6章 じゃがいもとマヨネーズの後押し  第1話 あの人は今

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6章 じゃがいもとマヨネーズの後押し  第1話 あの人は今

 冬の気配はますます色を濃くし、吹き荒ぶ風が身体に辛くなってきたころ。 「そう言えば」  小鉢に使う蒸かしたじゃがいもを、マッシャーで荒く潰していた佳鳴(かなる)が、思い出した様に声を上げる。 「最近あのお客さま来られてへんよね。春日(かすが)さん」 「ああ、そう言えば」  春日さんは壮年の男性で、以前はしょっちゅう「煮物屋さん」に来てくださっていたご常連である。  ポテトサラダがお好きで、それが小鉢になると、「煮物ともうひとつの小鉢の量を減らしてくれても良いから、ポテトサラダを多くしてくれないかな」とおっしゃっていた。佳鳴たちは「ええですよ」と、その可愛らしいお願いを叶えていた。  春日さんは大阪府出身では無い。転勤で千葉県から引っ越して来られたのである。実は曽根を含む豊中市は、他県から転勤などで引っ越して来られた方も多いのである。  そんな春日さんが、ここしばらくお姿を見せていなかった。引っ越しでもされたのか、それともここの味に飽きてしまわれたのか。  どちらが理由にしても残念ではある。だがもし後者であるなら自分たちの力不足なのだから、今以上に精進するしか無い。気掛かりではあったが、今の佳鳴たちに、それを確かめる術は無かった。  それは数年前のこと。佳鳴と千隼(ちはや)が「煮物屋さん」をオープンさせて間も無いころ。季節は冬の入り口だった。  何せ(かたよ)っているとも言える営業形態なので、残念ながらスタートから好調と言うわけでは無かった。  それでも珍しがって来てくださるお客さまはおられて、春日さんもそのおひとりだった。  その日のおしながきは、メインに鶏肉とれんこんの煮物、彩りに茹でたほうれん草を添えたものを添えて、小鉢がポテトサラダときのこのマリネだった。  その時のポテトサラダは塩もみ玉ねぎと塩もみきゅうり、炒めたベーコンと炒り卵を入れた、ベーシックながらもなかなか凝ったもので、煮物を控えめに盛り付けてポテトサラダを多めにしていた。 「私は独身でひとり暮らしだから、なかなかこういう食事にありつけなくてね。特にこのポテトサラダが良いなぁ。いつもの小鉢より多いのもありがたいねぇ。いや、私はポテトサラダが大好きなんだけど、ほら、スーパーの惣菜とかね、あまり好みの味に当たらなくて」  佳鳴が作るポテトサラダの味付けは、マヨネーズをメインに、隠し味にからしとバターを使っている。お塩ももちろん白こしょうを少し強めに効かせている。  小鉢を作るのは佳鳴の役目だが、その下ごしらえの量によっては千隼が手伝いに入る。今日は小鉢に使っている素材が多いので、姉弟は並んでせっせと材料を切った。 「お口に合ったのでしたら良かったです」  美味しいと思っていただけたら、料理人としては幸せである。佳鳴が笑顔で言うと、春日さんも嬉しそうに笑みを浮かべ、グラスに入った冷酒「呉春(ごしゅん)池田酒(いけだしゅ)」を片手に食事を進めて行った。  呉春は大阪府池田市の酒蔵呉春で醸された日本酒である。すっきりとした中にほのかな甘みを持ち、するっと飲みやすい一品だ。  呉春のラインナップの中でも池田酒は普通酒で、最もお手軽に入手できるものである。だから「煮物屋さん」でもお手頃価格で提供させていただける。だが普通酒とは思えない上質さを持っているのである。ぜひお楽しみいただきたい。  そうしているうちに、再度ご来店くださるお客さまのお陰もあって「煮物屋さん」もどうにか軌道に乗って来た。カウンタだけのささやかな店内はあらかた埋まる様になる。  その日のメインの煮物は、牛肉のしぐれ煮である。ごぼうの他に椎茸と糸こんにゃくも入れている。彩りは塩茹でした絹さやだ。  牛肉は香ばしさを出すために先に炒め、ごぼうと椎茸、糸こんにゃくを入れてオイルを回したら、お水や日本酒、お醤油などを入れて煮込む。生姜は千切りにしてたっぷり加えた。  甘辛い煮物だが、煮物屋さんでは少し柔らかめに仕上げ、素材の旨味と生姜の爽やかさが活きる様にしてある。  しぐれ煮は基本牛肉のみ、もしくは牛肉とごぼうだけで作ることが多いと思うが、椎茸を入れるとまた旨味が加わる。  それらから出た味わいが糸こんにゃくに絡んで、見た目よりもあっさりといただけるのだ。  小鉢は、まずは小松菜と厚揚げの煮浸し。  厚揚げは小松菜と一緒に食べやすい様に棒状に切って、小松菜とさっと煮る。小松菜はあまり煮てしまうと色も悪くなってしまうし、煮汁に大切なビタミンが出てしまうので、しんなりする程度に火通しして、常温に冷ましておく。  しゃきっとした歯ごたえを残し、厚揚げからでる旨味でふくよかな味わいになるのだ。  もう一品はじゃがいもとグリンピースのサラダだ。  大きめのさいの目切りにして、茹でたじゃがいもは粉吹きにして潰さずに、塩茹でしたグリンピースと和えて、マヨネーズなどで味付けして行く。