シラユキ

10/12

38人が本棚に入れています
本棚に追加
/189ページ
  7    この町を東西に貫いている道はすべて坂道になっている。坂道はすべて海に向かっている。海のふちにまで迫っている休火山の肌に町が作られているからだ。 その坂道に直角に交わる横向きの道が、山の等高線を刻んでいる。碁盤の目みたいに区切られたあちこちから温泉の湯気が惜しげもなく湧き出している。 坂道と海と温泉の町だ。彼は明るい調子でしゃべった。 「ここって、町中で温泉の匂いがするね」 「はい」 「なんか癒されるよね。歩いてるだけで肌がつるつるになる気がしない?」 「はい」 さっきからシラユキは『はい』しか言ってない。こんなに彼がそばにいるのに顔を見ることができない。ずっと下を向いて歩いている。何か話したいのに、自分には話せることが何もない。 シラユキは「恥ずかしい」と感じた。こんな感情は今まで知らなかった。心が小さくなっていく気がした。 「名前、教えてもらっていい?」 「・・・・」 「名前」 「・・はい」 「あなたのお名前、何ですか?」 目線を落としてとぼとぼ歩いているシラユキの顔を、彼が覗き込んだ。 「うわ」 シラユキは驚いて、一歩下がった。しかしそのおかげでしっかりと彼の顔を見ることができた。 「そんなにびっくりするなよ。あなたのお名前を教えてください」 「シラユキ・・・です」 「シラユキちゃん?」 「はい」 「苗字は?」 「え?」 「苗字。上の名前」 苗字。私の苗字。考えたこともなかった。みんな私の事を名前で呼ぶだけだもの。私に苗字なんてあるんだろうか。シラユキはまた目線を落として黙り込んでしまった。長いまつげが、強い日差しの下で陰影を作っていた。    
/189ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加