歩道橋

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歩道橋 「それにしても、もう下の子も中学生なのね。早いもんだわ」  カウンターの上の、詰襟の学生服を手早く検品しながら民子が言った。「初めてうちのお店に来た時って、まだ小学校の低学年だったわよね。お母さんの後ろに隠れてて」 「ほんと、時間の経つのって早いわよね。私らも歳とるわけだわ」カウンターの対面で、財布をいじりながら深山が笑う。  クリスマス当日、クリーニングチェーンでの、なんということもない一場面。今は受付の民子が、常連の深山家の二児の母が持ってきた学生服を受け付けているところだった。 「ヨシハル君だっけ。もうガールフレンドとかいるの?」 「まだよ、うちの子照れ屋だもの」  確かに。この店に初めてきたときの、ぽっちゃり目の深山の後ろにピッタリくっついて、恥ずかしそうにしていたヨシハル君の様子を思い出して民子は思わず微笑する。 「そういえば、上のお兄ちゃんは? 今高校生?」  たしか上の子がいたはずだ、と思って聞いてみる。しょっちゅう親についてきたヨシハル君と違って、一回か二回店に来たことがあるだけだが。 「ああ、タツノリはいま高ニ。そろそろ進路決めなきゃいけないのに、毎日フラフラしてて、困っちゃう」 「大変ねー、……あら、雪。ホワイトクリスマスね」  民子が顔を上げると、ガラス張りの壁の外で、白い粒がパラパラと降ってくるのが見えた。 「あら、降ってきちゃった? 早く帰らないと。夜には本格的に降るらしいわよ。帰る時気をつけてね」  雪が小降りのうちに、と急いで受付を済ませた深山母が出ていくと、民子はカウンターの後ろの作業台で、今預かったばかりの制服を再度検品し、終わったものから番号札を留めていった。 「あら」  最後に学制服のポケットに入れっぱなしのものがないか手を入れて確認すると、指の先に何かカサカサと触れるものがある。取り出してみると、半分に折りたたんだノートの切れ端のようだった。偶然、中に書かれた文字が目に入る。 『大事な話があります 今夜、歩道橋の上で待ってます              ヨシハル』 「あっらー」  思わず民子は声を上げた。親に言ってないだけで、やっぱりあるんじゃない、こういう話。  クラスメイトを呼び出して告白だろうか。青春だねー、でも場所が歩道橋の上ってどうなのよー、などと独り言をいいつつ、とりあえず学生服は工場に渡す集荷の袋に入れる。   まるで学生時代を思い出すではないか。民子自身は気恥ずかしくて、こういう手紙を書いたことはなかったが、別のクラスの子から、あなたのクラスの何々君に渡してほしい、などと頼まれたことはあった。  あの時私も、こうやって男子を呼び出しておけばよかったかしら。気になる男子はいるにはいた。もしあの時恥ずかしいだのなんだの言わずに行動しておけば、今こんなところで独身パートとして勤めていないかも──  それはそれとして、ではこの紙はどうしようか。鍵などの貴重品でなければ、ポケット内の忘れ物は、引き取りの時まで預かっておくのが基本なのだが、引き取りにはおそらくまた深山母が来るだろうし、そうするとこの紙のことが彼女に知られてしまう。店的にはそれでも仕事のルールに則っただけで何も困ることはないが、せっかく親には内緒にしてきたヨシハル君が可哀想だな…… 「……見なかったことにしよう」  民子は紙を二つ、四つ、八つと小さく小さく折り畳み、店のゴミ箱に放り込んだ。どうせ今頃、ヨシハル君は改めて呼び出しの手紙を書き直し、意中の相手の下駄箱なり机の中なりに忍ばせているだろう。あとは自分がこの紙の存在を胸に秘めておけば問題ない。ゴミは今日の帰りに集積所に出して帰るから、他のシフトの人間に見つかる心配もない。  これで良し、と民子は満足し、紙のことは綺麗さっぱり忘れることに決めた。  外では見る間に雪が勢いを増し、アスファルトの灰色を強引に白に塗り替えているところだった。      夜になると、雪はさらに激しさを増し、積もった雪は街灯の光を照り返してその白さを主張していた。  ニット帽にマフラー、マスク、セーターとカーディガンの重ね着にさらにダウンと、これでもかと着膨れて、ヨシハルは歩道橋の真ん中辺りで傘をさしてじっと立っている。  