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１４章 偽りの関係 第４話 ふたりのサプライズ
その日、開店間も無い時間に「こんばんは」と訪れたのは渡辺さん。渡辺さんはやや奥まった席に掛けた。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ〜」
佳鳴と千隼はいつもの様にお迎えし、佳鳴はさっそく温かいおしぼりをご用意する。
「今日は加寿子さんとここで待ち合わせなんすよ。夕方からなんて珍しいっす」
「そうなんですね。あれからもご指名はあったんですか？」
「あったっすよ。いつもの塚口でランチからのデートっす。今日みたいなんは無かったっすね。ここに来たいとかも言わなかったっすし。せやから何かあったんや無いかってちょっと心配なんすよ」
渡辺さんはそう言い、軽く眉をしかめた。佳鳴もつい眦を下げてしまう。
「そうですね。何事も無ければ良いんですが」
「なので、注文は加寿子さんが来てからで頼むっす」
「かしこまりました。ではそれまで麦茶でもお出ししましょうか」
「助かるっす。ありがとうっす」
佳鳴がタンブラーに入れた麦茶をお出しすると、受け取った渡辺さんは一気に半分ほどを流し込んだ。
「喉乾いてたからありがたいっす。あれ？ この店麦茶なんてあったっすか？」
「これは私らが営業中に水分補給する用です。いつでも水出しで作っているんですよ」
すると渡辺さんは「え、ええ」と慌てる。
「すいません、水分補給大事やのに」
「いえいえ。パックはまだまだあるんで大丈夫ですよ。お気になさらないでくださいね」
「そうですよ」
佳鳴と千隼が安心していただける様に笑顔で言うと、渡辺さんはほっとした様に頬を緩ませた。
「ありがとうっす」
佐藤さんが来られたのはその時だった。「こんばんは」としとやかにに頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
そうしてゆったりと入って来られる佐藤さん。その後に続いて入って来られたのは年かさの行った男性だった。すらりとした痩せ型の、紳士と言って良い様な上品さが感じられる。
「こんにちは」
男性も穏やかな笑みを浮かべて頭を小さく下げる。佳鳴たちは「いらっしゃいませ」とお迎えした。
「佑ちゃんお待たせしたわねぇ」
佐藤さんは渡辺さんを見付けてにっこりと微笑んだ。
「加寿子さんこんばんはっす。あの、そちらは」
渡辺さんが立ち上がりおずおずと佐藤さんの背後を見ると、佐藤さんから頭一つ飛び出ている男性はにっこりと笑う。
「あなたが渡辺佑さんですね。初めまして。佐藤加寿子の夫で昌守と申します」
「……えええええ！？」
まさかの旦那さまのご登場に、渡辺さんは大いに慌てる。先ほどの麦茶云々の時の比では無い。佳鳴と千隼も驚いて「え？」と目を丸くし、間抜けな声を上げた。
「ああああの、あの、俺」
渡辺さんはしどろもどろになってしまう。それはそうだ。自分のことをどう説明したら良いのか。
まさか旦那さまに「奥さまにレンタルされている擬似彼氏です」と言うわけにはいかないだろう。いくら親子の様な触れ合いだったとは言え、これはご夫婦の亀裂を生みかねないことだ。
佳鳴と千隼も何も言えずはらはらと見守っていると、佐藤さんの旦那さまは呆れた様に口を開く。
「加寿子、全然息子に似てへんや無いの。渡辺くんの方がよっぽどハンサムや無いか」
「あらぁあなた、私はそういう意味で言ったんや無いですよぉ」
佐藤さんは少し膨れた様に言い返す。渡辺さんは狼狽えたまま「あ、あの」と口をぱくぱくさせた。
「ああ渡辺くん、驚かせてしもうて申し訳ないね。大丈夫やで。全部加寿子から聞いとるから」
「全部って」
「佑ちゃんが、私が指名したレンタル彼氏の彼氏さんだってことやで〜」
佐藤さんがあっけらかんと言うので、渡辺さんはまた「えええ！」と焦ってしまう。
これには佳鳴と千隼もぎょっとした。そんなことをして大丈夫なのか。ご夫婦仲に影響は無いのか。
しかし佐藤さんご夫妻はにこにこと渡辺さんに笑い掛けた。
「私が仕事にかまけてる間に、家内がわがままを言うたみたいで、ほんまに悪かったね」
「い、いえ、あ、あの」
渡辺さんはまだ目を白黒させている。急展開に追い付いていないのだろうか。佳鳴もまだ飲み込み切れてはいない。
「まぁまぁ佑ちゃん、まずは座りましょう。ちゃんとお話するわねぇ。あなた、ここのお食事とても美味しいんですよ。楽しみですねぇ」
「そうやね。楽しみや」
佐藤さんが渡辺さんの背中を軽く叩いて元の席に座らせ、佐藤さんがその横に、旦那さんがさらにその横に掛けた。
「店長さん注文ええかしらぁ。あら、佑ちゃん注文はまだなん？」
「は、はい、まだっす」
「あ、そうやんねぇ、私らがお待たせしてしもたものねぇ、ごめんなさいねぇ。佑ちゃんもお酒でええかしら？」
「あ、は、はい」
