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—もし私が死んだら、貴方は私を忘れてください―
そう、彼女は言った。
辺境の設備の足らない薄暗い夕方の病院の中、一つの病室。一人の男と女が、そこにいた。
今更己を変えることは、できないだろう。いや、できない。
自分のことをひとしきり愛し、認めてくれた無二の存在の貴女を失って、それでも立ち直ること。
それは今の自分には到底不可能だった。
もう、自分の心は『貴女』という色で染まってしまっているのに。
沈黙。
沈黙。
唯、沈黙。
脈拍の電子音が静寂をずっと覆い隠す。もう一度、貴女を見る。
酸素マスクをつけられ、点滴の管を刺され、それでも見える黒くなった肌。それに似ぬ純白の素顔はいまだ目を覚まさない。
貴女は、ただ自分の幸せを願った。
自分は、貴女の幸せを希った。
きっと自分は、弱いのでしょう。
最も愛した、この女性でさえも守れない男なのだから。
無意識に貴女の手を握る。しばらくして、弱弱しく私の手は握られた。目は、閉じられたままだったが。
自分と貴女だけの、2人の世界。時が止まってしまった世界を。これほど現実に願うことはいまだかつてなかった。
ありがとう、自分を認めてくれて。愛してくれて。
そう、小さく言葉に漏らす。
―ありがとう、最期まで私を看てくれて―
最後の、いや最期のつぶやき。私ははっ、として貴女の顔を見上げました。
笑っていました。
満面の笑みでも、失笑でも、嘲笑でも。そのような簡単に言い表せるほどのものではない、笑顔。
それでも自分だけは、わかる。
貴女は、最期まで幸せだったのだろう。なぜなら、こんなに美しい笑みを浮かべているのですから。
自分の心は今やクレーターが開いてしまいました。
それで、いいのです。
……最後に、ごめんなさい。貴女の願いは叶えられそうにありません。
自分にとって、貴女を忘れて生きていくこと。それは貴女への否定なのです。
それでも、自分はまだ生きていくつもりです。
本当に、本当にこの世界を捨てて貴女に会いにゆくまでは。
夕暮れに染まっていた空は紺色が染め上げていた。
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