宵の口はミルクティー

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2 「なぁ〜、バスタオルはぁ〜?」 バスルームから声がする。 俺は抱えていた頭をグシャグシャと掻き回してから勢いをつけて立ち上がった。 『出たところの引き出しにあるだろ』 「どこだよっ!寒いよっ!」 『あぁっ!もうっ!てめぇんちはチェストもねぇのか!引き出しっつったらここしかねぇだろが!!』 バンッと扉を開いて中に入ると、びしょ濡れの春が真っ裸で立ち尽くしていた。 赤く染められた髪の先からポタポタと滴が垂れ落ちる。 俺は一瞬ポカンとその身体を見て焦るようにして目を逸らした。 『ほらっ!タオル!』 「サンキュー。何、赤くなってんだよ!ハァ〜、サッパリした!」 『ガキの裸見て何で赤くなんだよ!バカか!』 俺は意識を逸らすように吐き捨ててバスルームを出た。 春は赤い髪にバスタオルを被りながら、薄汚れたままの服を着直して出て来る。 リビングのソファーに座っていた俺の隣にドサッと座り込むと、俺の顔を覗き込んで来た。 「俺はガキじゃないってば。鈴野晴弥さん…しっかし、近くで見たらマジすっげぇイケメンだよなぁ…なぁ…腕の墨…もう一回見せてよ」 春は悪戯地味た笑顔で俺に呟く。 『いやだ』 「なぁんだよ…大人気ないなぁ」 『おっ!おまえに言われたくないわっ!』 「じゃ…見せろよ」 挑発的な言葉を吐く春の赤い髪から滴る滴が気になった。 小さな溜息。 それから、ゆっくり頭に被ったバスタオルに手を伸ばして髪に触れた。 『ちゃんと拭けよ…。風邪引くぞ、クソガキ』 わしゃわしゃ髪をタオルで吹き上げる。 「アハハ、俺、犬みてぇじゃね?気持ちぃー」 俺に髪を拭かれて気持ち良さそうに目を閉じる春に、俺は苦笑いした。 警戒心のない無邪気な様にだ。 『ドライヤー使うか?』 「いい…あんたに拭いて貰って乾いたよ」 ニッと笑いかけてくる表情に一瞬だけ躊躇ってしまって…頷いた。誰にも似ていない筈なのに、どこか懐かしい感覚が胸をモヤモヤさせる。 「なぁ…見せてくれよ…」 俺はこれ以上渋るのも逆に変に思えて腕をまくり上げた。 「あぁ…やっぱこれだ…すげぇ綺麗…なぁ…触っても良い?」 『構わないけど…』 「…」 春はただ、黙って俺の肌を指先で撫でた。 腫れた目と逆の瞳が、刺青越しに何かを思い出しているみたいだった。 『もう良いだろ…離せ』 俺はそっと袖を下ろした。温かい体温はあまり好きじゃない。沢山の寂しい思い出が蘇る。1人なら、自分以外の体温なんて…感じずに暮らしていけるんだから。 春は俯いたまま、俺に表情を見せない。 『バンドやってんのか?』 「…ぁ…うん、まぁ…」 はっきりしない返事に俺はソファーから立ち上がりキッチンに立つと冷蔵庫から水を出した。 『飲むか?』 「…うん」 俺はグラスに水を注ぐ。 ソファーで項垂れる春にソレを突きつけると、顔を上げてクシャッと顔の筋肉を緩め笑った。やっぱりまだ幼さが残る顔つきだ。 「ありがとう」 『俺はついこないだ厄介事を片付けたばかりで、あいにくおまえの面倒を見るつもりはないんだ…飲んだら帰れるか?こんなとこに来るより、病院に行った方がいいぞ。』 ソファーの隣りに腰掛けると、春は小さな溜息と共に空にしたグラスをテーブルに置き、 「なぁ…」 思い詰めたような声音で立ち上がりながら呟いた。 『何だよ』 「あぁ…あのさ、あんた今日の夜、暇?」 今度は俺が溜息を吐き出しながら春を見上げた。 『暇だけど暇じゃねぇ』 「ここ…来て。18時半オープン19時スタート!」 