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無明2
苔むした煉瓦塀に穿たれた水門の前で、先頭のジャンクが停まる。塀の上から物見らしき男が顔を出し、船頭が吊り洋燈を揺らす。
「緑ッ」
柘は、櫓を持つ緑の腕を掴んだ。引き返せといくら言っても、緑は返事もしないのだった。ほどなく鉄製の扉が開いて、先頭のジャンクが水門を潜ってゆく。
「緑、降りろ。後はおれが」
「煩せえぞ旦那」
緑が鬱陶しげに柘の手を振り解く。切れ上がった大きな翡翠色の眼が、洋燈の光を映してきらきら輝いている。唇の片端を上げてにやっと笑い、ジャンクの後について櫓を漕ぎだす。水門を潜り、邸内の運河へと入る。
霧の立ち篭めるそこは、蓮池のようだった。視界を遮るほどの蓮の群生の間を、先頭のジャンクが進んでゆく。静まりかえった闇の中、蓮の葉を掻き分け付いてゆくと、やがてとろりとした霧の奥に無数の灯が見えてくる。鬱蒼と茂った蓮の葉の間から迫ってくる豪華な中華様式の建物は、思った通りマダム・サスーンの別荘だ。
篝火が焚かれた船着き場に数人の男が待っていて、係留されたジャンクから木箱に入った阿片を運んで行く。
「よう、ご苦労だったな」
入れ違いに現われた楊が手招きする。蓮池に面した小部屋に案内するや廊下の奥に消える。
「緑、早く行け。今ならまだ運河から出られる」
柘は、窓辺に立って蓮池を眺めているリュイの肩を掴んだ。
「危なくなったら逃げると言っただろう。雇い主が行けと言っているんだ」
急き立てるよう肩を押すと、緑がするりと身をかわして柘を見上げる。
「なあ、明日の晩は福州路のナイトクラブでぱっと遊ぶってのはどうだ? 旦那の奢りでさ」
「遊ぶのはいいが、おれは文無しだぜ。そんなことより」
「旦那の顔なら付けが利くだろう。その後、おれの勤めるバーで特製のカクテルを飲ませてやる。カクテルはおれの奢りだ。自慢じゃないけど他人に奢ってやるのは初めてだ」
わくわくして仕方ないというふうに、緑が唇を綻ばせる。柘の気持ちとは裏腹に緑の表情は明るく、悪戯を思いついた悪童のように頬が紅潮している。
(こんな時に何を考えているんだ……)
柘は思ったが、緑があまりに嬉しそうなので、柘もつい微笑んでしまった。
「そりゃ楽しみだな。なら時間と待ち合わせ場所を言え」
「待ち合わせをするなんて誰が言った? おれは生きている旦那にリュイ・スペシャルを飲ませたいんだ」
「死ぬとは決っていない。明晩、逢おう」
「怪我人のくせに、女を抱えて逃げ切れるわけないだろう。銭もねえし、女もいねえし、可哀想そうだから付き合ってやるって言ってんだ。ありがたく思えよ」
「君は莫迦か? おれは逃げろと言っているんだ!」
「旦那の莫迦が伝染したのかも。だったら治療費も払って貰わなきゃならないし、死んだら回収できないからな」
ふん、と鼻を鳴らして、緑が腰から拳銃を抜く。廊下の奥から近づいて来る足音が聞こえる。
緑が柘の前を通って扉脇の壁に背を向けて立つ。
「旦那」
柘を促す翡翠色の眼は、春の泉のように明るい。だが、暗い水面が差し込んだ束の間の陽光を映した——そんな輝きのようにも見える。
二つの靴音が、扉の前で止まる。
「大頭がお見えだぞ」
楊の声が掛かり、柘は息をついて拳銃を抜いた。
扉が開くと同時に緑の膝が楊の腹に食い込む。二つの銃口が背後の男をとらえた。
「こいつァ魂消た。いつ、こんな男前の哥さん捕まえた?」
戦闘服のような黒尽の服を着た恰幅のよい中年男が、動じるふうもなく柘を眺め、胸を押す銃口の主に声をかける。
緑は応えず、中年男の腰から拳銃と刀を奪う。当て落とされて気を失った楊を部屋の隅に移動させ、廊下に立った。
「ふうん。野郎同士の駆け落ちもんと聞いていたが、流石はクラブエデンのナンバーワン。麗猫をつれて来るとは恐れ入ったぜ」
