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<2・無知。>
話は、一カ月ほど前に遡る。
「室井さんってー、彼氏とかいないんですかあ?」
「え?」
後輩社員が口にした言葉に、室井摩子は目を見開いた。
今まさに、仕事を終えてパソコンのシャットダウンをしていたところである。隣に座る後輩社員こと津田美冴は、にやにやと笑いながらこちらを見ていた。やや社会人としては似つかわしくない、明るい茶髪の髪が揺れる。派遣社員だから許されているんだろうな、となんとなく思った。まあ、ちょっとチャラいだけで性格が悪い人物ではないのだが。
「貴女ねえ。それ、ヘタしたらセクハラになるわよ?」
摩子は呆れて笑う。
「同性同士でもセクハラって成立するんだからね?忘れないようにー」
「うえー、最近の社会人むずかしー!……で、それでそれで?彼氏は作らないんです?」
「そんなに気になるの?」
「気になります!」
摩子が本気で怒っているわけではないと悟ったからだろう。はーい!と小学生のように手を挙げて美冴は笑った。
「だって、私にとって室井さんは憧れの先輩なんですもん。仕事早いし、人に教えるのも上手だし、美人だし有名大学の出だし!運動神経も悪くないって聴きましたよ。そんな好条件すぎる物件を、まともな男がほっとくとは思えなくって!」
これは何かおこぼれを狙ってるな、と直感した。摩子は彼女の額の中心をつんつんとつついて言う。
「そんなに露骨に褒めても何も出ないって。さては、良い男を紹介してくれとかそういうクチ?この間付き合ってた彼氏はどうしたのよ」
「別れた!全然ご飯奢ってくんないんですもん!」
「たまに貴方が奢りなさいよ、一応仕事してるんだから。いつまでも学生にタカってるんじゃないの」
「ちえー。シビアー」
そもそも、金遣いが荒そうな美冴を相手に、付き合おうという男もなかなか良い度胸だなと思うわけだが。
大体、男が女に奢って当然、という価値観が既に古いのではないかと摩子は思う。それが通ったのは、男性の方がお金を稼いでいたケースが多かった時代だろう。今は、男女ともに仕事をしていることも少なくないし、場合によっては女性の方が稼ぎが良いことだってあるはずだ。それならば、女性の方が奢ってもいい場面も少なくないだろう。精々折半するべきだ、なんて言ったらますます美冴はむくれてしまうのかもしれないが。
――彼氏ねえ。
パソコンの電源が完全に落ちたことを確認して、摩子はバッグを持って立ち上がった。確かに、自分で言うのもなんだが己はそれなりの美人だろうとは思っている。中学校、高校、大学。そして社会人の今に至るまで、モテなかったことは殆どない。
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