すべてなかったことにして

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 席上揮毫大会当日、渡された課題用紙を見て、作品賞は確信した。どれも全部書いたことのある字だ。スタートの合図が鳴って、制限時間を知らせるタイマーが作動した。硯に墨汁を溜めて、筆を浸す。  私の横には何も知らない有紗ちゃんがいて、私の目の前にはミケがいる。私たちを囲むように後輩がいて、早瀬先生は顧問が集まる別室でこの会場をモニタリングしているんだろう。私だけが、すべてを知っている。  ミケの好きな人は、早瀬先生だった。私のバターサンドを横取りしたのはきっと嫉妬だった。早瀬先生がミケを“かず”と呼ぶのも、ミケが早瀬先生を裏で“諒”と呼んでいたのも、ぜんぶ。じゃあ、あの日ミケが言っていた「…でもお前も、早瀬先生が好きなんだろ」の“お前も”って、そういう意味で。 「ぉえ」  嘔吐いた私に気づいて、有紗ちゃんがこっちを見た。ルール上、声を発してはいけないから、話しかけてはこない。  恥ずかしさに押しつぶされそう。何もかもうまくいくはずなんてなかった。とんだ勘違いだった。動悸が早まって汗が噴き出てくる。身体が嫌悪感に苛まれても、筆は順調に進んでいくから日頃の習慣って恐ろしい。作品賞どころか最優秀賞さえ獲れそうだ。  タイマーを見て、残り時間の少なさに冷静になった。あとは落款を書いてハンコを押せば終わる。そうすれば私の書道部人生は有終の美を飾れる。動悸を落ち着かせながら筆に墨をつけて、持ち上げた。紙の端っこに移動する途中で、私は作品のど真ん中に墨を落とした。  私は作品賞さえ獲れなかった。最後に落とした一滴の墨の汚れが致命傷になった。  団体賞は、獲れた。有紗ちゃんが最優秀賞を獲って、ミケが特別賞を受賞した。後輩たちもみんな作品賞を獲った。私だけが何も獲れなかった。  部室に戻って、一通りの反省と感想を言い合った。後輩の保護者の方が持ってきてくださったリンゴケーキを食べながら、早瀬先生は今までで一番嬉しそうに笑っていたけど、その笑顔に私の作品は加点されていない。最後にミケが「俺は城崎の作品が一番好きだった」と言ってくれたけど、それは慰めにも心の傷にも何にもならずに、ただ右耳から左耳へすり抜けていった。  みんなが帰った部室で、一人残った私は入部したての頃に書いた臨書作品を壁からはがして破いた。破いて、破いて、私が書道部にいたという形跡をすべて消し去りたいという願いさえ込めた。最後に墨を落としたあの瞬間、確かに私には理性があったのだ。私の書道と恋に明け暮れた青春は、そんなしょうもないことで黒く染まった。  私の分だけ残ったリンゴケーキを食べた。中に隠れるようにして入っていたレーズンはやっぱり不味かった。 終
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