私は私を忘れて私になる

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到着したのは最上階。 促され入った部屋は社長室といった風だった。 「座れ。」 男は完全に紳士の仮面を外したようだ。 男が向かいに座ったのを見計らってすぐに口を開いた。 「それで…」 しかしそれはすぐ男の向けてきた手のひらに止められる。 「まぁそう急ぐなよ。でもま、そうだな。その前にお前の話を聞こうか。 なぜ俺の前から消えた?お前は何者だ?」 男は薄ら笑いをやめ、刺すような視線を向けてきた。 答えによっては許さないと言わんばかりに。 「…消えたも何も…さっき言ったように私はあなたを知らないわ。私は柴田朱音。それ以外答えようがないわ。 でもそうね、あなたは私が知らない私を知っている。 あなたこそ目的は何かしら?」 私は忘れること以外の事実だけを話し、この男の目的へと話を逸した。 男はしばし目を細め探るように見つめていたが、やがて前のめりだった体をソファーに預ける。 「…俺は藤乃井蒼士(そうし)。大和彩愛、お前の婚約者だ。目的は当然、婚約パーティーの直後に突然姿を消した婚約者を連れ戻すことだ。」 今度は私が目を細めて探る番だった。 男にも嘘はないようだった。 「あなたも嘘じゃなさそうね。でもお生憎さま。やっぱり藤乃井蒼士なんて名前は初めて聞いたし、あなたに会うのも初めてだわ。」 「その割にはお前の経歴を耳打ちしたとき焦った様子だったよな? そしてここまで着いてきた事がお前が彩愛である何よりの証拠。 彩愛じゃないならなぜ狼狽え付いて来た?」 藤乃井蒼士は頭のキレる男のようだ。 「…いいわ。でも。先に答えるのはあなたよ。なぜあなたは大和彩愛にこだわるのかしら? 見たところ、あなたなら引く手あまたじゃなくて?」 私も夜の女。駆け引きなんて日常茶飯事。 「…フッ。大した女だ。俺は彩愛を愛している。彩愛以外と結婚するつもりはサラサラない。 それに結婚式の日取りも決まっている。だから連れ戻す。」 藤乃井蒼士の表情は真剣そのものだった。
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