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「あ、あの、それより、えっと、この状況はどうしたら良いの?これが夢の中だとしたら、私が目を覚ませば良いの?」 月那(つきな)が本物なら、夢だって嬉しい状況だ。願ったって、恋しい人が夢に出てくれるとは限らない。けれど、この月那は俄には信じ難い。そもそも本当にこれは夢なのか。 改めて沸き上がる疑問に、時緒(ときお)は確かめるようにカップを両手で包む。手の平はじんわりと熱を感じ、舌はヒリヒリと痛む。 …夢じゃない?いや、現実の方があり得ないのに、どうして舌は火傷したように痛むのだろう。 頭が混乱して目が回りそうだ、そんな時緖を、月那は変わらず優しく見つめ、先程倒した缶チューハイの缶を、指先で軽く弄んだ。 「僕が呼ばれるには、理由がある筈なんです。寂しい理由、悲しくて一人では耐えきれなかった理由。話し相手に、僕の顔を思い浮かべたんじゃないかな?朝まで時間はあるし、僕に教えてくれませんか?」 まるで鏡写しのように眉を下げる彼に、胸がぎゅっとして、時緖は瞳を伏せた。 時緒が月那に会いたい理由が、話し相手にと思われているなら、月那にとって時緒は、やはりただの客でしかないのだろうと、勝手に落ち込んでしまう。 「…別に何もないよ」 「何もないって顔じゃないですよ。さっきは失恋って言ってましたけど」 「それは…ちょっと酔いが回ってたからで、」 「忘れました?ここは夢の中です。僕だって本物かどうか怪しいしね」 「…それ、自分で言っちゃう?」 「はい。ここは、夢の中ですから」 眉を下げて笑う姿は見慣れた月那でしかないのに、夢の中という言葉が急に頭の中を巡り出した。どうしてだろう、彼の瞳を見つめていると、何故だか突然、ここが現実かどうかは気にならなく思えてくる。まるで催眠術でもかけられたように。だからか、時緒は少し気が抜けて、くったりとテーブルに突っ伏した。 「どうしました?泣きそうな顔してる…」 ぽん、と頭に手が触れて、本当に泣きそうになる。頭に巡るのは、月那と仲良さそうに並んで歩く女性の姿。昨夜、偶然見てしまったのだ。昨日は喫茶店の定休日、二人でデートでもしているのだろうかと思えば、想像以上にショックで、今日一日、二人の事ばかり考えていた。 これが魔物のいない、本当にただの夢なら、胸につかえた思いを吐き出しても、本当の月那には伝わる事はない。そう思ったら、弱気な恋心も全部吐いてしまいたくなった。 「…月那さんは、私だけに優しい訳じゃない事も、ましてや特別じゃない事も知ってたつもりだけど、見ちゃったらやっぱり冷静じゃいられなくて」 「え?」 「あの髪の長い可愛い子、誰?とか、やっぱり彼女かな、とか。それは嫌だなとか、思っちゃって。そしたら私、もうあの喫茶店には行けないなとか、会ったら変な態度取っちゃうかもとか、もういっそ会いたくないとか、考えるのも辛いとか、嫌い、とか、」 言って、どうしてこんな話をしているんだろうと、まだ地味に痛む舌が、夢からの目覚めを促してくるみたいだ。 夢から覚めたら、この手も消えてしまう。偽物でも良い、もう少し夢の中にいたい。真夜中の間だけで良いから。 「…僕は、いつもあなたが来るのを待ってましたよ」 「常連だもんね」 「こんな恥ずかしい台詞、誰にでもは言えません」 「…はは、だったら、良い夢だな」 「夢じゃないよ」 「……え?」 顔を上げれば、月那によって眼鏡がそっと外された。少しぼやけた顔が間近に迫り、一瞬心臓が止まるかと思った。 「今夜は、僕が時緖さんに会いたくて、会いに来たんだ」 「え、」 目を丸くする時緖だったが、その真意を尋ねる前に、徐々に瞼が重くなっていく。ぼやける視界が更に霞みがかったようで、時緖は懸命に瞬きを繰り返すが、その努力も虚しく、気を失うように眠りについてしまった。 「…何てタイミングだろうね」 溜め息混じりに月那は呟き、ベランダへと視線を向けた。カラカラとベランダの戸が開き、覗いたカーテンの向こうには、真夜中の夜空が広がっていた。 「いやいや、タイミングばっちりだろ?俺の術は一級品だからな」 ベランダからやって来たのは、狸だった。月那は狸が喋っていても驚く事もなく、苦い顔を作ると、そのまま時緖の体を抱き上げ、そっとベッドに横たえた。 狸も気にせず、とてとてと、部屋に入ってくる。 「本当に、よくやるな、お前」 狸が小さく体を震わせると、狸は小柄な女性に姿を変えた。髪が長く、愛らしい顔をしている。変化したその姿に、月那は再び溜め息を吐いた。 恐らく、時緖が見たという月那と並んで歩いていた女性とは、この狸が化けた姿だと月那は察した。 「アズが女性になんて化けなければ、彼女に勘違いされる事もなかったんだけどね」 「なんだよ、何に化けるかなんて俺の自由だろ?俺、可愛い服好きなんだよね。似合うだろ?」 「はいはい、君は何でも良く似合うよ」 おざなりな賛辞だが、それもいつもの事と、アズと呼ばれた狸だった女性は、テーブルの前に後ろ手に手をついて座った。 「しかし、相変わらず無用心な家だなー」 「だから、僕がいつも鍵を締めて寝てる」 「お前さぁ、人間なんかに入れ込んで、最後に悲しい思いをするのは自分だよ?」 「そんな事ないよ、もう嫌われたかもしれないしね」 月那はアズにそう苦笑い、ベッドに腰かけると、時緖の頭をそっと撫でた。その愛しげな瞳に、アズは溜め息を吐いてテーブルに肘をついた。
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