視る男

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 俺が赤ん坊だったシラユキを抱きしめて、逃げていく大人の集団に何とか食らいついて故郷の島、イスラ・コン・ティキを出たのは十歳のときだった。  何が起こったのなんか全然わからなかった。ただ、昨日まで静かだった街に銃弾が飛び交った。目の前で母親の頭が撃ち抜かれた。銃を持った男たちがしゃべっている言葉は、理解できないことはないけど、俺たちの言葉とはだいぶ違っていた。 海を挟んだ隣国が夜に奇襲を仕掛けてきたのだと、日本の学校に通うようになってから現代社会の授業で少しだけ習った。教科書で欄外にほんの数行。マーカーを引くまでもない内容だった。テストにも、当然出ない。俺の周りに座っている同級生たちにとっては、よく知らない国の政変にすぎない。 でも俺は、目にしみる硝煙と、母親の血の匂いと、割れたガラスを踏みしだく男たちの靴音を、脳にえぐりつけるように刻んでいる。未だに悪夢をみる。6歳の弟は窓から投げ捨てられて、お姉ちゃんはどこかに連れていかれた。俺は七ひきの最後の子ヤギのようにシラユキを抱きしめてクローゼットの片隅にうずくまっていた。シラユキは泣かなかった。赤ん坊なのに、俺と一緒にじっと息をひそめていた。部屋が静かになるのを待って外に出た。たくさんの人が入り乱れ、泣き叫び、逃げていく。その中に知っている顔を見つけた。あの人だ。 「マドレ」 なぜそう呼んだのか。俺にはあの人が『母』に見えたのだ。 マドレは振り返って俺の手を引いてくれた。「走るのよ。苦しくても、走るのよ」 俺の手を握る強さを、今でも覚えている。安全な場所まで走り切った俺を、抱きしめてくれた。その時初めて俺は、マドレの顔の左半分がひどく腫れあがっていることに気が付いた。首は紫色に鬱血していた。 「これ、どうしたの」 「殴られたのよ。そのあと、首を絞められたの。ひどい男に」
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