フェスティバル

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「動かないで」 甘く、しみこむような女の声がした。 その声によって、ホール内の人間はその場にくぎ付けになった。いつの間にか甘い香りに包まれていた。硝煙の中でも、その香りは確実に会場の人間に浸透していたのだ。 動けない。でも、動けないことが心地いい。極上の羽毛にくるまれて立ち尽くしている感じ。スノウホワイトのクモの糸で編まれた巣に、絡めとられたのだ。 だれがやったかは分かってる。マドレだ。あの時中田に作らせた薬を使ったのだ。ジャケットを脱ぎ捨てると、黒いキャミソールからつややかな肌が露出していた。ていねいに塗り込んだクリームから、体温とともに放出される香り。とき流した黒髪はこんなに長かったのか。髪の一本一本からも甘い毒が漂っている。そして、吐息。錠剤から体内に吸収した成分が、マドレの唇から放出されている。 まだこれだけの力が残っていたのか・・いや、この日のために整えていたんだな・・とボスは舌を巻いた。 全身から甘い毒を発しているマドレは、恐ろしいくらいに美しかった。 要人は、ホールの壇上に立ち尽くしていた。マドレはその前に歩み寄った。 「あの夜以来ね。エイドリアン。犬のようには死ななかったわ」 「そのようだね」 二人は、母国の言葉で語っていた。  虐殺の夜 エイドリアンは娼館を訪れた。  エイドリアンと娼館の女たちは特別な関係があった。表向き外務省の職員だった彼の隠された仕事はスパイ活動。秘密を聞き出したい相手を花街に手引きして、手に入れた情報を売買していたのだ。 イスラ・コン・ティキの財政の一角を担うくらいにその役割は大きかった。 エイドリアンは娼婦たちの身の安全を保障し、娼館や家族から搾取されないように配慮してくれた。あちこちから火の手が上がり、銃声が飛び交い始めると、娼館の使用人たちは一目散に逃げて行った。 残された女たちはエイドリアンの姿を見て歓喜した。救出に来てくれたと思ったのだ。 でも、違った。 エイドリアンは女たちを一階に集めると、マドレを乱暴に引き出して自分の背後に押しやった後、残った女たちを撃ち殺した。慣れ親しんだ人たちが次々と悲鳴を上げて、床に転がって動かなくなった。マドレは声も出せなかった。  エイドリアンはマドレをわきに抱えて外に放り出すと、娼館に火をつけた。身売りしてから十年、世界のすべてだった建物があっけなく燃え上がっていくのをマドレは呆然と眺めていた。 エイドリアンはマドレの客でもあった。エイドリアンの語る世界は美しかった。アルプスの雪、日本の桜、パリの街並み、ベネチアの夕ぐれ・・・・ いつかエイドリアンが自分を世界に連れ出してくれるのだと信じていた。なぜこんなことに?  気が付けばマドレはジープに乗せられていた。郊外の草地に放り出され、殴られた。何度も拳で殴りつけられながら犯された。
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