こちらは少しさっぱりとさせるために、隠し味にお酢を使っている。  お手軽なポテトサラダと言ったところだが、ねっとりとしたじゃがいもとぷちっとしたグリンピースが良く合うのだ。 「こんばんは」  19時を過ぎたころ、そう言いながら春日さんは来店された。結構な頻度で来てくださるのだが、小鉢にじゃがいもを使ったサラダを用意すると、必ず来店される。表に出してあるおしながきをご覧になるのだろう。  春日さんはまた呉春池田酒を手に、じゃがいもとグリンピースのサラダを食べて、ほぅと満足げに息を吐いた。  春日さんはこの呉春がお気に入りの様で、「煮物屋さん」で必ず注文されるのである。 「僕はどうやら、じゃがいもとマヨネーズの組み合わせが好きみたいなんだよね。だからこのサラダもとても美味しいよ。具はシンプルなのに、味付けが良いのかなぁ」 「そう凝ったことはしてへんのですよ。でもそうですねぇ、調味料は千隼とふたりでいろいろ味を見て、気に入ったものを使うてます。なのでご家庭でお作りになられるものとは少し違うかも知れませんね」  飲食店なのだから、美味しいと思っていただくのは前提として、お客さまの舌に馴染むものをお作りするのが鉄則である。家庭料理なのだから奇をてらってはならないと思っている。  だが料理人としてのこだわりはある。「煮物屋さん」でしかご提供できないものを目指すのも当たり前である。調味料を厳選するのもそのひとつなのだ。 「そうなんだ。僕はお店経営のいろはなんてほとんど判らないけど、それだったらコストとか掛かっているんじゃ無いの?」 「いえいえ、そう高価な調味料を使っているわけや無いんですよ。でもスーパーではあまりお取り扱いの無いメーカーさんのものも多いかも知れません」 「なるほどねぇ。そういうのもこだわりって言うんだろうね。僕は自炊もするけど、確かにマヨネーズひとつ取っても、メーカーごとに味が違ったりするもんね。あそこのはこってりしてる、あそこのは少しさっぱりしてる、とか。でもほら、欲しい時に安売りしているものを買うから。特にこだわりがある訳でも無いしね」 「そうですね。マヨネーズに使う卵の産地とか鶏の品種とか、お酢でもオイルでも、使うもんによって味は変わって来るでしょうからね」 「それにしても、ポテトサラダってきゅうりとか具沢山のものって固定概念があったんだけど、このサラダみたいにグリンピースだけでも充分に美味しく作れるんだねぇ。これなら僕でも家で作れそうだ。何かコツみたいなのがあるのかな」 「特にこれって言うのがあるわけや無いんですけど、うちではマヨネーズはそう多く使わず、そうですねぇ、少し白こしょうを効かせる様にしていますね」 「白こしょう? それってスーパーで瓶に入って売っているものとは違うの?」 「春日さんがおっしゃっているこしょうは、黒いこしょうと白いこしょうのブレンドのものでしょうか。一般的な粒の細かい、粉の様なテーブルこしょうはそうやって作られています。白こしょうは黒こしょうより辛みが穏やかなんです。なのでポテトサラダのちょっとしたアクセントにええんです。スーパーのスパイスハーブの棚にあると思いますよ」 「スパイスなんて難しそうなもの、僕には使えそうに無いからまともに見たこと無かったよ。でも今度見てみるね。それでもしかしたら自炊の幅も広がるかも知れないなぁ」 「例えば鶏肉を塩こしょうで焼いて、仕上げに皮の部分に乾燥バジルを掛けて、その皮部分を少し焼いたらバジルの風味が出て、いつもの鶏肉と違う味わいになりますよ。タイムやローズマリーなんかもええですね」 「え、え、え」  佳鳴の話を聞いて、春日さんは目を白黒させる。 「バジルは知ってるけど、た、た、なんだって?」 「タイムとローズマリーです。これも乾燥させているもんがありますよ。お野菜売り場に生もありますけど、乾燥のものの方が使い勝手がええですし、何より保存がききますからね。機会がありましたら、試してみてください」  タイム、ローズマリー、タイム、と、春日さんは何度も声には出さず、頭に染み込ませる様に口を動かして繰り返す。 「タイムとローズマリーだね。うん、覚えた。今度見てみるよ。僕、鶏肉と言ったら塩こしょうだけで焼いたりとか、ああ、照り焼きも作るね」 「あら、照り焼きが作れるやなんてすごいですねぇ」  照り焼きはきちんと作ればそう難しくも無いのだが、使う調味料が焦げやすいこともあって、仕上げに失敗してしまうこともあるのだ。 「いやいや、酒と砂糖と醤油を適当に入れるだけでね。でもそのハーブで焼いた鶏とじゃがいものサラダで、なんだかおしゃれな食卓になりそうだねぇ」 「そうですね。それにお酒か、お食事にされるならパンやスープなどを添えると、立派な洋食のお食事になりますね」 「良いねぇ。楽しみになって来たよ」  春日さんはそう言って、わくわくした様な笑みを浮かべた。  春日さんとのかつての会話を思い出し、佳鳴はくすりと笑みを浮かべ、塩を振っておいたきゅうりの輪切りをぎゅっぎゅっと揉んだ。
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