本郷家にも

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本郷家にも

* * *  〈聖ローズマリー総合病院〉では、普通分娩で出産した産夫の入院期間は五日間と決まっている。  授乳指導や沐浴指導、赤ちゃんの聴力検査などをこなし、体の疲れもとれてきたころ。  入院五日目。いよいよ退院するこの日、南條と巽は貢治の病室を見舞いに訪れた。  貢治は巽から二日遅れで出産しており、この日も病室でオメガの娘と本郷と過ごしていた。 「あ、巽さん! 無事に赤ちゃん、産まれたんだね。よかったね」  ベッドに座ったまま明るい顔で笑ってくれた貢治に、巽もうれしくてたまらない。妊娠高血圧症候群という病はときに母子の命を脅かすと聞かされていただけに、心配でならなかったのだ。  今、貢治が元気で、赤ちゃんも元気で、まるで自分のことのようにうれしかった。貢治の目の下には隈が浮かんでいたし、唇も白い。だが、巽はそれほど気にならない。こちらの憂いや心配を吹き飛ばすほど、貢治がうれしそうだったからだ。 「巽さん、ここ、座って」  わざわざ自分の座っていた椅子から立ちあがって席を譲ってくれた本郷に礼を言い、巽は椅子に掛けた。南條は病室の扉の前で中を覗きこんでいるが、入ってはこない。  巽は貢治の手をそっと握った。手は冷たく、少し湿っている。 「貢治さんも、赤ちゃんが無事に産まれてよかったです!」 「ありがとう。意外とあっさり産まれたよ。おれ、痛みに強いみたい。巽さんは?」 「おれはへろへろになっちゃいました」 「よく頑張ったね」 「へへ。貢治さんも」 「うん」  握手し、笑いあう。貢治がちらりと扉の前の弟に視線を向けた。 「成市郎、ほっとしてたでしょ?」 「はい。それに、おれ以上に喜んでくれて」 「あの空蝉双遇の子どもなんだよね?」 「……はい。南條先生はそれをわかっていて、お父さんになるって言ってくれたんです」 「そうか。愛だね」  さらりと「愛」という言葉を口にした貢治に、巽は少し赤くなった。未だに愛も恋もよくわからない。わかるのは、先生大好き! という情熱の爆発だ。先生、大好き! と思いが弾けるとき、巽の胸の中の風船はいっせいに空へと解き放たれていく。いつも、何度も。  貢治は突然言った。扉の前に佇む弟を見ながら。 「許さないって決めたら、気が楽になったよ。うん。おれは、成市郎を許さないことに決めたんだ」  巽は黙ってうなずく。貢治のそばに佇み、本郷も黙っていた。貢治は娘の小さな親指に触れ、しばらく撫でていたが、巽を見て微笑んだ。 「巽さんは、きっと許してほしいと思っていたよね」 「おれは……」  ふっくらした唇を結び、巽は貢治を見つめる。黒い瞳が案外平静なことを感じて、だから巽も動じずにいられた。 「おれは、貢治さんのお気持ちを大事にしたいです。だってやっぱり、先生はしてはならないことをしたと思うから」 「成市郎は、あなたの愛する人だ。それでもそう言えるの?」 「はい。ただ、おれは先生を愛し続けます。それだけは、わかっていただきたいんです。すみません」 「わかってる。あなたは成市郎を愛している。成市郎のことを許さないって決めたけど、あなたが成市郎を愛してることを、おれはどうこう言うつもりはないよ」  貢治はにこっと笑った。きれいな犬歯が剥き出しになる。 「あのね、巽さん。あなたならわかるんじゃないかな。成市郎は、おれのために死ぬかな?」  いつの間にか笑うのをやめた貢治が、一途に巽を見つめていた。巽はかすかに微笑む。 「先生は、死ぬと思います」  「そう。だったら、いいんだ。おれのために死んでくれる人は、そうそういないね」  貢治は再びにこっと笑う。 「成市郎に言っておいて。おれは巽さんとは仲良くしたい。だから、巽さんに悲しんでほしくないから、おれの見てないところでは生きてることは許してあげる、って」 「はいっ」  巽が勢いよく振り向くと、南條は極度の緊張からか白い顔をしていた。話は聞こえていないらしい。ただ、律儀に扉の前で待っている。 「貢治さん!」  そう叫び、本郷が急に貢治を抱きしめる。巽も貢治を抱きしめた。三人は貢治を中心に団子になって、ぎゅうぎゅうと体を押しあって、子どものようにけらけら笑った。  その後、巽は南條の元に駆け寄った。軽やかに走ってきた巽の体を抱きしめ、南條は「まだ走らないほうがいいよ」と慌てた。 「巽さん、いつかうちに遊びに来てね」  そう貢治と本郷に誘ってもらい、巽と南條は病室を後にする。  そして、退院。  三人の生活がスタートした。
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