すべてなかったことにして

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 筆先を墨汁に浸して、そのまま持ち上げると墨がぽたぽたと垂れる。その筆を書道用紙の上に持って行って墨を落とすと、白かったものがじんわりと黒に染まって、限界まで広がって、まるで紙に大きな黒子ができたみたいに目立つ。これは私だ。私の真っ白だった青春は黒い染みがついて、もう何をどう施しても元に戻ることはない。  高校一年の春、入学したての私はそれまでずっと続けていた書道を誇りにして、書道部に入部した。県内一有名な高校だったため、部活動数はかなり多く、地味目な印象の書道部へ入部を希望したのは私含めたった4人だった。そして体験入部を経て、一人減って、最終の新入部員は3人に留まった。  高校から新しく書道を始めるという人間はやはり稀なようで、他2人も書道経験者だった。基本的な筆の扱い方や墨のすり方も分かっていたため、いきなり地域の大会に出品するための作品づくりに取り掛かった。顧問の早瀬先生は穏やかな感じの20代後半の男性で、とても書道をやっているような風貌には見えなかった。それでいて指導も何もなしにお手本だけ渡されて「とりあえず書け」と投げられたもんだから、少なくとも私は困惑した。 高校に上がるまではいわゆる個人教室で書道をやっていた。そこでは楷書と行書が基本で、段位を取得するために作品を書く。そこには明確に上手い下手があるし、先生のお手本をお手本通りに書ければ勝ちの世界だ。しかし、早瀬先生に渡されたのは昔の中国の石碑が載った写真で、そこに彫られている文字は楷書でも行書でもない。打ち込まれていない起筆に水平に書かれた線、払うような終筆。こんな書体は見たことがない。 「教えてくれないと書けません」 私は早瀬先生にお手本を突っ返して反論した。先生は一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐにほほ笑んだ。 「どうして?城崎さんの字、上手だよ」 「それとこれとは話が違います。この書体の書き方を教えてください」 「見たまんま書いてみて。一旦書いてくれないと、俺も口出ししようがないからさ」 頑なに拒まれることに呆れて、私の方が折れた。そんなに言うなら書いてやる。筆の入り方も線の伸ばし方も力の抜き方も、何もわからない私が書いたらどうなるのか思い知ればいい。そんな思いで仕上げた初めての作品は、目も当てられないほどひどい仕上がりになった。私だけじゃなく、一緒に入部したミケと有紗ちゃんも同じ惨状で、3人の作品を壁に貼って並べて見た早瀬先生は、笑って言った。 「これ、このまま飾っとこうね。毎日書いたらどこまで成長するのか、楽しみだなあ」  古典作品を真似して書くことを“臨書”というらしい。初めての臨書を終えて、早瀬先生がようやくすべてを教えてくれた。私たちが書いていたのは曹全碑という古典作品で、隷書と呼ばれる書体を用いている。逆筆と呼ばれる手法で筆を入れ、滑らかに線を引いて、最後は芸術的に波磔をつくる。書道なんてやったことないくせに、と心の中で悪態をついたことを、改めて心の中で謝罪した。先生の書く線は目を奪われるほど綺麗で、細い線もまるで芯が通っているように力強くて、出来上がった一文字はあっという間に私の脳内に焼き付いた。この人の字が好きだ、という思いは、季節を重ねるごとに、この人が好きだ、に変わっていった。
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