突きつけられたのは一枚のチケットらしき紙切れだった。 書いてある時間の部分をトントンと細い指先が突く。 『おい!聞いてるか?俺は暇じゃねぇって』 「一回で良い!久しぶりに、聴いて欲しいって思う人に会えた。…お願いだよ」 腫れ上がった顔からは容姿が窺い知れないのに、春の潤んだ揺れる瞳に当てられそうになる。 『…何で…俺が…』 「ふふ…どうしてもあんたに彫って欲しい。どうしても。だから、見に来てよ」 『意味わかんねぇ…行くなんて約束出来ねぇぞ…気が…向いたらな』 「ちぇ…待ってるからな!ぁ…色々とサンキュー、じゃ!帰るよ」 玄関に転がったギターのハードケースを担いで春は手を振って出て行った。 俺はとりあえず見送りに立った玄関先で立ち尽くす。 台風みたいに現れて去って行った春。 赤髪で耳に幾つもぶら下がったピアスが印象的で、俺は自分の舌先に付いたピアスを歯の裏に押し当てた。それから、ゆっくり袖を捲り、春が指先で優しく撫でた刺青に手の平を重ねていた。 バンドやってるクソガキが朝っぱらから迷惑かけて…それだけだ。…それだけ。 俺は…行かない。 こんな紙切れ押し付けられて、見に行った日にゃ墨入れなきゃなんねぇなんて…そんなバカな話あるかよ。 絶対…行かない。 その日は、いつものように2人の背中を彫り、仕事が終わった。 仕事部屋からグーンと伸びをしながらリビングに移動する。 キッチンのカウンターまで来て、無造作に置かれたチケットが目に飛び込んで来た。 行かないっ!! 行かないって決めたんだ! 厄介事に巻き込まれんのはごめんだぜ。 …ただ、ちょっとだけ気にならない訳じゃない。 あんな怪我して…ステージなんか立てんのかって話だ。行ってもあれだけ殴られてたんだ。痛みで辞退して、居なかったりしてな。どうせ、何かのコピーでもやってる程度。 行くだけ無駄だ… 『とまぁ…』 「つまり、晴弥は観に行きたいんだな?」 『はぁ?!そっそんな風に聞こえたなら勘違いじゃないか?』 電話の相手は白と黒弥の結婚式にも一緒に参列していた清水大輝。 カメラマンをしながらスタジオ経営やら、未だ探偵まがいの依頼を受けていたりする何でも屋カメラマンをしている変わり者だ。 で、今1番連んでる友人。 朝からの流れを話して、チケットを弄りながら携帯を肩に挟みコーヒーをカップに注ぐ。 「まぁ…面白そうだし、行ってみようぜ。俺、その春ちゃんに会いたいし。ま、それで大体見当付くしな」 大輝の言葉にムッとした声が出る。 『何の見当だよ』 「あ、聞こえてた?アハハ!ま、とにかく行こうぜ!ライブハウスなんて久しぶりだしさ。」 いつもの通り、軽い調子の大輝に苦笑いしながら待ち合わせ場所を決めて電話を切った。 俺は少し諦めたみたいにクスっと笑ってしまった。 若い夢のあるアイツの"見に来てよ"がどうしても気になってしまった。 正直なところ、そういう事だ。 刺激の少ない大人の世界。 転がり込んで来た小さな刺激は、俺の世界を狂わさない。 俺はそう思っていた。 元々職場にしているマンションが建っているのは栄えた街の中心だ。 チケットに記されたライブハウスはそう離れてはおらず、徒歩で十分行ける距離だった。 着替えを済ませて大輝と待ち合わせた高架下のカフェに入る。 大輝は既に到着していて、相変わらず良く似合う黒縁のメガネに洒落た私服を着こなし携帯を弄っていた。 『悪りぃ、遅れた』 「俺も今来たとこ。何か飲む?」 俺は腕時計を眺めて首を左右に振った。 『出番聞いてないし、行って終わってたってのもな。歩いたら丁度スタートには間に合うだろ?』 大輝も腕時計を確認して、了解と呟き2人店を出た。 