4章 光の向こう側  第4話 それはきっと始まりの

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4章 光の向こう側  第4話 それはきっと始まりの

 数日後、訪れた高橋(たかはし)さんの表情は、先日とは違ってとても晴れやかなものだった。  椅子に掛けて温かいおしぼりで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、思い切った様に口を開いた。 「あの、私、昨日の晩、渡部(わたべ)さんに辞退の電話を入れました」 「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」  佳鳴(かなる)が確認する様に言うと、高橋さんは「はい」と大きく頷く。 「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言うてくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしもうて。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きやから劇団に入ったんです。なので「俳優になりませんか?」やったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」 「そうですか」  佳鳴は応え、にっこりと微笑む。 「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなんやと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」 「はい!」  高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。 「あ、注文ええですか? まずはお酒で。カナディアンのハイボール。あとでご飯とお味噌汁ください」 「はい、かしこまりました」  佳鳴たちはお料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。  処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、生姜(しょうが)と日本酒とお塩を使ってお出汁を取り、それで骨付き鶏肉と白ねぎの白い部分、白菜、椎茸、木綿豆腐をことことと煮込み、お客さまにご提供する寸前に春菊に火を通して盛り付ける。  お出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまのご希望でポン酢をお出しする。  さすがに福岡の名物には敵わないだろうが、千隼が手間暇掛けて作らせていただいた自信作だ。  小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えである。  そろそろ旬を迎える水菜をさっと塩茹でし、刻みわさびと和えたぴりっとした一品。ご飯にもお酒にも合う。  白和えは大豆の味を感じていただきたいので木綿豆腐を使っている。水切りをして崩し、隠し味程度に昆布茶とかつおの粉末を入れ、お砂糖とお醤油、すり白ごまで味を整えている。  お豆腐のふくよかさにすり白ごまの香ばしさはもちろん、お出汁の旨味も感じられる一品に仕上がっている。 「鶏のお出汁美味しい〜。置いといて、あとでご飯に掛けて食べよ。絶対美味しいやつや!」  できたら鶏だしも味わって欲しかったので、木製のお(さじ)をこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。  お匙はその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。  お客さまによっては器を傾けて直接飲み干してくださる。  そうしてカナディアンクラブのハイボールとともに食事を進められていると、またご常連が訪れる。岩永(いわなが)さんだった。 「こんばんは。お酒でお願いします。ビール、スーパードライで。あ、高橋さん」  入って来られるなり注文をされ、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。 「公演、ほんまに良かったで。次も行かせてもらうな」  岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と華やかな笑みを浮かべた。  岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、佳鳴が注いたそれを美味しそうにぐいと(あお)っては、はぁ〜と心地良さそうな溜め息を吐いた。  続けてお料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。  そうしていると、またお客さまが訪れる。 「いらっしゃいま、せ」  迎えた千隼(ちはや)が一瞬戸惑ったのは、そのお客さまが渡部さんだったからだろう。高橋さんをスカウトされた方だ。  高橋さんも開き戸が開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。  渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。 「高橋さん! 押し掛けてごめんやで!」  渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何や?」「何や?」とざわつき、だが次第に落ち着く。 「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかってん。なんであかんかったん?」  高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。 「ごめんやで。電話ではあまりちゃんと話ができひんかったから。きちんと話がしたいなって思ってん」  渡部さんの言葉に、高橋さんは「んん」と喉を鳴らし、気合いを入れるかの様にハイボールをひと口飲んだ。 「あの、お申し出はほんまにありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたいわけでも、芸人さんになりたいわけでも無いんです」 「ええ、そうやね。そう言うてたね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんおるで」 「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」  高橋さんが言うと、渡部さんは(きゅう)した様に口を閉じる。図星だったのだろう。  マネージャーさんはタレントさんが売れる様に尽力されるだろう。売れると思うからスカウトするのだ。だがその全てが叶うわけでは無い。それは佳鳴や高橋さん以上に、渡部さんこそが1番ご存知なのだと思う。だからこそ「絶対に売れる」だなんて口にできないのである。 「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに俳優さんとしてお声掛けいただいたわけや無いってことは、まだそのレベルに達してへんてことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きや無いことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」  高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。 「そんなあなたを守るんが、マネージャーである私らの仕事や。それでも?」 「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくれはって、俳優としてスカウトしたいって思ってくれはったら、その時にお声を掛けてくれはったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも(いと)いません」 「……そうか」  渡部さんはご納得された様に、ため息混じりで言った。 「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めたわけや無いで。私は地元がここやから、次の公演も見させてもらうで。次の予定は決まってるんやろか。おおまかでも」 「来年やと思います。うちは年に1度の公演なので」 「そんなに先なんか! でもそうやね、1年また研鑽(けんさん)を積んで、また力を付けてもろたら、来年の私の評価もまた変わるかも知れへんね」  高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。  だが高橋さんが本気なら、きっと手段はあるのだと思う。それを選ぶのもまた高橋さんなのだ。 「じゃあ私はこれで失礼するわね」  そう言って立ち上がり掛けた渡部さんを、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と(とが)める。 「何も注文せんで行くんか? ここ飲食店やで」 「あ!」  渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんとお話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。 「ごめんなさい、あかんわ、うっかりしてた。ええと、ゆっくりしてる時間は無いねん。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもん……」  そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。 「そうなん? じゃあほんまにごめんなさい、ウーロン茶だけってええやろか」 「はい、大丈夫ですよ」  佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げた。 「お待たせしました」 「ありがとう」  渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。 「慌ただしくてごめんなさい。今度またプライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らしてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」 「解った解った」  岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。 「お邪魔しました。高橋さん、また!」  渡部さんはそう言い残して、お会計を済ませてばたばたと店を出て行った。  そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくださっていた。 「ごめんやで、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡してん。嫌な思いさせてもうたな」  岩永さんがお詫びをすると、高橋さんは穏やかな表情で「いいえ」と首を振る。 「私も直接お話が出来て良かったです。電話やと確かにちゃんと思っていることを伝えられへんですもんね。渡部さんが聞いてくれはって、良かったです」 「そう言うてもらえたらほっとするわ」 「はい」  高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。  高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けられるのだろう。だがその向き合い方は今までとは異なるかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。  将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。
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