低く笑う中年男の不敵な眼を、柘は正面から見返した。
「黒獅子の蒋。ヴェーダのもとに案内してもらう」
篝火に照らされた蓮池に沿って、三人は回廊を進んだ。闇に沈む広大な庭園の黒々とした樹々の間から瀟洒なテラスを備えた西洋式の母屋が見えてくる。二階に広いボールフロアがあり、ダンスパーティーが催されるときはクラブエデンのジゴロたちが呼ばれ、柘も幾度となく足を運んだものだった。優雅な音楽と花の香に満ちた雅な館は、短機関銃を持った男たちが徘徊するきな臭い要塞と化している。
しかし柘の足を重くしているのは、そんな感傷ではなく緑のことだ。青幇の顔役、唐偉明暗殺の依頼者である黒獅子の蒋を前にしても動揺する様子もなく、一言も口を利かないが、蒋が緑へと注ぐ眼差しには温かいものがある。
麗猫という呼び名にも親しみが感じられ、彼も緑を猫のように感じていたのかと思うと、柘は奇妙な共感と同時に不快を感じた。単なる雇用関係でないとしたら二人はどういう関係なのか? 緑の発した「裏切り者」という言葉が、蒋に対するものでないなら、いったい誰に?
「なに見てんだよ。おれってそんなにいい男?」
隣を歩んでいた緑が、戯けたふうに柘を見返す。
いつもの緑だが、何かが彼を儚く見せている。それが臨戦時の緊張感でないことは、二週間程度のつき合いながら柘にはわかり、取り返しのつかない事態になるような嫌な予感がしてならない。
「哥さん。あんたの太刀筋を見さしてもらったが、いい腕してる。手合せ願いたいが、どうだ?」
前を歩む蒋が、ふいに日本語で訊いた。
「クリスを斬ったのは、あんたか?」
柘は日本語で問い返した。クラブエデンのジゴロと知っていた事を思えば、ネガのことも、紅布社らしき男を斬ったことも知られているのに違いない。クリスの体に残された見事な左袈裟掛けの太刀痕が、柘の眼の奥によみがえる。
「そうだ。あんたにとっちゃ友の仇だ。悪くなかろう」
蒋が楽しげにふふと笑う。花見にでも誘うような口ぶりだ。
柘は、前を歩くやや贅肉のついた広い背中を見つめた。銃を突きつけられているにもかかわらず怒りも殺気も感じられず、それどころか待ち受けていたかのような余裕すら窺える。
「今夜は忙しいだろうから、日を改めてどうだ?」
「ヴェーダを返してくれるのか?」
「ネガさえ渡してくれりゃ、女に用はねえさ。あんたの始末は勝負でつける」
「そういうことなら望むところだ」
「そうかい。なら楽しみに待ってるぜ」
蒋が、嬉しげに厚い肩を揺らす。
「おれは小倉の生まれだが、哥さんは薩摩かい?」
「いや」
「なら、剣術の先生が薩摩隼人というわけかい」
勝負の約束に気をよくしたのか、蒋が気さくな感じで訊いてくる。
「おれは鉄砲より、発破より、刀が好きだが、刀はやっぱり日本刀が一番だと思わねえか」
柘の返事を待つことなく、蒋が上機嫌で喋りだす。中国刀と日本刀の切れ味の違い、これまでに勝負した相手、日本人街に店を構える刀剣屋の品揃えから店主の目利き具合まで、やっと巡り会えた話のわかる友人に思いの丈をぶつけるごとく一人語りは延々と続き、すれ違う警備の面々が目を丸くしても話の途切れることはなかった。
「おれは百姓の倅だが、畑仕事が性に合わなくてよ。剣術家になりたくて一刀流の道場に下働きで潜り込んだんだが、そこの大先生が仏さんみてえないいお人でな。道場を覗くおれを見つけてもよ、怒りもしねえで朝一番に稽古をつけてくれたんだ」
その頃が一番楽しかったと蒋は言葉を切り、思いに浸るようにしばし黙って低く笑った。恩師が亡くなった後、道場を継いだ二代目の一人娘と恋仲になり、仲を裂かれて思いつめ、駆け落ちの末に入水心中を図ったが、ひとり息を吹き返してしまったのだという。
