先生

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先生

小鳥遊と言う男は、書生である。彼の書いたモノは世に出ていない。行き着く先は、良ければ引き出しの中にしまわれ、悪ければちりかごの中にしまわれる。  昨日も、一昨日も垣谷先生からダメ出しを貰い、原稿がただの紙切れになった。赤を入れろとお願いすれば「自分で考えてみたまえよ」と答えられる。 「赤を入れる時間が勿体ない」 「赤を入れたら、それこそこの原稿は赤に塗れてしまうよ」  といった、痛烈な言葉の度、小鳥遊は目の前の男を殴りたくなる。頭を下げて原稿を抱えて部屋に戻り、原稿を破くことも丸めることも出来ず引き出しにしまう混む。  何度やめようと思ったか分からない。逃げることも楽なのだが、小鳥遊は小説家になるためはるばる上京してきたのだ。 「文豪になって帰ってくるき、まっちょれよ!」  家族にそう豪語し、家を飛び出してきた分戻る事は難しい。  両親は健在で、年の離れた頼もしい兄や姉が弟たちがいる。実家の方は安泰で、それに小鳥遊は三男坊だ。甘やかされて育ち、厳しくはあったが祖父母にも応援されてきた。だから余計にこの現実に打ちのめされていた。  今日こそ先生から良い言葉を聞けたら良い。  面白く無さそうに「いいんじゃないかね」と言われるならば万々歳だ。残念なことに小鳥遊は先生からそう言われたことが今の今までない。  仲間が垣谷先生に言われたのを偶然聞いていたのだ。否定しか出来ない男だとは思ったが、実際の所負けず嫌いで根性のねじ曲がった男だ。つまらなさそうにすればするほど、あの笑みさえ消せればいい。  だから、今日こそ先生を驚かせると思った小鳥遊は、聞こえた声に思わず廊下で足を止めた。  来客が来ていた。  先生の古い友人は飯塚隆と言った。  やはり先生と同じ文字を書く人で、こちらは本当の先生というところか。どこかの雑誌によく寄稿しているという。  話には聞いていたが、やはり類は友を呼ぶというものだ。二人は煙草を呑みつつ、「最近の若いモノは文芸というのを分かっていない」と熱く語っている。  それだけでもげんなりするというのに、今回の話はどうやら小鳥遊の事だった。 「アレはね。奇妙な副業をしているのだよ。私が仲介をしてやっているのだけれど、それなりに働けるモノでね。そうでなければこんな所に置かないよ。だって、キミ。あれは幽霊を見るという、ココが少しばかりおかしな者なんだよ」  垣谷先生はそう言って、煙草を置くと自分のこめかみ付近で指をくるくると回して見せた。ソレを見て飯塚がふふふと笑う。   それを聞いた小鳥遊は、体が発火したと錯覚した。目の前が真っ赤に染まり、怒っているというのに、頭はみるみるうちに冷えていく。  静かに興奮したまま、というのは妙だが、小鳥遊は静かに障子を開けると驚く二人を見て火鉢を蹴り上げた。運良く火鉢は使用されてなかった為、火事になることは無かった。が、灰は畳に広がった。 「先生はわしの事をそう思うちょったがか」  小鳥遊の声は、自分が思った以上に冷静だった。  心臓がバクバクと鳴り、理性は「やめろ。ここで暴れては小説家人生の終わりだ。実家に戻って後を継がなきゃいけないんだぞ」と叫ぶ。が、感情はもう駄目だった。  小鳥遊をせっついて「殴れ、殴ってしまえ! 何のために今まで耐えてきたんだ」と叫ぶ、叫ぶ。 「先生。仲介料をちょろまかしちゅう事をわしゃよう知っちゅう。それでいて、わしに「金を寄越せ」言い寄ってきちゅうよね」 「小鳥遊君! 無礼じゃないか!」  灰と小鳥遊を交互に見ながら垣谷が叫んだ。普段ならその声量に身を縮める小鳥遊だが、今はそんな様子を一切見せない。 「無礼や言うがはそっちやないか? なあ、先生。わしゃ我慢しちゅう。「あがな仕事はもうせん」と、わしが散々言うても無視をするがは先生やよね」 「小鳥遊君!」 「おまん。おまんも変わらん。厭な臭いがする。何人踏みつけてきたか知らんが、わしには分かる」  小鳥遊は来客である飯塚を見て鼻で笑った。  この時代、身長が百七十センチというのは大きい方だ。だからこそ、飯塚は顔を青くし、小鳥遊と彼の先生というのを交互に見ている。 「今までわしがここに居ったことを感謝せんといけんな。先生。誰があんな恐ろしいことを解決してきたのかということをしてきたか忘れてしもうちゅーようでは、いけんよ。わしゃ出て行く。こがな、こがな人が腐ったような所、臭うて適わんき」  垣谷の声を無視し、小鳥遊はわざと足音を立てながら自室に戻ると数少ない自分の荷物と原稿を持って家を飛び出した。  立腹する垣谷の隣では、顔を青くし手を震えさせた飯塚が 「垣谷君。彼は、彼は、あのことを知ってはいないんだろう?」  と篩える声で尋ねた。    厭なことを思い出す。  目を射貫くような厳しい西日。  影になって見えなかった彼の顔。  それが自分に向けられた純粋な悪意と知ったとき、飯塚はその場に座り込んだ。  どんよりした黒い目が訴えている。  陰気で、口下手なくせに紙の上では饒舌だった彼が、今度は目で、腐臭で、この狭い六畳間で訴えている。
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