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16章 残された小さな欲望 第4話 悼むことの大切さ
三浦さんが勤められている総合病院は、佳鳴と千隼の家、「煮物屋さん」から車で15分程度のところにある。
千隼の運転で向かい、到着すると病院の駐車場に車を停めた。男の子のために作ったオムカレーハンバーグは藍染の風呂敷に包み、佳鳴が大事に抱えて車から降りる。
総合病院だけあって、大きな建物である。白い外壁はまだ綺麗に見える。周りは自然が豊かで、療養環境は良い様に思える。
「傾いてへん? 大丈夫?」
「うん。膝の上に置いとったし見とったし、大丈夫やと思う」
もうお昼を過ぎているが、お昼からも予約で外来診療があるとのことで、正面玄関は開いている。佳鳴と千隼は自動ドアをくぐり、病院内に入った。
病院の雰囲気と匂いは独特である。匂いの主なもの消毒液や薬品なのだろうが、この生と死が入り混じる空間は特有の気配を醸し出す。
普段病院に縁の無い佳鳴と千隼には、この白を基調に作られた場所はある意味新鮮で、ある意味落ち着かない。
そもそも病院はあまり長居したいところでは無いし、するべきでも無い。佳鳴たちも用を済ませたら速やかに立ち去るべきなのだろう。
「えっと、4階やっけ」
「うん」
ざわざわと外来患者さんが行き交う受付周辺で、佳鳴と千隼は案内板を見ながら病棟へのエレベータを探し、無事に見つけてその方に向かう。エレベータの登りのスイッチを押すと、すぐに扉が開いたので乗り込んだ。
ストレッチャーも乗るエレベータなので大きく作られている。奥には車椅子のための大きな鏡も設えられていた。
4階なのでそう時間は掛からない。到着して扉が開くと、ナースセンターはすぐ前だった。少しばかりの物音はするが、1階と打って変わって静かなものだった。受付があったので佳鳴が声を掛ける。
「お忙しいところすいません、看護師の三浦さんおられますか?」
すると受付にいたお若い女性の看護師さんが「はい、お待ちください」と手元のパソコンを操作する。
「三浦は今病室ですね。すぐに戻ると思いますので、申し訳ありませんが少しお待ちいただけますか?」
看護師さんは言って、廊下の壁際に置かれている黒い長ソファをすすめてくださった。
「はい。ありがとうございます」
佳鳴は礼を言って千隼とともにソファに向かおうとする。と、その看護師さんに「あの、三浦のお客さまということは」と止められる。
「もしかして、三浦の行きつけのお料理屋さんの方ですか?」
「はい、そうです」
佳鳴は足を止めて応える。するとその看護師さんは「まぁまぁまぁ」とほっとした様に表情を和らげた。
「三浦から話は聞いてます。ICUの異変の原因について。この度はほんまにありがとうございます」
看護師さんは立ち上がり、深く頭を下げた。
「いいえ、とんでもありません。私たちはお料理をお持ちしただけで」
「本来なら病院の誰かが用意せなあきませんのに、申し出てくださったそうで。ほんまに助かります。ありがとうございます」
「いえいえ、ほんまにお気になさらんでください」
なおも頭を下げ続ける看護師さんに佳鳴は焦ってしまう。後ろで千隼も呆然と口を開いていた。
「菊田さんどうしたの?」
ナースセンターの中におられた中年女性の看護師さんが近付いてくる。菊田さんと呼ばれた看護師さんは「あ、師長」とようやく顔を上げた。佳鳴はほっとする。
「三浦ちゃんのお客さまです。お料理を用意してくださる」
「ああ」
師長と呼ばれた女性看護師さんも、菊田さんの横で頭を下げた。菊田さんもまた頭を下げる。
「この度はこちらの問題に巻き込んでしまい、大変申し訳ありません」
「いいえ、ほんまに大丈夫ですので」
増えたがな! 佳鳴は心中で突っ込み、慌てて手を振った。
「三浦にはきつく言っておきますので」
「あ、それこそほんまにご勘弁ください」
佳鳴はさらに慌てる。
「これは私たちが縁を感じて申し出たことです。三浦さんが咎められてしまうんは困ります。お願いですから私たちに免じていただけませんか」
すると看護師長さんがゆっくりと頭を上げる。菊田さんもそれに倣う様に頭を戻した。
確かに病院の問題なのだから、縁とは言えこれは佳鳴たちのお節介なのだ。差し出がましいことをしてしまい、恐縮するのはむしろこちらである。
「あなた方にそうおっしゃっていただけるのでしたら。この度はほんまにありがとうございます」
看護師長さんはまた頭を下げた。だがそれはすぐに上げられる。佳鳴は今度こそほっと安堵した。
「男の子の幽霊が美味しいものが食べたくて騒いでいるようだと聞きました」
「はい」
「私には感じることができひんもんですが、医療機器の不調は困ります。これで落ち着くんでしょうか」
「判りません。視てくださった方は放っておいても大丈夫やとも言ってはりました。お供えは気になる様ならと。でも確かに機械の不調は困りますよね。お生命を預かってはるんですから」
「はい。今は幸いその部屋は空けていられてます。ですがいつ必要になるか判りません。急変はその通り急に訪れるもんですから」
これだけ大きな病院なのだから、病床数もきっと多い。今空けていられることが、もしかしたら奇跡なのかも知れない。それも何かの力が働いているのだろうかと、つい思ってしまう佳鳴だった。
「私も霊感とかがあるわけや無いんで、視てくれはった方の言葉を信じるしかありません。ですがその方を私たちは信用できる方やと思ってます。信じてはれへん方には眉唾もんやと思われるかも知れませんが、実際に不調が出ているとのことなんですから」
「はい。私は立場的に部下でもある看護師たちの言葉を聞くのが仕事でもあります。それに供養のことを聞いて、はっとさせられたんですよ。長らくその気持ちをどこかに置いてしもうとったなと」
看護師長さんは言って首を傾げて苦笑いを浮かべる。
「忙しいことを免罪符にしたらあきませんね。これを機に少しでも悼む気持ちを、そして患者さんに今まで以上に寄り添うことを考えてみたいと思います」
この看護師長さんは懐の広い方の様だ。こんな目に見えない、感じないことなのだから「阿呆言うな」で片付けられてもおかしくない。だがこの看護師長は鵜呑みにされるわけでも否定されるわけでもなく、こうして噛み砕いて捉えておられる。
三浦さんは上司に恵まれているのだ。パート勤務になった時にも、この看護師長が心を砕いてくれたのだろう。
その時、がらがらという音が聞こえて来た。反射的にその方を見ると、シルバーのワゴンを押した三浦さんが現れた。
「あ、三浦さん」
佳鳴が声を上げると、三浦さんは佳鳴と千隼に気付いて早足になった。ワゴンの車輪が床を走る音が騒がしくなる。
「店長さん、ハヤさん、今日は本当にありがとうございます!」
そう勢いよく言って頭を下げた。もうお礼の飽和状態である。佳鳴はまた「いいえ、とんでもないですよ」と手を振った。
「ほな三浦さん、さっそくおふたりをICUにご案内差し上げて」
「はい、師長。店長さんハヤさん、ワゴン戻して来るんでもう少し待っとってくださいね」
三浦さんはばたばたと慌ただしくワゴンを押して行く。その背中を看護師長さんの「こら、走らへんよ!」が追い掛けた。
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