無明1

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無明1

 阿片を積んだ小型ジャンクは、細くうねる運河から大橋が幾つも架かる城市の大動脈たる蘇州河へ入った。黄浦江(ワンプーチャン)を中心に三十数本の運河が流れる上海は、水の都でもある。大小さまざまな船が行き交う宵の河面を、果実を積んだ小さな荷船が少し離れて着いて行く。乗っている二つの人影は、いずれも墨色の短衫(タンシャ)(単衣の中国式のシャツ)に袴子(クーズ)(中国式のズボン)という平凡な姿だが、およそ物売りらしくない風貌の持ち主だ。  櫓を漕いでいる麦藁帽子を被った小柄な少年は、いつ陽を浴びたのかと思うくらい色白で、背中合わせに座っている精悍な体躯の男は、ぼさぼさの髪に無精髭という地棍(ごろつき)のような風体だが、古びた洋燈の暗い光に浮かぶ顔は、はっとするほど端正だ。  前方のジャンクが狭い運河に入ってゆき、(つげ)は頭の中で地図を広げた。仕事を始めて以来関わってきた倉庫や碼頭(マートウ)(埠頭)は、全てサスーン財団の所有であった。財団は阿片王であると同時に、地産公司をはじめ多くの関連公司をもつ不動産王でもある。  運河を上ってゆく先に、柘は一つ心当たりがあった。去年の早春に急死した財団前会長の夫人であり、柘の上客であるマダム・サスーンの広大な別荘だ。  阿片王の妻でありながら阿片に批判的なマダム・サスーンは、中毒者のための更生施設を作り、苦界に身を沈める女たちや捨て子の救済に尽力する聡明な婦人である。春に催された慈善パーティーでダンスパートナーを務めたときは顔色もよく元気そうだったのに、梅雨の頃から健康を害し仏蘭西租界(ふらんすそかい)の自宅で伏せっていると聞く。  宵闇のなかを行き交う船の様子を窺いながら、上品な老婦人のふくよかな笑顔を心に描いたとき、ふいに、 「女を助けられたら、どうすんの?」  (リュイ)が背中ごしに訊いた。 「無事であれば、来春、子が産まれる。彼女と、産まれてくる子の支えになれればと思っている」 「他人の為に生きるのか」 「役に立てるなら、生きる甲斐があるというものだ」 「どうして自分の為に生きない。他人の女の為に生きるなんざ、枯れた爺のやることだ」 「勝手だぜ」    柘は短く返して、ライフル銃を手に取った。  後方の小舟がにわかに近づいて来る。声を掛けると、よく日に焼けた初老の痩せた中国人が柘榴(ざくろ)はあるかと訊いた。 「娘が、嫁に行くんで……持たせてやりてぇんだが……」    初老の男は柘の風体を見て表情を曇らせたが、それでも諦めきれないようで、靴を積んだ古い小舟を漕ぎながら、偽装(ぎそう)用に積んだ果実をしきりにのぞき込んでいる。  柘榴は果肉をもつ淡紅色の種子を無数に宿していることから、繁栄をあらわす縁起のよい果実とされ、また新婦が食べると子宝に恵まれるとも云われており、新床に備える習慣があるのだった。 「柘榴はねえよ」    (リュイ)がすげなく言い、靴売りが痩せた肩を落としてうつむく。その落胆ぶりがあまりに気の毒で、柘は思わず、 「娘さんはいつ嫁に行くんです」    と訊いた。 「明朝なんだが……」  靴売りの声は消え入りそうだった。  襤褸に近い身なりから下層労働者とわかる。一日中靴を売っても、舟の貸し料、靴の卸し料、親方に上納する商売料をさっ引くと、食べていくのがやっとの貧しい暮しがしのばれる。こんな時間になってようやく使える銭ができたのだろう。柘はなんとかしてやりたくてライフル銃を置き、暗がりで積荷の果実を探った。 