がした。 「……私は別に優しくもなんともないんですよ、優しかったのは貴方です」  墓石をそっと撫で、花を供える。  出来る限り毎日彼の墓には通っている。そして手を合わせる。何年たっても、大事な親友の墓。  彼をきっかけに、元々は僧侶になるつもりなどなかったのに家を継ぐ決意を固めることとなった。結局、こんなところでも 彼に道を指し示されている自分に気がつく。いつまでたっても忘れることなどできるはずもなく。どこまで行っても自分の最愛の友で。 「……貴方にしてもらったこと、貴方に出来なかったことができる私になれますように。貴方の分まで私は頑張って生きていきますよ」  いつまでたっても憧れのまま、越せない貴方を想いながらも、自分を責めずにいられたのはやはり貴方が最後まで優しかったからなのだと、手を合わせ目を閉じる。今でも彼の笑顔が瞼の裏にありありと浮かぶ。 「死んだ人には永遠に敵いませんね。本当に故人というのはずるいものです」  目を開き、立ち上がる。 「また来ますね」  再会したときに笑えるように、今日も精一杯生きるのだ。
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