6章 じゃがいもとマヨネーズの後押し  第2話 久しぶりのあの人は

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6章 じゃがいもとマヨネーズの後押し  第2話 久しぶりのあの人は

 営業が始まって数時間、お陰さまで料理は完売となった。まだ店内では客が寛いでいるが、千隼(ちはや)はお品書きを回収し、営業中のプレートを支度中に返すために表に出る。  すっかりと寒くなって、空気が澄んでいる。街中なので星はなかなか見えないが、きっと高台に上がれば綺麗な星空が広がるのだろう。  千隼は寒さに首をすくめながらプレートを返し、ドアからおしながきのホワイトボードを外したその時、駅の方からふらふらと歩いて来る人影があった。  その気配に千隼がそちらを見ると、それは春日(かすが)さんだった。佳鳴と春日さんの話をしたばかりだったこともあり、つい懐かしくなってしまう。 「春日さん。こんばんは、お久し振りですね」  千隼が明るくそう声を掛けると、春日さんは力の無い笑みを浮かべる。千隼は違和感を覚えた。春日さんはもっと朗らかに笑う人だったはずだ。s 「ああ、ハヤさん。こんばんは。本当にすっかりとご無沙汰しちゃって」  千隼の前で春日さんの足が止まる。店内から漏れ出て来る光を頼りにあらためて春日さんを見ると、その頬はすっかりと()けてしまっていて、色艶も良く無く、かなり疲れが表れていた。  春日さんはもともとふっくらとしていた人だったので、その変貌(へんぼう)に千隼は驚きを隠せない。 「どうしはったんですか、春日さん。かなりお疲れみたいですけど」 「ええまぁ、ここしばらくかなりの激務でね」  春日さんは言って苦笑する。 「いろいろあって勤務形態が変わってしまって、毎日帰宅は日をまたいでしまうんだ。今日はこれでも少し早いぐらいでね。食欲もすっかり落ちてしまって、ろくな食事も出来ていなくて。でも帰って来る時にはもう「煮物屋さん」は閉まっているから」  春日さんはがっかりとうなだれてしまう。 「ああ、またここのポテトサラダが食べたいなぁ」  そう言って春日さんは、はぁと切なげな溜め息を吐いた。 「あ、あの、春日さん、少し、少しだけ待っていてもらえますか?」 「うん?」  千隼は言い置くと、おしながきを手に慌てて店内に戻る。厨房に入って隅にお品書きを放り投げる様に置くと、冷蔵庫から小鉢の料理を入れたタッパを出し、その中身を詰められるだけ、小鉢用の持ち帰り用使い捨て容器に詰める。  途中で佳鳴(かなる)が首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けて来るが、応える時間が惜しい。千隼は「あとで」と言い、容器を取っ手付きのナイロン袋に入れて、飛び出す様に外に出た。  春日さんは表で静かに待っていてくれた。寒いからかグレイのタータンチェックのマフラーに首を埋めていた。千隼は用意したそれを両手で持って、春日さんに差し出した。 「これ、良ければお持ちください。今日の小鉢はシンプルなもんですけどポテトサラダやったんです」  仕込みの時、佳鳴がマッシャーで潰していたじゃがいもだ。今回は塩もみきゅうりとハムだけのシンプルなものだったが、味付けは佳鳴が丁寧にほどこしたいつものものだ。  煮物は品切れていたが、小鉢はいつも少し多めに作るのだ。閉店後に余った分は、千隼たちの夜食になる。  春日さんはナイロン袋に入れられた容器を見て、「わぁ……」と顔を輝かせた。まるで生気が戻った様だった。 「良いのかい?」 「はい、もちろん。お代も結構ですよ。陣中見舞いやと思っていただけたら。ほんまにお疲れの様ですから」  千隼が言うと、春日さんは「いやいや」と首を振る。 「ちゃんとし払わせて欲しいな。お願いするよ」  そう言われ、しかし千隼は「いえ、こちらが押し付けたんですから」と返す。だが春日さんは首を縦に振ってはくれなかった。 「解りました。では……」  と、千隼は小鉢分に相当する金額を挙げた。それを小銭でちょうどを受け取り、ポテトサラダを春日さんに渡す。 「本当にありがとう。嬉しいよ。落ち着いたらまた寄らせてもらうね」  春日さんは先ほどまでとは打って変わって嬉しそうな笑顔で言い、今度はしっかりとした足取りで帰って行った。  店に入り厨房に戻ると、不思議そうな顔で千隼を見る佳鳴に「悪い」と短く詫びる。 「表で春日さんに会うたんや」 「あら、お久し振りやね。お元気にしてはった?」 「いや、それが仕事で激務が続いてるらしいて、帰って来る時間にはこの店も閉まってるんやって。だからせめてポテトサラダ食べて欲しいて思って」 「あらぁ、そうなんや」  佳鳴は言うと、かすかに顔をしかめる。 「え、春日さんが来はれへんくなって、もう2ヶ月ぐらいにはなるやんね。その間、ずっと帰りがその時間やったってこと? お休みはちゃんと取れてるんやろか」 「そんな話はしてへんかったけど、平日そんだけ働いてたら、休めたらもう家から出たく無いやろ。睡眠不足やろうし。びっくりしたわ、すっかりとやつれてはって」 「そうなん? それは心配やね……」  佳鳴の眉がまた心配で歪んでしまう。 「じゃあご飯もまともに食べれてへんってこと? なんでそんなことになってしもたんやろ」 「そこまでは判らへんけど、落ち着いたらまた来てくれはるってさ」 「ほな、その時を待つしか無いんやね。何か差し入れとかしたくなってまうけど……、逆にお気を(つか)わせてまうやろうしね」 「多分な。ポテトサラダもお代支払われたし」 「あんた、押し付けたのにお金いただいたん?」  佳鳴がやや呆れた様に目を見開くと、千隼は少し焦って「いやいや」と手を振る。 「俺はもちろんいらへんって言うたで。けど払わせてくれって。そこで押し付けてまうと、春日さん気を遣うやろうから、小鉢分もらった」  そう言って開いた千隼の(てのひら)には、数枚の銀色の硬貨が乗せられていた。 「まぁ、確かに春日さんはそう言う方やんねぇ……」  佳鳴は納得した様に、小さく息を吐いた。  久しぶりに会えた春日さん。様変わりしてしまった春日さんに、千隼は大いに驚いたのだ。最近「煮物屋さん」に来られなくなった原因に合点はいったが、それが原因でああなってしまうとは。  今日春日さんがいつもより少し早く帰れたこと、そしてその日の小鉢がポテトサラダだったのは、そういうご縁だったのだろう。  食べてもらって、少しでも元気になってくれたら良いのだが。
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