渡辺さんはタンブラーに半分ほど残っていた麦茶を一気に飲み干し、「はぁっ」と盛大な溜め息を吐いた。
「あ、焦ったっす。俺どうしたら良いんすかねぇ。あ、しゃ、シャンディガフで！」
言動がめちゃくちゃである。佳鳴と千隼にすがる様に目で訴えかける渡辺さん。しかし佐藤さん夫婦を見ているとなんら心配は無さそうだ。ようやく納得できた佳鳴は「ふふ」と笑う。
「大丈夫やと思いますよ、渡辺さん。お話をお伺いしてみましょうよ。渡辺さんご夫妻はご注文どうされますか？」
「そうよぉ佑ちゃん。この前のお話ね、もうすっかり解決したんよぉ。私は白ワインでお願いねぇ」
「そうなんだよ渡辺くん。私もうっかりしていたんだよ。私はビールでよろしく頼むよ」
「そ、そうなんすか？」
渡辺さんはまた少しびくついている。
「白ワインは先日と同じイエローテイルのシャルドネ、ビールは瓶ビールになりますがよろしいですか？ スーパードライと一番搾りをお選びいただけます」
「もちろん構わへえんよ。一番搾りをもらおうかな。うん、最初家内からレンタル彼氏の話を聞いた時には驚いたもんやがね、私が寂しがらせてしもうたんが何よりの原因やったんだよ。だけど私はね、家内を困らせたく無かったんや」
「困らす、っすか？」
「そう。経済的にね。息子もおって、今でこそ手が離れとるけど、大学出すまではそれなりに掛かるやろう？ 私学に行きたがればなおさらね。そんな時に経済力を理由に諦めさせたく無かったんや。家内の生活もね、私は結果として家事も子育ても家内に任せることになってしもたから、ほな私は稼げるだけ稼ぐ、老後、定年後も困ることがあれへん様にね。せやからいろんなプロジェクトにも参加して給料を上げるだけ上げて、家内に渡す分とは別に貯金もしてたんや」
「そうなんよぉ。私が佑ちゃんにかまけてる間にも、この人はそうやって私と息子のことを考えてくれとったんよ。ほんまに恥ずかしいわぁ」
佐藤さん、加寿子さんはそう言って手で顔を覆ってしまう。寂しいのだとおっしゃっていた佐藤さん。ご自分の感情にとらわれてしまえば、周りを見ることは難しくなる。旦那さまの思いを慮ることは困難だっただろう。きっとおふたりはすれ違ってしまっていたのだ。
「それは何も言わんかった私が悪いんや。で、先日無事に定年を迎えてね。これからはまた夫婦水入らずの生活が始まるんや。息子も独立することになったしね」
「そうなんすか？」
「ああ。もう社会人になって数年になる。いつまでも親の脛をかじらせるわけにもいかんからね。私もやけど息子も今までさんざん家内に甘えて来たんや。そろそろ自分のことは自分でやるべきやろうってね。だから加寿子、暇ができたからって息子の家に掃除や洗濯なんかをしに行くんや無いで」
「分かってますよぉ。ちゃんとひとりでなんでもさせんとね。やからね佑ちゃん、安心してねぇ。私はもう大丈夫。この前は愚痴なんて聞かせてしもたけど、ちゃんとね、夫と、昌守さんとね、話し合いができたから」
「本当に済まんかったね渡辺くん。今度ね、ふたりで旅行に行くことにしたんよ。これまでろくにそんなこともさせてあげられへんかったからね」
「そうなんよぉ。台湾に行くのよぉ〜。まずは近い海外から初めてみましょうってね。楽しみやわぁ〜」
佐藤さん夫妻は嬉しそうに笑っている。渡辺さんは半ばぽかんとお話を聞いていたが、泣きそうに顔を緩ませると「あ〜良かったぁ〜」と感極まった様な声を上げた。
「俺はただのレンタル彼氏で、ただ、いっ時加寿子さんを楽しませることしかできひんで。でも加寿子さんが困っとっても何もできひんで。せやからほんまに良かったっす！」
「あらあら佑ちゃんたら」
「おやおや。加寿子、この渡辺くんは本当にええ子やねぇ」
「でしょう〜？ だから私、ほんまに楽しかったんですよ〜。あなたには佑ちゃんに感謝して欲しいですよ」
「ほんまにそうやねぇ」
「あ、いえ、そんな、そんなこと無いっす」
渡辺さんは慌てて謙遜されるが、渡辺さんが思いやりのある良い方だと言うことは、佳鳴と千隼も知っていることだ。だからこそ佐藤さんと旦那さまを笑顔にできたのだ。
「さぁ渡辺さん佐藤さん、積もるお話もあるでしょうが、お飲み物ができましたよ」
佳鳴と千隼が微笑んでお飲み物をお渡しすると、「ありがとうっす」「ありがとうねぇ〜」「ありがとう」とそれぞれ受け取る。
「だ、旦那さん、俺、お注ぎするっす」
渡辺さんが笑顔でビール瓶を持つと、佐藤さんの旦那さまは「おや、ありがとう」とにこにことグラスを掲げた。そうして全員のドリンクが揃うと。
「乾杯！」
威勢良く、しかし上品にグラスを重ねた。それぞれのペースでぐいとグラスを傾けると、「はぁっ」と心地よい息を吐いた。
「はぁい、お料理お待たせしました〜」
佳鳴と千隼が整えたお料理をお出しすると、皆さんは「わぁ」と嬉しそうに顔を綻ばせた。
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