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15章 扇木さん家の家庭の事情 第2話 かしこまった席で
佳鳴と千隼の母親寿美香は、子どもを産みはしたが、育てるのには向いていなかった。
赤ちゃんの頃は、泣いていればあやすぐらいはしたかも知れない。いくらなんでも放置はしなかったと信じたい。だが佳鳴たちが物心ついたころ、育ててくれていたのは父親の寛人だった。
昔から仕事は真剣に取り組んでいた様だが、寿美香にはどうにも親としての責任感というものが欠けていた。
産まれた子どもを育てるのは親の役目である。衣食住を子どもに与えるのは親の責任である。母親はそれのどれも行わなかった。
結局寛人が働きながら佳鳴と千隼を育ててくれた。だから佳鳴と千隼はできる限り家事の手伝いをした。千隼が料理の楽しさを知ったのはその頃だった。
そして千隼が大学を卒業し就職した数日後、寿美香は家を出て行った。
だから佳鳴と千隼は寿美香をあまり良く思っていない。嫌っている、憎んでいるとまでは言わないが、この先何かあっても寿美香に深く関わる必要は無いと思っている。
これからますます歳を取って、将来には介護なども必要になって来るかも知れない。だが、冷たい、親不孝だと思われようとも、寿美香には施設に入って欲しいなんて思ってしまうのだ。
それでもこうしてSOSが来たら行っているのは、単に後味が悪いからである。
親に対して酷いと思われるかも知れないが、親子の形というのはひとつでは無い。親とは、子どものころならともかく、大人になれば無条件に好きになれる存在でも、尊敬できる存在でも無いのだ。
それは、親の行動が返っているものなのだ。そもそも子どもたちを放棄したのは寿美香なのだから、その結果が今なのである。
翌日の昼、千隼は家の電話から電話を掛ける。
「昨日の晩母さんからSOSがあったで。普段は家政婦さんに来てもろてどうにかしてるみたいやけど、それが切れたらぐずぐず」
『仕方無いわ。そういう人やから。苦労を掛けさせてすまん』
相手は申し訳無さそうな声である。多分電話の向こうで頭を下げているだろう。
「大丈夫やで。こっちこそ心配かけてごめん。また電話するな」
『ああ。またね』
そこで通話は終わる。
相手は父親の寛人である。佳鳴と千隼が「煮物屋さん」をするために実家を出たので、父親も単身者向けのマンションに引っ越してひとり暮らししている。
場所は阪急電車宝塚線の三国駅が最寄りだ。宝塚線なのは佳鳴と千隼に会いやすくするため。そして三国駅から大阪メトロ御堂筋線の東三国駅までは徒歩移動か可能だ。寿美香の家に行きやすくするためでもある。
両親はまだ公的には夫婦である。離婚はしていない。それぞれに別に一緒になりたい人でも現れれば離婚もするのだろうが、今はその必要性を感じていない様だ。
なんとも不思議な夫婦関係だと思う。こればかりはふたりの問題なので、子どもであろうが佳鳴と千隼が口出しをすることはできないと思っている。
両親の不仲では無く寿美香の育児放棄なので、佳鳴と千隼は寿美香に対して不満を言うことはできる。だがあの寿美香相手だとそんな気も失せる。暖簾に腕押し、言うだけ無駄だと判っているからだ。
だから佳鳴と千隼は寿美香から距離を置くことに決めたのだ。視界に入らなければどうということは無い。
寛人には、「煮物屋さん」を始める時に一緒に来ないかと誘ったのだが、少しひとりでゆっくりしたいと断られてしまった。とは言え近距離での別居なので会うのは容易い。
寿美香は相変わらずひとりで好きにしている。本人がそれで良いのなら佳鳴と千隼に問題は無いのだ。
時折入るSOSに応えつつ、適度な距離を取って行けたら良いと思っている。
とある日、起きて家事などをしていた時、家の電話が鳴った。電話のあるリビングに掃除機を掛けていた佳鳴が出る。
「はい、扇木です」
『ああ、僕や』
聞き慣れた低い、優しい声が耳に触れた。
「ああお父さん。元気?」
『元気やで。忙しい時間に済まんな』
「大丈夫やで。どうしたん?」
『あのな、悪いんやけど、店が休みの日に時間くれへんかな。千隼も』
「ん、それはええけど、どないしたん?」
『ああ、ちょっとな。まぁ食事にでも行こう』
「分かった。じゃあ千隼に都合聞いてまた電話するわ」
『ああ。よろしゅう頼むわ』
そうして会話は用件だけで終わる。佳鳴は受話器を置くと、キッチンで昼ごはんの支度をしている千隼に声を掛けた。
「父さんが飯行こうって?」
「うん。なんか話がある風やったけど」
「ふぅん? 俺はいつでも構わへんで」
「じゃあそれでさっそくお父さんに電話しとくわ」
「おう」
