15章 扇木さん家の家庭の事情  第1話 姉弟と母親の関係

1/1

50人が本棚に入れています
本棚に追加
/111ページ

15章 扇木さん家の家庭の事情  第1話 姉弟と母親の関係

 桜の花びらが風に舞う。艶やかに咲き誇る桃色からはらはらと落ちるそれは、無機質な道を華やかに染めている。  その日の夜、「煮物屋さん」は絶賛営業中。ご常連が多く無い席を埋めていた。本当にありがたいことだ。  21時を過ぎたころ、店備え付けの電話が控えめに鳴る。ファクスと一体になった電話機だ。  受信音を小さくしているのは、客の迷惑にならない様に自分たちにだけ聞こえたら良いのだ。近くにいた千隼(ちはや)が受話器を上げた。 「はい、「煮物屋さん」でございます。はい、……ああ、うん、うん、解った」  千隼は簡潔にそれだけを言うと、受話器を置いて「ふぅ〜」と小さく溜め息を吐いた。 「千隼、お母さん?」  千隼の口調で、相手が客などで無いことが判ったのだろう。佳鳴(かなる)はそう見当を付けて聞いて来た。正解である。 「おう。()えて動けへんてさ。俺、さっと行ってぱぱっと作ってくるわ」 「私が行こうか?」 「いや、俺行く。煮物頼むな」 「解った。お母さんによろしくね」 「はいよ」  千隼は手早くエプロンを外しながら奥に入った。 「じゃあ行って来るわ。お客さま方すいません、少し抜けますね。ごゆっくりしてください」  するとお客さま方は「はーい」と返事をし、千隼を送り出してくれた。  千隼が出掛け、佳鳴ひとりで切り盛りすることになる。だが幸いと言って良いのか、お席の埋まり方はほどほどで、ひとりでも充分乗り切れるだろう。 「店長さんたちのお母さんって、確かデザイナーされてるんでしたよね」  ご常連の結城(ゆうき)さんが聞いて来られる。今日は日本酒「東洋美人(とうようびじん)」を冷酒で楽しまれていた。  東洋美人は山口県の澄川(すみかわ)酒造場で醸されているお酒である。芳醇旨口を代表するとも言われており、フルーティな香りとやわらかな口当たりで、口の中に旨味が残るが清々しい風味の一品である。 「はい。お陰さまで、どうにかやってるみたいですよ」  佳鳴が言うと、こちらもご常連の田淵(たぶち)さんご夫妻が「へぇ」と感心した様な声を上げる。 「何のデザイナーなんか、お伺いしても?」  田淵さんの奥さま、沙苗(さなえ)さんが控えめに()いて来られるので、佳鳴は何気無い調子で「子ども服ですよ」と応える。 「そうなんや。何やろ、こんな美味しいご飯を作りはる店長さんたちのお母さんやったら、凄い可愛い子ども服を作りはりそうな気がします」  田淵さんがそう言うので、佳鳴は「そうですねぇ」と曖昧(あいまい)に応える。  しかし佳鳴、そして千隼にとっても不思議ではある。なぜあの母親が子ども服のデザイナーになったのか。  要はこの姉弟にとって、母親は「そういう」存在なのである。  車で出た千隼は途中のスーパーで買い物をし、母親の住居が入っているマンションに着くと、車を来客用駐車場に停める。  オートロックの正面玄関に行き、キィケースを取り出してドアを開けた。家の鍵はスペアを預かっているのである。  母親が暮らしているのは、北大阪急行の緑地公園駅が最寄りの街だ。住所は吹田市になる。  この街には駅名の通り、服部緑地という広大な公園がある。バーベキュー広場や各種スポーツ施設、野外音楽堂もあり、地元民で賑わっている。  公園の中央に整備されている円形花壇は、昭和中期に皇太子殿下のご成婚を記念して整地したものである。季節季節で色とりどりの可憐な花が開く。  北大阪急行は大阪メトロ御堂筋線と相互乗り入れしており、「煮物屋さん」がある曽根駅から電車で行こうとすると、一度大阪梅田駅に出てから乗り換えて行かなければならない。遠回りになるのだ。  曽根の駅前から阪急バスも出ているが、そう本数が多いわけでは無い。なので車で行くのが一番手っ取り早いのである。  エレベータを使って目的階へ。エコバッグをがさがささせながら廊下を歩き、チャイムも鳴らさず部屋のドアを開ける。 「母さん、来たで」  玄関でネイビーのスニーカーを脱ぎながら千隼が言うと、奥から女性がのそりと出て来た。よれよれのスウェットという格好で、その顔には緩やかな笑みが浮かんでいる。 「あぁ千隼、来てくれたんか」 「そりゃあ「腹が減って死にそう」なんて言われてもたらな。ぱっと作るから。洗い物は自分でやってや。作ったら店に戻るから」 「助かるわ。いや、もう冷蔵庫もすっからかんでなぁ」  女性、佳鳴と千隼の母親である寿美香(すみか)は言うと、おかしそうに笑う。千隼が念のために冷蔵庫を開けると、確かに食材はろくに入っておらず、缶ビール数本と、おつまみになりそうなプロセスチーズが少し入っているだけだった。  部屋は3LDKと、ひとり暮らしをするには充分な広さだ。キッチンやリビングはその機能のまま生かし、一部屋は寝室、一部屋は仕事部屋、残り一部屋は物置状態になっている。 「材料費は払うから」 「色も付けてくれよ。姉ちゃんひとりに店任せて来てるんやから」 「もちろん解ってるって」  寿美香は言うと苦笑する。千隼が渡したスーパーのレシートをひらひらと振った。  