「少し待っていてください」  丁重な言葉使いに、靴売りが恐縮したように首を竦める。  (リュイ)が背中ごしに文句を言ったが、柘は無視した。しばらくして拳ほどの実を見つけ、袖で磨いて靴売りに渡す。 「お代は入りません。祝事ですから」  柘がそう言うと靴売りは何度も頭を下げ、日焼けした顔にちょこんとある小さな目に涙を滲ませる。運河の端に小舟を寄せ、見送るようにいつまでも手を振り続ける。  小さくなってゆく舟影を見つめながら、柘は嫁に行くという彼の娘に思いを馳せ、祝の夜のクリスとヴェーダを想い——オリガを想った。 (あのまま連れ去っていたら——彼女は幸せになれただろうか?)  つかのま考え、そうはなるまいと思った。(たと)え平和な日々が続いたとしても、演じるだけの空っぽな男が、生身の女性を幸せにできるはずがないではないか。まして疫病神の罪人と関わりあっていいわけがない。それなら、あの時——自分はどうすればよかったのか?  霧の立つ黒い河面を見つめて自問するも、答えなどわかりようもなく、ただ刻一刻と水海月(みずくらげ)のアジトへ近づく現実に心臓がじわりと締めつけられる。  マダム・サスーンの別荘は、清朝の高級官僚の別荘だったというだけあり、広大な敷地に運河を引き入れ、幾つもの庭や離れ屋敷があるのだった。輸送の便を考えても、青幇(チンパン)の目を欺くこと考えても、アジトにはもってこいの場所である。そう考えると、柘にはもはや、この運河の先にヴェーダが囚われていると思えてならなかった。 (彼女が生きてさえいれば、なんでもする)  だが——  柘は考えまいとした。そしてヴェーダの華やかな笑顔とクリスによく似たこどもの顔を心に描こうと努めた。それは、かろうじて穏やかな母子の像を結んだが、胸に渦巻く不吉な予感を消し去ることはできなかった。現実はいつも柘に最悪を用意する。望みが叶ったことなどあっただろうか? 「まったく旦那は呑気だな。靴売りの親爺が青幇(チンパン)だったら、どうする気だったんだよ」  (リュイ)が呆れ声で言う。 「そういや旦那の苗字は、柘榴(シリォウ)()だよな。他人の心配ばっかりしてねえで、自分こそ商売でも子孫でも繁栄させりゃいいんだ。銭もねえし、女もいねえ、放っときゃ髭は剃らねえ、髪もとかさねえ、洗濯もしねえ、このままいったら地棍どころか、苦力(クーリー)(下層肉体労働者)に間違えられちまうぞ」  櫓を漕ぎながら、くどくどと説教をはじめる。  日頃の彼らしくない世話焼き女房のような口ぶりに、柘はくすりと笑ってしまった。 「大きなお世話だ。そういう君の苗字はなんだ?」 「捨て子に苗字があるとでも?」 「だが、(リュイ)と名付けた親のような人物はいるのだろう」 「まあね。でも昔は、胡蝶(フーティエ)って呼ばれていたんだ」  芸人みたいだろうと(リュイ)は笑ったが、柘は心臓を鷲掴まれたような心地がした。  初めて逢った夜——柘は(リュイ)を死んだ蝶の生まれ変わりだと思ったのだ。そのなんの根拠もない閃きが、にわかに現実味を帯びた気がして畏ろしくなる。  その一方で、微笑ましいような、切ないような、そんな感情を(リュイ)に抱いた。  ——胡蝶(フーティエ)は浮気なんかしない!  船宿での最初の夜、そう言ってむきになったのは、蝶に自分を重ねていたからだろう。  柘はそう思い、記憶の始まりにあったという(リュイ)花王(ホワァワン)への想い入れに哀切を感じた。 「君に相応しい、きれいな呼び名じゃないか。胡蝶(フーティエ)は喜びと再生を意味すると聞いたことがある。