「春ちゃんてさ、どんな子よ」 大輝がパンツのポケットに両手を入れて少し猫背気味になりながら俺の顔を覗き込んだ。 俺はクシャッと髪をかきあげながら上向く。 『どんなって…まぁ生意気そうなクソガキだよ。女みたいに線が細いくせに…あれ、相当立ち向かって行って殴られたはずなんだ。顔面三発は食らってたんだぜ?髪なんて、真っ赤だし。』 「ふぅん…生意気そうねぇ。良いじゃない」 大輝はニヤリと片方の口角を引き上げて笑った。 『何がだよ…』 「ん〜?何がって。まぁ、アレだ!新しい恋とかさっ!」 『はぁ?!何言ってんだよ』 「良いんだよっ!」 『だから何がっ!!』 「おまえの相手はちょっと強引で生意気くらいが丁度良いっつってんの」 俺はパチンと片手で顔を覆った。 『頼むからよせよぉ…そんなんじゃない』 「はいはい、行くよぉ〜」 大輝は気にするでも無く勝手知ったる街を歩いた。 少し古びたビルの2階に入った小さなライブハウスに到着する。 暗い階段を上る途中、3階に入った明らかに雀荘から降りてきた客とぶつかったりして、狭さを痛感しながら歩いた。 踊り場に受付台。女の子だけど、ガッツリとツーブロックにされたサイドが印象的な髪型をした受付嬢にチケットを差し出した。 「イチゴでぇーす。」 『イチゴ?』 「あぁ!ごめん!イチゴーね。」 俺が首を傾げてる間に大輝が1500円を支払う。 そこでやっとイチゴの意味を理解した。 初めて来る場所での初めては当たり前っぽい事もたまに分からなくなる。 「晴弥ってマジで真面目だし、天然だよな」 『そうか?まぁ…真面目は良しとしても天然では…』 「ない?ハハ!まぁ、自分じゃわかんねぇもんだしな!」 バンッと背中を打たれて大輝はケラケラ笑った。 イカツイ髪型の受付嬢が手の甲にスタンプを押してくれる。 チケットの半券でワンドリンクサービス。 中に入って早速2人でビールを頼んだ。 バーカンのすぐそばの足の長いテーブルにビールの紙コップを置いてステージを眺める。 客足は悪くない。 1番前の柵には、何人ものファンらしき男女が列をなしていた。 照明がチカチカと点滅して、薄っすら鳴っていたBGMが次第に絞られると、SEが流れ始める。 チカッとレーザービームのような照明が客席から反転してステージを照らす。 …赤… ライトは印象的に赤を貫く。 「久しぶりだなぁ、こういうの。あ、でも俺、このバンド聞いた事あるな…確か…赤毛の」 『え?本当か?』 ドドンッとバスドラの音がして、上手と下手からギターとベースが出てきた。 ギターを肩から下げて出てきたのは…春だった。 赤い髪が照明を受けて光り輝く。 スリーピースバンド…。 「こんばんはぁ〜、DEEP(ディープ)でぇすっ」 前髪が目にかかって顔の腫れはあまり分からなかった。マイクを高めにセッティングしてるせいか、ピックを弄りながら上向きに話す春。 やる気の無さそうな怠い挨拶。 チラッと彷徨った視線とぶつかる。 髪の隙間からハッと目が見開かれるのが分かった。 固まったかと思ったらジャーンとギターをかき鳴らし、俯いた目元は髪で隠れてしまったが、ニヤリと不敵に笑う口元が見えた。 鳴らされたコードに身体が緊張して、俺は自分の腕をさすった。 そこからは… ただ呆然と立ち尽くす俺に、ポンと背中を打つ大輝の手の平を感じた。 激しいロックナンバーかと思えば、次の曲では恐ろしいくらいの色気を放ちながら客席を煽る春。 フワフワの赤髪が目元をたまにしか見せてくれない。 俺はその目元がどうしても見たくて瞬きが出来なかった。 乾く瞳にキラキラと照明が刺さってくる。 