「日露に志願して大陸へ来たが、おれだけまた生き残っちまってよ。脱兵してあれこれやったがこの通り。結局おれは、死神さんから見放されちまってるってわけだ」
自らを嘲笑うように言い捨て、蒋が黙る。
柘は、前を行く広い背中を見つめながら、入水、日露と死に遅れた蒋の孤独を思った。脱兵してからの三十年の月日をこの大陸でどう過ごして来たのだろう。今年四十九になるという彼の背に安らぐことを許さぬ無頼の意地を感じて、なぜこの男が——と、柘は思った。
「どうして紅布社に入った?」
「ふん。おれはただの傭兵だ。血が騒ぐような戦にありつけりゃ、それでいいのさ」
蒋がつと立ち止り、棕櫚竹に見え隠れする離れ屋を指さす。
「あそこにいるはずだが、生きているかは知らねえよ。向こうさんの縄張りにゃ、首を突っこまねえことになってるんだ」
篝火に浮かぶ古びた煉瓦造りの建物は、ひっそりとして倉庫のように見えた。
蒋が見張りの男から洋燈を受け取り、鉄の扉を潜る。暗く湿った室内はがらんとして何もなく、狭い石段を降りるとまた鉄の扉があった。
「好きに捜しな」
蒋が鍵を開けて扉をひらく。
甘ったるい阿片の匂いが充満するその部屋も家具一つなかったが、埃っぽい床に半間ほどの四角い穴があいており、格子の羽目板を透かせて薄い光が洩れている。覗きこんだ柘の眼に映ったのは、阿片窟と思しき白く煙った地下室だ。
「あんたが降りて連れて来い」
緑が、蒋の太い首に小刀子を突きつけ低く凄む。
「悪いが、顔を忘れちまった」
「嘘をつくな」
「忘れちまったもんはしょうがねえだろう。それとも思い出すまでのんびり待っててくれるのかい?」
睨みつける緑を尻目に、蒋が太々しい態度で柘を見る。
柘は黙って羽目板を開け、地下室を見下ろした。ぼんやり霞む灯明の中、薄衣をまとった若い女が西洋の長椅子にだらりと腰掛け、腰の曲がった老婆が女に化粧を施している。周囲は緋色の幕にぐるりと覆われ、奥の様子はつめない。
「婆さんには銭を握らせろ。女は阿片でいっちまってるから騒ぎはしねえさ。ま、女の扱いは哥さんの方が心得ているだろうがな」
蒋が皮肉めいた口調で言う。柘は備え付けの縄梯子を取った。緑がその手を掴む。
「心配するな。何かあったらここから援護してくれ。そして、もしもの時はおれにかまわず逃げろ——いいな」
「旦那」
「大丈夫。すぐ戻る」
心配顔の緑に笑みをくれ、柘は食い込むほど強く握る緑の白い手を外した。緑が、袴子の隠しから一元銀貨を三枚とりだして柘に差し出す。
「おれだって、少しは持っている」
「老太婆が業突張りだったらどうするんだよ!」
緑が唇を尖らせながら、柘の手に握らせる。
「ちゃんと返してもらうからな」
「わかったよ」
柘は笑い、袴子の隠しに銀貨をしまった。縄梯子を降ろして、四角い穴へと身をひるがえす。
「度胸の座った、いい哥さんじゃねえか。おまえにしちゃ上出来だ。だが残念ながら、長生きしそうにねえな」
蒋が埃の積った床にどっかり座り、見送るように穴を覗きこむ。
「悪いけど、あんたに勝たせる気はないから」
並んで穴を見下ろしつつ、緑が低く返す。
「勝負じゃねえよ。哥さんの眼だ。ありゃ死神にとり憑かれたもんの眼だ。哥さん、この世になんの未練もねえんだよ」
蒋がつぶやくや、その胸倉を緑の手が鷲掴む。
「旦那が死んだら、あんたを殺すぞ!」
「惚れたか?」
蒋がにやっと笑うと緑がそっぽを向く。
「そうじゃないけど……」
蒋の胸倉から手を離す。
「けど、おれをぶっ殺してでも、あの哥さんを護りてえんだろう?」
人形のような横顔がこっくりとうなずき、蒋の眼が細まる。
「そうかい。だがな麗猫。おまえがぶっ殺さなきゃなんねえのはおれじゃなく、哥さんにとり憑いた死神だ——」
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