視る男

6/8
前へ
/189ページ
次へ
  「それじゃダメなんだよ。お前は、『普通』になるんだ。その状況なら、いっそいじめられた方がいい」 中学校は校区を変えて進学した。そのころには『普通』になれていたのだろうか。女の子から告白されて三か月付き合って、一度キスして別れた。あまり部員のいない運動部を選んで三年でレギュラーになって、県大会では三回戦で負けた。泣いている同級生の肩を抱いた。多分、これは、普通なんだろう。自分が理解できた普通を、装うことができていたと思う。 ただ、それ以降彼女は作らなかった。初めてデートしたときに握った彼女の手がびっくりするくらい柔らかかったこと、握り返してきた力が思っている以上に強かったことが、怖かったのだ。このまま、放せなくなったらどうしようと、怖かった。 マドレは、学校の話を聞くのが好きだった。 「そのまま握り続けていたら、どうなっていたのかしらね」 マドレは、俺の髪をなでながら、どこか遠いところに話しかけているような声でそう言った。俺はマドレの胸に顔を埋めていた。10歳のころ、どこに行くとも分からないコンテナ船の中で、マドレに抱かれていたころとは、もちろん意味合いが違う。 「どうにもならなかったよ。そうだろ」 「そう?ずっとその手を握っていたら、どこかに行けたんじゃないの?」 「どこに?」 「どこかよ」 「どこかなんて、何も知らないくせに。」 俺は意地悪な気持ちになっていた。日本に来てから、マドレが外の世界と接するのは夜に客の相手をするときだ。日本語もあっという間に俺の方が上手になった。多分マドレは電車に乗ったこともない。 「そうね。あたしは何も知らない」 マドレがすごく悲しい顔をした。違う。そうじゃない。こんな話になるはずじゃなかった。俺は「マドレの手は離さなかったよ」と、言いたかったんだ。本当に言いたいことは、後戻りできなくなってから浮かんでくる。 なんでなんだろう。 俺は、上体を起こしてマドレを見下ろした。長い黒髪が、シーツの上に四散して、そのうちの幾筋かが顔にかかっていた。その髪をかき上げると、白いたまごのような顔が完璧な均整を見せて、うっすらと俺に微笑んでいる。これ以上ないくらい近くにいるのに、窓辺に居たときのマドレよりも遠く感じる。
/189ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加