性的マイノリティーらしい自分の話

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性的マイノリティーらしい自分の話

※今回は、性的な話です。極力控えたいのですが、どうしても生々しい言葉も使わざるを得ないので、苦手な方はご注意願います。 Amazonプライムビデオで、『マッチングの神様』というオーストラリアの恋愛リアリティ番組が配信されています。ぼくはこの番組のシーズン1を観て好きになり、続けてシーズン2を観ています。日本だとバチェラー等が有名ですが、こういった番組は人それぞれの恋愛的価値観が楽しめて好きです。もちろん、番組的意向によって、所謂ヤラセなところもあるのでしょうが、それも込みで「リアリティなショー」として楽しんでいます。 『マッチングの神様』の概要としては、恋愛のエキスパー達によってカップリングされた2人が、初対面でいきなり結婚し、新婚生活の中で愛情を育んでいくという実験を行い、1週間ごとの誓約式でこの実験に「残る」か「去る」を、参加者が選びながら進行していくというものです。 数組のカップルが、それぞれのやり方、考え方で順調に結婚生活を進めるカップルもいれば、些細なことで衝突を繰り返してしまうカップルもいたり。或いは、誓約式やその前日に開かれるディナーパーティーで出会う他カップルの異性と浮気してしまったり。番組は良くも悪くも盛り上がります。 さて、そんな番組の中で、ぼくが違和感を覚えた場面がありました。 1週間ごとの誓約式では、カップルが順番に3人の恋愛のエキスパートと面談し、結婚生活の状況やお互いの気持ちを根掘り葉掘り聞かれながら、基本的には包み隠さず自身の想いを語り、問題点や改善点等を炙り出し、アドバイスを貰いつつその場で次の週も結婚生活を続けるかの選択を示します。 その面談の中、あるカップルが、恋愛エキスパートの質問に対し、頑なに話さないことがありました。 それは、「セックスをしたか?」、という質問でした。 そのカップルにとってはそれはセンシティブな話であり、他人に言いたくないと。しかし、恋愛エキスパート達は、この実験では全ての気持ちを曝け出す必要があり、恋愛の進行状況を把握するためにはセックスをしたかどうかが、重要な指針になるというのです。 面談の様子は、他のカップルも順番を待ちながら聞いています。セックスについて口を閉ざすこのカップルを非難する人が大半でした。 日本では、文化的に性生活について公に語ることなどはあまりしないので、こういう場面に違和感を覚えたのはそういうことかと思っていましたが、ぼくの場合はどうやらそれだけではないらしく。 最近、ある言葉を知りました。『アセクシャル』、という言葉です。 アセクシャルは、「他者に対して性的欲求・恋愛感情を抱かないセクシュアリティ」を指します。 ぼくには恋愛感情があります。ぼくは男性で、恐らく普通の恋愛感情を持っていて、その恋愛対象は女性です。現にぼくは結婚していて、妻のことを愛しています。しかし、妻を性的に強く求めるかといえば、そうではありません。それは妻に魅力がないからというわけでもなければ、他の女性や風俗なら性欲を自覚するというわけでもありません。 ぼくの性欲は、とても弱いのです。 ぼくは妻と出逢うまでに数名の女性とお付き合いをしたことがありましたが、彼女達に恋愛感情は抱いても、性的な魅力を強く感じることはありませんでした。 通常、多くの男性は思春期になると性欲が強くなります。中学生の頃は周りの友達の会話はエロい話ばかり。みんな親に隠れてエロ本を読んでいました。ぼくもエロ本には興味を持ちました。「興味」というのは、性的な意味でもありましたが、それよりも単純にぼくが知らない世界だったから、という意味が強かったのです。みんなが夢中でエロいことを楽しそうに話している様子を、何となくその輪に入りきれないような、微妙な気分で見ていました。 性に対する自分の意識について、最初に違和感を感じたのはこのときだったと思います。 高校生の時に付き合っていた女性とは、セックスしませんでした。セックスをしなかったのは、自分がシャイだったから、相手がシャイだったから、そんな風に考えていました。この時は、女性と付き合うのは初めてだったので、自然なことだと思っていました。大学生の時にも一人付き合った人がいましたが、その人とは僅か一ヶ月で別れたので、この時もセックスせず。そうしてぼくは、童貞のまま社会人になりました。 新卒入社二年目に大阪に住み始め、暫くして年下の彼女が出来ました。彼女と一緒に居ると楽しいし、ドキドキするし、恋愛はいいものだと思いました。初めて自分の家に彼女を連れてきたとき、セックスをする雰囲気になりました。それはお互いが意識していたと思います。このとき、挿入に失敗しました。その後日にちを空けて何度か挑戦しましたが、行為の途中で萎えてしまい、上手くいきませんでした。 最初は、当時の彼女のことを実はそこまで好きではないのかと思いましたが、そういう問題ではなく、セックスという行為そのものがぼくにとって苦行のようなもので、彼女と会う度にセックスのことを考えて、憂鬱になりました。 その彼女とは、一年程で別れました。別れを告げたのは彼女でした。フラれた理由はいろいろ言われましたが、どれも曖昧でした。セックスを失敗する度に気まずい空気になっていたので、それがフラれた一番の理由だったのだろうと、勝手に解釈しています。 数年後に今の妻と出逢い、付き合い、セックスに挑戦しました。初日は失敗しましたが、二回目に上手くいきました。大きな感動や快感を得られると思っていましたが、セックスに成功してもそのような気持ちにはなりませんでした。 妻に一度聞かれた事があります。「セックスするのは嫌か?」と。 このときぼくは、相変わらず挿入を失敗することも多かったので、それが少し嫌だと言いました。それは本音ですが、それよりももっと心の奥にある「セックスで快感を感じない」という話はしませんでした。それを言えば、妻が傷付くからです。 ぼくは挿入も嫌だし、裸になって自分の身体を触られることも嫌でした。 ぼくは、セックスが嫌いでした。 それでも、性欲はあります。妻や他の魅力的や女性がセクシーな服を着ていたり、若い頃に観ていたようなAVやエロ本を見ると、エロい気分にはなります。それは確かに“気分”であり、ぼくが自覚していることです。しかし、他の人と比べるとその気分が、性欲が、限りなく小さくて弱いのです。 ぼくは今、妻と二人暮しをしています。一度会社を辞めたせいで収入は大きく減り、経済的な面において生活には大きな不安がありますが、妻との関係は今のところ良好だと思います。ですが、セックスはしません。数年間、していません。 これが悩みかと言われれば、一応悩みなのかもしれません。しかし、経済的に子供を作ることが出来ない現状を考えれば、セックスをしないことでぼくにデメリットはないのです。ぼく自身が性的快感を求めていないから。 しかし、自分が「LGBTQ+」に含まれているかもしれないという事実は、ぼくを困惑させています。そして、夫婦間のセックスについて妻がどれだけ悩んでいるかはぼくには分からず、聞けず、もどかしい気持ちでもあります。 『マッチングの神様』で、性生活について口を閉ざしていたカップル。彼等は、単純に下の話をしたくなかっただけなのかもしれません。しかし、彼等がセックスに対して自分と同じような感覚を持っていたのだとしたらと思うと、複雑な気持ちになります。 実体験をもとにした小説を書きながら、「愛ってなんだろう?」と考えています。 体で触れ合う愛を知らないぼくにとって、その答えは、なかなか見つかりそうにないです。
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