佳鳴は置いたばかりの受話器を上げた。
数日後、煮物屋さん定休日の月曜日の夕方。佳鳴と千隼は少しばかりドレスアップして家を出た。
寛人との約束の日である。佳鳴たちの地元曽根のイタリアンレストランを予約したと言うのだ。その連絡を受けた時、電話に出た佳鳴は「え?」と驚いた。
こうして定休日に寛人と3人で食事をすることはたまにあった。だがいつも宝塚沿線の居酒屋だった。千隼が探す美味しいお店である。和洋中の違いはあれど、どこもお手軽に入れる店ばかりである。当然ドレスコードなど無い。
だが今日はそういう訳にはいかない。カジュアルなレストランだが、あまりにもラフな格好では浮いてしまう。
そこで佳鳴は紫色のフレアタイプのワンピースを、千隼は淡いブルーのシャツとグレイのスラックスを引っ張り出して来た。「煮物屋さん」の営業が日々のメインである佳鳴たちには、滅多に出番が無い服装である。
「どうしたんやろ、お父さん、もしかして再婚したい人でもできたんやろか」
「それやったら離婚が先やろ。いくらなんでも離婚と再婚を一緒に言うことは無いやろうし」
「それもそうか」
千隼と佳鳴はそんなことを話しながら少し歩き、寛人に指定されたレストランに到着する。
いつもとは違う場を用意され、佳鳴と千隼は不安を抱えてしまう。一体何を告げられるのだろうか。単にイタリアンが食べたいだけの可能性もあるのだろうが、それならもっとカジュアルな、普段使いができるバルなどに行っていた。
いつもと違うこのシチュエーションに、佳鳴たちが違和感を感じるのは無理が無かったのである。
こげ茶色のドアを開けて予約の旨を告げると、ギャルソンに奥まった席に案内される。白と濃い茶色であしらわれた店内は、カジュアルレストランとは言え格調も感じさせる。
示された4人掛けのテーブルに着いていたのは寛人と、そして寿美香だった。
「母さん?」
千隼が驚いて声を上げる。佳鳴も驚愕で目を丸くした。
「なんでお母さんも?」
すると寿美香は苦笑する。
「何、いたらあかん?」
「いや、聞いてへんかったから」
「まぁ座りぃよ。私お腹空いたわ」
寿美香がそう言って手をひらひらと振るので、佳鳴と千隼は戸惑いながらもふたりの正面に掛けた。
すると近くに控えていたギャルソンがメニューを手に近付いて来る。見るとワインリストなどのドリンクメニューだった。
「コースは予約しとるからね」
寛人が言うと、ギャルソンが「はい」と慇懃に頷く。
「その様に承っております。お飲み物はどうなさいますか?」
ギャルソンが聞いて来るので、寛人に任せる。佳鳴も千隼もワインにはそう詳しくは無いのだ。「煮物屋さん」で仕入れているワインの選定も、お馴染みの酒屋さんに頼ったのである。
ギャルソンが一旦下がり、すぐに赤い食前酒を手にして現れる。
「カンパリトニックでございます」
親子は静かに食前酒の小さなグラスを軽く掲げた。少し口に含むとほろ苦い甘さが口にふわりと広がる。
食前酒が無くなるころに白ワインが供される。テイスティングは寛人が。ほんの少し口を付けた寛人が軽く頷くと、ソムリエがそつのない動作でそれぞれのグラスワインに注いで回ってくれた。
「それではお料理を始めさせていただきます」
ソムリエがそう言ってその場を去ると、食前酒を飲み切った千隼がさっそくワイングラスを手に取り、ぐいと半分ほど飲んで小さく息を吐いた。
「あ〜やっと落ち着いた。で、父さん、今日はこんなレストランまで予約して、一体どないしたん」
いきなり核心を突くが、佳鳴も気になって仕方の無かったことである。寿美香が一緒だとは思いもよらなかった。となると、やはりふたりに関わる大事なことなのではとの結論にしか至らない。佳鳴はついごくりと喉を鳴らした。
「ああそうそう、実はな」
寛人もワイングラスを傾けて、ゆっくりと口を開いた。
「父さんと母さん、離婚することにしたんよ」
……ああ、とうとう離婚するのか。不仲では無いと思ってはいたが、佳鳴たちの知らないところで何かあったのだろうか。そもそも別居していてそれぞれ仕事もしているのだから、婚姻関係を結んでいる意味など無かったのかも知れない。
喜ばしいことでは無い。だが落胆とも違う。この表現が難しい複雑な感情。千隼も同じ気持ちを抱いた様で、佳鳴たちは顔を見合わせてしまう。
「でな、父さんと母さん、同居することにしたから」
「はぁ!?」
寛人の何気無いせりふに、佳鳴と千隼は揃って素っ頓狂な声を上げてしまう。夫婦でありながら別居していて、離婚して夫婦で無くなるのに同居するとは。どういうことなのだろうか。
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