今の時刻は夜の八時。クリーニング店の閉店時間が七時半なので、そろそろあの人がここに来る頃だ。    ヨシハルが待っていたのは民子だった。  今日の昼に、自分の制服を母がクリーニングに出すと知って、急いであのメモを制服のポケットに忍ばせたのだ。お客が帰ったあと、あの人はポケットを検品して、あのメモを見つけるはずだ。  なぜこんな回りくどい真似をしたのか、用事があるなら自分が直接店に言いに行けばよかったのではないか。寒さに冷えた頭で何度も考えたが、やはりこれが一番いい。昼間に店の中で言われたとて、なかなか信じてもらえないだろう。  兄が貴方を襲おうとしています、なんて。  高校にあまり馴染めず、不登校とまではいかないが、学校を休みがちだったタツノリが、二年生の夏頃からちょくちょくと学校に行くようになった。休みの日もよく散歩に行っているようで、引きこもりにならなくてよかったよかったと、両親も安堵していた。  しかし、今月の半ば、偶然ヨシハルは見てしまった。兄のスマホのフォトアルバムが、物陰から隠し撮った民子の写真で埋め尽くされているのを。  学校帰りや散歩中に撮影したのだろう。店の外をほうきがけしているところや、カウンターでお客と話しているところなど、出るわ出るわ。  たしかにぽっちゃりした母と比べ、民子はほっそりとしているし、いつも優しそうな顔をしている。だから、兄が母親に近いくらいの年上趣向になったのはこの際仕方ないとはいえ、これではまるでストーカー。しかも相手が家族の服でお世話になっている、顔馴染みのクリーニング店の店員とは。  両親のどちらにどう切り出そうか迷いに迷ううちにもうクリスマス前になり、ついに一昨日、「クリスマス」「会いにいく」「家までついてく」など、兄の独り言の断片を聞いてしまったヨシハルは、親を通していてはもはや間に合わない、本人に直接、後ろから尾けてきている兄の姿を実際に見せることで信じてもらうしかない、と心を決めたのだ。    ときおり傘に積もった雪をふるい落として、ヨシハルはじっとそこに立っていた。こんな天気の日にわざわざ歩道橋を使う人もいないので、ヨシハルの周りには、白い雪がこんもりと積もっている。眼下の商店街からは、雪を踏みしめながら何人もの人が歩いてきていた。民子の勤めるクリーニング店も同じ商店街の中にあるから、もうすぐ店じまいを終えた彼女が出てくるのが見えるはずである。  雪は止む気配を見せるどころか、まだまだ元気に降り続ける。ヨシハルは芯まで冷え切った体を震わせながら、じっと商店街の入り口を見つめていた。  まだ来ない。何故だ?  ひょっとして出てくるのを見落とした?  しかしそれなら兄がその後を追ってくるはず。   歩道橋から路上を見下ろしていたヨシハルは、ふと別の可能性に思い至った。  もしかして、商店街の中で、既に兄と鉢合わせてしまったのでは?  ならば急いで、兄が何かやらかす前に見つけなければ。そう思って走り出したヨシハルは、その時足元が雪だらけだということ、今履いているのは普段履きの滑りやすいスニーカーだということを完全に失念していた。  いつもの出勤時間よりたっぷり一時間早く起きて、民子は出勤準備をしていた。昨日は本社からの通達で、交通機関が止まり始めたため、いつもの閉店時間より早い夕方六時には店を閉めて帰ったが、そのぶん店の前にはたっぷりと昨日の雪が積もっていることだろう。その雪を、開店時間までにせめて客の出入りスペース分くらいは退けておかないといけない。 「次の日がこれだから雪はイヤなのよね……」  ブツブツと文句を言いながら、顔を洗いに洗面所へ。リビングでつけっぱなしのテレビの音が、顔を洗う水の音でかき消されていく。 『……次のニュースです。二十六日未明、〇〇区の路上で、十三歳の少年が頭から血を流して倒れているのが発見されました。  現場は昨日の雪が積もっており、近くの歩道橋から足を滑らせて転落したものと見られています。少年は病院に運ばれましたが、頭を強く打っており、間もなく──』
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