すべてなかったことにして

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 5月の上旬にもなると、ほとんどダメ出しもなくなって、自分の書体が安定してくる。早瀬先生も「その感覚を大会までキープしてね」というだけで、小さな綻びがあっても本人がわかっていると見透かしているのか、いちいち指摘してこなくなった。  3人の関係もほとんど元通りになって、本当にこのまま大会に臨むだけだという状況だった。  部活を終えて、校舎を出たところで、部室にペンケースを忘れたことに気づいた。19時過ぎ、先生たちもいないからと廊下を走って部室に戻ったら、中から話し声が聞こえてきた。誰かいる、と思うだけで特に気にせず入ろうとしたのだが、中から聞こえてきたのは早瀬先生とミケの声で、思わず入るのを躊躇した。 「大学決めた」  ナイーブな内容だったが、そんなことより私はため口に違和感を覚えた。ミケが早瀬先生にため口を使ってるところなんて見たことがない。 「そう。どこ行くの?」 「K大。諒と同じとこ」 「どうして?」 「俺も書道本気でやる。それでいつかあんたを超える」 「そっか、それは楽しみだなあ」 「それで、もし俺が大学に受かったら」 「いいよ。そのときは付き合おうか」  穏やかにそう言った早瀬先生に呼応するように「へへ、やった」とミケが照れくさそうに呟いた。  息を殺して盗み聞きしていた私は、逃げるようにその場を去ったけど、どうやって家に帰ったかわからない。気づけばベッドにくるまって、吐きそうになりながら声を押し殺して泣いた。涙の理由は怒りや悲しさじゃなくて、猛烈な恥ずかしさだった。
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