千隼はエコバッグを手にキッチンに入る。  キッチンは普段ろくに使われていないだろうに、綺麗に掃除されていた。千隼はわずかに驚く。 「へぇ、綺麗にしてるんや」 「家政婦さんに来てもらっとるからな」 「それやったら飯も家政婦さんが作ってくれるんやろ?」 「作り置き食べ切ってもた。だって土日は休みやからさぁ」  確かに今日は日曜日だ。金曜日に作ってもらったおかずや常備菜を、昨日1日で食い尽くしてしまったと言うことか。  千隼は「ふぅ」とわずかに面倒そうな溜め息を吐くと、エコバッグから食材を取り出す。 「簡単なもんやで。ええやろ?」 「もちろん。食べられるなら何でもええよ」  それならコンビニにでも行ってくれよと千隼は思ってしまう。それでも千隼たちにSOSを投げるのだから、それなりに母親としての自覚はあると言うことなのか。  いや、本当に母親の自覚があるなら、子どもに面倒を掛けさせない様にするものか? 親になったことに無い千隼には判らない。  千隼はまず米の支度をする。残った米は置いて行くので、寿美香ひとりでも簡単に炊ける様に無洗米にした。急ぐので吸水無しに急速炊飯のスイッチを入れる。  続けてまな板と包丁を出し、まずはしめじを取り出して石づきを落として解す。  次に白菜。使い切りたいので6分の1にカットされたものを買った。洗って芯を落とし、ざくざくと切って行く。  人参は皮を剥かずに半月切りに。  厚揚げもざくざくと厚めのスライスに。  豚肉はこま切れを買って来たので、そのまま使う。  鍋を熱してごま油を引き、まずは豚肉を炒めて行く。色が白く変わったら人参を加えてさっと混ぜる。そこに被せる様に厚揚げと白菜の白い部分を入れたら、材料が少し顔を出す程度に水を入れ。沸いたら顆粒(かりゅう)の出汁を入れて煮て行く。  白菜がしんなりして来たら白菜の葉としめじを加え、全体を混ぜてさっと煮たら甘みを加える。砂糖と日本酒だ。  普段手ずから料理をしない寿美香だが、調味料などは一応揃えていることは知っていたし、今は家政婦さんにも来てもらっているそうだから、過不足は無かった。  5分ほど煮たら、次に醤油を加える。そのままことことと煮て行く。その間に千隼は洗い物を済ませた。  そのころにはもう火が通っているので、千隼はコンロの火を止める。  豚肉と厚揚げと野菜の旨煮の完成である。  煮物屋さんの献立は季節感を大事にするが、今回は気にしない。わざとでは無く家庭の食事なのだからこんなものだ。その日の特売品をうまく組み合わせるのは主夫の知恵である。 「母さん、できたから。米が炊き上がったら適当に食ってな。俺帰るわ」  千隼は素っ気無く言うと帰り支度をする。 「慌ただしいなぁ。お茶ぐらい飲んで行ったら」  寿美香が言うが、千隼は「いや」と返す。 「姉ちゃんひとりに店任せてしもてるから」 「信用してへんの?」  そう意外そうに言われ、千隼は少し気分を害してしまう。 「ちゃうわ。姉ちゃんは凄い頼りになるわ。忙しいのにひとりで任せて悪いってことや」  千隼が少しつっけんどんな口調で言うと、寿美香は「そうやんね、解ってるって」とまた苦笑した。 「ありがとうね。また頼むわ」  寿美香が言うと、千隼はふぅと呆れた様に息を吐いた。 「ひとり暮らしするって家出てったんやから、自分でどうにかしろよな」 「ごめん、ほんまにごめんて」  寿美香は悪びれずに言う。千隼は呆れるしか無かった。 「ほな」  そう言い残し、千隼は寿美香のマンションを出た。  本当に、寿美香の心中が分からない。佳鳴はともかく千隼は結構寿美香に冷たく、とまでは言わないまでも、ぶっきらぼうに接してしまう。  その原因は寿美香にあると千隼は思っているのだが、寿美香はそんな千隼の気持ちを知ってか知らずか、いつも通り、寿美香にとっての普通で接して来る。  そんな寿美香に対して千隼は後味が悪いと言うか、なんとも複雑な感情を抱いてしまう。  現状が変わらなければ、千隼のこの思いも変わることは無いだろう。そしてその兆しは今のところ無い。なら考えても無駄なのだ。  また車を運転し、姉と自分の店にたどり着く。煌々と明かりを放つ店を前に、千隼は少し憂鬱(ゆううつ)な気持ちを抑えようと努める。  佳鳴はともかく、客に悟られてはならない。千隼は軽く両頬をぱんぱんと叩くと、裏に回って車を停めて家に入り、そのままエプロンを着け店の厨房に出た。 「ただいま戻りましたー」  そう明るい声を上げる。すると客席から「おかえりー」と陽気な声が上がり、千隼はそれに癒される。 「お客さま方、ほんまにすいませんでしたね。姉ちゃん、何か変わったこととかあった?」 「ううん、大丈夫やで。ありがとう」  佳鳴が笑顔でそう言うのなら大丈夫なのだろう。佳鳴は基本隠しごとのできないタイプだ。 「それよりお母さんは? 大丈夫やった?」 「いつも通りやったで」 「ああ、じゃあ大丈夫やね」  佳鳴は千隼のあっさりした応えに苦笑した。  この姉弟の母親は、どうにも人間としては破綻(はたん)しがちの様で、父親含めて家族は少しばかり苦労をさせられたのである。
/111ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加