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黒く塗りつぶした、音の立たない革鎧を纏った男は馬を駆らず己の足で夜の街を駆ける。路地の裏から裏へ、屋根の上から上へ。眠らずの街ドルガノブルクは夜も明るいがそれ故に闇はより濃さと深さを増して映える。
“連続行方不明事件”
ケインが今追っている案件は巷でそのような呼称をされていた。治安の悪いこの街だ、スラム同然の下流街であれば行方不明者も別に珍しいわけではない。なんなら中流街、上流街でもそれなりの手続きさえ踏めば大した問題にはならないことのほうが多い。
だがこの暑い季節の間に既に五人が行方不明になっていた。彼らはみな夜間に出歩いていたとの情報があるため誘拐なのは間違いないだろうが、動機がわからず捜査は難航している。
最初の行方不明者は城下町の玄関とも言える東区の下流街に住む露店商人の妻だった。子を孕んでいた妻が消えて露店商人は大騒ぎで訴え出たそうだが、しかし下流街は自警団が仕切っており騎士団としては事後に事情聴取程度はするものの実質的には管轄外だ。
ふたりめはやはり下流街の、今度は酒場で働く給仕女だった。時間になっても仕事に出てこないので店の者が住んでいる小屋まで様子を見に行ったところもぬけの殻だったらしい。下流街なら夜逃げの可能性も十分考えられたが、自警団は一応見回りを強化するようになった。だからだろうか、三人めは中流街から出てしまった。
それは城に勤める役人だった。
真面目だけが取り柄の、この街では注目もされず出世もままならず静かに終えるだろうと思われていた彼の名は、皮肉にもその姿を消してからこそ最も輝いた。
悪徳蔓延る最果ての街ドルガノブルク。しかしその頂点に位置する者共は誰あろう領主であり、貴族であり、騎士であり、役人である。
正義なく倫理なく法すらなくとも秩序あり。
大義名分も無いままにそのひとりをどうにかされたとあっては領の沽券に関わる問題だ。この事件をきっかけに普段は動きの鈍い騎士団がいきなり本腰を入れた。
街の各所を隔てる門の通行記録を調べ巡回警備を強化して炙り出しに勤しんだが、しかし犯人は見つからない。
あまつさえそのあと更にふたり、しかもそのひとりが運悪く貴族の娘だったことからとうとう特別夜間対策室にもお鉢が回ってきたというわけだった。
「まったく、だったら最初から任せてくれりゃいいのにねえ」
ケインはひとり見回りを続けながらぼやく。
実はケイン自身、この見回りで犯人を見つけられる可能性はほぼ無いと思っている。
通行記録から十数名の容疑者が絞り込まれ、彼らには騎士だけでなく領主個人が持つ私兵“緋刃隊”まで投入してその全員に監視がついている。にもかかわらず出てしまったふたりの行方不明者。
まず尋常の方法では実行自体が不可能。
それに同一犯だとするなら被害者の属性はまちまちで動機も不明なままだ。なんの手がかりも無いでは埒が明かない。非論理的ではあるが、事態の進展にはなにか閃きが必要だとケインは考えている。
一通り見回りをこなして休憩のため詰め所へ戻ると、退勤前にクラリアが置いていったのだろう軽食と思しきものがケインの執務机に置かれていた。
灯りもつけないまま、埃避けにふわっと被せられた赤色の手巾を手に取って、ふとその動きが止まる。
違和感。
品の良い絹地のそれは深くも鮮やかな独特の紅色。聞けば最近の流行なのだとか。確かに警備の任務で社交会の様子を覗くこともあるケインだが、特に女性の衣装には赤系統が増えている印象がある。
とはいえ、上流階級の流行り廃りなどケインの関心事ではない。彼はしばし気まずそうにその手巾を眺めていたが、ひとつ深い溜息を吐いて「これも仕事」と呟くと目を閉じてそっと自分の鼻に当てた。
仄かな香水と入り混じる嗅ぎ慣れた彼女の匂い。そして薄れ切っているが染料とそれを定着させるための薬液の臭い。更に幾重にも脱臭処理されたその先に秘められた香りは……。
「なるほどねえ」
手巾を畳んで執務机に置くと、香草で蒸し焼きにした肉を挟んだ粉練りを素手で掴んで齧りながら思案を巡らせる。
“連続行方不明事件”に関係があれば上々、もし無かったとしてもこれを放っておくのは少々拙い。
申し訳ないけど朝一番でクラリア嬢に動いて貰おうか。
その為には日が昇るまでに要点を十分に詰めておく必要がある。
ケインは黒塗りの革鎧を脱ぐと初めて部屋の灯りをつけた。今宵はここまで。形ばかりの見回りは部下たちに任せておこう。
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