空色を買う少年

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 少年は絵が得意だった。いつも先生から褒められたし、クラスの皆も一番上手だと認めてくれた。  けれども少年には、自分の絵にどうしても納得がいかないところがあった。空の色がどうしても自分が見たとおり、ありのままに描けないのだ。  色を混ぜれば混ぜるほど、塗り直せば塗り直すほど、絵の中の空は実際とはかけ離れたものになってしまう。せっかく建物や人々の様子がきちんと描けていても、空の色のせいですべてが台無しになることがしょっちゅうあった。  どんなに頑張っても自分には上手く描けないんだ、という失望感でいっぱいになり、いつしか少年は大好きだった絵を描くのを止めてしまった。学校が終わると一人で高台にある見晴らしのいい公園に行き、日が暮れるまでベンチに座ってぼんやりしていた。    ある日、いつものように少年が公園を訪れると、見知らぬ白髪の老人がベンチに腰掛けていた。イーゼルを立て、目の前の風景を描いている。少年は後ろからそっとキャンパスを覗き込んだ。  遠くまで広がる街並みや微かに見える彼方の山々が、見事に描かれていた。老人はパレットに新たな絵の具をチューブから絞り出した。そして、軽く筆に付けるとキャンバスの空の辺りを素早く塗りつぶしていった。  少年は唖然とした。実際の空と寸分違わぬ色が、いとも簡単にキャンバスを染め上げていったのだ。 「スミマセン!その絵の具、ぼくにも分けてくれませんか」  少年は思わず老人に声をかけた。 「……これのことかい?」  老人はゆっくりと振り返り、絵の具のチューブを皺だらけの顔のそばに掲げた。 「はい!ぼくも絵を描くのですが、空の色だけがどうしても上手く出せなくて……」  老人は少年の言葉を聞き、俯き加減に声もなく笑った。 「いいだろう。これを君に譲ってあげよう」 「本当ですか。ありがとうございます!」  少年は飛び上がって喜んだ。 「だが…ただで譲るわけにはいかない。私が長い年月をかけてようやく作り上げたシロモノだからね」 「やっぱり、高価なもの何ですよね……」  喜び勇んだ少年は、自分の小遣いでは到底手が出ないと思い、肩を落とした。 「お金など一切いらない。その代わりに……」 「その代わりに?」 「この絵の具を一本譲るのと引き換えに、君の若さを一年分譲ってほしい」 「ぼくの寿命が一年縮まるのですか?」 「いや、寿命ではない。あくまでも『若さ』の話だ」  少年は老人の言っている意味がよくわからなかった。けれども寿命だろうが若さだろうが、たかだか一年でこの絵の具が手に入るなら迷いはなかった。 「じゃあ、一本ください!」  家に帰った少年は、さっそく手に入れた絵の具を描きかけのまま放置されていた作品の空の部分に塗ってみた。あれ程納得のいかなかった色が、たちまち見た通りの空色に染まっていった。少年は歓喜し、他の作品の空を次々塗り上げた。どれも涙が出るほど満足のいく出来映えだった。少年はその日のうちに絵の具を使い果たした。  絵を描く楽しさを思い出した少年は、街に出て、新作の風景画に取り掛かった。しかし空色の描写は相変わらず難航した。 「やっぱり、あの絵の具じゃなきゃ駄目だ」  少年はキャンバスを抱えて公園へ向かった。老人は今日もベンチに座って絵を描いていた。 「あの絵の具をもう一本下さい!」 「条件はわかっているな?」  少年は頷き、絵の具を手に入れるとすぐに新作を描いていた場所に戻った。チューブから絞り出された空色は、あっという間に絶妙なニュアンスでキャンバスを染め上げた。少年はスキップしながら家へ帰った。気のせいか急に身長が伸びたように目線が数日前より高く感じられた。  その後も少年と老人の取引は続けられた。空色を描くことに不安がなくなった少年は、次々と作品を生み出した。  だが、ほんの数年の間に、少年の体は明らかに通常の成長速度を上回る変貌を遂げていた。高校を卒業する頃には髪は真っ白に染まり、額には深い皺が刻まれた。もはや初老の男にしか見えなかった。自分たちより年老いた姿になっていく息子に困惑した両親は、ありとあらゆる病院へ少年を連れて行った。けれども、どの医者にも原因はわからずじまいだった。  少年が年老いていく一方で、公園にいた老人は急激にその姿を若返らせていた。少年が最後に絵の具の取り引きをした時、老人は、出会った時の自分と同じくらいの少年になっていた。そして「もう絵の具は無いよ」と言い残して姿を消した。  途方に暮れた元少年は、それからの長い年月をキャンバス上に残された顔料の分析に費やした。そして膨大な回数に及ぶ調合の試行錯誤を経て、再び、全く同じ「空色の絵の具」を製造することに成功した。それを使えば、誰でも簡単にありのままの空の色を再現することができた。  元少年は確信していた。その絵の具は、譲り受けた者が使った分、若さを貰える不思議な力も宿しているに違いないと。  元少年は、絵の具と画材用具を一式持って街に出た。出来上がった商品の実演販売をするつもりだった。かつての自分のように、ありのままの空色に染められずに悩んでいる少年が、きっとこの世界のどこかにいるはずだ。   「本当はこんな絵の具など必要ないのだ。見える世界だけに縛られずに、若者が感じるままに描けばいいだけのことなのだが……」  そう呟いた彼は、まずは高台の公園にでも行ってみることにした。
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