21人が本棚に入れています
本棚に追加
6
「ごめんなさい」
固そうな扉の向こうから、もう何度繰り返されたかわからない台詞が聞こえた。
その声は今朝とは違い、いやに落ち着き払っていて、深い海の底にいるような漠然とした不安に襲われる。
僕は白井さんの実家であるマンションの部屋の前にいた。白井さんは玄関までは来てくれたが、それは彼女が謝りたいからであってドアが開く気配はない。
「もういいって。白井さんは何も悪くない。僕もあんな噂気にしてないし」
「ううん、私が悪いの。軽率だった」
色の無い声が聞こえる。耳で拒絶を感じる。
「ラーメン食べただけだろ」
「違うの。もっと前から間違えてた」
さっきから何を言ってもこの調子だった。目の前にある扉のように彼女の心は固く閉ざされている。
「失敗した。私は誰かに近づいちゃいけなかったのに。私の近くにいる人が周りからどう思われるか、わかってたのに」
口調は乱れない。ノイズもない。無機質な声だ。
なのにどうしてか彼女が泣いているように聞こえた。
「私が楽しいと周りがどうなるかなんて、わかってたのに」
ああ、と僕は気付く。白井さんは強いわけじゃない。
彼女は不幸でありたいのだ。
自分が不幸せなぶんだけ他人は幸せになるものだと信じ切ってしまっている。
それなら彼女の行き過ぎた優しさにも説明がつく。きっとたくさんの歪んだ幸せを見てきたのだろう。
雑用を押し付ける人は楽ができて嬉しそうだったろう。
陰口を叩く人はエンタメを撒き散らして楽しそうだったろう。
他人の不幸は蜜の味と言うなら。
彼女はその蜜を運ぶ蜂になろうとしているのだ。
最初のコメントを投稿しよう!