ヒッチハイカー

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ヒッチハイカー

 唐沢憲司(からさわけんじ)は疲れていた。  医学部長の代理で学会に出席して、学術論文の説明とその質疑に応じてきた帰りである。  出来としては、今回が初めての経験ではなかったので戸惑うことはなかったし、論文の根拠となる資料や事例が揃っていたので何も困ることもなかった。総合的に判断して良い出来だったと思う。  おまけに、別の病院の関係者からいくつかの称賛もいただいたし、名刺交換もしてきた。医学部長も満足してくれるはずだ。  だけど、通常の医療行為をしている時とは別の神経を使ったのは確かである。さすがに少し疲れていた。  医学部長に頼りにされるというのは、日頃の実績が評価されているということなので本来なら喜ばしいことなのだろう。だけど、それは出世を希望している人間の考え方でもある。  自分は無愛想で口下手な人間だ。そして出世欲というものはない。だから、今回のような抜擢は、自分にとっては、正直に言ってしまえば迷惑だった。  時計を見ると、午後八時半を過ぎようとしていた。この峠を越えてしまえば市街地に入る。そうしたら適当な店にでも寄って夕飯を食おう。  暗い夜道をヘッドライトが照らし出す。唐沢は車を走らせていた。  山道を走行していると、時折、邪魔な木の枝が転がっていたり、野生動物の往来に遭遇することがある。人でないのなら誤って轢いてしまっても罪にはならないのだが気分は良くない。自然と運転は慎重になっていた。 「ん?」  ヘッドライトに照らされるようにして現れたのは一人の少女だった。  奇妙である。この辺りにレジャー施設の類いはない。荷物も持たず、こんな山の中でいったい何をしているのだろう。  唐沢は車を停止させた。少女が唐沢のそばに寄って来た。 「あの、乗せてもらえませんか?」  年齢は高校生くらいだろうか。未成年のようだ。  家族とはぐれてしまったのだろうか。連絡の取れるケータイ電話のような物は持っていないのだろうか。どう見ても訳ありである。何やら犯罪の予感もする。  少し考えた末に唐沢が出した結論は「どうぞ」だった。  安堵の表情を見せる少女。困っていたのは本当のようだ。  少女が助手席に乗り込んだのを確認すると、唐沢は再びアクセルを踏んだ。  ヒッチハイカーを乗せるのは初めてである。年齢も離れている事だし、何を話すべきか。いや、何を聞くべきか、か。 「助かりました」  しばらく無言で車を走らせていると、少女がポツリと言った。 「こんな山の中で何をしていたんだ」と唐沢はここぞとばかりに尋ねてみた。  しかし、その質問の答えは、いつまで待っても少女の口から出てこない。  知らない男の車である。警戒心を持たれてしまうのは仕方ない。とはいえ、これは少々理不尽だ。  やはり乗せるべきではなかったか。市街地に出たらさっさと追い出そう。  そんなふうに唐沢が車を走らせながら考えていると、助手席の方で小さくお腹の音が鳴るのを耳にした。  少女は恥ずかしそうに俯く。 「腹、減ってるのか」  唐沢が尋ねてみても、少女はやはり答えない。 「俺も夕飯がまだなんだが、良かったら付き合わないか?」  答えが返ってこないことは想定済み。食事ができる店を見つけたら迷わず入ることにしよう。  唐沢は少女の同意を確認することなく勝手に決めた。
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