姿なき誘拐者

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 上流街、中流街、下流街は高い壁で仕切られていて休まず見張りのいる通用門を必ず使わねばならず、それは貴族も平民も旅人も、騎士であるケインも例外ではない。  もちろん裏社会で使われる抜け道は存在するが、そもそもこの領で表と裏は昵懇(じっこん)の間柄だ。領主まで動いているこの状況でまだ繰り返し活動する誘拐犯の肩を持ったりはするまいとケインは踏んでいた。  つまり各地区を跨いで活動するにはなんらかの方法で移動ルートを確保しなくてはいけないが、そんなものをはたして個人で用意出来るだろうか。逆にそこそこの規模がある犯罪組織だとするなら古参のとは違う新興勢力が入り込んでいることになり、話が大きくなり過ぎる。それはそれで厄介だ。 「面倒な話にならなけりゃいいけど」  下流街まで一気に駆けてきたケインが辿り着いたのはヴィダンが倉庫として買った薄汚い小屋だった。この辺りの建物としてはそこそこしっかりしていて戸締りも厳重だ。 「さてと」  周囲の建物屋根伝いにぐるりと回ると、高い位置に付いている鎧戸のひとつに飛び付いた。一瞬のうちに命綱を付けた鉤を窓枠にかけて体重を支えると、薄い短剣を隙間に差し込んで内側にある鍵を跳ね上げ、するりと侵入する。  月明りもほとんど入らない暗い室内は大量の染料や染色に使う薬剤の匂いが充満していた。布生地もあるがここに高級な物は置いていないだろう。  ケインは意識を集中して“あるべき匂い”と“あるべきではない匂い”を嗅ぎ分ける。  ほんのり湿気を含んだ土の匂い。部屋の隅に無造作に積まれているクズ布の山を押し退けると、床の一部が蓋のように外せ、その下に縦穴が見つかった。  簡素な縄梯子は古びている様子はなく穴自体もそこそこの広さがある。鎧に帯剣のままでも十分降りられそうだ。 「まあ見つかっちゃったものは仕方ないよねえ。仕事だしねえ。というわけでお邪魔しますよお……っと」  言い訳のように楽しそうに呟くと音もなくするすると縄梯子を降りていく。底までは大人の男数人分の高さがあり、降りた先もそれなりに広い。ここまで来るとなんの光も届かない真っ暗闇だが、ケインの鋭敏な耳と鼻はそれなりに空間を把握していた。ところどころ崩落防止と思われる建材が埋め込まれているもののほとんどが土肌で、相当に古いのか表面は苔むしている。  奥へ進むにつれて新たな匂いが混じり始める。  嗅ぎ慣れた傷と死の臭い。  そこは部屋のように押し広げられた空間だった。気配はひとつ。か細い呼吸。恐らくは若い女。  そういえば最後に消えたのは貴族のお嬢さんだったなとケインは思い出す。 「お嬢さん、お迎えに上がりましたよ」  小声で囁くと「ひっ」と短い悲鳴が響いて怯えるように呼吸音が止まった。 「ご心配なく、騎士団の者です。今すぐにここからお出しします」  灯りは付けない。恐らく室内は凄惨な状況だろう。彼女は既にそのなかで何日も捕らえられているのだろうが、それでもこれ以上、見なくていいものは見ないほうがいい。 「少々失礼」  手探りで彼女の拘束を確認し、ただの縄だとわかったのでさっさと短剣で切断すると両手で抱き上げ来た道を戻る。 「あ、ありがとうございます……あの、お名前を……」  戸惑うように問う彼女にケインはこの暗闇ですら青く輝く双眸を向けて答える。 「名乗るほどの者ではありませんが、そうですね。ひと呼んで“真夜中の騎士”」  小さく名乗りを上げてくすりと笑った。手柄を急くにはまだ早く、そして自分には必要ない。
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