赤い 赤い照明が繰り返す妖艶で淫靡な世界に見えた。 そもそもマイクに舌先を這わせるなんて… エロ過ぎる。 ジャジャーンとラストのストロークを振り下ろし握ったネックを離すと、腰の辺りで浮いたギターが軽くバウンドして残響音を響かせた。 赤い髪の先から汗が散る。 ステージに向かって手を伸ばすファンの子達を煽るようにスピーカーに足を掛け、叫ぶ春。 その声は喋る時のソレとは違って、ザラザラしていて、どこが気持ちいいとか分からないんだけど… ただ、喉から手が出て引き寄せたい感覚に陥る変幻自在なハスキーボイスだった。 素人レベルじゃない歌唱力。 最前列で叫ぶファンに歯で咥えたピックを屈んで差し出した春。 首を引き寄せられ、後ろから見ていると、まるで熱いキスをしているように見えた。 ファンの女の子はピックを咥えた状態でぴょんぴょんとび跳ね隣りの友人に興奮を伝えている。 ピックって…あんなクソエロい渡し方するか?普通、投げんじゃねぇの? 「晴弥…眉間…皺すげぇよ?」 隣りで空になった紙コップを咥えた大輝が苦笑いしながら呟いた。 『は?はっ?いやっ!…あぁ…最近、視力落ちたから』 分かりやすい言い訳に自分で溜息を吐いて紙コップに残った温いビールを煽った。 「どーする?出演者の全部見るのか?」 『いや…帰る』 ステージからはけていく春を横目に紙コップをクシャっと握り潰し呟いた。 狭いビルの階段を降りる。 外ではすっかり葉桜になった木が寂しげに揺れていた。 「挨拶とか、良かったのか?」 隣を歩く大輝は眼鏡を押し上げながら、同じように揺れる木を見上げ問いかけてくる。 『まぁ…行くって言ってないし…』 「そぅ?…でも、まぁ春ちゃん?凄かったな。何か見た目幼いかと思ったらさ、声、超エロいんだもん。俺鳥肌立ったわ。黒いレスポールもカッコよかったなぁ…。春ちゃんにはちょっと重そうだったけどな!ハハ」 『レス…ポール?』 俺が首を傾げる。 「あぁ…春ちゃんが弾いてたギターの種類な。」 『へぇ…相変わらず物知りだな、大輝』 俺は髪をかき上げながら感心するよと笑った。 「雑学は職業上必要なもんでね。」 『なるほど。納得です。』 俺が簡単に返事したら、何とも言えない間を置いて大輝が呟いた。 「…あの子、また来るだろうなぁ。おまえの店。」 『…来ねぇよ…』 「…来ねぇよ」 俺はムッとして隣を歩く大輝を睨んだ。 『真似すんな』 「ハハ…で、どーすんの?」 俺はポケットからタバコを取り出す。 一本咥えたところで、大輝がソッとライターの火を差し出した。 『サンキュ…』 ジジッと先端を焦がす音が心地良く、吸い込んだ煙りを空に吐き出した。 『どーもしないよ。アイツは来ないし、俺は変わらない。』 「…晴弥…俺はおまえがこれから変わる気がするよ?…まぁ…予感だけど…」 大輝は肩を竦める。 俺はクスッと微笑んでそんな大輝の肩に肩をぶつけた。 『それ、当たるのかよ。』 よろめきながら大輝は眼鏡を押し上げて笑う。 「的中率は悪くないんだ。何せ、そういう仕事なもんでね。もう一杯付き合ってくれよ。飲みたんないし。」 『あぁ…飯も食いそびれたしなぁ。』 俺達は夜の繁華街に埋もれる。 人混みに紛れながら、タバコの煙りを揺らして、モヤモヤする胸の霧を晴らそうと、大輝と飲み騒いだ。 俺は変わらない。 小さな刺激は、俺の世界を狂わさない。 狂わない。 そう、言い聞かせながら随分呑んだ。 真夜中に帰ったら、俺に何かが待ってるなんて 思いもしないまま。
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