君こそ両刀使いなんてデカダンスなこと言っていないで、可愛らしい花王を見つけたらどうだ」 「花王は男だ」 「あれは戯れ事だ」 「男でも、おれはかまわないけど」 「男同士じゃ発展がないぞ」 「肝心なのは心だろう」  (リュイ)がぼそっと言って沈黙し、柘も言葉に詰って黙った。  頭上を覆う木々の葉が、風に揺すられざわざわ鳴る。風の音と擦れ合う葉音。櫓を漕ぐ音と水の音。夜の運河をつつむ静寂は長閑さのうちに張りつめた気を孕んでいる。 「やりたい事とか、欲しいものとか——そういうもの、あるか?」  沈黙を破って、(リュイ)が訊く。  いつにないお喋りな様子に、柘は緑もまた大頭(ダートウ)が待ち受ける終着点こそ、水海月のアジトであると感じているのだろうと思った。 (大頭(ダートウ)を前に、緑がどう出るか——唐偉明(トン・ウェイミン)殺しの依頼者が大頭なら……)  柘は思考を放棄した。  考えたところでどうしようもないし、信じる気持ちになっている。熱に浮かされた浅い眠りの中で見た、不安げにのぞきこむ白い顔が、なぜだか強く柘の心に残っている。 「昔はあったが、今はないな」 「あったんなら、そいつをやればいい。このままじゃ、死ぬ為に生きているみたいで苛々する!」  (リュイ)が怒った口調で言う。 「だったら君のやりたい事とは何だ?」  柘は返した。 「夢があるなら、殺し屋なんかやめろ」 「そんな商売しているなんて、言った憶えないけど」 「唐偉明(トン・ウェイミン)を殺したのは君だ。おれたちは黄包車(ワンパオツォ)で会っている。女のなりをしていたが、違うとは言わせないぞ」  (リュイ)が押し黙る。重い水音が櫓を漕ぐ音を包み込む。  柘は、どぶ臭い湿った風に吹かれながら、(リュイ)に声を掛けられた雨の夜へと思いを向けた。連れていかれた屋根裏で、怪しいとか、小憎らしいとか、玩具にじゃれつく猫のようで腹立たしく感じたことが懐かしく思いだされる。 「いつ、わかった?」  (リュイ)がぼそっと問う。 「上海倶楽部の前で、声を掛けられたときから」  そう答えて、柘は可笑しくなった。(リュイ)の口ぶりはさも不満げだが、彼のような標致(ピャオチー)(べっぴん)が街に何人もいてたまるかと思う。 「わかってて、なんで雇った?」 「さあ、よくわからん」 「なんでそんなに呑気なんだよ。罠にかけるって考えないのか?」 「最初は考えたが、殺すにしてもネガを奪うにしても、君ならとうにできたはずだ」    (リュイ)が沈黙し、柘は霧にけむる黒い河面に視線を落とした。 「唐偉明(トン・ウェイミン)暗殺の依頼者は、大頭(ダートウ)か?」 「多分」 「多分?」 「うん。でも大頭(ダートウ)が日本の刀を腰に差しているなら、きっと(ジェン)だ」 「(ジェン)……それが、水海月の大頭(ダートウ)の名か?」 「うん。黒獅子の(ジェン)。日本人だけど、日本の名前は知らない」 「仕事は終りだ。君は降りろ」  柘は言った。私的な賭けに、これ以上(リュイ)を巻き込むわけにはいかない。 「おれが裏切り者になるからか?」 「そうだ」 「だったら心配するなよ。気にしていたら此処へは来てないし、おれ——とっくに裏切り者だもん」  柘は振り向いた。首を押さえてうなされていた(リュイ)の寝顔がよみがえる。 「どういう意味だ?」  河風が吹き上げ、櫓を漕ぐ(リュイ)の短衫をひるがえす。夜目にも白い裸の背が、風に持っていかれそうなほどか細く見えた。 「君は引き返せッ!」    (リュイ)は応えなかった。
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