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魔物は真夜中にやって来る。 夜にその身を溶かし、大きな口を開けて、ぱっくりとこの部屋ごと呑み込んでしまうのだ。 魔物は寂しくて寂しくて仕方ないから、誰かに側にいてほしいから。 「…私の前にも現れないかな」 時緒(ときお)はぽつり呟いて、飼い猫に手を伸ばすも嫌われてしまう。つれないけど、灰色のふわふわの尻尾で手の平を擽っていくのが愛らしい。 彼女は缶チューハイを手放すと眼鏡を外し、ローテーブルに突っ伏した。 寂しくて、会いたいのに、会いたくない人がいる。 「そういう思わせ振りなとこ、あの人にそっくり」 やるせなく溜め息を吐けば、ふわりと彼女の背後に藍色の夜が舞った。 電車の車窓の向こうに景色が流れるように、その夜はごく自然に、彼女とその部屋を包み込んだ。時緖はぼんやりとその様子を眺め、これは真夜中の魔物の仕業だろうかと、やはりぼんやりと思った。既にほろ酔いで霞む視界だ、頭が回っていないのだろう。 そんな中、パチ、と電気が点くように部屋が明るくなった感覚がした。 「今日は、どうしたの?」 穏やかに尋ねる声が誰かに似ていると思いながら、時緖は問われるままに口を開いた。 「ちょっと失恋気分なだけ」 「失恋?」 「そう」 「…恋人が?」 「ううん、片思い」 「どんな人なの?」 「どんな人って、」 思い浮かべた人物と問いかける声の人物が重なって、時緖はようやくおかしな事が起きている事に気づいた。今、自分は誰と話していた。 「…え、寝てた?」 夢でも見ていたのかと、時緖は不思議な心地で体を起こした。目の前のテレビには、芸人達が賑やかに笑っている姿が映し出されている、彼らの会話を聞いて、自分が話してるつもりにでもなったのだろうか。彼女は目を擦りながら、とりあえず時間を確認しようと、眼鏡を掛けて振り返った。そして、その目をぎょっと見開いた。 真後ろのベッドに、青年が座っていた。 さらりとした灰色の髪、長めの前髪から覗く瞳は穏やかで、白いシャツに黒のスラックスという出で立ちだ。そして、少しだけ複雑そうな表情で、時緖を見つめている。 時緖は、この青年を知っていた。 だからこそ、時緖は暫し沈黙した。その後、我に返ったように、ぎゃっと悲鳴を上げ、その拍子にローテーブルに体をぶつけ、缶チューハイが倒れ、残っていた中身が零れてしまうというどんくさい姿を披露した。彼女は再び悲鳴を上げ、あわあわとしながら缶を起こし、急いで近くにあったティッシュでアルコールを拭う、幸い床には零れなかった。 「大丈夫?」 ほっとしたのも束の間、再び背後から声が聞こえ、時緖はびくりと肩を揺らし、慌てて青年と距離を取った。距離といっても、ワンルームの部屋の中ではたかが知れている。なので、手近にあったゴミ箱を掴み、とりあえずそれを盾のように構えた。三百円程で買った、高さ三十センチ程度のゴミ箱だ、防御力は皆無に等しいが無いより良い、気持ちの問題だ。 「あ、あなた!どこから入ったの!警察呼びますよ!」 へっぴり腰ながらも勇ましく言い放ち、時緖はスマホを探して、ペタペタと自身のズボンを探るが、彼女の部屋着にポケットはない。スマホをどこにやったのかと焦って周囲に目を走らせれば、「もしかして、これ?」と、青年がスマホをちらつかせた。 「盗んだの!?」 「はは、人聞き悪いなぁ、初めからここにあったよ」 「な、何が目的なの!?悪いけど、お金なんて無いし、か、体が目的なら、私、何するか分からないからね!」 言いながら後退りして、後ろ手にキッチンのシンクに手を触れる。コンロの上にはフライパンがある、小振りなサイズだが、プラスチックのゴミ箱よりは頼りになるだろう。 「待って待って!話をしようよ」 「話す事なんかない!さっさと出て行って!」 時緖はゴミ箱を放ると、すかさずフライパンを手に、再び青年を振り返った。 「え?」 思わず間の抜けた声が出たのは、ベッドの前に居た筈の青年がいなかったからだ。まるで狐につままれたかのようで、呆然としながらベッドに近づくと、「落ち着いて」と、今度は耳元で声がした。 「え、」 驚くより先にフライパンを奪われ、時緖はキッチンを振り返った。青年は「置いとくね」と言って、フライパンをコンロの上に置いた。ベッドに居た筈の人間が、今、時緒の真後ろにいる。瞬間移動でもしたのかと困惑していると、青年はまたにこやかに微笑み、「何もしないよ」と、両手を上げて苦笑った。 「な、何なの、あなた」 「僕が誰か分からない?」 その問いかけに、時緖は声を詰まらせた。 先程も述べた通り、時緖は彼の事を知っていた。だが、まさかその人と目の前の彼が、同一人物とは思えず、彼を追い出そうとフライパンを手にしたのだ。 だって、彼がここに居る筈はない。 彼は、近所にある渋いマスターが営んでいる喫茶店、“きこり”で働く、月那(つきな)という青年にそっくりだった。 いつも月那は、さりげなく時緖に声を掛け、他愛ない話に付き合ってくれる。穏やかで紳士的、踏み込み過ぎず、距離を開けすぎずのちょうど良い距離感。だけど最近、その距離感がもどかしくなってきている。時緖が彼を好きになってしまったからだ。優しい瞳も、穏やかな声も、隣にいるとゆったりと流れる時間も、時緒の心をそっと緩めてほっとさせてくれる。 彼と過ごす時間は僅かだが、時緖にとっては特別な時間だった。 そんな訳だから、時緖は目の前の彼が、あの月那だとは思えなかった。時緖の知っている月那は、人の部屋に無断に上がるような事はしないし、時緖の気持ちがどうあれ、客と店員でしかない関係で、彼がこんな真夜中に客の家に押し掛けるなど、非常識な行動を取る筈もないと思っている、だから時緖は混乱の極みだった。
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